第96話 ベランダでの遭遇
部屋に戻ってからは、メリッサは震えるレイリアの気を落ち着かせようと、優しく頭を撫で、大丈夫、大丈夫、と声をかけ続けた。
ごめんなさいごめんなさい、と繰り返すその心には限界に近いものも感じる。
メリッサは、レイリアとこの短い間でも親しく慣れたつもりであったが、自分といることでチェリオを前にした時の負担は相当に上がっているのだろうと考えると心が傷んだ。
なんとか助けてあげたい……そう思うメリッサだがその手段が思いつかない。
メリッサが庇えばなんとかなると思っていたりもしたが、チェリオの様子を見るに、もし次、どんな些細な理由であれ、彼の気に入らない事をレイリアが行ったなら、メリッサが何かを言う前にその刃は振られるだろう。
それは彼女もきっと理解している。だからこそ恐れ震えているのだろう。
メリッサとそれほど変わらない年の普通の少女だ。
それに対する覚悟など持てるはずもない。
(とにかく今は落ち着かせないと)
そう考え、メリッサは自ら紅茶を入れる仕度に入ろうとする。
紅茶の茶葉については、鑑定の恩恵もあって相当に詳しい。
チェリオそのものは、邪悪としか言えないほどの存在であるが、用意されているものはどれも一級品で、その中には気持ちを落ち着かせる香りを発するものも含まれている。
「い、いけませんメリッサ様! そのような雑事は私めが行いますので」
メリッサの所為に慌てたようにメイリアが動き、メリッサへ、席に座ってお待ちください、と告げ紅茶を入れる準備を始めた。
構わないと言いたがったが、彼女の立場を考えれば寧ろ余計な事なのかもしれないと思い直し席につく。
それに、黙っているよりは動いている方が気が紛れていいのかもしれない。
レイリアはあれだけ震えていたにも関わらず、仕事となるとてきぱきと動いてみせた。
確かに侍女としてはかなり優秀なのかもしれない。
「準備が整いました」
テーブルの上に、紅茶を飲むための一式が用意される。
メリッサは席に座り、一緒に飲みましょう、とレイリアを対面の席に座るよう促した。
ありがとうございます、と頭を下げ席に座り、そしてふたつのカップに朱色の液体を注ぐ。
それをまずメリッサが啜り、それに倣うようにしてレイリアも口をつけた。
気分の安らぐ香りが鼻孔をつく。
メリッサは彼女に目を向け優しく微笑む。
見たところ、身体を動かしたことと、この香りで、レイリアも大分落ち着きを取り戻したようだ。
ただ。やはり表情はまだ浮かない。
「少し、夜風に当たりたくなりました。付き合ってくれる?」
「は、はい勿論ですメリッサ様!」
メリッサの願いをレイリアは当然のように受け入れた。
尤もメリッサからしたらレイリアの為でもある。
そしてカーテンを開け、窓を開けてふたりで外に出た。
上空には満月。どことなく儚げな光がベランダに差し込んでいた。
高台の上にある、屋敷へと注ぐ風は実に気持ちがいい。
「いい風――」
思わずメリッサが呟く。心に渦巻く陰鬱としたものを洗い落としてくれそうな、そんな気にさえなる。
「確かに心地よい風ですね。それに、良い月が出ております――」
レイリアの表情に僅かに笑みが浮かぶ。
その様子に少し安心するメリッサであったが――その時、ベランダの端に一つの影が飛び込んできた。
思わずぎょっとした顔を見せるメリッサとレイリア。
だがそれは、向こうも同じであり、そして月明かりに照らされたお互いの顔を見て、ほぼ同時にふたりが声を上げた。
「アンジェ!」
「メリッサ! どうして貴方が!?」
そしてメリッサの横で、え? え? とレイリアが狼狽する。
「レイリア安心して。この方は私の知り合いです」
「え? 知り、あい?」
「騎士のアンジェだ。て、そんな悠長な事を言っている場合じゃないな。一体どういう事なのか教えもらってもいいだろうか?」
「はい、ただ私も、アンジェがどうしてここに来たのかは知りたいところですが……」
そのやりとりでお互い、なんとなくクスリと笑みを零し、そしてこれまでの事を互いに話して聞かせた――
「そうですか……レジスタンス――でも、今の彼が領主なら納得できます。チェリオの行為は常軌を逸してますので……」
「あぁそうだな。私も正直驚いたよ。メリッサがそのような形で攫われるとは――しかもヒットが手も足も出なかったなんてな……」
メリッサから話を聞いたアンジェは、顎を右手で抑えつつ唸る。
ヒットの実力を何度も目にしてるアンジェからしたら、信じられないといった思いなのだろう。
「あ、あの……」
するとレイリアが若干おずおずといった具合に声を発した。
アンジェの鋭い視線がレイリアに注がれる。
レジスタンスの事を話す時、アンジェはレイリアの前で話していいものかと躊躇した。
だが、その気持ちを察したメリッサの、彼女は大丈夫です、の一言を信じ結局そのまま伝えたが、それでもやはりまだ不安は残る。
「そのレジスタンスに、ゲイルという冒険者の方はいらっしゃいましたでしょうか?」
だが、彼女のその問いに、アンジェは目を丸くさせた。
「知ってるも何も……彼は今レジスタンスのリーダーを任されているようだが……」
「そ、それじゃあ無事なのですね! よ、良かった……」
「レイリアのお知り合いなのですか?」
ほっと胸を撫で下ろすレイリアにメリッサが尋ねる。
「い、いえ知り合いという程では……ただ以前冒険者の彼に助けてもらった事があって――向こうは覚えていないかもしれませんが……」
ちなみに彼女は、以前屋敷に攻め込んだ者達がいたという話の中で、ゲイルとよく似た人物の事を耳にしており、密かに心配していたらしい。
「全く何がどこで繋がるかわからないものだな」
アンジェは微苦笑浮かべながら口にし、レイリアを見た。
だがこの話によって、彼女に対して僅かにあった疑心は完全に払拭されていた。
「ところでアンジェ。もし今も伯爵から話を聞き出そうと思っているならやめた方がいいです。今の彼の力は相当なもの……何も情報もなく対峙するのは危険すぎます。いくらアンジェとはいえ一人で乗り込んでどうにか出来るものではないでしょう」
メリッサは、アンジェに向かってきっぱりと告げた。
勿論これは、彼女にこれ以上の行動を諦めさせ、一旦は引いてもらうことが目的だからだ。
そしてそれに対しアンジェは、むぐぅ、と唸る。
これまでと違い、強気に、そんな事はない! と口にできないのは、やはりヒットの事が大きいのかもしれない。
「それに、情報に関しても私が言ったこと以外を掴むのは難しいと思います。勿論今はまだ――という意味ではありますが」
ザックがヒットの手により倒されたこと、そしてヒットが今恐らくこの屋敷を目指していることなどは伝えている。
そしてメリッサの言うとおり、これ以上の事はセントラルアーツの領主の事も含めてチェリオが口を割らない限り難しいが、それは単身乗り込んできたアンジェには、先にメリッサの行っている通り厳しいものがある。
「ですからアンジェ。ここは一旦彼らに見つかる前に引いて下さい。そしてご主人様の手助けをして頂けると嬉しいです」
「……なるほどな。正直口惜しいが、メリッサがそこまで言うのならそうなのだろうな」
そう言ってアンジェは少し悔しそうに顔を伏せる。
そして、だが――と紡ぎ。
「それならメリッサ。貴方も一緒に連れて行く。私はまだ余力を残しているし、一人なら抱えて脱出することも――」
だがアンジェの口を塞ぐようにメリッサが右手を振り上げ、そのまま言葉を重ねた。
「私はまだいけません。しなければいけない事があります」
な!? とアンジェが絶句するが、メリッサは勇気ある女騎士に微笑みかける。
「安心して下さい。チェリオは絶対私を手にかけたりはしません。私の命が脅かされることはないでしょう」
「いや、しかし――」
「ただレイリアは別です」
え!? と横で聞いていたレイリアが驚きに目を丸くさせる。
「あの男は、少しでも訝しいと思えば彼女を容赦なく殺します。ですから連れて行くならどうか彼女を」
「そ、そんなメリッサ様! 私一人がそんな!」
「いいのです。それに貴方に何かあれば……そんな事は絶対にさせたくはありません」
メリッサの意外な言葉に、アンジェは頭を悩ませる。
無論ふたりとも助けられればそれが一番だが……しかし二人を抱えてここから脱するのはいくらアンジェといえど難しい。
そして更に――
「メリッサ様はお外ですかな?」
アンジェが来た事で、閉じられていたカーテンの向こう側から声が掛けられ、メリッサの目が大きく見開かれる。
「!? ガイドの声です! 私が対応いたします。アンジェは早くレイリアを連れて逃げて。それと……可能なら明日この下の森に、それまでに情報を掴みます!」
そう早口で囁きかけるように告げ、メリッサは部屋の中に戻っていく。
それにレイリアも続こうとしたがアンジェがその腕を掴んだ――
「少々夜風にあたっておりまして……ところで何か?」
「いや、実はですな。どうやらこの屋敷周辺に賊が忍び込んだ痕跡がございまして、メリッサ様の身が心配になりましたので駆けつけたのですが」
そういいながらもガイドの目はメリッサを疑っており、そして奥のベランダ側にも注意が向けられている。
「ところでメリッサ様。侍女の姿が見当たりませんが?」
「……レイリアはまだベランダで涼んでおります。少し気分が優れないようでしたので」
「それはとんでもないことですな! 侍女という立場でありながら、メリッサ様に付き従わずそのような真似。許されないことです、私が一つ躾る必要があるようですな」
そう言って、ガイドがメリッサの横をすり抜けた。
「お待ちなさい! 私が良いと申し上げてるのです!」
「残念ながら、それで納得できるほど私は甘くないのでね」
ガイドはカーテンを勢い良く広げるが、既にそこには誰の姿もなく、くっ! と声に出しつつベランダに出たガイドは柵から身を乗り出し崖下を覗きこむ。
「あれか――」
そう呟いた後、ガイドはメリッサを振り返った。
「どういうつもりですかな?」
「……おっしゃられている意味が判りません。それにしてもレイリアはどこにいってしまったのか」
「……よくも白々しい。それに、なぜこんな事をしたのか理解に苦しむが、レイリアなら妙な女騎士に抱き抱えられ崖を走りさっていった。全く垂直に近い岩壁を走るなんてな――」
悔しそうに奥歯を噛みしめるガイドに、少しだけいい気味と気持ちが晴れた。
「貴様もあまり調子には乗らぬことだな。伯爵のお気に入りだから大人しくしているが、所詮下劣な奴隷でしかないということを忘れるなよ」
「……そのような事を申されていいのですか?」
「構わんさ。本来私はセントラルアーツの領主様に仕える身。あの男の目付け役みたいなものだ。もしあの男が私を殺すような真似をしたなら、それは即座に背信行為とみなされる。そんな馬鹿な真似はしない。強がってはいるがな、奴の根幹は何も変わっていない。自分より上と思うものには決して逆らわないのだからな」
そう言い残しガイドは部屋を後にした。恐らくこの事はすぐにでもチェリオの耳に入るだろう。
尤もそれでもチェリオがメリッサを殺すようなことはないだろうが。
(……一五分、か)
ガイドが立ち去った後。ガイドの鑑定までに必要な時間をメリッサは反芻する。
チェリオ程ではないが、用心深いガイドの力を視るのは彼以上に大変かもしれない――
そんな事を思った後、ベランダに出て眼下の森を見る。
既にアンジェの姿はなかった。メリッサは満月を見あげながら、勇敢な女騎士とレイリアが無事であることを祈るのだった――




