さらば、アラスカメンソール
月の見当たらない静かな夜。学校の屋上はひっそりとしていた。ちょうど午前零時を過ぎたころ、当然私たち以外の人はいない。
彼、ホッキョクグマのシナイは少し緊張した面持ちでしきりに髪形を気にしていた。
「もうじき時間だ」と西原さんが時計に目をやった。私も自分の腕時計を見たが暗くてはっきりとした時間はわからない。
「忘れ物はないな?」と西原さんに聞かれてシナイは頷いた。
「大丈夫。それにもともと手ぶらで来たんです。本当なら手ぶら帰ったって構わない」
私はシナイの足元に置かれた小さ目のボストンバックを見た。中身のほとんどは本だった。おそらく、シナイはこの町で本を読むことにもっとも時間を費やしただろう。はじめの頃は話すこともままならなかったのに今では私がさっぱり理解できないような難関な本をがりがりと読み砕いている。「響子。この文字はどうやって読むんだ」と言っていたころを懐かしく思う。
誰もいなくなった放課後の図書室。西原さんが本を返すというのでついていく私、その私についてくるシナイ。
「シナイは本を読むのか?」本を返した西原さんは、貸出カウンターに並べられた新刊図書を取り上げてシナイに尋ねた。
「ないよ。興味あるけど」
「だったら読んでみればいい」
「でも難しい」
「そんなことはない。試しにこれを読んでみればいい」西原さんは手に持った新刊図書をシナイに渡した。それはアメリカの作家が書いた子供向けのファンタジー小説だった。
無理やり手に持たされたシナイは困ったような顔をしていたが、「そうですか」と言ってカバンの中にしまった。シナイの知識に対するどん欲さは目を見張るものがある。
「響子は読まないのですか」と聞かれて、内心その問いを待っていた私はポケットから読みかけの本を取り出した。
「読むよ。好きなんだ。西原さんも私も読書が好き」ねえ西原さんと私が彼女の方を向くと少し恥ずかしそうに頷いた。もっとも読書が好きと言っても私ははやりの文芸書ばかりだし、西原さんは少し昔の文学作品、それも日記のようなものばかり読んでいた。「小学生のころ、日記を書いていたんだけど、もっと上手くかきたいと思っていたら、小説家の書いた日記という奴があるって聞いて読んでみたら面白くなっちゃったんだ」と言っていた。日記と言えば、シナイはこの町に来た頃から日記を書いていた。絵日記のようなものから始め、最近では生真面目な文字をノートニ細かく書いていたが内容は最後まで見せてくれなかった。「プライバシーです」と彼は言っていた。
シナイは自らのことを良く話すようで話さない。よくよく考えてみれば私は彼の多くを知らないままだった。
「どうしました」とシナイが言う。暗い夜の屋上で真っ白な彼の毛がとても映えていた。
とは言っても彼は半そでのシャツとジーンズを穿いていたので白い毛が見えるのは衣類に覆われていない部分だけなのだが。
「別れを惜しんでいるんだよ」私が何も答えないでいると横から西原さんが言った。夜に向かって煙草の煙をぷーっと吐き出す。
「別れは私も残念です」とシナイ。
「そりゃあ、そうだ。別れはいつだって残念なものさ。だけど、別れの無い人生はない。熊だって同じだ。同じか?」
シナイと私は首をかしげる。
「まあ同じだろう。とにかく、別れはいつでもどこでも起こる。むしろ人生とは別れだとも言えなくもない。ほら、誰かが言っていただろう。バイバイだけが我が人生だって」
「さよならだけが人生だ、ですね」
「そうだ、それだ。とにかく、ああ、なんだかわけわかなくなっちゃったからもういいや。ようするに松谷も別れはさびしいということだ。そうだろ?」
私は頷く。西原さんは小さく微笑むと短くなった煙草を深く吸い込み、足元に落とした。
足でぐりぐりと火を消し、それから拾い上げると携帯灰皿に入れた。
「あいかわらず、めんどうな手順ですね」と私。
「うるさい。煙草は落として足で消すのがクールなんだ。でもポイ捨てはクールじゃない」西原さんはポケットから煙草を取り出すと咥える。
「私にも一本ください」とシナイが言った。
「いいけど、セブンスターだぞ」
「いいです、いいです」
西原さんはシナイに一本あげると火をつけ、それから自分の煙草に火をつけた。
「これが最後の煙草ですね」
「帰ったら吸わないのか」
「むこうでは売ってないですよ」
「そうか、それもそうだな」
シナイは深く吸い込み、ゆっくりと吐きだす。彼が煙草を吸い始めたのは当然のごとく西原さんのせいだった。ただ臭い煙を吸うという私には理解できない嗜好をシナイは気にいったらしく、頻繁に吸っていた。彼のお気に入りはセーラム・アラスカ・メンソールという煙草。真っ白なパッケージでトナカイの角がデザインされている。
「いいですね。アラスカを思い出します」とよく言っていた。いくら名前にアラスカと銘打っているからと言って本当に思いだすのかと私が問いただすと彼は小さく笑った。
「そうですね。本当はあまり思いださないです。でも思いだすようにしています。記憶には装置が必要なんです。思いだすための装置が。鍵のようなものです。だから私にとってのアラスカを思い出す鍵はこの煙草にしたんです。決めてしまえばものごとはだんだんとそのようになっていきますから」
別にアラスカの写真とかでもいいじゃないかと思ったが、言わなかった。なんだかからかわれたような気がして悔しかったのだ。ただもし本当に煙草を記憶の鍵にしていたのならもう必要ないことになる。だってアラスカに帰るのだから。そのことを言うと、シナイは私に煙草が記憶の鍵であると話した時と同じように笑った。
「そうですね。でも実は昨日、沢山買いました」シナイはカバンを指差した。
「どうして」
「中毒になったな」と西原さんが言うと今度は豪快に笑った。だが湿っぽい夜空にすっと消える。
「いえいえ、そうかもしれませんが、違います。私は今でも煙草を記憶の鍵だと思っています。ただ、意味合いは明日から変わります。今まではアラスカを懐かしむ装置でしたが、これからみなさんとの日々を思い出す装置になるんです」シナイは決まったと言わんばかりににやりと笑った。西原さんも笑った。
「気障なこと言ってんじゃないよ、ばかちん」
私は気にかかることがあって笑う気にはなれなかった。
「でも、アラスカの平野では煙草買えないんでしょ」
「人が住んでる所なら売ってるだろ」と西原さん。
「ええ、確かに人の住んでるところなら。でも人の住んでるところには行きません。私はクマ、誉れ高いホッキョクグマですから」
なんだか突っ込みどころのある発言だったが今はそんなことは気にかからなかった。
「じゃあ、いまそのカバンの中の煙草を吸いきったら私たちのことを忘れちゃうってことなの?」
西原さんとシナイは驚いたような顔をした。夜空の上の方で大きな船が見えた。きっと迎えが来たのだ。西原さんは船を見上げてから時計に目をやった。シナイも気付いただろうが、見なかった、私を見ていた。
「言葉には魂がやどるのだと、本で読みました。だから私は言葉には責任を持ちたい」船が風を切る音が聴こえ、必然的に彼の声は大きくなる。
「私はアラスカに戻り、野生動物に戻っていきます。そうすれば今のように物事を考える機会も減っていくと思います。だから、今後の記憶のことはたしかなことは言えません」
「そんな」悲鳴のような声。船はだんだん下降してきて空を覆う。とても大きな船だ。シナイの声は聴こえにくくなっていく。
「ですが、私は思います。誰かのことを大切に思うこととは、記憶や過ごした時間の長さとは関係ないのだと。西原さんが言っていたように私たち多くのこととさようならをします。当然自分の思い出ともです。ですが、今ここで我々が他人のことを思っていたという事実は強く光り、遠い未来、その光が消えてしまったように感じても、照らしていてくれるでしょう。私の不確かな日本語では今の私の気持ちを伝えきれませんが、わかってくれると思います」
船が屋上に横付けされた。フェンスが消え、船の扉から連絡船が伸びる。
「さあ、お別れだ」西原さんがシナイにカバンを渡した。
私たちは握手をした。彼は最後にお辞儀をした。その姿はとてもキュートで西原さんはお腹を抱えて笑った。彼は船に乗り込む。
「最後に言っとくことは?」と西原さんに聞かれたが、何を言えばいいのかわからなかった。だからせめても、ということで一生懸命手を振った。シナイは少し照れたように頭を掻いた。船が去っていく。
「いま、こういうことを言うのもなんだけど、やっぱりさよならだけが人生なんだって、私は思うよ。それに目をつぶってしまう奴は駄目と思う」西原さんは泣いていたように思う。暗くてよく分からなかったが。
私は夜空を見上げた。船はもう見えない。シナイに会うことはおそらくないだろう。でもきっとテレビや動物園で白クマを見たらシナイを思い出すだろう。もしかしたら思いださなくなる日が来るのかもしれない。それになんの意味があるのだろう、ないのだろう。
いつも通りのとても静かな夜だった。