第59話 柔らかい唇
唇に何やら柔らかい感触を感じる。途端に俺の意識が覚醒し始め、喉奥からこみ上げる何かを堪らず吐き出し、ゲホゲホッ! と咳き込んだ。
ゴボッ――と内側から溢れてきたそれが、川の水だと気がつくのにそう時間は要しなかった。
何が起きた? 覚束ない記憶。
俺は瞼を開く。その瞬間俺の身体が何かに引き寄せられ、視界に飛び込んできたのは二つの大きな葡萄。
それが顔に押し当てられ、思わずうぷぅ! と声を漏らす。
弾力ある感触が俺の両頬を包み込んだ。
「良かった~~気がついたんや! このアホ! アホ! アホボス! ほんまアホや! 死んでもうたらどうすんねん! アホーーーー!」
俺は掻き抱かれた状態のまま、聞き覚えのある声に耳を傾け、そして思い出す。
そう、俺は向こう岸に飛び移ろうとして失敗した。
そして川に落ち、サハギンと謎の異形に襲われたのだ。
魔物との死闘を演じ、なんとか襲撃者を倒すことには成功した俺だが、最後の異形を倒そうと一か八かで打ち込んだショックボルトの効果で感電し、完全に気を失っていたわけである。
あ、危なかった。多分他に誰もいなければ俺の命は無かっただろう。
恐らく次の日の朝辺りに、土左衛門となった俺の遺体が下流で発見され、ほんの少し街の住人に娯楽を与えた程度で、俺の二度目の人生は幕を閉じたと思う。
「それでどや? 怪我ないか? 頭打ってへんか?」
胸の圧から開放され、離れた俺の顔をじっと見つめながら、カラーナは俺が平気か確認してくる。
大きな瞳に映る、びしょ濡れた自身の姿を認めつつ考えを巡らす。
現状から予想するに、川に流された俺をカラーナが助けてくれたのだろう。
何せ彼女の身体もすっかりびしょびしょだ。ゆったりとした黒いTシャツも、水で重みを増し肌に貼り付いているし、彼女が穿いているパンツだってぐしょぐしょだ。
髪の毛もすっかり水を吸って額にくっつき、先端から水滴をぽたぽたと垂らしている。
彼女がいなければ俺は死んでいたわけか――
よく見ると、水に紛れて涙の後も見えるな。どうやらかなり心配させてしまったようだ……
俺は水に濡れた彼女の黒髪に手を置き、くしゃっと撫でた後微笑みかける。
「あぁ大丈夫だ。ありがとうな助けてくれて」
するとカラーナの目が潤み、俺の背中に両腕を回し勢い良く抱きついてきた。
なんとなく愛おしくも感じたから、俺も彼女の背中に腕を回し抱きしめ返す。
「もう、ほんま死んでもうたおもたわ。あんま心配かけんなや! アホ……」
「……悪かったって。それよりもカラーナの方こそ大丈夫か?」
「……うちの事より自分の事心配せぇな。全く、もうあまり無茶せんといてよ。ボスがいなくなったら、うち――うち」
涙声が混じる。あぁ本当に心から案じてくれてるんだな。
ありがたい話だ……それから少しの間抱きしめあうが、ただこのままでもいられないので、俺は彼女を抱く腕を緩め一旦身体を外す。
あっ……となんかちょっと残念そうな顔をカラーナが見せてくるが、このままだと別の感情が湧いてくるかもしれない。
でも今の状況はきっと、吊り橋効果というものだろう。
そんな一時的な感情で流されたら駄目だ!
てか――俺はふと唇の感触を思い出し指をやる。
するとカラーナも思い出したように目を逸らしカァ~っと頬を染めた。
「……え~ともしかして――」
「そ、そりゃ息しとらんかったし! それぐらいするわ! 当たり前やろ! なんや! 嫌やの!」
険の篭った声で叫び、キリッ! と睨めつけてくるが、当然嫌なはずがない。
寧ろ光栄ですはい。
「そ、そんな筈ないだろ! ま、まぁとにかくそれも含めて感謝だ! うん」
俺は腕を組み、一人納得したように頷いてみせる。
「ふぅ……てか、ここはもうちょっとあれやろ。なんかあるやろがほんま」
不機嫌そうにカラーナがいうが、何かってなんだ? う~ん感謝の言葉が足りなかったか?
「いや本当に悪いと思ってるし、感謝してるよ」
「……はぁ~もうえぇわボス」
ため息混じりに呆れ顔でそんな事を言われてしまった。何なんだ一体――
まぁいいか、とりあえず一旦立ち上がり、川辺に俺は近づいていく。
すると背中に、
「ちょ! ボス! また行く気ちゃうやろな!」
と尖った声。
「違う違う。ちょっと様子を見るだけだって」
流石にこの状況で再チャレンジという程無謀ではない。
とりあえず川の様子を見るが、土手も大分低くなっていて流れも揺るい。
街まではまだ距離がある位置ではあるが、それでもかなり流されたのか? いやカラーナがそこまで運んできたというべきか。
俺もよく助かったな――
だけどこれではっきりしたのは。領主の住む居城の周辺には、あの北門と同じ仕掛けが張り巡らされているということ。
この川の場合は、土手のギリギリのラインでそれがされてるようだ。
思い出すに、足を踏み入れようとしても逆側に戻ってしまうような、そんな魔法か何か――ふむ……
そしてもう一つ気になるのは、あのサハギンだが――
「そういえばカラーナは、水の中で魔物に襲われなかったか?」
「うちは大丈夫やったけどな。何ボス魔物に襲われたん?」
そうか。俺は結局潜水状態で戦い続けたからな。カラーナも気が付かなかったってところか。
おまけに勢いに流され続けたから、俺を見つけるのもきっと大変だったことだろう。
「ちょっとサハギンに襲われてな。全くドワンのくれたマジックボムのおかげで助かったよ」
「あ!? それで水柱が急にたったんか! あれのおかげでボスにおいつけたんや。確かにあのおっちゃんには感謝やな」
そういう事か。確かにあれの威力なら水柱ぐらい立つだろうしな。
「それにしても、この川にサハギンなんておったかなぁ? 始めて聞いた気がするわ」
……元々いなかった? ということは、もしかしたら領主がここに放った? でもだとしたら、あの異形は……
駄目だ、考えがまとまらない。どちらにせよ領主の正体が掴めないと何も始まらないな。
しかし異形は完全に川の底か。ギルドにでも持っていければ何か掴めたかもしれないが――いや、どっちにしろ駄目だな。
もしあの異形の骸をギルドに持っていったとして、一体どこで狩ったのか? という話になる。
その時にまさか、領主の住む居城に忍び込もうとして遭遇しましたともいえない。
「ボス。何考えてん?」
「うん? あぁ一体今の領主はどんな奴なのかと思ってな」
「……ボスまだ諦めてないん? 流石にもうやめといた方がえぇと思うで?」
俺の顔を覗き込むようにしながら、心配そうに濡れた眉を落とす。
う~ん領主に関しては、メリッサと似たような反応だな。
まぁとはいえ、今日はもうどうしようもない。
「まぁそうだな。俺もそこまで危険な橋を渡る気はないさ。とりあえず今日はもう戻ろう。随分濡れたし、このままだと身体も冷えてしまうしな」
「……だったら帰ったら、ボスとうちで、は、裸で抱き合う?」
な!?
「ば、馬鹿! 冗談言ってないで早く戻るぞ!」
全くこいつは本当に俺を誂うのが好きだな!
「おいおい、二人揃ってなんでそんなにびしょびしょなんだよ?」
予め聞いていた衛兵用の裏口まで趣き声を掛けると、守衛のダイモンが現れて目を丸くさせた。
まぁ確かに、今の俺達はすっかり水に濡れてしまっているからな。
「あぁちょっと水浴びしてきたんだ」
「……水浴びってわざわざこの時間にか?」
訝しむような目で訊いてくるダイモン。まぁ、確かに怪しいけどな――
「ボスはそういうプレイが好っきやねん。奴隷の女と主が一緒にこんな時間にしけこむんや。それを追求するなんて野暮なこというたらあかんで」
いってカラーナが俺の腕に胸を押し付けてくる。
ちょ! 何言ってんだ! 突然!
「……な、なるほどな。全くヒットの旦那も中々マニアックだな~へへっ、まぁいいや。約束だしな。どうぞ通ってくれ」
好色な笑みを浮かべながら、ダイモンが裏口の扉を開けてくれた。
何を想像してるんだか……いや、予想はつくけどな。
まぁとりあえず、カラーナに腕を絡められたまま俺は門を抜けて街に戻る。
ダイモンからは、面倒だから衛兵に見つからないように戻ってくれ、と釘を刺された。
まぁ確かに、この状況で色々訊かれるのも面倒だ。
俺はカラーナの手をとってキャンセル移動で宿まで戻る。
カウンターのアネゴが、今日に限ってまだ起きていた。
「なんだいふたりとも、随分と濡れてるね~激しかったのかい?」
……今更だが、水を絡めたプレイというのが実際にあるのか?
「そや。ボスったら激しくて参るねん」
「う、嘘だから! それは冗談だから!」
さらっととんでも無いことを口にするなカラーナは!
「ふぅ。ところで服を乾かしたりってのは出来るかな?」
「だったら表に出て裏に回れば干せるようになってるさ~朝にでも掛けておけば天気が良ければそのうち乾くと思うよ~」
それなら明日は、朝干してから出るとするかな。
そう思いつつ、アニーにお休みと告げ、俺とカラーナは部屋に戻った。
で、濡れたままは気持ちが悪いので着替えを済ます――が!
「カ! カラーナ! いきなり脱ぐなよ! 俺が見てるんだぞ!?」
「う~ん? それがどないしたねん。ボスに見られたかて、気にせんわ」
いや! 俺が気にするし! 仕方ないからトイレに入り、俺も着替えを済ます。
「別に今更照れんでもえぇやろ? キスまでは済ましたんやし」
着替えを済ましベッドの前に戻ると、ジト目でカラーナが川での事を言ってきた。
俺の脳裏にさっきの記憶が蘇る。
「あ、あれはそういうのとは違うだろ!」
そう! あれは不可抗力だ! 助けておいてもらってなんだが、正式なそういうあれとは違うし、違うし!
「はぁ、まぁいい。明日はメリッサも迎えにいかないといけないし、依頼もまた請けないといけないしな。俺はもうねるとするよ」
「請けるってボス、何かやる仕事は決まってるん?」
「いや、明日の分はまだだな。ギルドにいってから見つける必要があるだろう」
俺がそう応えると、カラーナは、ふ~ん、と天井を見るようにして言う。
何か一考してるような感じもあるが、また仕事の情報でも掴んでくるつもりだろうか? まぁそれならそれで助かるわけだが。
それはともかく、時計を見るに既に日を超えている。俺も部屋に戻ってきたら疲れがどっと出てきた感じだしな。
思わずベッドに倒れ込み、そのまま寝る準備に入る。
やっぱりあの水中戦はキツかった――
「……なぁ? ボスってもしかして女に興味ない男なん?」
な!?
「何言い出すんだ突然! そんな筈ないだろ!」
思わず上半身だけ起こし声を張り上げる。
寧ろありすぎて毎日が大変なんだよ! 煩悩キャンセルで!
「……ふ~ん。まあえぇけど」
なんか半眼で不満そうに言われてるな俺。
なんだ? やっぱあんなところで溺れてるようじゃ男として頼りないって事か……むぅ。
まぁいい。俺はカラーナにお休みと告げ、先に布団の中に潜った。
やはりかなり疲れはあったようだ、ベッドに入りすぐに俺の意識は深い闇の中へと沈んでいった――




