「夜に、ひとつオレンジ」
「夜に、ひとつオレンジ」
このアパートの住民はわたし含め、どいつも、ろくでもないが、その中の誰かがろくに分別もせずに出して、ゴミ回収業者にシカト決められたゴミ袋がそのまま敷地内に転がっている。雨に濡れて、中身が破けたそれを蹴り飛ばす。邪魔だ。
途端に、安住の地とばかり、そこに潜んでいた蝿がわっと飛び立ち、右往左往した挙句に、アパートの壁にべしゃりととまる。
雑に葉を広げて進路を防ぐあじさいの脇を強引に通ると、腕に引っかかった枝がしなって跳ねて、盛大に雨雫がスウェットにかかった。
ボロいアパートの狭い敷地に無駄に立派なあじさいが植わっている確率が高いのは何故なのか。許されるのなら、燃やしたい。
そのままアパート西壁面を左に見て歩くと、猫の額ほどもない、庭らしき空間に出る。
103号室、ライの部屋の前、わたしの部屋の真下だ。そこへ置かれた、大げさな物干し竿の下をくぐる。土台の石がでっぱっていて、夜、ここへ来るといつも躓きそうになる。ライによれば、越してきた時からあったそうだ。
窓越しに中を伺う。曇りガラスで見えないが、明かりはついている。居るのだろう。
窓に手を掛け、引く。開かない。力を込めると、箍が外れたように、バッカーンと開き、開ききって衝撃で若干戻ってくる。いつものことだ。たてつけとか、そういう問題じゃない。
サンダルを脱いで部屋へ上がる。ぬかるみを歩いたから裸足に泥がついている。それを紺のカーペットにこすりつけ、部屋を見回す。ライは居ない。
つけっ放しのテレビを消し、ドンキとかで売ってそうな、意味不明に板が透明なテーブルの上に、線香のように割り箸が突き刺さったまま、食いかけの吉牛が置いてある。匂いをかいで、6畳の居間を通り抜け、台所の冷蔵庫を開ける。光沢のある黒の冷蔵庫で、それが、いかにも、「金はかけないけれど、センスで若干お洒落な部屋を演出してます、大学生」的な感じで、見る度に、瞬間的、横倒ししてやりたくなる。扉に、よくわからないバンドの雑誌の切抜きが貼ってある。扉を開けて、しょうがと、納豆くらいしか入ってない、ガランとした中から、コーラを取り出す。飲み差しの2リットル。ガシュとキャップをひねると、炭酸が完全に抜けていて、ただの砂糖水だ。
吉牛に刺さっていた、卒塔婆のような、割り箸を引き抜いてなめる。湿っている。ライが使ったあとか。
冷めてかたくなりかけたご飯に、それを突き込んで、コーラと共に食べる。食べ終わった容器とコーラをそのままにして、壁際のベッドにベリーロールみたいな按配で転がる。赤のチェックのタオルケットにぐっと鼻をおしつけると、汗と、ちょっと甘げな香水の匂い。長い染めた髪の毛。わたしのじゃない、別の女のだ。
ここでやんじゃねぇよ。
勝手なことを思い、髪をほどいてゴムをカーペットに落とすと目を瞑る。私の髪も、おちればいい。
「のら」
低いのに、やけに通る声。
肩を押されてまどろみから醒める。
キッチンへと踵を返したライを、起きて覗き込む。
男のくせに、長い髪をわたしのゴムでまとめて縛り、化粧をばしゃばしゃ落としてる。男のくせに化粧に、クレンジングかよ、それはどの女の趣味なんだ。
すっきりしたのか、タオルをかかえて、顔をぽんぽんしながら、ライが戻ってくる。
「旦那は寝たの?」
言いながら天井を指す。
「ねぇ、タオルケット、洗った方がいいよ」
女の香水の匂いがする。
「なんで?」
言いながら、タオルケットを掴むと、わたしの横に滑り込んでくる。ふとんの上、タオルケットの中で「く」みたいな形をしたわたしの足の格好にぴったりあわせて、ひざで、ひざの裏をぐいぐい押してくる。
「俺が帰って来るまで、さみしかった?」
「サナと今日会ったの?」
「今日?会ってない」
後ろから、ライに肩を引かれる。
「やだよ」
「こっち向いて」
「サナと会った日に、したくない」
ライに押された身体を支えるように、壁に腕をつっぱる。爪を、壁紙にくっと立てる。ガリッ。
身体を離すと、ライは立ち上がり、灯りを消した。
カーテンが閉められていない窓の表面に沢山ついた雨雫に、オレンジの外灯が乱反射して、暗くなった部屋に、線香花火が窓の表面で炸裂しているように見える。
「綺麗」
思わず呟いたら、聞こえなかったのか、仰向けに寝転んだままライが聞いてきた。
「旦那とはまた喧嘩?」
そのままポケットをまさぐっているので、スウェットからメンソールライトを箱ごと渡してやる。
「サンキュ」
「やっぱりいいよ」
「いいよって?」
「だから、するならいいよって。気が変わった」
暗闇で器用にタバコに火をつけると、深く吸い込んだような微か、吐息が横で漏れる。それから一呼吸おいて、ふーと長い息。白い煙に、周囲の黒が揺れる。
「それ余裕? 釣った女は、待たせてもやらせるだろうっていう」
ふふっとライは笑って、またタバコを吸い込む。
「実はさ、この間、カナと別れたんだ」
「あんた、何人女いるわけ?」
「それぁ、お互い様でしょう?」
言ってライは今度こそはっきりと笑って、軽くむせる。
「これ、強えわ。こんなん吸ってると肺がんになるよ」
人差し指と中指でタバコを挟んだまま、ライが上に乗ってくる。足が絡む。「く」の字をきゅっと短くして力を込めるけれど、掌底に体重をかけて肩を押され、強引に組み敷かれる。
ライが観察するように、すーとタバコを顔あたりに近づけてくる。朱色の丸い小さな火の先に、ライの輪郭だけ見える。後れ毛が、棘のようにはねている。手を伸ばして、それを撫でてやる。
「別にいいけどさぁ、これから女を抱こうって時に、もう少し丁寧に出来ないわけ?」
「口あけてよ」
指に挟んだタバコを唇に差し込んでくる。
「もうしゃべらないで」
「そういうのがいいんだ?」
笑ったら、タバコが落ちそうになった。
下から、煙をふきかけてやる。
「なんでうちにくるの?」
「惰性だって」
「して欲しいんでしょ」
からまって、スウェットのズボンがずりあがって、むき出しになった臑にライの膝があたる。大きくて硬い。ソフトボールのよう。ライが身じろぐたびに、毛がちりちりと臑をこする。くすぐったくて、すこし痛い。
「ねぇ。相談あるんだけど?」
「旦那の始末とかなら勘弁ね」
ライがおどけて笑う。
「旦那がいる、すぐ下の部屋でそんな相談しないよ」
腕を伸ばして、テーブルの上の吉牛の容器にタバコを押し付ける。角度が浅かったからか、軽い容器はそのはずみで横倒しになって、上に乗っかっていた割り箸がテーブルから落ちてカーペットに転がる。
「どこから触って欲しい?」
ライは首筋に顔をうずめると蛇みたくちろっとなめる。
「ばか」
「自分で言いなよ」
「ねぇ聞いてる? 相談、あるんだけど?」
「女って、土壇場になってそういう事言ったりするよね。そんなんで、やめてもらえると思ってるの?」
ライはわたしの髪を撫でて、スウェットの上から触ってくる。
「じゃあいいよ。そういうことしながらでいいから聞いてよ」
「何?難しい話?」
「あのさ、アパートに植わってるあのあじさい、一緒に燃やしてくれない?」
ライは胸までまくりあげていたわたしのスウェットをそっと元に戻すと、ベッドからゆっくり身を起こした。(終)