シルバー・グレイの夜が明ける
目を引くカラフルな看板と屋台が並び、その合間を縫うようにたくさんの人が歩いていく。あらゆる屋台が競って売っている食べ物の匂いと客引きの声が混ざり合う空間は、いつも通っている学校にあるというだけでどこか異様に感じられた。昔から祭の空気は嫌いなほうではなかったが、未だ心は少しも動かされないままだった。
「二本セット、一パックずつだって」
その声が自分に向けられたものだと気付き、慌てて手元にあった二本の団子が入ったパックをクラスメイトへ渡した。そういえば私はまだシフトの最中だった。呆けている暇などなかったのだと、団子へ視線を落とす。
「だいぶ売れたね」
客へ無事に団子を渡せたのだろう。会計をしていた彼女が、気付けば隣で積み上げてある団子のパックを一緒に眺めていた。あまり話したことのない人と話すのは得意ではない。か細い声で「そうだね」と返すことしかできなかった。
「あ、そろそろ交代だから、休憩行ってきても大丈夫だよ」
彼女は腕時計を一度見やると私に向かってそう言った。この持ち場を離れてもどうせ一人なのだから、休憩など取らずに働き続けても構わないのだけれど。しかし彼女の厚意を無下にすることもできないので、有難く休憩を取らせてもらうことにした。
人波を掻き分けて歩くのには体力を使う。行く宛もなくただ流されていたら、いつの間にか本校舎の前まで来てしまっていたようだ。人が多いことには変わりないだろうが外にいるよりはいくらか良いかもしれない。中へ入ると自分の名前を呼ぶような声が聞こえ、反射的に振り返った。
「久し振りだね、覚えてる?」
私の顔を見るなり彼はそう言った。しかしあいにくだが私の記憶の中にはこの男の姿はない。無意識のうちに眉間に皺でも寄せていたのだろうか、目の前の男は突然慌てだした。
「あ、でも、すごく小さい時だったから覚えてないか。ごめん。いきなり声掛けて何なんだこいつ、って思ったよね」
むしろ急に慌て出されるほうが「何なんだこいつ」と言いたくなってしまう。相手にしていたら厄介なことになりそうだったので、そのまま背中を向けて歩き出そうとした時だった。
「待って!」
手を掴まれてしまっては動けない。ここで声を上げれば誰か助けてくれるだろうか。仕方なく足を止めて彼を見る。彼は「これだけ渡したかったんだ」と綺麗な桜色の貝殻を差し出した。
「君があの日、忘れていったものだよ」
その桜色はどこか懐かしかった。磯の香りと暑い日差し、楽しかった思い出と寂しかった思い出。脳裏に過るのは花火を背にした男の子。ずっと隣に住んでいた、ずっと好きだったあの子。
「……なんで、ここにいるの?」
私の初恋はこの桜貝を投げつけたあの夏祭りの日に終わりを告げた。それは、自分の気持ちを伝える前に彼がこの町を出て行ってしまったからだった。まだ幼かった私は突然告げられた『引っ越し』という事実を上手く消化できないまま、彼に喜んでもらおうと用意した桜貝を衝動的に投げつけ、仲直りもせず別れてしまったのだ。
「こっちでまた暮らすことになったんだ。前の家からは少し遠くの場所だから、学区も違うし、毎日会うとかはできないけど、また仲良くしてほしいな」
かつては好きだった相手なのだ。会うことができて嬉しくないはずがない。しかし、心は躍らなかった。
「……あの時、結構強く投げつけたのに、綺麗に残ったままだったんだね」
「えっ」
「もうこれはいらないよ。私にも、もうあなたは必要ない」
「…………そっか」
好きだった彼の存在も、彼との思い出も、忘れていたぐらいなのだから必要ない。貝をのせた手を彼の目の前へと突き出す。彼はそれをしばらく見つめたあと、再び私の手に握らせた。
「いらなくても、君が持ってて。これはもう、君だけのものじゃないから」
私だけのものではないと言うのに、どうして私に渡すのか。やはり受け取れないと突き返すよりも早く、彼は踵を返して歩き出していた。人波に呑まれた彼を追うのは骨が折れそうだ。溜め息を吐きながら手のひらの桜貝を眺めると、その真ん中に小さな粒があるのが目についた。まさか真珠ではないだろうか。よく目をこらしてもう一度見てみる。見えたのは表面に無数に走る亀裂と、それを貼り合わせたのであろう接着剤がはみ出て固まった玉だった。こんな小さくて汚い貝を貼り合わせて何になるというのだろう。馬鹿らしいとは思うのに、私は走り出していた。
桜貝の感触が手のひらから伝わってくる。床を蹴る感覚が足の裏から伝わってくる。心臓が張り裂けそうに痛い。人の多さなど、跳ね上がる鼓動で気にならなかった。
「ま、待って……!」
やっとの思いで掴んだ手。人の流れから無理矢理引っ張り出し、息を整える。彼は私の手を振り解こうと軽く力を入れたけれど、さらに力を込めてそれを阻止した。
「これ、どうして、なんでっ、こんなこと……!」
「やっと気付いたんだ」
「意味が、わかんないよ」
「言ったよね。これはもう、君だけのものじゃないって」
確かにこれは、私が彼にあげようとしていたものだ。私のものではない。けれど、私『だけ』のものではないとは一体どういうことなのか。これはあの日、砕け散るべきものだったのに。
「あの日、その桜貝は割れて地面に落ちてたよ。でも、これは君の思いなんだって、落ちてる破片を見て気付いたんだ。だから僕は、大事にしなきゃいけないと思った」
あの時と違う今の私なら、あの時の行為が理不尽な現実に対するただの八つ当たりだったのだと理解できる。本当に望んでいたことが何だったのかも、思い出せないわけではなかった。
「どうして、また、思い出させるようなこと……」
「今の君の顔を見ればわかるよ。あの時捨てようとした気持ちが、今の君には必要なんじゃないかな」
そんなこと、余計なお世話だ。私はちゃんと今まで、あの時の気持ちを捨てたまま生きることができたじゃないか。泣くようなことは何もないのに溢れてくる涙がもどかしい。
「……本当は、会えると思ってなかったし、もう二度と君の前に現れるつもりもなかったんだ。でも、会えるわけないって思いながらもここに来ちゃってた。顔を見たら、すぐに名前を呼んでた。覚えてくれてたら嬉しいって、気付いたら期待してた。つまり、その、そういうことなんだ。あの時の君も、君の思いも、もちろん大事にしなきゃいけないと思ってたけど、僕は今でも」
こんな人通りの多い場所で、こんな唐突に、何を言おうとしているのやら。もっと的確な場所やタイミングがあるはずなのに馬鹿じゃないのかと、心の中で呟かずにはいられなかった。顔が熱い。鼓動も早い。彼の後ろに見える看板が、とても綺麗な配色だ。ああきっと、今一番馬鹿なのは、その先に繋がる言葉を期待している自分なのだろう。