お客様は神様です!?
「最悪だ……」
深夜二時。
古くから「草木も眠る丑三つ時」と呼ばれる刻限である。
かつて先人たちがそう呼んだのは、闇が最も深く熟し、この世ならざるものが街を徘徊する時間だからだそうだ。
だが、いま目の前にある光景は、怪異の仕業などという幻想的なものでは到底なかった。
ただただ、醜悪で、泥臭く、うんざりするような人間の欲望の残骸である。
「うっ……マジで最悪……」
客の途絶えた店内の有様は、まさに壮絶な戦場跡そのもの。
どんちゃん騒ぎの末に叩き割られたグラスの破片が、薄暗い照明の下でキラリと鋭く光る。
俺は大きな破片を手で拾い集め、砂粒のように細かな破片は箒で掃き集めた。
お次は泥酔したサラリーマンが撒き散らかした涙と鼻水、ゲロと酒の混ざり合った惨状である。
飲食店の大敵・ゴキブリやドブネズミと同程度に嫌悪すべきそれを、俺は水モップでバックヤードの排水溝へと押しやり、乾モップで拭き上げ、仕上げに床全体に塩素を薄めた消毒液をスプレーしていく。
俺の名は鬼門。
都心の路地裏、地下へと続く急な階段の先にある、名ばかりのオーセンティック・バー『アール・カンパーニュ』で働く、二十二歳の学生アルバイターであり、この店のバーテンダー見習いだ。
見習いとは名ばかりで、オーナーシェフ兼マスターの趣味である「深夜のふらっと一人旅」のせいで、実質的にワンオペで店を回させられている哀れな下働きである。
「はぁぁぁー……」
夜の静けさに溶けていくような、重く湿った溜め息が口から漏れた。
ぶっ続け六時間の立ち仕事で腰が痛い。
手は洗剤とアルコール消毒でカサカサだ。
明日——いや、もう今日か。
大学の一限目には、昨日と同様に遅刻するだろう。
遅刻魔認定されているいくつかの講義では、テストと提出物で点数を稼ぐしか落第を逃れる術はない。
こうして、ただでさえ少ない俺の睡眠時間はさらに削られていくのだ。
こんな時給一千六百円では一生働き続けても億万長者になれるわけもあるまいし、人生やってられない。
その時だった。
カランコロン——
静寂を鮮やかに切り裂いて、澄んだドアベルの音が店内に響き渡る。
俺はモップの柄を握りしめたまま、反射的に背筋を伸ばして「いらっしゃいませ」の姿勢を作った。
「すみません、当店はもう閉店——」
語尾まで言い切ることはできなかった。
視線を向けた先、階段を降りてきた『それ』が、あまりにも俺の知る「人間」の枠組みを踏み外していたからだ。
「ガニュメデスよ。ネクタルとアンブロシアを所望する」
朗々とした、まるで大聖堂のパイプオルガンのように重厚で、かつ耳に心地よい低音が店内に響いた。
身体ごと向き直った俺の視界に飛び込んできたのは、無造作にカウンター席の中央へとどっかり腰を下ろす、異様な男の姿だった。
風吹き抜ける豊作の小麦畑のような、眩いばかりに波打つ金髪。
冬の冷気が漂うこの深夜に、胸元を豪快にはだけさせた真っ白な一枚布——まるで大理石でできたギリシャ彫刻が身に纏っているようなトーガ。
彫りの深すぎる端正な顔立ちと、無駄に引き締まった肉体。
右手にしっかりと握りしめられているのは雷を模した金メッキの飾りがついた、天井の光源を反射しギラギラと輝く巫山戯た杖。
そして、その男の太い指先が、ビシッと真っ直ぐに指し示しているのは——バックバーの最上段、鍵付きのガラスケースの中に飾られた五十万円オーバーの最高級ヴィンテージ・シャトーワインと、業務用冷蔵庫の奥に保管されているフランス直輸入の最高級カマンベールチーズだった。
……何なんだ、この痛々しさ全開のコスプレおやじは。
俺は一瞬で警戒モードに入った。
この手のタイプは二パターンある。
ただのイタい重度の厨二病患者か、あるいはタチの悪い宗教勧誘か。
どちらにせよ、関わるとロクなことにならない。
「あのですね……今夜はもう閉店なんです。あと、その変なあだ名で呼ぶのやめてもらえます?俺は鬼門です」
俺はモップを壁に立てかけ、塩素スプレーをしっかりと握り直した。
少しでも不審な行動を見せればこいつで目潰しでもして、さっさと逃げるか警察を呼んで突き出してやる。
「ふん。この場において神の給仕・ガニュメデスとはお前のことに決まっておろうが。我を誰と心得る。全知全能にして天界の主、神々の王・ゼウスなるぞ。して、ネクタルはまだか?」
ふんすと鼻を鳴らし、偉そうに胸を張る自称・最高神ゼウス。
そのトーガの隙間から覗く胸筋は、この茶番劇のために筋肉トレーニングで鍛え上げたというよりは、至高の芸術品のような生まれながらに備えられた風格としなやかさがあるのだが……。
言っている内容はあまりにも信じ難く、もはや頭痛すら誘う。
——ガニュメデス。
確かギリシャ神話で、あまりの美少年ぶりにゼウスに拐われて、神々の宴席で酒を注ぐ係にされたっていう、あの可哀想なトロイアの王子だったか。
しかし俺は美少年でもなんでもない、女子ウケゼロの地味な大学生。
強いて外見をアピールするならば、目の下の隈が酷いということくらいだ。
「ネクタルねぇ……」
俺は顎を擦った。
出勤前に剃ったのに、すでに少しジョリついている。
——ネクタル(Nektar)。
確かギリシャ神話に出てくる神々の不老不死の酒だ。
市販の桃ジュース『ピーチネクター』の由来になったやつである。
一方、ネクタルの元ネタとされる世界最古の酒といえば蜂蜜酒だが……生憎、しがない見習いが管理するうちのバックバーには蜂蜜酒なんて気の利いたものは置いていない。
そもそも不◯家がなぜ蜂蜜飲料ではなく桃ジュースにネクターの名を付けたのかも、俺には永遠の謎だ。
「我客ぞ?神ぞ?客を待たせるとは何事か」
自称・客のゼウスは、カウンターをトントンと指で叩いた。
その仕草一つにまで無駄な気品があるのが余計に腹立たしい。
勝手にケースの最高級ヴィンテージを開けられて、明日出勤してきたマスターに絞め殺されるのは絶対に真っ平御免だ。
そして何より——この「お客様は神様です」を物理的かつ地で行くハラスメント満載の態度は、底抜けに腹が立つ。
((よーし決めた……一杯十数円の激安リキュールでも飲ませておこう))
俺は試用期間レベルの下手くそに引き攣った接客スマイルを貼り付け、カスハラゼウスに応じる。
「かしこまりました。少々お待ちを」
バックバーの下段、ホコリをかぶりかけている最もカーストの低いエリアから、一本ワンコインで買える投げ売り状態の激安ピーチリキュールを取り出した。
カクテルにするにはアルコール度数が低く、しかし人工甘味料と香料の匂いがぷんぷんする、およそまともなバーテンダーならストレートでは出さないシロップのような代物だ。
それをハイボールグラスにドバドバと注ぎ、雑に炭酸水で割り、マドラーで一回だけステア。
申し訳程度に、厨房のタッパーにあったレモンの蜂蜜漬けの切れ端を一枚、ぽんと浮かべた。
「はい、どうぞ。当店特製の『ネクタル』でございます」
ドン、とグラスを叩きつけるように男の前に置く。
「む……?付け合わせのアンブロシアは?」
「あー、少々お待ちを……ただいま準備いたしますので」
俺は半ば投げやりに厨房へと引っ込み、アンブロシア、とスマホでググった。
——アンブロシア(Ambrosia)。
ネクタルと対になる神々の食べ物だ。
ローヤルゼリーのことだとか、あるいは神々の食卓に上る万能の香料だとか、はたまた大麻や幻覚キノコだなんて考察もあるが。
だが、うちの店にそんな高価な養蜂場の恵みや最高級スパイスはおろか、違法薬物なんて置いてあるわけがない。
本格路線は早々に諦めた。
とにかく甘ったるい桃の酒に合いそうで、腹にたまり、パパッと出せるものを。
俺は業務用の大型冷凍冷蔵庫の扉を勢いよく開けた。
視界に入ったのは、先週、俺が個人的な朝食兼夜食として『業務スーパー』で購入し、店の冷蔵庫の隅に隠しておいた1キロ入りの巨大パウチパックヨーグルトと、いくつかの缶詰フルーツである。
——ぶっちゃけ言わせてもらうが、フルーツヨーグルトというジャンルにおいて、苺も林檎もアロエもブルーベリーも全部美味い。
もちろん全部の具材が入った贅沢ミックスも最高だ。
だが、俺の圧倒的イチオシは間違いなく「ピーチヨーグルト」である。
あのトロリとした乳製品のコクに、みずみずしい桃の果肉がコロコロと転がる多幸感。
自称神だか紙だか髪だか知らんが、この絶対的宇宙の真理に対しては一切の異論を認めない。
「よし、これでいいや」
俺は深めの小鉢を取り出すと、1キロパックの口を大きく切り、ドロドロドロッと容赦なくヨーグルトを流し込んだ。
山盛りだ。
そこに、厨房の製菓用蜂蜜を大量に回しかけ、隠し味として、先ほどの激安ピーチリキュールをキャップ一杯分、直接タラリと垂らす。
白桃の缶詰を開けてハーフカットの果肉をさらに四分の一の櫛切りに。
二本を器にぶっ刺し、残りはコロコロと小さなサイコロカットにしてヨーグルトの上に散らす。
おまけにシロップも少し注いでやる。
激甘×激甘×激甘×乳製品の暴力。
大盛りの意図は、半分は腹一杯食ってさっさと帰れというサービス、もう半分は時間外労働を強いたこのコスプレ野郎への完全なる嫌がらせである。
こんなものを真夜中の二時に食ったら、翌朝は間違いなく胃もたれで悶絶するはずだ。
俺のピーチヨーグルトをお情けで分けてやったんだから、絶対に残すなよ。
残されても俺はそんな激甘食べられないが、捨てるのは勿体ないからな。
責任持って完食しやがれ。
「お待たせしました。当店の『アンブロシア』です。お好みで混ぜて召し上がりください」
カウンター越しに、ズドンと小鉢を置く。
威嚇ではなく、本当に重いのだ。
「うむ……」
自称・全知全能の神は、うさんくさそうに太い眉をひそめ、まずはハイボールグラスを手にとった。
「……ッ!?」
一口呷った瞬間、男の身体がバチッと跳ねた。
「な、なんという芳醇な桃の香り……!甘美にして爽やか、炭酸の弾ける刺激が口腔を駆け巡る!これぞ、これぞまさに幾千年の時を超えて我らが求めた、真の神酒ネクタル……ッ!」
男の目がカッと見開かれた。
感動の勢いそのままに、彼は金色のスプーンを掴むと、小鉢の業スーヨーグルトを山盛りに掬い、豪快に口へと運ぶ。
「な、なんという滑らかさ……!濃厚なる乳のコクと、熟した桃の果実みが完璧な調和を醸している……!舌の上で解けるこの甘美さは、オリンポスの頂で食した何よりも勝る!これぞ至高のアンブロシア……ッ!」
まさしく絶賛。
いや、大絶賛と呼ぶに相応しい称賛の嵐だった。
男は感動のあまり目に涙すら浮かべながら、原価一杯数十円のリキュールソーダと、俺が適当に混ぜ合わせた胸焼けしそうなゲロ甘ヨーグルトを、狂ったような勢いで貪っている。
「うまい、うまいぞガニュメデス!お前は天才だ!」
よしよし、かかった。
これで適当に酔わせて小腹を満たしてやれば、満足して大人しく代金を置いて帰るだろ。
——そう思っていた時期が、俺にもありました。
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「ガニュメデスよ!早く開けるがいい!今宵もネクタルとアンブロシアを所望するぞ!」
ゼウスとの衝撃の出会いから早一ヶ月。
金曜日の深夜二時。
営業中と勘違いして入ってくる客を防ぐため、一度入り口を施錠し、安心して締め作業を始めようとした俺の背後で、店のドアベルが連打されていた。
((どうして、こうなった……))
あの日以来、すっかり『ネクタル(激安ピーチリキュールソーダ)』と『アンブロシア(業スー蜂蜜がけピーチヨーグルト)』の味に狂わされ、レシピ考案者である俺のことも妙に気に入ったゼウスは、毎週金曜の閉店後に欠かさずやって来るようになっていた。
それどころか、「美味い店を見つけた」とばかりに、同じギリシャ神話のポセイドンやらアテナやら、挙句の果てには北欧や日本、エジプトからやって来たと思われる暇神たちまで引き連れて来店する始末。
「マスター、私には、そうねぇ……ネクタルのソーダ割り、レモン多めでお願いできるかしら?」
「あのさぁ……何度も言ってるけど、俺はただのバーテンダー見習い。ひよっこボーイであって、この店のマスターじゃないんですよ、アテナさん」
何故かパンツスーツ姿で知的な眼鏡をかけた、ギリシャ神話の戦いと智慧の女神・アテナが艶やかに微笑みながらグラスを傾ける。
「あら、でも私にお酒を出してくれるのはいつもオニカドでしょう?だから私にとっては貴方がマスターなのよ。ふふ、今日も素敵なお髭……じゃなくて、素敵な手際ね」
店内を見渡せば、そこはもはや都心の静かなバーの面影など微塵もなかった。
男神たちはいつも店の奥にあるダーツ台の前を占拠し、盛大に賭け事に興じている。
シュッ、と鋭い効果音とともに、見事中央のブルに矢が突き刺さった。
「はい、また僕の勝ち〜。父上も伯父上も、弓矢は全然ダメだねぇ」
燦然と輝く金髪の美青年、太陽神・アポロンが満足そうに弓を構えるポーズをとる。
頬を紅潮させ足元がふらつくほど酔っぱらっていても、矢だけは百発百中。
流石は黄金の射手といったところか。
「くそっ!なぜだ!私はギャンブルの神だぞ!?なぜ勝てんのだ!」
案の定、商売と賭博の神・ヘルメスがダーツの矢を保管する箱を抱え、泣きながら自棄酒に走っていた。
「おい、ガニュメデス!ネクタルのおかわりだ!濃いめで!胃に染みるやつを頼む!」
ああ……今夜もまた泣上戸のダル絡みが始まる……。
周りの神々も宥めるどころか、「ヘルメスが絶不調の今がチャンスだ!」とばかりに、これまでの負けを取り返そうと新たな賭けに誘い込んでいる。
通常の営業時間なら、「他のお客様の迷惑になりますので出禁です」と一発で警察を呼ばれるレベルの大騒ぎだ。
一方、ビリヤード台の方では女神様たちがウフフ、と上品に微笑いながら、これまた物騒な賭け事に興じていた。
順番にキューを構えて球を打ち合い、ワンゲームの中で「赤と黄色の玉を両方手に入れた者が一番美しい」というルールで『黄金の林檎ゲーム』をしている。
……何だそれ、斬新過ぎるローカルルールだろう。
神話のトラブルの種をゲーム化するんじゃない。
大抵は赤玉と黄玉がバラけて、結局穏便に点数で優勝が決まるのだが……誰かが『黄金の林檎』の条件を完成させてしまうと——途端に「やはり私が一番美しいのだわ!」「冗談をおっしゃい、私に決まっているでしょう!?」「口を慎みなさい、この泥棒猫!!」と、神々の権能が飛び交う大戦争へと発展するのだから、女性の美への執着とは実に恐ろしい。
まあ、そんな事故は滅多に起こらないし、何より女神様たちの抜群のプロポーション——前傾姿勢でキューを構える際に突き出される完熟桃のようなヒップと洋梨のようなくびれ、打ち出した瞬間に豊満に揺れるたわわ——は目の保養になるから、金曜だけと言わず何時でも来てくれていいけど。
問題は、俺の目の前——カウンター席である。
そこではギリシャの長兄・次兄・三男の三兄弟が、すでに恐ろしい量のネクタル(※ただのピーチリキュール)を消費していた。
いや……正確には、一柱はすでに脱落している。
「おいハデス!起きぬか、ハデス!冥府の王がこんなところで潰れてどうする!」
「そうだぞ兄上!ほら、一気!一気!」
今夜が初来店だった冥界の王ハデスは、弟二人の悪質な一気コールによって、完全に胃袋を破壊され、カウンターに突っ伏してピクピクと痙攣していた。
厳つい漆黒のローブが台無しである。
「ちょっとゼウスさん、一応アンタら威厳ある神様でしょう。Fラン大学の新歓コンパみたいなことしないでくださいよ……。それにウチは一応しっとり酒を嗜むオーセンティック・バーであって、大衆居酒屋じゃないんですから、もう少しお静かに……」
俺はうんざりしながら、仕込み中のピーチヨーグルトの味見のために、スプーンの先に残ったヨーグルトをほんの小さじ一杯、ペロリと舐めた。
——その瞬間だった。
((……ん?))
ドクン、と心臓が跳ねた。
身体の奥底、細胞の1つ1つから、人智を超えた恐ろしいほどのエネルギーが爆発的に溢れ出す。
重かった頭が嘘のように冴え渡り、連日の深夜労働と大学の課題で蓄積していた慢性的な疲労感が、まるで春の淡雪のように一瞬で消え去った。
五感がどこまでもクリアになる。
視覚は店の隅に落ちているホコリの粒子すらハッキリと見え、聴覚は店外を走る車のエンジン音まで克明に捉えていた。
((え、なに……は?))
俺は自分の手を見つめた。
カサカサだった皮膚が、つやつやのモチモチになっている。
種明かしをすれば、こういうことだった。
彼らが全身から無意識に放ち、店内に充満させている圧倒的な『神気』。
それによって、俺がただの嫌がらせと手抜きで差し出していた激安ピーチリキュールと業スーヨーグルトは、物理法則を捻じ曲げ、本当に神話通りの『ネクタル』と『アンブロシア』へと概念レベルで変質していたのだという。
そして、それをほんの「小さじ一杯」味わってしまっただけの俺まで——。
「ふはははは!ガニュメデスよ、顔色が良くなったな!」
ゼウスが俺の肩をバシバシと力強く叩く。
「これで完璧だ!お前は今、真のアンブロシアを口にした!これで永遠の命を得たぞ!素晴らしい!これで永久に、我らにネクタルとアンブロシアを振る舞い続けることができるな!」
「は……?永遠……?」
「そうだ!喜べ、ガニュメデス!お前も不老不死になったのだぞ!」
嬉しそうに笑うゼウスの横で、俺の思考は完全にフリーズした。
——不老不死。
古今東西、権力者や英雄たちが喉から手が出るほど欲しがった永遠の命。
それが、業務スーパーのまとめ売り特価ヨーグルト小さじ一杯によって、あっけなく俺の手に落ちてしまったらしい。
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不老不死になった俺を待っていたのは、世界の危機を救う壮大な冒険譚でも、神々の代理戦争に巻き込まれる悲劇でも何でもなかった。
「おぉい、ガニュメデス!聞いてくれよ〜!」
カウンターの端で、豪快に雷の戦鎚・ミョルニルをドカッと置いた赤ひげの男——北欧神話の雷神トールが、ネクタルを呷りながら絡んできた。
「最近の人間どもはよぉ!雷を『避雷針』とかいう鉄の棒で回収して電気に変えてるんだろ!?おかげで俺が空からデカいのをドカンと落としても『外出し辛くて面倒くさいな』くらいで、全然恐れやがらねぇんだよ!神としての威厳が保てなくてさぁ……」
「はぁ……。それは大変ですね、トールさん」
「俺、雷だけじゃなくて雨と豊穣の神でもあるんだけどさぁ、忘れられてんのかなぁ……。それとも、もしかして舐められてるのか?——なぁ、ちょっと一発、東京の大地を叩き割ったら、あいつらの目も覚めるよな?」
「やめてください、トールさん!ミョルニル構えないで!店が吹き飛んだらネクタルとアンブロシアの生産も止まりますよ!?」
「ああ、そうか。じゃあやめとくわ」
素直にハンマーを引っ込めるトール。
扱いやすくて助かるが、冷や汗が止まらない。
すると今度は、逆側のカウンターから、派手に着物を着崩した黒髪の美女がウーロンハイ(※ネクタル割り)のグラスを振り回しながら話しかけてきた。
「ねぇ〜ガニュちゃん聞いてよぉ〜。うちの海、最近プラスチックゴミ多すぎてぇ、亀とか鮫が超愚痴ってくるんだけどぉ。マジ、どんだけ〜!?って感じじゃなぁい?」
「……乙姫さん、それは俺に言われても困ります」
「竜宮城の防水メンテナンス費用も馬鹿にならないしぃ〜、三百年養った彼ピッピは突然陸に帰るとか言い出すしぃ〜……。乙姫やってるのもマジ疲れるわけぇ!一回さぁ、巨大津波でも起こして陸地全部洗っちゃう?」
乙姫さんってそんなホス狂メンヘラギャルみたいな感じだったんですね……。
いやいや、まだ希望を捨てるな、俺。
今は清楚な乙女より、海を護り司る龍神寄りの神格に寄ってるだけなんだ……!
酔ってるだけに……たぶん、きっとそう……。
「乙姫様、あまりガニュメデスを困らせるものではありませんよ」
助け舟を出してくれたのは、和服をビシッと着こなした男神、日本のタケミカヅチ様だった。
おお、神様の中にも常識人がいたか!
「申し訳ないねガニュメデス。代わりに私が一曲歌おう。『神々の黄昏』のテーマソングをね」
「結構です。マイクもありませんので」
——深夜のバーカウンターで繰り広げられるのは、世界の存亡をかけた戦いなどではなく、ただの暇を持て余した神々のしょうもない愚痴と、寒すぎる神様ジョークの数々だった。
「おい、ゼウス!先週ヘラ様に浮気がバレて殺されそうになった話の続き、聞かせろよ!ガニュメデスも知りたいよな!な!」
ポセイドンがニヤニヤしながら余計な振りをかます。
「ええい、黙れ兄上!あれは不可抗力だと言っておろうが!我はただ、白鳥に化けて戯れていたところを鷲に襲われて、仕方なくレダに助けを乞うただけだ!」
「すぐに変身を解いて雷霆で撃ち落とすこともできただろ!白鳥の姿で人妻の入浴を覗きに入るのが不可抗力なわけあるか!」
「なんだとぉ!?」
バチバチと店内に本物の電撃とプラズマが走り始める。
グラスが振動でカチカチと音を立てた。
「はいはい、喧嘩なら外でやってください。店内の備品壊したら弁償ですからね。あ、古代ギリシャの古銭とか神界の通貨とかじゃなくて、日本円の現金で払ってもらいますよ」
俺は半目でそう言うと、二人の間に割って入り、冷えたネクタルのおかわりを二つ、どん、と置いた。
「「……うむ。すまん」」
天界の王と七海の王が、見習いバーテンダーの俺に素直に謝って酒を啜る、この構図はなんだ。
ふと時計を見ると、時刻はまもなく始発が動き出す早朝の五時になろうとしていた。
東の空が白み始めているはずだが、この地下のバーにはまだ夜の余韻が色濃く残っている。
——不老不死。
病気にもならず、老いることもなく、疲労すら感じない無敵の肉体。
大学を卒業しても、マスターが店を畳んでも、人類が滅びても、俺は今のこの姿のまま生きていくのだろうか。
壮大な未来に対する不安が、一瞬だけ頭をよぎる。
だが——。
「ガニュメデス!アンブロシアおかわり!今度は蜂蜜マシマシで頼む!」
「私にもネクタルを!次はちょっとライムを絞ってちょうだい!」
「おい、俺のダーツの勝ち分はどうなった!逃げるな、ヘルメス!さっさと払え!」
「ちょっ、待て、待たぬか!……というか、逃げてなどおらぬ!次の賭けで一発逆転してやるわ!伯父上、百倍にして返しますから軍資金を貸してくだされ!」
うるさい。
とにかくうるさい。
未来の壮大な孤独に浸る隙すら、この神様たちは与えてくれない。
「……ハァ」
俺は本日何度目になるかわからない、深い深い溜め息をついた。
そしてカウンターの下から、昨日『業務スーパー』で買い込んできた、段ボール箱に入ったヨーグルトの巨大パウチパックを取り出す。
一箱6パック入り。
これでも来週には買い足さなければならないだろう。
ハサミでパックの端を切りながら、俺は心の中でそっと呟いた。
「(マスター、来週からバイト代、業スーの仕入れ値込みで昇給してくださいね……)」
不死身になってしまった俺の、永遠に続く賑やかな夜は、まだまだ終わりそうにない——。




