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Cocoa

作者: 七水 樹

                               

               


バタン、と倒れる音が聞こえてきた。物の少ない俺の家で躓くようなモノはないはずなのに、どうしたことかと俺は慌てて音のした方へ向かう。

細い足が投げ出されていて、ぎょっとする。白いワンピースがふんわりと広がって、その中に包まれた体は動かない。まさか、まさか、と青褪める俺の耳に彼女のうめき声が聞こえた。

「いたい……」

 右の拳が軽く握られて、起き上がろうとしている動作が見て取れた。

 ああ、良かった。生きてた。

「どったの?」

 驚きを隠せぬまま、俺は間抜けな声で少女に尋ねた。数秒の沈黙のあと、「足が」と、俯いたままのくぐもった声が小さく答えた。

「足?」

 彼女が体勢を少しずらしたことで見えた、その両足に再び目を見開く。くっきりと刻まれた赤い痕はまるで人の手の形のようだった。昨日まではなかった。だが、この家には俺と彼女の二人しか暮らしていないのだから、第三者の接触はありえない。

 と言う事は、思い当たる原因はただ一つ。


「足が、動かなくなった」


 ある程度は予測できていた、その事態に俺は後ろ頭をがしがしと掻いた。

「あー……、そう」

 冷たく聞こえるかもしれないこの単純な返答が、今の俺にできる最大限の心遣いだなんて、一体誰に分かって貰えるだろうか。

 症状がまた進行したんだ。







「もういいです、降ろして」

 彼女を抱えたままベッドに座ると、そう硬い声で告げられた。軽い返事をして、彼女をそっとベッドに寝かせた。しかしその後、お互いに黙ってしまって、気まずい沈黙が流れる。どうしていいのかわからなくて、俺は気の利いた一言も浮かばない自身の思考を恨めしく思った。

落ち着け。でも、下手な事はいえない。傷ついているのは、彼女自身だ。俺が動揺しているところを見せちゃいけない。大人の余裕を見せて、安心させてやる。それが、俺にしかできない大事な役目だった。

 ふっと一呼吸置いて、大丈夫なのかと尋ねようとする俺よりも先に、彼女が口を開いた。

「ごめんなさい」

 思いもよらぬ謝罪の言葉に、一瞬ぽかんとする。その意を汲み取るために、彼女に続きの言葉を促すつもりで黙っていたが、それ以上何も言うつもりはないようで、彼女も黙ったきりだった。ベッドの天井を見つめるばかりで目線さえ合わせない彼女に、俺はできるだけ優しい笑みを浮かべた。

「何で? 謝ることなんて無いよ」

 彼女の表情は変わらなかった。人形のように、冷たい眼差しのままで、ごめんなさい、とまた呟いた。






 彼女が日に日に弱っていくのは、呪いだった。魔術のような非科学的なものなどではなくて、彼女を想う者が多いことがもたらした悲劇だ。

 彼女の一部が欠損していくのを、俺はずっと見てきた。五感こそまだ奪われてはいないが、色素は奪われつつあった。漆黒の輝きを持っていた彼女の髪は徐々にその艶を失っている。まるで彼女の存在をこの世から奪っていくかのように呪いが、彼女を蝕み、彼女から少しずつ、〝彼女〟を奪っていく。そして今回、彼女は足が動かなくなったと言っていた。恐らく、もう二度とそれは動かないだろう。呪いは、ついに彼女の行動さえ制限する気でいるのだ。

 俺は彼女を落ち着かせる為に、温かいココアを淹れた。それが彼女のお気に入りだった。ミルクと混ぜ合わせながら練ると、ココアの香ばしい香りがふんわりと広がった。白い陶器製のマグカップ二つにココアとホットミルクをそそぐ。いつかカフェで見たような美しいコントラストの中に砂糖とチョコレートを一欠片投入する。

 彼女は、ココアの黒と、ミルクの白が交わる瞬間が好きなのだとか言って、自分で淹れた時はもちろんのこと、人がココアを淹れた時だってそれを見るためだけに小走りで寄ってくる。ああ、これからそれもなくなるのかと思うと寂しい。日頃素直でない彼女は俺が甘えたいときだって、冷たくあしらう。スキンシップが大好きな俺のことを知っている癖に、それでいて尚くっつくと怒る。怒った顔も可愛いけれど、やはり彼女には笑顔が似合うと俺は思っている。だが、そんな素直な感想だって伝えれば彼女は怒るのだ。恥ずかしいこと言わないでください、と頬を染めて。自分の挙動の方がよっぽど恥ずかしいことに気付きもせずに。

そんな彼女も、ココアとミルクのコンビの前では急に大人しく、素直になるのだ。何がそんなに面白いのかは、俺にはまだわからない。

 マグカップを二つ持って、行儀悪く足で扉を開けながら俺は「ココア淹れたよ」と声をかけた。彼女はベッドの上に大人しく座っていた。

「ほい」

 彼女のマグカップを差し出すと、少し視線を彷徨わせて迷ったのちにありがとうございますと礼を言いながら彼女はそれを受け取った。俺は彼女の横に腰掛ける。ベッドのスプリングが、ぎしりと悲鳴をあげた。

「あの……、ココアとミルク、きれいに混ざりましたか?」

「ん? ……ああ、ばっちし」

 唐突に、思い出したように顔をあげて彼女が尋ねた疑問に、俺がココアを一口飲んでからそう答えると、彼女は嬉しそうにはにかんだ。俺の口内も視界も甘さで満たされる。

「良かったぁ」

 喜々として彼女はマグカップに口をつける。小さな口をさらにすぼめて、ふぅと熱を冷まして一口。本当に何がそんなに良かったのか。気にはなっていたものの、タイミングを逃して問うたことは無かったので、「何で上手く混ざったほうがいいの?」と尋ねてみた。彼女はちらりとこちらへ視線をよこしたが、すぐにまたココアの方へ戻した。伏せられた彼女の長い睫毛の先を見つめていると、彼女の耳が赤くなっていくのがわかった。

 照れている。それが何故かはわからないが、面白くなって俺は彼女に顔を近づけた。赤く染まった耳にわざと息がかかるように、近くで小さく囁く。

「ねぇってば」

 甘えるように柔らかな髪に頬を寄せると、ついに観念したのか彼女はマグカップから口を離して、それを両手で包み込みながら俺を見た。

「聞きたいですか?」

「うん」

「どうしても?」

「うん、どうしても」

 彼女は困ったような笑顔でわかりました、と承諾をした。

「ココアとミルクの色って、反対ですよね。黒と白。一つだけでもおいしいけど、二つ合わさったらもっとおいしい。それに砂糖もいっぱいだったら、最高です」

 普通の人だったら砂糖いっぱいはむせちゃうけどね、と心の中で呟きながら俺は頬を染めて話す彼女に相槌を打つ。そしてさりげなく、最大限にさりげなくすっと肩に手を回してみた。今日の彼女は何も言わない。俺は気をよくして、そのまま抱き寄せて彼女をすっぽりと包み込んだ。

 彼女は肩越しに振り返って、「それって私たちに似てませんか?」と問うた。

「似てる?」

 彼女は真っ直ぐな瞳で俺を見て、はい、と頷く。

「あなたが黒なら、私は白。あなたが白なら私は黒です。出会う前も幸せだったけど、出会ってからはもっと幸せです。だから、離れられない。離れたくない。混ざりあうココアとミルクを見てると、そんなこと考えちゃうんです」

 俺はそこまで聞くと、堪らずに吹き出してしまった。彼女は驚いた様子で、目を開いて俺を見る。

「な、何で笑うんですか!」

 驚きが徐々に羞恥に変わり、彼女は顔を真っ赤にして俺に向き直った。足が動かず、バランスが取りにくいのだろう。俺のシャツをぎゅっと掴む。

「いやぁ、よくそんな恥ずかしいこと言えるなーと」

 俺が未だに笑いを堪えきれずにいると彼女は「恥ずかしい?」と復唱した。

「私、そんな恥ずかしいこと言ってました?」

自覚がないのか、小首を傾げて困惑の表情を浮かべる彼女の姿があんまりに可愛くて、俺は堪らずに彼女を抱きしめた。

彼女が驚きで声をあげるのにも構わずに、ぐいぐいと体を寄せると抵抗して暴れた彼女の右腕が見事に俺のみぞおちにクリティカルヒットした。

俺は変なうめき声をあげて、拘束を解いた。

「ご、ごめんなさい!」

 彼女はあわあわと崩れ落ちる俺を受け止める。実際、今の彼女の力程度ではさほど痛みはない。初めて出会った頃の彼女にはもっと力があって、それはそれは素晴らしい右ストレートを繰り出していた。今はもう、その尋常でない痛みに俺がうめくこともない。それが、彼女が心を許したからなのか、呪いが彼女から力を奪っているからなのかは判断できない。

 願わくば、前者であるように。

「大丈夫ですか?」

 恐る恐る俺の顔を覗いてくるあたり、自分のパンチの破壊力を彼女は理解していたようだった。本気で心配する彼女に俺は痛がるふりをして、喉の奥から声を絞り出した。

「もう駄目かもしれない……。あー、痛い。痛いよう」

 そう言って俺はベッドのそばにあったテーブルにコトリとマグカップをおくと、体勢を崩した。ぐらりと倒れこむように、彼女の方へ体を傾ける。突然のことに対応しきれない彼女から阻止されることなく、俺は柔らかな腿に頭を落とした。つまるところ、膝枕だ。

「何してるんですか!」

 彼女の非難の声が届く。視認は出来ないが、その声が震えていることで、彼女がゆでだこのようになっているであろうことが容易に想像できた。

「起きてください!」

「ヤダ」

「殴りますよ」

 彼女の声のトーンが落ちて、すごまれる。

「そもそもお前が殴ってなければ、こうはならなかったんだけど?」

 適切に切り返す俺に、彼女はう、と言葉を詰まらせた。

「……ああ言えば、こう言うんだから」

 ため息をつく彼女に対してにんまりと笑う。心の中で勝った、と呟いた。

「でもそんなところにいるなら、私がもし万が一手を滑らせてココアをこぼしてしまったとしても文句言わないでくださいよ」

「それ遠回しにココアかけるぞこの野郎って言ってる?」

「さぁ」

 そう言うと彼女は笑った。肩を揺らすその姿に、先ほどまでの儚さはない。人形のような、造られた美しさ。そんな偽りを感じさせず、人間らしい愛らしさがそこにあった。

 呪いによって彼女の一部がなくなっていく感覚は、本人ともども慣れがくるような、そんな生易しいものではなかった。失う度、彼女は冷たい人形のような眼差しをする。平気なはずがない。日を追うごとに、自由を失うのは毎日大音量で死の宣告をされるような、不快な恐怖感を与える。

 その彼女の恐怖を理解してやれるとは思わなかった。俺は自身がどれほどに無力であるかぐらい、知っているつもりでいる。だから俺に彼女の痛みを取り除くことは不可能だ。だが、和らげることぐらいならきっとできる。

 彼女が呪われる原因をつくっている俺が、どうこうでかい顔をして言えることではないのだが。


 ココアとミルク。最強タッグの謎が解けた。なるほどねぇ、と口角をあげてみる。互いの立場を考えると、頷けた。

 例えば今俺がこの柔らかくて魅力的な腿と別れを告げて飛び起きて、彼女の細い首に手をかけ、押し倒してしまえば、俺はきっと彼女を一瞬のうちにして殺せるだろう。腹の奥から沸いてくるどす黒い感情に興奮して、同時に愛しい彼女を自らの手で壊してしまう恐怖で嘔吐感に襲われる。

 だが、その選択は正しい。俺は彼女を殺さなければならない。

「怖い顔してますよ」

 やわらかな手つきで彼女が俺の髪に触れて、前髪をくしゃりとあげた。仰ぎ見た彼女の笑顔が酷く優しくて、一瞬自分のぐちゃぐちゃの思考を全て見透かされてしまったような気がして、俺は手で顔を覆った。

「いやん」

 見ちゃイヤよ、とおどけてみると、何ですかそれ、と笑われた。髪を梳く彼女の手つきにまどろみながら、俺は手を離して彼女を見つめた。

「ねぇ」

「はい?」

 今まで喉元から転がってきては、口内で暴れて消えていった言葉を今なら言える気がした。その言葉を外の空気と出会わせてしまったら、彼女が俺のもとからきっと消えてしまうだろうと恐れていた。だけど、今なら。互いを愛し合う、今なら。

「帰りたい?」

 彼女が、ぴたりと動きを止めた。

 俯いて俺の顔を真っ直ぐに見つめる彼女の顔に長めの前髪がかかって、影を落とす。表情は窺えない。ただ、影の中で彼女の大きな瞳だけが鋭い光を放って輝いていた。彼女の意志の強さを表すその光が、彼女の答えを待つ俺の心音を早めた。

 ふっと張り詰めた空気が緩んで、彼女が微笑んだ。

「どこにですか?」

 どこに帰れと言うんです、と言いながら、彼女は髪を梳いていた手を下へ滑らせた。そのまま慈しむように俺の頬を包み込む。

「私は、仲間を捨てたんです。家族を捨てて、裏切った。この呪いを甘んじて受け入れて、あなたを愛する道を選んだんですよ」

彼女の瞳は鋭さを失わずに輝きつづけている。嘘のようにすらすらと並べられる愛の言葉に俺は惚けたようになって、彼女に魅入っていた。

「あなたの隣以外に、私が生きられる場所はありません」

 痛いくらいに悲しくて冷たい現実を、彼女は柔らかで温かい表情で口にする。俺は望んだ以上の回答に目を見開いて固まっていた。

 彼女の決意の強靭なことに驚く。彼女に帰りたい、本当は家族を愛していたい、こんな呪いから解放されたいのだと望まれることを恐れて今まで問題の核心に迫ることを避けていた自分の小ささを恥じた。無意識のうちに口元には笑みが浮かんでいた。

「すげぇな。一度でいいから俺もそんな台詞言ってみたいね」

 彼女は俺の軽口に口を尖らせた。

「私、真面目な話をしているんですけど」

 わかってるよ、と俺は返答する。少しでもおどけて見せないと、彼女の前で装う余裕のある自分を保てない気がしていた。自分の方がよっぽど幼い子どものようで笑ってしまう。呪いに怯える小さな少女を守るつもりでいたが、彼女はもうすでにその呪いを受け入れ自分の中で片を付けてしまっていたのだ。




 彼女は、仲間を裏切ったのではない。

 異能者。彼女も俺もそう呼ばれていた。生まれたときから、一般的な人間とは異なった能力を持つ、奇形の人類。能力を持たない者から蔑まれ、逃げるように集まった小数派の能力者たちが結成した組織で細々と生活をしていた。結成当初こそ、その組織力は危うくただの外れ者の集いでしかなかったそこは、近年増加傾向にある異能者の誕生によって活気を増していた。能力者の数だけ、力は異なる。上手く制御することで人間の生活に役立つものもあった。

例えば、俺の能力は気体を硬質化させ、固体と同じ状態に変化させると言うもので、望めば世界中に溢れる空気を利用してあらゆるものを生み出すことが出来る。つまり、本物の空気椅子が造れる。いくら硬質化させようともそれは気体に変わりないのだから、目には見えない。だから見えない椅子に腰掛けることができる。俺の能力を知らない者は、俺の足の筋力を褒め称えるものだった。その能力があれば、たとえ何らかのアクシデントに巻き込まれても即席で対応する為の道具を作り出すことができる。火災があったら、即席で壁を作って炎の進行を止めることだってできるだろう。もっと日常的言えば、突然の雨にも見えない傘で対応できる。

そのように発想を転換していけば、異能者であっても人間社会で生活を送ることは可能だった。人に受け入れられればの話だったが、自ら積極的に人間社会に適応しようとするその姿勢もあって異能者の社会進出はそれほど難しいことではなく、かつて人々に蔑まれた過去は薄れつつあった。

そんな時だった。一部の能力者が新たな組織を成して蜂起したのは。今さら人間に合わせてやる必要などないのだと、彼らは謳いあげた。異能者こそが新たな人類のあるべき姿だと信じ、能力を持たない人間たちを旧世代の人類として淘汰した。能力を持つものにとって、脆弱な人間を殺すのは容易いことだった。

そして、俺もその口だった。確かに俺の能力は人の役にだって立つ。だけどそんな気はさらさらなかった。この能力はそれよりももっと人を傷つけることに向いていた。強者となって、頂点へ上り詰めることを強く望んではいなかったが、何にも縛られず、空気のように自由に俺の望むままに生きたかった。その為に俺の力は適役だった。

どう考えたって、俺たちの方が進歩して優れた人類だ。それが馴れ合いの為に潰されるのは不自然だ。強い者が弱い者を征す。別に人間に対して仕返しがしてやりたいだとか、幼い頃に受けた侮辱を恨めしく思っている訳ではなかったが、それが自然摂理だと思っていた。人類への反乱組織は瞬く間に成長を遂げて、人々は未曾有の恐怖へと叩き落された。だが、繰り返される殺戮に立ち上がる者もいた。同じ異能者の者だった。旧世代人類の存続をかけた異能者同士の全面戦争はそうして始まり、今なお続いている。

彼女は、向こう側の異能者だった。彼女の能力は願いを実現させると言うもの。しかし、それは自身の願いではなく、彼女の周りにいる、彼女が愛する仲間の願いを力に変えて、具現化すると言う、異能者の能力の中でも特殊なもので、また、彼女は組織の重要な戦力であった。いわば、ラッキーアイテム。望む心が強ければ強いほど、彼女の能力値は高くなる。奇跡を引き起こす能力であったのだ。実際に彼女は奇跡を起こしている。

敵対する俺たちがこうして並びあい、愛を囁けるのだ。それは、奇跡と呼ぶに相応しい。

俺が彼女に出会ったのは、ただの偶然でしかなかった。だが、その偶然は強く俺を惹き付け、甘い記憶となって俺を魅せた。敵対する関係で、殺しあう為に出会ったのに、その一瞬で恋に落ちた。その時も彼女は強い瞳をしていた。鋭くて、それでも温かい、優しい瞳。

俺は彼女に惹かれ、出会ってから度々彼女の元を訪れるようになった。こっそりと自分の組織を抜け出して、敵の組織へ進入する。初めて彼女の部屋に上がりこんだ時は恐ろしい剣幕で叱られた。何をしているのか、と問われ、会いたくなったから会いに来たのだと正直に告白するとふざけるなと怒鳴られた。

「何考えてるんですか! ここはあなたの敵の本拠地ですよ! 見つかったらどうなるか、わからない訳じゃないでしょう!」

 いくら敵の本拠地とは言え、少女の部屋に自分を殺そうとしてきた男が侵入してきたのも関わらず、相手を本気で心配した彼女のお人よし具合と言うか、見当違いな怒りの矛先に俺はますます彼女に惹かれていった。

 何度も何度も彼女の元を訪ねていくうちに、彼女は俺に殺意が無いことを認めてくれた。そして、徐々に心を開き、愚痴の聞きあいなんかが出来る間柄になっていた。組織の中は自由がきかなくて面倒だの、同僚と喧嘩しただの、トレーニングで暴れた異能者の開けた大穴によって水道管が大破して個室の風呂が使えないだのと、他愛もない話だった。だが、そんな時間が幸福で、同時にそれは周囲の人間に二人の関係を気付かれないようにと努力するおかげでいつもスリルに溢れていた。

 ある日、彼女が持ち出した古い恋愛物の映画を二人で並んで観賞していた時だった。物語は、引き裂かれてしまった愛し合う二人が再開し、離れていた間も互いを想いあっていたことを知り、永遠の愛を誓うと言うありきたりなラブシーンだった。それに比べて、それなりにムードはあっても、隣り合うのは男女だというのに、ポテチを挟んで片手にはジュースと言うなんとも色気のない状態の自分達を物足りなく感じた俺はそっと彼女の肩に手を回した。以前手の甲に挨拶代わりに口付けをしようとしたら問答無用で殴られたので、それなりの代償は覚悟していた。しかし、彼女のとった行動は全く痛みの伴わないものだった。

 彼女は回された腕を振り払うことはせずに、俺の肩に静かに頭を預けたのだ。それが、きっかけだったように思う。抑えていたわけではなかったが、その瞬間に彼女への愛情が溢れ出した。胸のうちで、弾けるように一斉に。

 気付いた時には、俺は彼女の小さい唇に口付けていた。

 耳には、テレビから愛の言葉が届く。陳腐な口説き文句だった。

〝誰よりも君を愛している〟

 だがそれは何よりも的確に俺の気持ちを表しているように感じた。触れるだけのキスを終えると、俺たちはしばらく見つめあった。何と表現したら良いのかはわからない、妙な高揚感に踊り出したいような気分だった。だが、そうはいかない。彼女の答えが重要なのだ。きっと、彼女の答えはイエスか頬に一発ストレートだろう、と思い、後者に備えて歯を食いしばった。俺が見つめる中で、彼女は口よりも先に腕を動かした。

 頬で済めばまだマシだな。頼むからフックはやめてくれよ、と以前くらった痛みを思い出しながらそんな情けない言葉が脳裏をよぎった時に、彼女は俺に縋り付くように抱きついてきた。腕の中に納まった彼女の肩が震えて、ぽたりぽたりと降って来る雨に、俺は彼女が泣いていることに気付いた。

「すきです」

 彼女からすすり泣きとともに発せられたのはそんな言葉だった。どこか舌足らずに聞こえる、幼い言葉。けれど、その中にこめられた意味の重さに、俺は彼女をぎゅっと抱きしめた。

「すきです。ごめんなさい」

 その謝罪の中の意味までは汲み取ることができなかった。いや、考える勇気がなかった。きっとその時に俺が彼女の全てを覗こうとすればその苦悩の波にともに呑まれてしまっていただろう。俺はただ、うん、と頷いた。

 大粒の涙を溢れさせて彼女は小さくお願いです、と呟いた。

「連れてってください」

 それは彼女の初めての願いであり、俺のずっと待ち望んでいた願いであった。そうして俺は彼女を組織から連れ出した。彼女を、鳥かごの中から解き放つ。その時はそんなヒーローのような気分だった。甘い感覚に捕らわれて、先のことなど何も考えず、ただ彼女を心の底から愛せるのは俺しかいないんだと得意な気分になって酷く満たされていた。

 彼女は仲間を裏切ったのではない。俺が彼女をさらったのだ。




 彼女が向こう側の異能者であったことは既に多くの者が知っている。俺が彼女を連れていることをよく思わない者がいることも当然で、俺も中々組織には戻りにくい状態になっていた。だが、俺としては好都合だ。また相手の異能者を殺せなどと言う命が下ったら、俺はまた血塗られた戦へと赴かねばならないのだ。殺すのは、好きじゃない。実際、異能者が今後どうなろうが、どうだっていいのだ。俺は世界の都合なんて知らない。ただ、彼女と自由に生きれればなんの文句もない。

 彼女は全てを捨てて逃げてきたのに、俺だけがまだ組織と繋がっているのはずるいやり方だ。しかし戦況が芳しくない今、どちらかの組織についていないのは危険だった。だから、時が来れば俺は組織から抜け出すつもりでいる。こちら側と、向かう側。どちらの組織からも追われる存在になるのは恐ろしい。だが、早くこの惨状から脱出しなければ、彼女がもたない。

彼女がいなくなってしまったら、俺のもとにはもう何も残らないのだ。

「ココア」

 唐突にそう呟かれて、ぱちくりと瞬いた。

「冷めちゃいますよ。せっかく淹れたのに」

 視線をずらすと、テーブルの上に放置されてもうすっかり湯気も消えてしまったココアの存在を認めた。ああ、と思い出したかのように声をもらしてみたものの、動こうなんて気は少しもおきない。

「いいんですか?」

「いいよ。まだこの柔らかい太ももを占領してた……いてててすいませんごめんなさい調子こきました」

 猫のようにごろごろと頬を彼女の太ももに摺り寄せたら、加減せずに思い切り頬を抓られた。ちょっとしかつまんでないところがまたさらに痛い。

「何でこうも暴力的なのかなぁ」

 頬をさすりながら口を尖らせるも、彼女は何でもないように遠くを見てココアをすする。あまつさえ「あなたが変態なのが悪いんです」などと言ってくるものだから本気で傷つく。なんなの、ほんとは俺のこと嫌いなの、と問いたくなるような仕打ちである。

 俺はよっこらせと体を起き上がらせてマグカップを手に取った。取っ手はもう既に冷たくなっている。中身はどうか。……ああ、微妙に冷たい。それでも構わずに俺はぐっとそれを一気に飲み干した。あと少しだったそれはごくりと中へ押し込まれてめいっぱいに甘さを広げた。

 彼女が少しずつ弱っていくということは、誰かがそれを望んでいるということだった。愛する者の願いを叶える能力。俺が彼女に生きてほしいと願うよりもはるかに大きい、彼女の死を望む願い。

 いっそのこと、そんなヤツらを彼女が愛さねばいいのだ。俺だけを愛してくれたら。他のヤツなんてどうでもいい。そう思ってくれたら。そうすればきっと俺の願いが、彼女の力となって彼女を呪いから解放してやれる。

 だがそう簡単にはいかないのだ。優しい彼女は、憎まれている、怨まれているのだと知りながらもかつて家族とよんだ仲間を、あの温かい場所の幻想を捨てきれないでいる。それが、どれほど彼女のうちを占めているのかは、呪いの症状の進行の速度から窺い知れる。

 彼女はまだ、過去を愛している。

「あのさぁ」

 彼女は俺を振り向いて、小首を傾げた。

「楽になっちゃっていいんだよ。しんどいでしょ?」

 いつも通り軽い調子でそう言う俺に、彼女もいつも通りの笑顔で「いいんです。あなたのためにこの身が朽ちるなら、それで」なんて、ものすごいことをさらりと言ってのける。

 俺は彼女が嘘つきだと知っている。俺のためになら、彼女の体は朽ちないはずだ。だって、俺は彼女の死を望んでいない。俺を愛していながら、俺に愛されていながらも、彼女は仲間のために朽ちていくのだ。ただそれに、彼女は気付かないだけで。

「そー。俺はお前がいなくなっちゃったら、寂しいんだけど」

 組織からも抜ける予定だから、彼女がいなくなれば俺は一人。一人になったら、どうしようかなど考えていなかった。考えたくはなかった。彼女は笑う。

「自由に生きていいんですよ。私に捕らわれずに」

 綺麗に、まるで造形物のように笑う彼女。昔はもっとくしゃりと顔を歪めて笑っていた。そんな取り繕ったような笑顔を、俺に見せなくてもいいのに、と心の中で嘆いてみる。

「そんなら俺は後を追うよ。どのみちどっちも地獄行きだ」

 彼女は一瞬悲しそうに目を伏せたが、また同じ笑顔に戻って「そうですね」と声をあげて笑った。俺は空になったマグカップをテーブルに戻すと、頭の後ろで手を組んで天井を仰いだ。

「出来るだけ痛くないのがいいなぁ」

「じゃあ、戦ってる最中とかはどうですか?」

「いや、痛いだろ、それ」

「うちにもそっちにも腕のいい人がいますって」

「痛くないように?」

「はい」

「一瞬で?」

「はい」

「なるほどそりゃあいいかも」

 俺も彼女も、呪いに蝕まれて死を迎えるのはなく、反逆者として逃亡中に些細なミスで二人一気に逝けばいい。そうすればまた、地獄で一緒にいられるだろう。今度はきっと、彼女も俺だけを愛してくれるはずだ。

「アルマ」

 彼女の名前を慈しむように呟いて、物騒な会話を終了させた。今現在の死すら話題に笑えてしまう二人なら、毒薬だって乾杯して飲めるだろう。だけどまだ死ぬわけにはいかない。諦めてしまうのは簡単だけれども、彼女が生きているうちに俺だけを愛してくれるようになる可能性がないわけじゃないのだから、今はただそれに賭けるしかない。

「お前だけを、愛してる」

 彼女を抱き寄せると、彼女はくすぐったそうに笑った。そしてそれから、私も、と目を細めて俺の目をじっと見つめた。

「あなただけを愛しています。ルフト……」

 紡がれたその愛しい言葉に俺は彼女を抱きしめる。

 その言葉が嘘であることを知りながら。

 嘘つきな彼女の両足にくっきりと浮かぶ真っ赤な痣が、俺たちを嘲笑っているような気がした。





                                         END

 高校の文芸作品です。私にできる最大の恋愛作品でした。「甘~い!」な感じを目指したんですが、いかがでしょうか。設定ばかりが詰め込まれて、少し読みにくかったかもしれません…。

 最後まで読んでくださった方々、ありがとうございました!

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