酒と死の間で
……。
由里子が家を出て行ったのは3日前の金曜日だった。梅雨に似つかわしくないような快晴の日で、明るすぎる太陽の陽が差し込む部屋のちゃぶ台の上に置き手紙一つを残し、妻は消えた。前日に降った大雨に溶けてしまったかのように。
……。
二十年間連れ添った妻との絆は、リストラという四文字の言葉で呆気なく壊れてしまった。子供はいなかったが、二人だけの暖かな生活を築けているものとばかり思っていた。
……。
由里子よりも五年長く苦楽を共にしてきたはずの会社にも裏切られた。中小企業とも呼べない小さな物流会社だが、俺なりに精一杯勤めてきた。安月給でも文句を言わず、サービス残業もこなしてきた。それなのに、それなのに……。
……。
一応、今月一杯で退社、ということだったが、当然行く気になんてなれなかった。月曜の朝から呑む酒はこんなに寂しい味がするのかと、四十代も半ばに差し掛かった今、始めて知った。
……。
すっかり陽が落ち、辺りは夜の闇に侵食されている。酒も残り僅か。朝一番に酒屋で買ってきた、今まで手に取ることもしなかったような高級な純米酒。まるまる一升飲んだことになるが、普段飲んでいる酒との違いはとうとう分からなかった。
……。
この残りの酒が、俺の命のタイムリミットだ。これがそこを尽きたとき、俺は自分の命の灯火を吹き消す。そのためのロープも買ってきた。まさか、人生最後の買い物が、なんの変哲もないロープだとは……我ながら情けない。
……。
暗い六畳の居間、真ん中に置かれた焦げ茶色のボロいちゃぶ台に頬杖をつきながら、俺は一日中、酒を口に運び続けた。仕事と由里子がいなくなった空っぽの体を満たすように。
……。
思えば、なんてつまらない人生だったろう。地元の高校を出て、そのまま就職して、五年後に結婚して、親が死んで、リストラされて、妻が出て行って、そして一人で死ぬ。寂しい。虚しい。虫けらみたいな人生だ。こんな人生、早く終わらせたほうがいいに決まっている。
……。
お前、殺すぞ!
付けっ放しのテレビから、不意にそんな言葉が投げかけられた。だよな、お前もそう思うよな、と名前も知らない若手芸人に声をかける。バラエティ番組なんてくだらないと思っていたけど、きっとこいつらは、俺なんかよりも遥かに沢山の人間を笑顔にしている。俺なんかよりも、よっぽど社会に必要な存在なんだ。死ぬ間際になったようやくそのことを知った。
……。
酒が苦い。酔ってしまえば少しは楽かと思ったが、アルコールはただの刺激となって舌を刺し、呑めば呑むほど酔いが覚めていく気がした。
……。
首を吊って死ぬのは苦しいだろうか。いや、苦しくないはずがない。生きるという本能を断ち切るのだ。痛みを伴わないわけがない。
……。
俺の死体を見つけるのは誰なのだろう。由里子ではない。会社の人間か。いや、辞めて行く人間のことなど、誰も気に留めないだろう。もしかしたら、家賃が振り込まれないことを不審に思った大家かもしれない。ま、誰にしろ不運なことだ。寂れた中年親父の死体なんぞ、誰も見たくないだろうに。
……。
重い腰をあげ、部屋の電気を点ける。暗くても別に構わないのだが、ロープを結ぶのに手間がかかるだろう。スイッチを押し、また元の位置に戻る。
……。
とうとう、最後の一口だ。名残惜しい気もするが、こんなところでグズグズしていても仕方が無い。グラスを持ち、一気に喉へ流し込んだ。
……。
おわりだ。何もかも。
……。
風呂場へ続くドアのノブにロープをしっかりくくりつける。続いて反対側に輪っかを作る。何度も練習したのでスムーズにできた。
……。
テレビは付けっ放しにしておく。死ぬ直前くらい、誰かの声を聞いていたかった。例えそれが、知らない芸人のバカ笑いだとしても。
……。
輪っかに、首を通す。ここまで何の躊躇もないことに自分でも呆れる。そんなに死にたいのか、この馬鹿者が。
……。
あ、ビニールシートを敷くのを忘れた。首吊りは糞尿が垂れ流しになると聞いて、一応下に敷いておこうかと買っておいたのだ。……まあいいか。死んだ後のことなんか知ったことか。俺の死体を見つけるやつ、呪いたければ自分の運の悪さを呪え。残念ながら、俺はもうこの世にはいない。
……。
不意に、由里子のことが頭に浮かんだ。土壇場で裏切られたとしても、やはり俺は、あいつを愛しているのだろうか。
……。
由里子は、俺と同じ会社の事務員として働いていた。俺よりも一年先輩だったが、子供みたいな愛嬌のある女で、職場のみんなに愛されているようなやつだった。いつしか、そんな彼女のことが気にかかるようになっていった。そして三年目の冬に、俺は初めて由里子を食事に誘った。絶対に断られるかと思ったが、あいつは嬉しそうにくっついてきた。
……。
話しているうちに、 スキーが好きなこと、酒が好きなこと、嫌いな上司のこと、何でもかんでも気が合うことを知った。彼女と一緒にいるだけで楽しかったし、彼女もそう思ってくれているようだった。
……。
プロポーズは、この部屋で、だった。料理を作る由里子の後ろ姿を見て、不意に、「結婚したい」と思った俺は、ほとんど衝動的に、彼女にプロポーズした。一瞬驚いたように手を止めた由里子だったが、すぐに作業を再開した。聞こえなかったのかと思ったが、十分後、よろこんで、とケチャップで書かれたオムライスを運んできた。
……。
いつまでそんなことを思い出しているつもりだ。俺は由里子に裏切られたのだ。さようならと書かれた便箋だけを残してあいつは消えたのだ。だから、俺は死ぬ。不甲斐なさすぎる自分の人生に終止符を打つのだ。
……。
さようなら、由里子。
さようなら、俺。
……。
俺は首に巻かれたロープに、全ての体重を預けた。
……。
……。
ゆっくりと目を開ける。さっきと変わらない、俺の部屋だ。電気もテレビも付けっ放し。何事もなかったような、ただの夜。
………た。
最初は、失敗したのかと思った。ロープが外れたのかどうかは分からないが、とにかく、俺は死ねなかったのだと。しかしそれは間違いだということにも、すぐに気づいた。その場から立ち上がった時に、ふわりとした浮遊感を感じたからだ。後ろを振り返ると、だらりと舌を垂らした俺の体が横たわっていた。
……なた。
どうやら、まだ迎えが来ないらしい。あの世が混んでいるのだろうか。
……あなた。
…なんだ、さっきから。囁くような女の声が聞こえる。誰かいるのか。
あなた、私よ。
え?
あなた、あなた。
……。そんなバカな。
由里子だ。由里子の声がする。由里子が俺を呼んでいる。そんな、どこから。
あなた、ここよ。
台所だ。彼女の声が台所から聞こえてくる。俺はいそいで、彼女のいる方へと向かった。
ああ、あなた。
台所に、由里子は立っていた。寂しそうに、彼女はこちらを見つめていた。
よかった、気づいてくれて。
……由里子、ほ、本当に由里子なのか。
ええ、そうよ。
夢見たいだ。まさか、もう一度お前に会えるなんて。で、でもどうして……。
今ね、私、駅前にいるの。
駅前? どういうことだ。
帰ってきたのよ。私も動揺してしまって、思わず家を飛びだしちゃったけど、でもやっぱり、あなたと別れることなんかできないって、思い直したのよ。でも、でも、あなたったら……。
な、なんだよ。
あなたったら、死んでしまうんですもの。
……ああ、そうか。俺は死んだんだ。ここは、生と死の間。俺はもうすぐ、あの世へ旅立つのだ。
だから、せめてもう一度、あなたに会っておこうと思って。あの世へ行ってしまう、その前に。
不思議だ。一体、何かどうなっているのかさっぱりわからない。でも、どうだっていい。こうやって、お前に会えたんだから。
ねえあなた、本当にごめんなさい。私、あなたを嫌いになったわけじゃないの。でも、突然リストラって言われて、私、何も考えられなくなって、不安で……。でも、やっぱり私はあなたが好き。どんなに辛くても、あなたと共に、人生を歩んで行きたいと思ったの。
俺もだ。俺もだよ。お前のことが大好きだ。ずっと、ずっと一緒にいたいと思ってる。
……ごめんなさい。私が出て行ったばっかりに、あなたは死んでしまった。私のせいだわ。私が、あなたを、殺してしまった……。
違う、違うぞ。俺が悪いんだ。俺が弱かったんだ。ああ、どうしてお前を信じてやれなかったんだ。俺にはお前しかいなかったのに、どうして、俺は……。
……もうすぐ、私がここにやって来るわ。あなたの姿を見て、きっと私、泣くでしょうね。
……すまない。本当に、申し訳ない。
ねえ、最後に一つ、聞いてもいいかしら。
なんだい?
死んでしまったこと、後悔している?
……ああ。せめてもう少し待っていれば、君に会えて、二人でやり直せただろうからな……。
不謹慎だけど、そう言ってもらえて、本当に嬉しいわ。
でも…。
でも…?
死にたくないと思いながら死ねるなんて、幸せじゃないか?
俺はぎゅっと、彼女を抱きしめた。そして、玄関でインターフォンがなった瞬間、俺の体が、すうっと、空に溶けていった。