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空色の瞳  作者: 氷中冴樹
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第3章

    脱出


 実のところ、セレイアスにはあえて二人に言わないでいたことがある。

 それは、自分がこのような旧型シャトルを操縦したことは、ほとんどないという事実だった。ただ、ざっと見渡したところ操縦システムは旧式でも、基本は自分が扱っていた最新の大気圏外航空機と、大差が無いように思える。

 それよりも問題は、今回の飛行には外部のコントロールが、まったく当てにできないということだった。

 宇宙飛行において、外部からのコントロールがまったくないという状態は、ほとんど有り得ない。というか、そういう状態は文字通りの遭難状態で、何もしないで救助を待つというのが鉄則だった。

 完全に手動で宇宙船を飛ばすことなど、セレイアスでなくてもほとんどの宇宙パイロットにとって、訓練以外では経験するはずがなかった。ほとんど扱ったことの無い操縦システムで、これもほとんど未体験の手動操作を行なうというのは、さすがにセレイアスでも緊張した。

 機長は小さな茶色い瞳で、慎重に燃料パイプや空調ダクトなど、基地側との連結部分が、すべてシャトル側で遮断されていることを確認する。

「行くぞッ!」

 自分の声に、二人の子供がわずかに息を飲むのを感じながら、セレイアスはレバーを操作した。

 主力エンジンは使わず補助の動力だけで、機長はゆっくりとシャトルを動かす。

 パイプやコードなど、基地と接続した様々なものを引きずったまま、シャトルは宇宙空間に滑り出した。やがて、それらの接続部分が伸び切り、操縦席のあちこちで警告の赤い光が点滅し、警告音が鳴り響く。

 モニターに表示される場所が、すべて基地との連結部分であることを、ジェシカは確認した。確認すること以外に、さすがの博士号を持つ少女にも、何も出来ることはない。

セレイアスはジェシカの言葉に頷くと、警告を無視する形で主力エンジンを作動させた。大きな出力が、内部の人間、特に二人の子供の体を、たやすく座席にめり込ませる。

 機長が予想した通り、基地との連結部分はすべて自動的に、自分から離れて行った。全ては緊急事態に備えて、シャトルの強引な離脱を予想した上での設計だった。

 機長がテントウムシと呼ぶシャトルが、完全にドッキング・ポートから離れると、警報は嘘のように止まる。

 少年と少女は、それぞれお互いにわからないように、ホッと息を吐いた。少女はともかく黒髪の少年の方は、自分が何でここまで少女に気を使わねばならないのか?正直、戸惑っている。

すべての機能が正常であることに、機長が緊張を解いたのは一瞬だった。彼が主力エンジンの出力を下げる直前、激しい衝撃と光がシャトル全体を襲う。

 文字通り、木の葉のようにシャトルは乱暴に振り回された。回転する機体の中で、少年はあっさりと目を回し、少女は何とか自分の体を支えている。

 ただ一人の大人であると同時に、ただ一人操縦することのできるセレイアスは、必死で操縦桿を操った。そのかいがあったのか、しばらくすると機体の回転は収まり、姿勢が安定する。

「何が起こったの!?」

 栗色の髪を振り乱す少女が、誰よりも早く叫ぶ。

 その甲高い声に、機長は落ち着いた声で答えた。

「わからん!」

 そう言いながら、セレイアスは忙しくその茶色の瞳を、操縦席のモニターやパネルに向けている。

 口の中でブツブツ文句を言いながらも、ジェシカはその空色の瞳で、モニターやパネル表示を確認していた。そんな、前の座席の二人とは違って、後ろの座席に座るコータには気分を落ち着けること以外に、とりあえずすることはない。だから、最初にそれを見つけたのが彼だったのは、ある意味では当然だった。

「ちょ、ちょっとッ!あれ、見てッ!!」

 少年の緊迫した口調に、少女は迷惑そうに大人の男性は何事かと、顔を上げた。

 そして、少年が指差す視線の先に目をやって、お互いに思わず息を飲む。それは、操縦席側面の窓だった。その外には、今まで彼らが捕らわれていた軌道基地コンロンの、その巨大な中心軸の底が広がっている。

 今の衝撃で、シャトルの向きが変わって、いつの間にか中心軸と平行の位置に来ていた。しかし、問題はそんなことではない。

 彼らのシャトルが係留されていたドッキング・ポートは、その建設途中の中心軸の端にあった。そこはさらに長く伸びるため、様々な構造物が剥き出しのまま伸びていることが、容易に考えられる。

 それが今は、まるで最初からそうだったようにその末端の断面が、直線的できれいな平面になっていた。その後方の宇宙空間に、細かく砕かれた、まるで星屑のように散らばる破片が漂っている。

 それらの破片が、ドッキング・ポート部分の変わり果てた姿だということを、コータが理解するまでにそれほど時間は掛からない。

「何てこった!中心軸の末端を切り離して、爆破した!!」

「アタシ達共ども爆破する気だったのか、それともアタシ達が離脱したから爆破したのか……微妙なタイミングね」

 一時の驚愕から、少女の瞳が元の落ち着いた色を取り戻すのに、これも時間は掛からなかった。

 その不吉な選択肢に、機長は無言で茶色い顎髭を撫でる。それから、おもむろにモニターの一つを調整して、その表示を読んだ。

「それで済めばいいが……今の爆発で、わずかだがコンロンが加速している」

 今度は、少女の方が無言で機長を見返している。

 コータは二人のやり取りを、ただ呆然と見つめていた。

 どんなに巨大な建物だろうと、真空で無重力、正確には極低重量の宇宙空間では、どんな小さな力でも推進力に変わる。つまり今の爆発の場合、コンロンは中心軸の先頭部分に向かって、小さな力ではあってもゆっくりと進み始めていた。

 次の瞬間、機長の不安は現実のものとなる。

 コンロンの長く伸びた中心軸。コータ達の眼前に広がる、細長い円筒の末端部分からすこし前方に戻った付近で、支柱を輪切りにする直線的な光が走った。

「やっぱりだ!中心軸の端のブロック一つ分を、切り離しやがった!!」

 叫ぶようにそう言うと、機長は再び操縦桿を握りしめる。

 直後に、先ほどよりは小さな衝撃が、シャトル全体を揺らした。

「また来るぞ!体を支えとけッ!!」

 機長の口調は乱暴だったが、生意気な少女もそれに異議を唱えようとはしない。

 今度はより大きな閃光と、その直後に大きな衝撃が、コータ達を再び木の葉のように翻弄した。窓の外を見ていた少年の黒い瞳に、切り離された巨大な筒状の構造物が、光と共に粉々に吹き飛ぶのが映る。

 真空の宇宙空間で、音は伝わらない。そのためかコータには、衝撃と光がより激しく襲ったように感じられた。

「間違いない!あのジョウガってヤロウは、コンロンを加速させるつもりだ!!」

 必死に、機体の安定を保とうとする機長の言葉に、自分の体を支えるだけの少女が、それでも鋭く問い返す。

「何のために?」

「さぁーねッ!とにかく、早いことコンロンに取り付かないと、最終的には置いてけぼりになるぞ!!」

 機長の言葉は正確で、そして深刻だった。

 このままコンロンが加速を続ければ、やがてシャトルでは追いつかなくなる。建物の後部を爆発させるというのは、実に原始的で乱暴な、多段式ロケットの原理だった。だが原始的なだけに、効果は確実だと言える。

「ジェシカ、どうすればみんなを助けられる?」

 セレイアスはあるいは大人としては、許されないことをしているのかも知れなかった。

 彼は幼い空色の瞳の少女に、自分達の行動の方向を決めさせようとしていたのだ。それには、彼女のこれまでの状況判断が、実に的確だったという根拠があったが、大人の責任放棄と取られても仕方がない。

 機長の判断を、コータは頭では理解できたが、精神が反発していた。ただ、彼がそれを明らかにするためには、勇気というか思い込みが、足りていない。

 しばらく考えた後に、少女は振り返って空色の瞳を機長に向けると、断固とした口調で言った。

「コンロンの、バック・アップ用サブ・コントロール・システムを乗っ取ります。確か、この手のサブ・コントロールは、メイン・コントロールからは独立しているはずですよね?」

「その通りだ。こういう事態に備えて、完全に独立した複数のコントロール・システムを設けることが、この手の施設には義務付られている。ふむ、君はサブ・システムは乗っ取られていないと思うんだね?」

 機長の答えは、ある意味では意地が悪いと言える。

 しかし、少女は平然と頷いた。

「思うというより、祈ります。それ以外に、マリコや他の人を助ける方法は、思い付けません」

 この時、コータは初めて心の中で、おやッと思う。

 黒髪の少年は、この生意気な栗色の髪の少女が、祈るなどという言葉を口にするとは、思っていなかったのだ。

「よし、それで、そのサブ・システムのコントロール・タワーっていうのは、どこにあるんだ?」

 機長は主力エンジンの出力を上げると、加速したコンロンの速度に合わせた。

 次の爆発が起こる前に、何とか内部に潜り込む。それがセレイアスの狙いだった。

「このシャトルのデーター・バンクに残っている、コンロンの設計図を見ると、中心軸の中間に設けられています。ただ……」

 ジェシカは、先ほどとは対象的に自信の無そうな口調で、言葉を濁す。

 小さな茶色の瞳に優しさを浮かべて、機長は少女を見返した。

「ただ、どうしたんだ?」

「このデーターは設計当初のものなので、現在はどうなっているのか……」

 セレイアスは、微笑を浮かべるとその手を伸ばして、軽くジェシカの肩を叩く。

 少女は少し驚いたような表情で、その空色の視線を機長に向けた。

「この状況で百パーセントを望めるなんて、誰も思わないよ。君の判断は正しいし、手元のデーターではそれ以上のことはわからないんだ。それなら、後はそれを信じるしかないだろう?そう、君も言った通り、祈るだけさ。軌道基地がこんな暴走を始めたんじゃ、他からの助けを待ってはいられないからな……」

 それはその通りだと、コータも思う。

 いったい、あのジョウガと名乗る犯人の目的が何なのか、今の段階ではまるでわからなかった。ただ、このままコンロンが加速を続ければ、誰にも手出しができなくなることだけは、ハッキリとしている。

 やるのなら、チャンスは今しかなかった。

 機長の言葉に勇気付られたのか、少女はサブ・コントロール中枢の正確な位置を求め、再び操作盤に指を走らせる。

 その様子を見ながら、セレイアスは背後を振り返った。一人残された形の、黒髪の少年を見つめたのだ。

「それで、構わないかな?」

 もちろん、コータに反対する余地はない。

 それでも、年少の自分にも一応了解を求めるところに、この機長の誠実さと人扱いのうまさを、コータは感じないではいられなかった。

 少年は、黒い瞳をわずかに動かして、同意を示した。機長には、それで充分伝わると思ったのだ。

 その直後、再び中心軸の最後尾が切り離される。

 影響を最小限にするために、セレイアスはシャトルを加速して、中心部よりやや前方に持って行った。

「あった!ここよッ!ちょうど、シャトルの真下!!」

 赤いリボンを大きく揺らしながら、少女が声を上げるのと同時に、三度目の衝撃がシャトルを襲う。

 今度は予想していたので、前の時ほど誰も慌てることなかった。それでも、大きく突き上げられてベルトが体に喰い込むと、コータなどは吐き気を押える事が難しい。

 衝撃を何とか最小限に押えると、機長は青ざめた顔で隣りに座っていながら、表情だけは何とか変えずにいる少女に尋ねた。

「どこから、内部に入る?」

「外の入口は、すべてロックされていると思います。可能性があるとしたら……」

 そう言いながら、少女はあまり嬉しそうでない空色の瞳を、側面の窓から後方に向ける。

 機長は、幼いながらも頼もしい味方の言葉と態度に、自分の考えが裏付けられたことを知って、少々がっかりしていた。

「やはり、切り離される中心軸末端からしか、侵入は無理か……」

 その言葉に、コータはその黒い瞳を丸くする。

 切り離される中心軸の末端と言えば、つまり次の加速の時に爆発する、あの部分ではないか!?さすがに、少年は抗議の声を上げた。

「そんな、爆発しちゃいますよッ!!」

 それは実に少年らしい、年齢にあった率直な意見だろう。

 この時、さすがのコータ・ド・カレットも、ごく普通のありふれた少年になっていたようだ。

 そんな彼の態度に、むしろセレイアスはホッとしたものを感じたらしい。この茶色い瞳の機長にしてみれば、コータもジェシカもそれぞれ別々の意味で、余りにも子供らしくなかった。

 栗色の髪の少女は相変わらずだったが、黒髪の少年からは、少しづつ殻が取れて行くようで、セレイアスとしては喜ばしい事に思える。彼は、子供は子供らしくあるべきだという、ある意味で保守的で古典的な考え方をする人間だった。ただ、宇宙パイロットという職業柄、合理的で柔軟な発想をする習慣も身に付いている。

 子供のクセにやたら頭が良かったり、大人びた社交術を身に付けていたとしても、それだけで彼らを見下すような、偏狭な態度とは無縁だった。ただセレイアスには、ジェシカにしてもコータにしても、どこか無理をしている気がして、仕方がないのだ。

 空色の瞳と栗色の髪をした少女はともかく、黒い瞳と黒髪の少年について、それはかなり正しい見方のようだった。

「確かに危険だが、他に内部に入り込む方法はない。そして、内部に入り込む以外に、みんなを助け出す方法はない」

 柔らかい視線で、優しくコータの方を見つめながら、機長は穏やかにそう断言する。

 その優し気な茶色の瞳に、少年は自分の利己的な発想が見抜かれたような気がして、思わずその黒い瞳を逸していた。逸しながらも、自分の本心を偽りながら、コータは皮肉な疑問を口にする。

「内部に入り込めば、助ける方法があるのですか?」

 コータの良心が、胸の奥でキリキリと痛んだ。

 少年は、助ける方法が無いという口実で、自分達だけがこのまま助かるという選択肢を、暗に提示していた。しかし、さすがにそれを自覚することは、少年の良心が痛んだ。彼は、無意識の内に疑問という形を取る事で、自分の気持ちを宥めたのかも知れない。

 そんな少年の心の奥の苦闘を、セレイアスは容易に見抜いていた。彼にしてみれば、この少年の精神構造は少女のそれに比べれて、はるかに分かりやすいようだ。

「方法はある。何しろ、あそこにはキャメル・ナンバー3があるんだ。あれなら、この旧式の小型シャトルと違って全員が脱出できるし、第一性能も航続距離も速度もまるで違う。逃げるなら、あれに限る!」

 機長の最後の言葉には、これまでになく力強いものが感じられた。

 それだけ、実は彼がこのシャトルの性能と扱いに自信が無いことを、証明しているのも同じだろう。少年の精神構造が分かりやすいと、セレイアスは見抜いたつもりになっていた。その彼自身の精神構造も、どうやら同年輩の大人に比べると、かなり分かりやすいタイプのように見える。

 それに気が付いたのか気付かないのか、ジェシカは年の離れた二人の男性の会話に、小さくため息を吐いていた。ただ、彼女にしてみると、これはやらなければならない、当然のことでしないのだろう。

「ジョウガと名乗るヤツが、何を考えているのかわからんが、乗員と乗客を乗せたまま軌道基地が加速している以上、一刻の猶予もない。わかってくれるか?」

 機長の言葉は、どこまでも暖かく優しかった。

 その言葉に、少女の冷たい言葉が続く。

「それに、私達がこのまま脱出して、助かるかどうかわからないわ。残念だけど、このシャトル。外部からのコントロール無しに地上に降りる何て芸当、できそうにないもの」

 ジェシカの言葉は、正直なところセレイアスには、辛いものがあった。

 しかし、客観的に考えて、この少女の言葉を宇宙パイロットは、認めるしかなかった。もっとも、さすがに言葉にしようとは、思わなかったらしい。

 そんな機長の表情を、少年もその黒い瞳で見抜いていた。表情から考えを読み取るのは、何も大人や頭のいい少女だけの能力ではない。大人達の間で、その表情を読みながら過ごして来たコータの方が、特に大人の表情を読む能力には、確かなものがあったのかも知れない。

「わかりました。どっちを向いても危険なら、なるべく大勢が助かる可能性に賭た方が懸命ですね」

 そう言ったコータの表情には、あの機長を安心させた、子供らしいものは感じられなかった。

 やれやれと思いながらも、セレイアスは頭を切り替える。

「次の切り離しが行なわれたら、その根元に潜り込む。多少危険だが、爆発の余波に紛れて内部に突入するしか方法はない」

 それは、多少の危険などというものではなかった。

 切り離しから爆発まで、若干の時間差があることを利用したものだったが、下手をすればシャトルは基地の構造物に衝突して粉々になる。コータにもその危険は理解できたが、内部に突入するという危険全体から見れば、確かに大した危険には感じられなかった。

「時間との競争ね。うまく内部に入り込めても、早く次のブロックに移動しなければ、そこもまたいつ切り離されるかわからないわ」

 少女の言葉が、さらに危険の掛け率に、上乗せをする。

 コータは、この方法が内部に入り込んだ時点で、せっかく手に入れたシャトルを放棄することになることを、この時初めて知った。恐らく、少女は暗にそのことの自覚を、少年に求めたのだろう。

 嫌味な、女の子だ。自分のことを棚に上げて、少年は少女に対して心の中で舌を出す。

 機長は、二人に宇宙服を着せることにした。これから行くところに、必ず空気があるという保証がない、当然の処置だろう。

「さすがに、救命艇だけあって移動用のショルダー・ジェットと、簡易宇宙服があって助かった」

 セレイアスは気軽な口調だったが、もし宇宙服がなければこの方法が無理だということは、子供にも良く分かった。

 ジェシカとコータは、大人しく機長の指示に従って宇宙服を着込んだが、ここで少し困ったことが起こる。二人の子供にとって、宇宙服がどれも大き過ぎたのだ。

 救命艇という性格上、シャトルにフリー・サイズと呼ばれるタイプの宇宙服しか用意されていないことは、当然と言えば当然だった。ただ、フリーとは言っても、それはあくまでも大人を対象としたもので、十五歳以下の少年少女の体格には、やや無理がある。

 それでも、コータはどうにかなった。やはり、難しいのはジェシカだったが、彼女は自分の力でほとんど無理矢理のように、体を宇宙服の中に入れてしまう。その結果、彼女の体はかろうじて顔がヘルメットから覗くだけで、手も足も本来それがある部分には入っていなかった。

 ただ、重さのほとんどない、いわゆる無重力の状態でなら、その奇妙な格好でもそれほど不自由はない。背中に載せたショルダー・ジェットの操作さえできれば、動き回ることは難しくなかった。

 そういう事態も想定してあったのか、ショルダー・ジェットは服の内部からでも、操作できるようになっている。後は、少女の体格に合わせて、手足の余分な部分をできるだけ折り畳めば、それで何とか格好が付いた。

 三人の準備ができるのを待っていたのかのように、次の切り離しが行なわれる。セレイアスは慌てず慎重に、切り離された軌道基地の中心軸の根元に、シャトルを潜り込ませた。爆発までの短い時間に、内部へ入り込む入口に、シャトルを移動しなくてはならない。

 モニターに基地の断面の構造図を表示させたジェシカは、その空色の瞳で眼前の窓に広がる、基地の中心軸の断面とを必死で見比べた。彼女は、何とか内部への入口はないかと、懸命に探している。

「ジェシカ、急いでくれ!」

 さすがに、セレイアスの言葉にも焦りが感じられた。

 もちろん、ジェシカにも時間が無いことはわかっている。後方で切り離された部分が爆発すれば、その衝撃で間違いなくシャトルは基地の壁に激突する。そうなれば、中の自分達が無事で済む訳がなかった。

 ジェシカの空色の瞳が、窓の外のある一点で止まった。

「あそこよ!通路が剥き出しになっている!あそこなら、中へ入れるわ!!」

 そこは、ちょうどシャトルの先端ほどの大きさがある、四角い穴だった。

 恐らく、誰も人間がいないので、隔壁をすべて厳重に閉める必要がなかったのだろう。運がいいと言えば、これほど運がいいこともなかった。

 セレイアスは即座に、シャトルの正面をその入口に押し付ける。その直後、後方へ切り離されたブロックが爆発した。衝撃はちょうどシャトルをその背後から、入口へ押し込むような形になる。

 鈍い音と共に正面の窓が割れ、内部の空気が激しく外へと流れ出した。もし、キチンと座席のベルトをしていなければ、三人は間違いなく外へ吸い出されていただろう。その結果、シャトルの窓枠か基地の壁か、どこかに激しく打ち付けられただろうということは、考えるまでもなかった。

「まずった!先に、ここの空気を抜いておくべきだった!」

 機長の言葉は、マイクを通じてヘルメットの中のスピーカーから、二人の子供達に伝わる。

 宇宙服の中に、手足が入り込んでいるジェシカは、自分でベルトを外すことは難しかった。二人の手を借りてベルトを外してもらっていながら、少女は生意気にも二人を急かしていた。

「そんなことはどうでもいいから、早く中へ入るのよ!いつ、ここが切り離されるか、わかったもんじゃないわ!」

「まったくだ!」

 ボールのように丸まった宇宙服の中で、自分では何もできないジェシカの生意気な言葉に腹を立てるどころか、機長は大きく頷く。

 ジェシカの体を自由にすると、セレイアスはコータの背中を押して、先に外へ押し出した。その後から、丸まった宇宙服のジェシカを壊れた窓から外のコータに渡し、続いて自分もシャトルの外へと飛び出す。

 当然のことだが基地内部へ続く通路に、空気はなかった。

「急ぎましょう!」

 先頭に立って、ジェシカはショルダー・ジェットのスイッチを入れた。

 手足が使えなくても動けるとなると、もはや少女の行動を止めることは、誰にもできそうにない。セレイアスは、コータにその後を追わせると、自分は二人の後ろから付いて行った。

 本来なら大人である機長が、先頭に立つことが正しいのかのかも知れない。例えそうだとしても、ここまで見て来たジェシカの性格上、彼女が先頭に立つことを止めることは、誰の目にも不可能にしか映らないだろう。

 ならば、自分は背後から二人を見守るべきだろうと、とっさに機長は判断していた。

 そこが、基地内を移動するためのチューブ・カプセルの通路だということは、しばらく進むと容易に理解できる。不思議なことに、その通路はどこも閉鎖されていなかった。もっとも、空気の圧力で移動する乗り物である以上、空気が抜けてしまえば無用のものだということで、見捨てられたのかも知れない。

 それはまた、基地内にほとんど人間がいないことの証明でもあった。果して、他の乗員乗客が生きているのか?生きているなら、どこに捕らえられているのか?それを知ることが、何よりも急がれることだった。

 三人はなるべく速度を上げて、そのやや曲がりくねった通路を飛んで行く。それでも、それからかなりの時間が掛かったように、コータには思えた。

 突然のように、前方を飛ぶ少女がゆっくりと止まる。

「あそこが、サブ・コントロール・タワーの入口だわ!」

 シャトルにあったデーターを移し換えた、小型の探知装置をヘルメットの中で見つめながら、ジェシカは小さく叫んだ。

 少女を象徴する、栗色の髪と大きなリボンは見えなかったが、二人の男性を振り返った空色の瞳は、今までになく輝いているように見える。

 そこは、チューブ通路に開いた扉だった。普段は、ここでカプセルを降りて、通路を自力で進むに違いない。その扉を前に、今度こそ機長は少女を自分の後ろに下がらせた。

 それには、素直にジェシカも従う。セレイアスは慎重に、扉を調べた。本来はカプセルの到着で、自動的に開閉するのだろう。どこにも、操作するような装置は見当たらなかった。

 しばらく、そこかしこに触れていた機長は、ふと思い当たって、思い切って両手でその扉を押し広げてみる。すると、思ったよりもアッサリと、扉は左右に開いた。

 コータは慌てて機長の傍に寄ると、自分も片方の扉を押し広げた。それが当然のように、ジェシカは手伝おうとはしなかったが、この場合は彼女を非難することは的外れだろう。手伝おうにも、両手足が外に出ていない状態で、彼女には無理な注文だった。

 二人の男性の力で、扉は左右に広がる。

「早く!ジェシカ、先に中へ!!」

 扉を押えながら、セレイアスがやや焦りながら言った。

 扉は容易に開いたが、手を離すとまた元に戻ろうとしている。中に入るためには、二人の男性がそれぞれ支えていなければならなかった。

言われると、ジェシカは素直に、スルリと中に入り込んだ。機長は、その後にコータが続くように促した。コータは扉を押えたまま、体を反転させて中へ入り込む。同じ要領で、すぐに機長も続いた。

 二人の男性は、それぞれが扉の内側に入ると、お互いに顔を見合わせて両手を離した。扉は簡単に、音もなく閉まった。もっとも、空気が無いのだから、音が響くはずはないのだが……。

 三人は再び、ジェシカを先頭に通路を進む。ショルダー・ジェットのおかげで、移動はかなり楽だった。これも不思議なことだったが、あれほど心配していた、次のブロックの切り離しと爆発は、今に至るまでもその気配がない。

 ついに、サブ・コントロール・タワーの入口に、三人は到達した。

 今度の扉は、先ほどのようには行かない。いくらコータと機長が押しても引いても、ビクともしなかった。

「参ったな……」

 ヘルメットの中で、セレイアスの呟きが聞こえた。

 調べてみると、扉の横に操作盤がある。シャトルのコンテナの内部で、偶然コータが見つけたのと同じようなものだった。

「経費の節減かな?ずいぶん、古い型を使っている……」

「メイン・コントロールから完全に独立するためには、形式も異なる方が無難でしょう。それに、よほどのことがなければ使わないものだから、型が古くても誰も困らないんでしょうネ」

 相変わらず、空色の瞳の少女の言葉には、味も素っ気もない。

 彼女は当然のように機長の前に割り込んだが、自分の指がほとんど使えないことを知って、少し困惑したようだ。

「どうすればいいのかな?」

 機長の茶色い小さな瞳が、少しイタズラっぽい光を放ちながら、少女の方を振り向いた。

 その機長の態度が何を意味するのか、さすがにジェシカにもわかったのだろう、少し憮然として彼女は言う。

「さっきの、コータ君の魔法の呪文を唱えてみて下さい」

「でも、それはもう使えないんじゃ?」

 セレイアスは驚いたように言ったが、少女は冷静だった。

コータも唖然と見つめる中、少女は平然と続ける。

「このシステムは、通常完全に外部と遮断されています。しかも、現在ではメイン・コントロールもすべて乗っ取られています。変更の命令は、たぶんどこからも入力されていないはずです……」

 落ち着いたジェシカの態度に、軽く肩をすくめるとセレイアスは言われた通りにした。

 そして、驚いたことに今度もまた、この工学博士の称号を持つ少女の判断が、正しいことが証明される。小さなモニター画面に光が走ると、簡単な入力待ちのメッセージが表示された。

 後は、ひたすら少女の指示に従って、機長が操作パネルのキーを押し続ける。シャトルのコンテナから脱出する時に比べれば、はるかに早い時間で扉は動き始めた。

「驚いたなこりゃ……ほんとに開いたよ!」

 セレイアスは、素直に驚いていた。

 コータにとっては、実に意外なことだったが、自分の非常用コードがまだ生きていたらしい。三人の前で、扉はゆっくりと開いて行った。

 さすがに、まったく使用されていないだけあって、内部はほとんど真っ暗で、何も見えない。どのくらいの大きさの部屋なのか、それすらもハッキリしなかった。

 機長は、二人の子供を制すると、慎重に内部に入る。

 すると、彼が入ったことを関知したのか、床や壁の一部が光った。その光に、一瞬セレイアスは動きを止めたが、それがただの照明の一種と分かってさらに足を進める。

「機長さんッ!」

 ジェシカの鋭い声が、二人の男性のヘルメットに響いた。

 その声に促されて、セレイアスは上をへ顔を上げる。ちょうど、新たに照らし出した光の中に浮かび上がるように、中空に浮かぶ影があった。

 それが、かなり大きな人の形をしていることに、コータが気が付くまで少しの間が必要だった。

「作業用のモーター・ギアじゃない?何で、こんなところに……」

 空色の瞳を凝らすように、少女は不自由な宇宙服を少し前に進める。

 操作する人間の手足の力を、何十倍にも増幅して同じように動かすことのできる、人の形をした作業機械。使い方によって、そのパワーは凶悪な破壊力となった。

 瞬間的にセレイアスは、その危険を予期する。それは、彼の軍隊経験から得た直感だったのだろう。

「散れッ!逃げろーッ!!」

 機長の声がヘルメットの中に響くと同時に、部屋の扉が閉まり始めた。

 まだ、扉の外にいたコータは、空中に丸まったまま浮かんでいる形の、ジェシカの体をとっさに抱える。突然のことに、生意気な少女が何か抗議したようだったが、少年は聞いていなかった。

 コータはジェシカを抱えたまま、強引に閉まりかけた扉の中に飛び込んで行く。扉の外へ逃げることは、彼の頭には浮かばなかった。

 この部屋を使うことが、自分達が助かる数少ないチャンスだという判断に、間違いはない。しかし、少年が部屋の内部へ飛び込んだのは、唯一の大人であるセレイアスと、離れることが恐いというところが本音だった。

 扉が閉まるのと同時に、子供達がいた位置をレーザーの光が切り裂く。コータは、ジェシカを丸まった宇宙服の中に抱え込んだまま、さらに思いっきり床を蹴って飛び上がっていた。

 それは、偶然にも大きな人型の作業機械モーター・ギアの前に、舞い上がる格好になる。

「マリコ!?」

「マリコさんッ!?」

 黒い瞳の少年と、その少年に抱えられたままの空色の瞳の少女は、同時に同じ名前を叫んでいた。

 二人の目の前には、巨大な機械の腹の部分に入り込んで、機械の手足を動かしている女性の姿があった。胸から下は甲板で覆われて見えなかったが、機械を操る両手足と首から上は、操作しやすくするために、外に剥き出しになっている。

 それがヘルメットと体にピッタリしたスーツで、完全に覆われていたとしても、その姿を少年と少女が見誤るはずはない。彼らが同時に、その人物の名前を呼んだ次の瞬間、二人が浮かぶ空間は、凶悪な速度の機械の手によって横に払われた。

 コータがとっさに、ショルダー・ジェットを使わなければ、二人は確実にその腕に叩きつけられ、壁に激しく激突していただろう。もしかしたら、機械の腕と壁に挟まれて、潰されていたかも知れない。

「何てこった!」

 完全に閉じ込められたことを確かめると、思わずセレイアスは呟いていた。

 そして、その呟きはヘルメットのスピーカーを通して、二人の子供達にも伝わる。もっともコータはともかく、ジェシカがその呟きを聞いたかどうかは、わからなかった。

「マリコ……どうして、何をしてるの?」

 悲痛と言っていい、少女の微かな呟きを、少年は確かに聞いたような気がする。

 ただ彼としては、人型機械の次の攻撃を避けるためには、どうしたらいいか?そのことで頭が一杯で、少女の呟きに気を使っている余裕はない。そんなコータに、ジェシカの次の行動を予測しろというのは、かなり無理な注文だっただろう。

 突然、少女は少年の腕の中にあるにも関わらず、ショルダー・ジェットのスイッチを入れた。コータはとっさに両手を離すと、体をひねってそのジェット噴射から逃れることに成功する。そうでなければ、彼はまともにジェットの噴射を受けていたはずだ。そうなれば、彼の体は本人の意志とは無関係に、どこかの方向へ飛ばされていただろう。

 そんな、自分をかばってくれた者の苦労などにお構いなく、少女は凶暴な作業用機械の正面に飛び出していた。

「マリコ、どうしたの?いったい、何をやっているのよぉーッ!!」

 少女の悲痛な問いかけに対して、巨大な機械の中の女性は、返事の代わりに鋼鉄製の腕を引き寄せることで答える。

 精密作業もこなせる、合金製の長い三本の指がほぼ同時に左右から、丸い球のような宇宙服姿のジェシカを、ちょうど風船のように捉えた。

「我が名はジョウガ。我が計画を邪魔するものは、誰であろうと排除する……」

 それは、まるで機械のように抑揚が無く無機質だったが、マリコの声に間違いはない。



    対決


 体をひねった反動で壁際まで下がったコータは、無機質で抑揚の無いマリコの声に、背筋を冷たいものが走った。

 やはり、マリコはアンドロイだったのか!?すべては、彼女を作ったと言われる、ジェシカの父親の仕業だったのか……そう思って、コータは首を振った。

 それならばなぜ、父親は娘を危険な目に遭わせるのか?自分が作ったアンドロイドに今日まで守らせていながら、その手で傷付けようとするのか?有り得ない!コータは、そう結論した。ジェシカが以前に言った通り、これは余りにも矛盾が有り過ぎる。

 コータは壁を蹴ると、大型の人型機械に向かった。その凶悪な両腕は、小さく丸まったジェシカを挟んでいる。今なら、その懐に潜り込むことも可能のように思えたのだ。

「コータ!ちょっと待て……」

 セレイアスの制止する声が、ヘルメットのスピーカーから聞こえて来たが、既に反動で飛び出している少年の動きは、止まらない。

 鋼鉄の腕をかいくぐり、黒髪の少年は機械の腹部に全身を収めている、若い女性の正面に立った。

「マリコさん!目を覚まして下さい!あなたは、自分の手でジェシカちゃんを殺す気ですか!?」

 機械に埋もれた形の、女性のヘルメットが微かに動く。

「ジェシカを、殺す……私が……我が名はジョウガ、我が計画の邪魔をするものは……ジェシカを排除する……」

「マリコさん!アナタには、ジェシカちゃんを守る義務があるでしょう!?」

 コータの叫びは、明らかにマリコの混乱を誘った。

 機械の中の女性は、ゆっくりとそのヘルメットを振ると、機械の腕の片方をジェシカの宇宙服から外す。

「マリコさん……!」

 それを、マリコの精神の回復と受け取って、コータは喜んだ。

 しかし、それがまったく逆の行為を意味していることに、コータは気付かない。

「コータ!危ないッ!!」

 ジェット噴射の力で、ほとんど体当りのようにして、セレイアス機長が機械に埋もれた女性の前から、コータを弾き飛ばした。

 コータはその衝撃で再び壁に激突したが、それはまだマシな方だと言える。少年を襲うはずだった鋼鉄製の腕は、驚くべき速さで反転すると、後から飛び出して来た大人の体を、背後から打ち付けた。

「うぐぅッ!」

 苦し気な声を上げて、機長の体は床に向かって叩き付けられた。

 大人の男性に向かって、再び鋼鉄の腕が振り上げられる。

「コ、コータ君!マリコを、彼女が人間なら、彼女を止めれば、モーター・ギアは止まる……」

 苦しそうな息の間から、ヘルメットのスピーカーを通じて、コータの耳に機長の言葉が伝わった。

 この時、黒い瞳の少年は自分の軽率な行為が、機長の予定を狂わせたことを直感的に知ることになる。恐らく、セレイアスは自分がマリコに直接手を出すために、そのタイミングを計っていたのだ。その直前に、自分がマリコの前に飛び出してしまった。

 ジェットを思い切り噴射したコータは、機長を助けることしか頭に浮かばない。間一髪のタイミングで、自分と機長の体を床に滑らせるようにして、少年は振り下ろされる鋼鉄の腕から逃れることに成功した。

 この黒い瞳の少年としては、人生最大の大胆な行為と言っていい行動は、思わぬ効果を生んだ。激しく床に振り下ろされた鋼鉄の腕は、その長い三本の指先を揃えて、床に突き刺してしまった。

 長い指は勢いが余ったのか、深々と床に喰い込み、容易には外れそうにない。

「今だ、コータ!」

「はいッ!」

 機長の言葉に、再びショルダー・ジェットを噴射した少年はもう一度、機械の腹部に収まった女性に近付いた。

 慎重に相手からは自分が見えない、その頭の部分から少年は接近すると、思い切ってそのヘルメットに手を掛ける。

「おうッ!?」

 妙な声が、ヘルメットのスピーカーを通じて、コータの耳に届いた。

 片手が少女の丸まった宇宙服を握り、片手が床に喰い込んだまま、若い女性は少年のか弱い力に、自分が対抗できないことにもがいている。

「機長さんッ!」

 コータの声に、セレイアスは体の痛みを堪えて、若い女性の正面に回った。

 最初から、少年の力で若い女性を止めることができるとは、セレイアスも期待してはいない。可能性があるとすれば、二人が力を合わせて、若い女性をこの凶悪な作業用機械から、引きずり出すことだった。

 コータがマリコの頭を押えている間に、セレイアスは外から作業機械内部の人間を下ろすための、スイッチを捜す。自分も機械も動きが取れないことで、マリコは焦っていたようだ。

 床に喰い込んだ腕が激しく振動し、なんとか自由を得ようともがいていた。セレイアスもコータも、必死になる。内部の人間を保護するために腹部を覆う甲板を、外から開けるスイッチがどこかにあるはずだった。

「これだ!」

 スイッチを覆った安全用のカバーを、機長が打ち破った時、ついに少年の力が若い女性に負ける。

 マリコの首が、少年の手からスルリと抜けた。

「しまった!」

「うぎゃァァァッ!」

 コータの後悔の声と、ジェシカの悲鳴というよりは、叫び声が同時に響く。

 マリコは自由になる、少女が入っている宇宙服を握った腕を、大きく振り回した。その腕は握っているモノごと、自分を外に出そうとする人間に向かって、振り下ろされる。

 ほとんど何の配慮もされなかったのだろう、合金製の長い指が握っている丸まったままの宇宙服を、中身共々引き千切った。

「うわぁッ!」

 もう少しのところで、機長は飛び離れるしかない。

 その機長に向かって、何かかが激しくぶつかって来た。

「そんな、ジェシカ……!」

 壊れたヘルメットから投げ出された、栗色の髪と赤いリボンを見て、コータは息を飲んだ。

 少女の体は、宇宙服のヘルメットから飛び出し、そのままの勢いで機長の胸元に叩き付けられる。セレイアスは、自分が壁と少女の体に挟まれることも構わず、必死でその体を支えた。

「うぐぅッ!」

 低い機長の呻き声が、コータのヘルメットに響いた。

ちょうど機長の体をクッションにした形で、少女の体は壁との激突だけは避けられたらしい。

「ジェシカ!ジェシカ!ジェシカァーッ!!」

 繰り返し、繰り返し、コータはその名を呼んだ。

 いったいどうやって、強力で凶悪な人型の作業機械を蹴って、壁際の少女と機長の元に駆け付けたのか、まったく覚えていなかった。

 もどかしいほどの長い時間が流れ、その間に少年の目の前で、少女の頭ががっくりと仰け反る。そこから大きな赤いリボンが、まるで力尽きた木の葉が枝から離れるように、フンワリと空中に漂い出た。

 少年の黒い瞳には、解けてゆっくりとその場に広がる栗色の髪が、まるでスロー・モーションのように映る。

 恐る恐る近寄るコータに、壁と少女の体に挟まれた衝撃から立ち直ったセレイアスは、ゆっくりと首を振って見せた。機長のヘルメット内に表示されている数値は、周囲の空気が圧力も濃度も、生存を許さないほど薄いことを示している。

 あの生意気な、およそ子供とは思えないほど強気な空色の瞳が、二度と開かれることはない!その事実を素直に受け入れるには、まだコータの人生経験は豊富ではなかった。

「何で、何でだよーッ!何で、何でジェシカが……!」

 ヘルメットの中が、コータの流す涙で曇り、視界が歪んで見えた。

 セレイアスは、言葉もなくその場に佇むしかない。

 コータは、それほどこの少女が好きだった訳ではなかった。可愛気がなくて生意気で、自分を見下していたことも確かだろう。それでも、彼はその命が突然に奪われたことに、激しい怒りを感じていた。

 それが、自分との関係も含めた少女の未来を、理不尽に奪ったことに対する怒りだということに、まだこの黒髪の少年は気付いていない。ただ、その理不尽な行為を行なったのが、本来この少女を守るべき保護者だということに、彼の怒りは集約して行く。

「なぜなんだよーォッ!なぜ、なんで、どーして、マリコさんが、ジェシカに、ジェシカに、こんな酷いことをするんだよーッ!!」

 振り返った少年の黒い瞳に、ようやく床から合金製の長い指を抜き取ったモーター・ギアが、ゆっくりとこちらに向かって来るのが映った。

 その腹部に収まって、巨大な機械を操作する女性には、コータの怒りが届いている様子はまるで感じられない。その姿を見て、再び少年の全身が怒りでブルブルと震えた。

 彼の人生で、これほどの怒りを感じたことも、その怒りを全身で表わしたことも、まったくなかった。自分自身で、持て余すような感情の高ぶりに、少年は完全に我を忘れている。

「コータ……避けろッ!レーザーだッ!」

 苦しい息の下から、なんとか絞り出すようにセレイアスはそう告げた。

 怒りで我を忘れていたコータは、その声でようやく自分を取り戻した。

 振り向いた黒髪の少年に、少女の体を抱えたままの機長は、速く逃げろと身ぶりで示す。その時になってようやく、自分や少女を何度もかばった結果、機長は自分の体をうまく動かすことができないのだと、コータは知った。

 少女を抱いたままの機長を、黒髪の少年は両手で支えると、ジェット噴射でその場を逃れる。もう、彼の両目から涙は流れていなかった。

 その直後、彼らのいた場所をレーザーの細い光が焼いた。どうやら、切断と溶接を兼ねるレーザーのようだったが、それは大きな人型機械の頭部から照射され続ける。

「このままでは、いずれ捕まる。コータ、君だけでも逃げるんだ!」

 機長の言葉に、コータは断固として首を振った。

 少年の黒い瞳は、機長の腕の中で眠るように横たわる、少女の横顔を見つめている。

「みなさんを残して、僕だけ逃げるんなんて絶対にイヤです!そんなことをしたら、そんなことをしたら……ジェシカに、何言われるかわかりません!僕は、僕はもう、これ以上、この娘にバカにされたくありません!!」

 少年の少し滑稽で、それだけに真剣な言葉に、責任ある大人は思わず苦笑するしかなかった。

 この短時間で、この内気で消極的な少年は、どうやら少し別の性格に変わっていったらしい。いや、もしかしたら、これが彼本来の性格なのかも知れない。

 セレイアスは、心の中で微笑んでいた。何としてでも、この子供だけは助けなくてはならないという、新たな使命感が彼を突き動かしたのかも知れない。

「ようしッ!やはり、マリコを止めないとどうにもならない!コータ、もう一度やるぞ、いいか!?」

 機長の力強い言葉に、コータも大きく頷いた。

 セレイアスは、ゆっくりと間合いを計る。

「いいか、あの手のモーター・ギアのレーザーは、バッテリーを浪費する上に、充電に時間が掛かる。一度照射すれば、すぐに次は使えない。それに、体全体の動きも速くない。気を付けるのは、あの両手だけだ!あれには、絶対に捉まるなよッ!」

「はいッ!」

 軍隊経験を持つ機長の言葉に、少年は頼もしさを感じた。

 二人は冷静に、両手足をゆっくりと動かす、巨大な人型機械を見つめる。

 やがてその動きが止まると、頭部が彼らの方を向いた。それが、レーザー照射のタイミングだと、嫌でも判る。

 二人は同時に左右に分かれ、しかも正面のモーター・ギアに向かって飛んだ。巻き込まれないように、機長は抱いていた少女の体を、そっと空中に放り投げる。

 レーザーは、再び直前まで彼らがいた場所を焼いた。しかし、今度は相手も彼らの動きを計算したらしい。

 左右に飛んだ二人に向かって、正確に鋼鉄製の腕が振り下ろされた。ただし今度はコータの方も、その動きを予測している。

 少年は、ジェットの力で体を垂直に上昇させた。同じ時、機長は反対に下へと向きを変える。

 鋼鉄製の両腕は、若い女性の前で空しく交錯した。その隙間を縫うように、上からコータが下からセレイアスが、同時にマリコに飛び掛かる。

「あなたの、あなたのせいでーッ!」

 そう叫んだ少年は、今度は遠慮無しで、直接その喉元に両手を食い込ませた。

 女性のヘルメットが、思わず上を向く。

「ぐふぇッ!げぇぇッ!!」

 女性の低い呻くような悲鳴が、ヘルメットのスピーカーから、コータにも聞こえた。

 しかし、今度は彼の手から力が抜けることはない。

 その間に、機長は先ほど見つけた、外から甲板を開けるスイッチを操作した。突然、甲板が弾けるよう外れる。

「うわッ!」

「何だ、これは!?」

 少年と大人の男性は、期せずして驚きの声を上げた。

 マリコの体は、これまで胸から腹部にかけてが、甲板に隠れて見えていない。その若い女性の胸から腰にかけて、粘着質のゴムのようなものが、輪のように巻き付いていた。

「危ないッ!」

 甲高い声が、コータのヘルメットに響いた。

 少年が振り返ると、その黒い瞳に自分めがけて突進して来る、合金製の細長い指が映る。コータは思わず目を閉じた。とっさに逃げ出すには、余りにも距離が短かい。

 自分を貫くか、挟み込むだろう金属の恐怖に、しばらく怯えていた少年は、いつまでたっても次の衝撃がないことに気が付いた。

 ゆっくりと開いた少年の黒い瞳の前には、一面に栗色の薄い幕が広がっている。

「なかなか、やるわね。見直したわよ!」

 留めてあったリボンが取れてしまったためか、栗色の髪が空中をベールのように覆うジェシカは、振り返ると明るい笑顔でそう言った。

 言われた少年は黒い瞳を見開いて、まるで夢でも見ているように、ただ唖然とその光景を見つめている。

 呼吸できるほどの空気もなく、気圧もほとんどないに等しい場所に、少女は当り前のように、素顔と素肌のままで立っていた。しかも彼女の片手は、少年を襲った合金製の長い三本の指を、それも束ねた状態で握っている。

「いったい、これは……」

 まず、自分が外した甲板の下から現れた、若い女性の体を包む奇怪なものに驚いたセレイアスは、今度は突然現れた少女の姿に仰天していた。

 そんな、ほとんど茫然自失となった機長にも、合金製の指がかなりの速度で襲い掛かって来る。

 自然な動作で、スッと体を滑らせた少女は、ちょうど自分の背後に二人をかばうようにして、凶悪な合金製の指の前に立った。一瞬にして、運動エネルギーのすべてを失ってしまったかのように、合金製の長い指は、その先端を揃えた状態で止まっている。

 少女の小さな手がその危険な先端を、何でもないことのように握っていた。コータはもちろんセレイアスにも、目の前の出来事が理解できない。

 少年と大人の男性の目の前で、年端の行かない女の子が、作業用モーター・ギアの強力な腕を、その細腕で二本とも押えていた。呆然と見守る二人に、その少女が振り返る。

「何をボヤボヤしてるの?早く、マリコをそこから引きずり出して!」

 そう言うジェシカの口調は、相変わらず生意気で可愛気がなかった。

 だが、その口調にコータとセレイアスは我に返る。二人は、ともかく凶暴な機械の腕は少女に任せ、自分達は奇妙なゴムのようなものに包まれたマリコを、外に出すことにした。

 何としても二人の力では、マリコを包んだゴムのようなものは、その体から離れない。結局、ジェシカが言った通り、かなり乱暴だったが力づくで人型機械の操作部分から、若い女性を引きずり出すしかなかった。

 しかし、マリコは大人しく引きずり出されるのを、待っていてはくれない。彼女は最後の力を振り絞ると、少年と男性から逃れるべくその両手足を動かし、巨大な機械を操ろうとした。

 足の動きは遅かったが、自分を引き剥そうとする二人を大きく振り回す。さらに、鋼鉄製の両腕があらん限りの力で、自分を押えている少女をクシ刺しにしようとしていた。

 少女の顔に、さすがに苦悶の表情が浮かんだ。その細腕は、機械の力を受けて細かく震えていた。

「くぅぅーッ!」

 小さく呻くようなジェシカの声が、コータとセレイアスのヘルメットに響く。

 二人が振り返ると、口を大きく開けた少女が上を向いたまま、両腕で必死に機械の腕を押し返していた。思わず、その容姿と年齢に不似合いな力と、苦しそうな表情に少年と機長は目を見張る。

 二人が呆然と見守る中、少女の状態に変化が起こった。まず、その栗色に広がる髪の毛が光り始めたかと思うと、その色素が抜けるように純白に輝き始める。

 苦悶を浮かべていた少女の顔は、徐々に正面を向き直り、やがてゆっくりとその両目が開かれた。少女の透き通るような空色の瞳が、これも光り輝くと、やがて真っ赤な色へと変わって行く。

 純白の髪は、まるで少女の力が増幅するのを表わすかのように、逆立っていった。そして、赤い瞳が燃えるように輝いたかと思うと、息を短くジェシカが吐き出したように、コータには見える。

 次の瞬間、少女の細腕はそれぞれ握っていた合金製の指を、そのまま一気に引き寄せると、自分の胸の前で交差させるようにして、何と!引き千切った。反動で巨大な人型作業機械は、仰向けに倒れ込んで行く。

 コータとセレイアスは、飛ばされないように、慌ててその機械の体に捉まり直さなくてはならなかった。ただ、巨大な体が倒れてくれたおかげで、操作部分からマリコの体を引き出すことが、却って容易になった。

「しっかり、支えていてくれよ!」

 黒髪の少年に、若い女性の体を支えさせると、機長はその機械の操作部に入り、今度は自分がそれを動かす。

 どうしても、マリコの体を包んだ物質が取れないのだ。そこで、それをモーター・ギアのレーザーで焼き切ろうとしていた。

「間違っても、マリコに当てないでよね!」

 そう言いながら、コータの反対側から若い女性の体を、少女が支える。彼女は、いつの間にか髪も瞳も何事もなかったかのように、元の色に戻っていた。

 その言葉に苦笑いしながら、セレイアスは切断用レーザーの照準を合わせて、引き金を引く。一瞬で、ゴムのような気味の悪い物質は焼き切れた。

 スーツのような、体の線にピッタリとした簡易宇宙服姿のマリコは、そのまま気を失ってよろめき倒れ込む。

「だから、言ったでしょう?マリコが、アンドロイドのはずはないって!」

 スーツの上からマリコの体を調べた機長が、脈拍や呼吸に心配はないと言うと、ジェシカはイタズラっぽくそう言った。

 その言葉に、ゴックリと唾を飲み込んだコータは、相変わらず素顔と素肌を、気圧も濃度も薄い外気に剥き出したままの少女に尋ねる。

「そ、それじゃぁ、あのジョウガの言っていた、アンドロイドっていうのは……」

「ええ、アタシのことよ。自己成長型大気圏外作業用アンドロイド、確かにMK18ってコード・ナンバーもあったわネ。もっとも、作ってくれたゴドワナ教授がいないのに、そんなコード・ナンバーに、何の意味があるんだか……」

 実にあっけらかんとした少女、いや少女の姿をしたアンドロイドの言葉に、少年と大人の男性は顔を見合わせるしかなかった。

 大人の面目もあって、態勢を立て直すために小さく一つ咳払いをしたセレイアスは、とりあえず重要な問題から取り掛かることにする。

「君がアンドロイドだということは良くわかったが、するとこのミス・マリコは?」

「機長さんは、たぶん予想しているんじゃないのかな?マリコは、本物のゴドワナ教授の娘さんよ。アタシは、言わば彼女のボディガード。こんな時のために、マリコに付いていたんだけど……やっぱり、少し経験が足りなかったみたい……」

 その言葉は大人びていたが、どこか子供っぽさが抜け切っていなかった。

セレイアスの茶色い瞳が、穏やかにそんな少女の姿を見つめる。

「自己成長型というのは、そういうことか……マリコは正真正銘、君の教育係だったんだね?」

 機長の言葉に、ジェシカは少し反論したそうに眉を上げたが、結局は肩をすくめるしかなかった。

 二人の会話の間に、コータは精神的な打撃から、ようやく回復しようとしている。そんな少年の状態とは無関係に、少女アンドロイドと機長は、お互いに理解を深め合っているようだった。

「前から思っていたんだけど、ほんと機長さんて察しがいいのネ。それって、元軍人さんだからなの?」

 それは紛れもなく、年端の行かない少女の言葉だろう。

 そんな人間の少女らしい無邪気な質問に、機長は微笑みながら答えた。

「いや、そういう訳じゃないと思うが……」

 この元軍人の宇宙パイロットには、目の前の少女が人間でないといって、扱いや言葉遣いを変える必要性は、感じられなかったらしい。

 少し照れたように、セレイアスはヘルメットの上から頭を掻いた。自分が人間でないことを知っても、まるで態度の変わらない機長に対して、ジェシカも元の信頼感を取り戻したように見える。

「機長さんの言う通りよ。アタシは、マリコに育ててもらっているの。マリコを守ること以外、生まれたばかりのアタシは、本当に能無しだったんですもの……自分でも、結構よく育ったと思うわ」

「確かに、そう思うよ……」

 間を置かないセレイアスの返事に、ジェシカは大人の素直な誉め言葉を聞いた少女のように、いやまさしく少女として、嬉しそうに微笑んだ。

 少女と大人の男性の間に、人間的な優しさと思いやりが流れるのを感じて、黒髪の少年はようやく自分の素直な疑問を、口にすることができる。

「あの、ちょっといいですか?何で、ジェシカの声が僕達に届くんですか?」

 コータは、先ほどからこの奇妙な違和感に、悩まされ続けていた。

 少女の空色の瞳が驚いたように、機長の茶色い瞳が意外なものを見るように、同時に少年を振り返る。黒い瞳の少年は、自分が余りにも場違いで意味のない質問をしたのかと思って、いささか自分の軽率さを恥じた。

 彼の引っ込み思案な性格が、少女の復活と同時に、またぞろ顔を出したのだろう。機長は、そのことに少し残念そうな表情をしたのだが、コータには伝わらなかったようだ。

「ああ、それはアタシの発声が自動的に、ヘルメットのスピーカーに同調しているせいよ。真空、正確には真空じゃないけど、空気の希薄な場所に出ると、アタシの中の機能が適応転換するの。自慢じゃないけど、これでも大気圏外対応型ですからね!」

 充分自慢気に、ジェシカは答えた。

 その言葉に、セレイアスも無意識に頷く。

「大気圏外で活動できるばかりか、自分で成長する人工生命体など聞いたことも無い。自分の目で見ていなければ、信じられるもんじゃない……とてもアンドロイドとは思えない!」

 機長の独り言に、時代を超越した存在となる人工生命体は、少し誇らし気に微笑んでいた。

 どうやらコータの質問は、それほど相手の気を悪くはしていなかったらしい。そんな消極的な理由で、黒い瞳の少年はホッとしていた。

 コータ自身は気付いていなかったが、彼もまた無意識の内に、この人工の生命体である少女を、特別な存在だとは思ってはいない。そもそも、この少女が特別な存在だということは、彼が以前から感じていたことだった。今さら特別だと感じる理由が一つ二つ増えても、大した違和感はないのかも知れない。

 少女にとって、表情には表わさないものの、それは充分に喜ぶべきことのようだ。マリコは、それが当然のように、彼女に人間としての感情を育んでいたらしい。

「さてと、いったい何がどうなっているのか、とっととマリコに目を覚ましてもらって、説明してもらわないと……」

 そう言うと、ジェシカは横たわっていた若い女性の体を抱き起こした。

 その様子を見ながら、セレイアスは素朴に尋ねる。

「君は、この事件の真相を……」

「知らないわ。アタシが持っている記憶は、マリコに与えられたものだけ。そしてマリコは、自己暗示を使って自分がアタシの保母で、アタシがゴドワナ教授の娘だと思い込むようにしたの。何でそんなことをしたのか、今日までアタシの存在を世間から隠すためだとばかり、思っていたから……アタシが機能転換をすると、マリコの暗示は解けることになってるの」

 自分の教育者であり、守るべき女性の胸に手を当てた少女は、そこから軽く電流のようなものを放射した。

 その瞬間、一時的に少女の栗色の髪が白く発光する。

「気にしないで、この髪はエネルギーの収拾と変換装置を兼ねてるの。一度の多量のエネルギーを使うと、どうしてもこんな風に発光しちゃうのよ」

 少女の言葉は、まるで熱を持った子供の顔が赤くなることの説明のように、難しく無い当り前のことのようだった。

間もなく少女の髪が栗色に戻ると、若い女性の胸が大きく上下し始める。

「痛いッ!頭が割れそうだわ……」

 そう言いながら、若い女性は少年と同じ黒い瞳を開いた。

 ヘルメットのスピーカーを通じて、ようやくマリコ自身の言葉を耳にしたコータとセレイアスは、今度こそ本当にホッとする。

「えっと、何で私はこんなところに?あれッ?何で、こんなもの着ているの……」

 マリコの顔付きは、どこか夢から覚めたばかりで、寝ぼけているような表情だった。

 黒髪の女性に、少女はゆっくりと自分の顔を近付ける。

「ヘルメットは取らないでね、空気も気圧も薄いから……どう、アタシが分かる?」

「えっと、ジェシカよね?そう、あなたはどうしてこんなところに?あなたはまだ教育中で……うんッ?空気も気圧も弱いのに、そんな格好をしているってことは、そうか!機能変換したのね!ということは、ヤダ、私の暗示も解けちゃったの!?」

 どうやら、この事件の鍵を握る女性は、ようやく正常な意識を取り戻してくれたらしい。

 彼女はしばらく、ヘルメットの上から自分の顔を両手で押えて、頭の中を整理しているようだった。

「そうか、私達、捕まったのよね。ジョウガ、月の女神にして夜の支配者……ジョウガ・プログラムの発動ってことなの!?ヤレヤレ、面倒なことになったわね!」

「よろしければ説明して下さいな、ミス・マリコ……」

 独り言を呟きながら、頭の中で前後関係をまとめているらしい若い女性に、礼儀正しく丁寧に機長は話し掛ける。

 実のところ、セレイアスは焦っていた。どうやら、軌道基地中心軸の末端ブロックを爆発させて、加速するという乱暴な現象は収まったらしい。だが、この基地が加速中であることに変わりはないはずだった。

 早いとこ、この危険な基地から乗員乗客共々脱出したいというのが、機長として当然の発想なのだろう。

「えっと、その前に……機長さん、コータ君、操られていたとはいえ、乱暴してゴメンなさい。我ながら、だらしないったらありゃしない!」

 ペコリと頭を下げる素直な態度と、自分を責めるマリコの様子に、コータもセレイアスも悪い感情は持たなかった。

 ただ、そんなことよりも、早く事件の真相が知りたいことは、年の離れた男性二人に共通している。もっともその理由は、微妙に異なってはいた。

 機長にとって乗員乗客の安全が、何より優先するのは当然だろう。それに比べて、コータには純粋な好奇心の占める割合の方が、明らかに大きかった。それが、実に彼の年齢にふさわしい単純な興味だということに、本人がまるで気付いていないところが可愛い。

 ゆっくりと考え考え、マリコは遠い過去を思い出すように話し始めた。

「えっと、詳しいことを説明していると時間がないから、とりあえず結論だけネ。このコンロンは衛星軌道を一周して、軌道ステーション・オアシスと衝突、その後で軌道基地オリンポスにぶつかるように加速しています。で、どうすればいいかというと、衝突のコースを変えて、このコンロンを月面の裏側に激突させます。その衝撃で、恐らくジョウガは沈黙するはずです」

 若い女性の言葉は、その穏やかな口調とは裏腹に、余りにも大胆で過激な内容としか思えない。

 とっさに、少年も大人の男性も言うべき言葉を失っていた。そんな二人に代わって、少女が外見の年齢にふさわしい素直さで質問する。

「ジョウガって、何者なの?」

「そこに、さっき私を包んでいたモノがあるでしょう?あれが、ジョウガの一つの形よ。もっともあれは、外部用の端末みたいモノで、本体ではないけど……」

 黒い瞳の女性の言葉は、かなり乱暴で省略が多かった。

 そのことは、少年と大人の男性達の視線でマリコにも理解できたらしい、彼女は改めて説明し直す。

「ジョウガっていうのは、お父さんが予想した月の原住生命体のことよ。生命体って言うのは、それが精神体みたいのモノで、実体がないらしいってことなの。かつて、どのくらい昔かわからないけど、月が今ほど不毛でなかった頃に繁栄して、月の表面が今みたいになると、地下に退避して休眠状態に入った。と、お父さんは思ったのね……」

 ハッキリ言って、コータがこの話を素直に信じることはできなかった。

 セレイアスも同様のようだったが、事態が事態なだけに、頭からそれを否定することは、何とか自重する。

 そんな二人の態度を感じたのか、軽く肩をすくめると口調を変えた。

「信じる信じないは勝手だけど、月に何かがいるって伝説は、昔から地球上のいたるところにあるわ。しかも、そのほとんどが地上から月に逃げたり、帰ったりして、あまりいいイメージはないでしょう?オマケに、月の輝く夜に人間の精神が異常になりやすいことは、近代まで言われ続けていたわ。その原因が、ジョウガだとお父さんは考えたのね……」

「そして、その危険性を訴えたが、軌道開発に乗り気になっていた各国は聞く耳を持たなかった……」

 その声はその場の四人とは、まったく別のところから、突然聞こえて来る。

 素早くジェシカが振り向いたが、その耳元を赤く細い光の筋がかすめた。

「動かないで!これは、人間にも電子部品にも効果のある電磁衝撃波よ。焦点の操作で、背後の電子機器には影響の無い優れモノ。その、アンドロイドお嬢さんも無事では済まないハズよ」

 落ち着いた低い声は、しかしどこか皮肉な気配を感じさせながら、全員のヘルメットのスピーカーから響い来る。


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