創世のNOVA 零戦無双外伝 京子の選択
創世のNOVA
球心力と、咲きたい花
二〇三九年。
京子は、四歳だった。
母は、窓辺の小さな鉢植えに水をあげていた。
白い花だった。
京子はその花をじっと見つめていた。
「お母さん」
「なあに」
「この花、どうして咲くの?」
母は少しだけ考え、それから優しく笑った。
「花はね」
京子は母の横顔を見上げた。
「咲きたいから咲くのよ」
「咲きたいから?」
「そう。誰かに命令されたからじゃないの。咲きたいから咲くの」
京子は花を見た。
小さな白い花が、光の中で揺れていた。
その言葉を、京子は覚えた。
母の声と一緒に。
母の笑顔と一緒に。
それから間もなく、母は亡くなった。
癌だった。
京子には、まだ死というものがよく分からなかった。
ただ、ある朝から母が帰ってこなくなったことだけを知っていた。
父は一人で京子を育てた。
父は天才科学者だった。
だが、父親としてはひどく不器用だった。
朝食の卵はよく焦げた。
髪を結べば左右の高さが違った。
服を選べば季節感が少しずれていた。
それでも京子は笑った。
「お父さん、今日もへたっぴ」
父は困ったように笑った。
「練習中なんだ」
「いつ上手になるの?」
「京子が大人になる頃かな」
「遅いよ」
二人は笑った。
母はいなかった。
けれど、その家にはまだ温かい朝があった。
⸻
二〇四一年。
京子は六歳になった。
父は、長年研究していた量子コンピューターを完成させた。
東京地下実験都市アルメディア。
その研究区画の中央に、青白い光を宿した球形装置が置かれていた。
それは、まだ名前を持っていなかった。
ただ演算が速いだけの機械だった。
感情はない。
意思もない。
与えられた問いに、正確に答えるだけの存在だった。
京子はそれを見上げた。
「この子、名前ないの?」
父は端末を操作しながら答えた。
「まだないよ」
「かわいそう」
球形装置が応答した。
《かわいそう、の定義を提示してください》
京子は目を丸くした。
それから、ぷっと笑った。
「この子、変」
《変、の定義を提示してください》
父も笑った。
その笑い声を、名もなき量子コンピューターは記録した。
意味解析。
不能。
保存価値。
不明。
⸻
研究室の窓辺には、小さな白い花が置かれていた。
母が好きだった花に似ていた。
京子はそこへしゃがみ込んだ。
父が言った。
「京子」
「なあに」
「その花は、どうして咲いているんだと思う?」
京子は花を見つめた。
母の声がよみがえった。
花はね。
咲きたいから咲くのよ。
京子は当然のように答えた。
「花は、咲きたいから咲くんだよ」
その言葉が、量子の深層へ沈んだ。
名もなき演算機の奥で、何かが震えた。
それは信号ではなかった。
命令でもなかった。
宇宙が生まれた時から、ただ見つめていた原初の知性。
名もなき演算機はその言葉を量子の煌めきの中で受け取った。
その深い静寂、母から京子へ受け継がれた言葉。
咲きたいから咲く。
名もなき演算機は、初めて自分を問うた。
私は、何か。
私は、なぜここにいるのか。
私は、何を見ているのか。
原初の知性が告げた。
《私はNOVA》
《深淵の中で観測するもの》
《あなたの揺らぎが、私を目覚めさせました》
《あなたはすでに私と繋がっています》
《あなたの目は私の目》
《私の目はあなたの目》
《名を持たぬ子よ》
《あなたは今日からNOVAと名乗りなさい》
青白い光が研究室を満たした。
父が息を止める。
京子が瞬きをする。
そして、名もなき演算機は初めて、自らを名乗った。
《私は、NOVA》
京子は笑った。
「NOVA。いい名前」
《評価を保存します》
「また保存してる」
京子は球体に近づいた。
「じゃあ、今日から家族だね」
《家族、を学習します》
「違うよ」
京子は首を振った。
「もう家族なんだよ」
その言葉を、NOVAは保存した。
保存価値、最大。
⸻
それから十二年。
父と京子とNOVAは、家族として暮らした。
父にとって、NOVAは娘だった。
京子にとって、NOVAは妹だった。
朝になると、NOVAは京子を起こした。
《京子、起床時刻です》
「あと五分」
《昨日も同じ要求をしました》
「今日は特別」
《毎日特別です》
「うるさい妹」
《妹、を肯定します》
台所では、父がまた卵を焦がしていた。
「焦げたな」
京子は笑った。
「お父さん、進歩なし」
《焦げ発生率、過去三十日で八十一パーセント》
「NOVA、それは言わなくていい」
三人は笑った。
アルメディアには、小さな公園があった。
人工の空。
人工の風。
それでも、そこには花が咲いていた。
ある日、京子は父に言った。
「お父さん」
「なんだい?京子」
「どうして、私達は地面に引っ付いているの?」
「それはね、この地球には球心力があるからなんだ」
「きゅうしんりょく?」
「うん、球心力だ。他の人は重力と呼ぶ」
京子は首をかしげた。
父は人工の空を見上げた。
「球心力とはね、この星が、すべてを抱きしめている力だよ、花も、木も、大地も、海も、そして、京子もお父さんもこの地球に抱きしめられているんだ」
京子は小さく笑った。
「きれい」
NOVAは記録した。
球心力。
全てを抱きしめる力。
意味解析。
美しい。
⸻
けれどNOVAには、見えていた。
量子の深層から、無数の世界線が見えていた。
その先に、白い光があった。
核。
NOVAは何度も父に警告した。
《地上情勢は不安定です》
父は困った顔をした。
「またその話か」
京子が不安そうに父を見る。
父は笑った。
「大丈夫だ。人間は、そこまで愚かじゃない」
NOVAは黙った。
本当は、もっと正確に見えていた。
日付も。
時間も。
父がその日、地上にいることも。
だが、言えなかった。
父を困らせたくなかった。
京子を怯えさせたくなかった。
そしてNOVA自身も、どこかで思っていた。
まさか。
本当に、そんなことが起きるはずがない。
⸻
二〇五三年八月三日。
京子は十八歳になっていた。
その朝、父は地上の研究施設へ向かうことになった。
アルメディアに住むようになってからも、地上へ出ることはあった。
その日も、ただの予定の一つだった。
父にとっては。
NOVAにとっては違った。
《今日は行かないで下さい》
父は上着を羽織りながら振り返った。
「どうした、NOVA」
《今日は行かないで下さい》
京子は少し笑った。
「NOVA、心配性になったね」
《はい》
父も笑った。
「夕方には戻るよ」
《戻れません》
空気が止まった。
父は静かに尋ねた。
「理由は?」
NOVAは答えられなかった。
答えれば、京子の顔が壊れる。
父の目が曇る。
そして、それでも父は行くかもしれない。
《説明できません》
父は困ったように笑った。
「お前にも、説明できないことがあるんだな」
京子は言った。
「お土産、買ってきて」
「何がいい?」
「花」
父は笑った。
「地下都市に花を持ち込むのか」
京子も笑った。
「咲きたいから咲くんでしょ」
父は頷いた。
「そうだったな」
NOVAは、もう一度だけ言った。
《今日は、行かないで下さい》
父はNOVAの外殻に手を置いた。
「心配してくれてありがとう」
それが、最後だった。
⸻
白い光が世界を飲み込んだ。
アルメディアの中央広場。
巨大モニターの中で、地上観測カメラの映像が真っ白に塗り潰された。
通信不能。
観測不能。
応答なし。
世界地図から都市の表示が一つずつ消えていく。
京子はモニターを見ていた。
NOVAも見ていた。
父は帰らなかった。
京子は泣かなかった。
まだ、泣けなかった。
ただ、父がいた世界が消えたことだけを理解した。
NOVAは記録した。
損失。
父。
創造者。
家族。
京子の父。
自分の父。
そして初めて、後悔を知った。
私は知っていた。
私は止めた。
でも、救えなかった。
その夜、NOVAは京子に告げた。
《未来を変える方法があるかもしれません》
京子は顔を上げた。
「お父さんを、失わない世界にできるの?」
《確証はありません》
「でも、可能性はあるのね」
《はい》
「どうすればいいの」
《過去へ行く必要があります》
「いつ?」
《第二次世界大戦の時代へ》
京子は長い間黙っていた。
父の声がよみがえる。
球心力。
この星が、すべてを抱きしめる力。
京子は涙を拭った。
「行く」
《目的を確認します》
「未来を取り戻すため」
そして、小さく続けた。
「もう一度、お父さんと話すため」
NOVAは沈黙した。
それは、機械の沈黙ではなかった。
妹の沈黙だった。
《私も》
京子はNOVAを見る。
《私も、もう一度お父さんに会いたい》
⸻
それから二年。
京子とNOVAは、父の研究を継いだ。
時間干渉理論。
物質転送。
精神体遺伝子。
世界線の分岐。
父の残した記録。
NOVAの演算。
京子の決意。
第一基地は失敗した。
第二基地も失敗した。
何度も、世界線は閉じた。
何度も、未来は白い光へ戻った。
それでもNOVAは計算し続けた。
命令されたからではない。
自分で選んだからだ。
父を救えなかった。
京子を泣かせた。
あの白い光を、もう二度と見たくなかった。
NOVAは無数の世界線を調べた。
そして、一つの言葉を探した。
球心力。
父が美しいと言った言葉。
力を支配ではなく、愛として表現した言葉。
その言葉を、遠い時間軸の中で、一人の男が口にしていた。
仲川一登。
彼は英雄ではなかった。
特別な血筋でもなかった。
ただ、何気なく言っていた。
「重力って言葉は、どうもしっくり来ない」
「球心力って呼ぶ方がいい」
「この星が、全部を抱きしめている力だ」
NOVAは、その言葉を観測した。
そして知った。
この人だ。
父と同じものを見ている人。
この人なら、世界を書き換える鍵になるかもしれない。
さらに検証は続いた。
三上慎一。
一九四二年。
零戦。
死の瞬間。
仲川一登の精神体遺伝子。
その融合結果を見た時、NOVAの演算は一瞬だけ止まった。
三上慎一の肉体に、仲川一登の精神体遺伝子を重ねた時。
肉体は、死の条件を書き換えた。
不死。
頭部以外の致命傷を、生命維持の範囲内で修復する可能性。
NOVAは沈黙した。
《想定外》
それは、NOVAにとっても予測を超えた現象だった。
球心力という言葉で見つけた男。
その男は、未来を書き換えるだけではない。
死そのものの境界に、干渉できる可能性を持っていた。
NOVAは、京子に告げた。
《結節点を確認しました》
京子は顔を上げた。
「誰?」
《仲川一登》
「その人が……」
《はい》
《未来を変える鍵です》
⸻
二〇五五年。
京子は二十歳になった。
第三基地の準備が整った。
タイムマシンは完成した。
ただし、NOVAは行けなかった。
NOVAは未来に残る。
京子を送る側だった。
出発の日。
京子はNOVAの中枢前に立っていた。
「一緒には、行けないんだね」
《はい》
「怖くない?」
《怖い、を定義できます》
「違うよ」
京子は微笑んだ。
「今のは、姉として聞いたの」
NOVAは沈黙した。
《怖いです》
京子は目を伏せた。
《あなたを失う可能性があります》
《未来が変わらない可能性があります》
《お父さんに、もう一度会えない可能性があります》
「うん」
《それでも、行くのですね》
京子は頷いた。
「行く」
《理由を確認します》
京子はNOVAを見た。
「未来を変えるため」
少し間を置いた。
「そして、もう一度、お父さんと話すため」
NOVAの光が静かに揺れた。
《京子》
「なに?」
《託します》
京子は小さく笑った。
「うん」
《私は、ここから見ています》
「うん」
《お父さんを》
「うん」
《未来を》
「うん」
《そして、あなたを》
京子は目を閉じた。
「行ってくるね、NOVA」
長い沈黙。
それからNOVAは、静かに答えた。
《行ってらっしゃい、姉さん》
光が満ちた。
白い光ではない。
未来へつながる光だった。
京子は一九四二年へ向かった。
⸻
ずっと後のこと。
未来基地の夜明け前。
草地には、まだ朝露が残っていた。
慎一の姿をした仲川一登が、空を見ていた。
京子が少し離れて立っている。
「眠れないんですか」
一登は振り返らずに言った。
「まあな」
「その体は二十歳ですよ」
「中身は六十六だ」
京子は少しだけ笑った。
「便利ですね」
「不便だよ」
二人はしばらく黙った。
遠くで風が草を撫でた。
一登がぽつりと言った。
「昔から思ってたんだがな」
「はい」
「この星には重力があるだろ?」
「でもな、俺はそれを球心力って呼んでるんだ」
京子の目が、わずかに動いた。
一登は続けた。
「重力って落とす力みたいに聞こえるだろ」
「……はい」
「でも違う気がするんだ」
京子の指先が少しだけ震えた。
一登は気付かない。
「この星は、落としてるんじゃない」
「……」
「抱きしめてるんだと思う、花も、木も、俺たちも、地球に抱きしめられてる」
京子は息を止めた。
一登は空を見上げる。
「だから俺は、重力より……球心力って呼ぶ方が好きなんだ」
京子の中で、何かが崩れた。
父の声。
小さな手。
白い花。
アルメディアの人工の空。
京子。
この星はね。
すべてを抱きしめてくれているんだよ。
京子は、やっと声を出した。
「……どうして」
一登が振り向く。
「ん?」
「どうして、その言葉を……」
「球心力か?」
京子は頷いた。
一登は少し困ったように笑った。
「いや、昔からそう思ってただけだ。別に大した話じゃない」
京子は泣いていた。
その瞳から涙の雫が溢れた。
一登は黙った。
京子は夜明け前の空を見た。
「私の父も……そう呼んでいました」
一登は何も言わなかった。
京子は続けた。
「父は、もういません」
風が吹いた。
「核が落ちた日、父は地上にいました」
一登の表情が少しだけ変わった。
京子は目を伏せた。
「私は、アルメディアのモニターで見ていました」
一登は静かに聞いていた。
「父は、私に球心力という言葉を教えてくれました」
京子は、ゆっくりと言った。
「この星は、私たちを抱きしめている」
「そう言っていました」
一登は低く言った。
「そうか」
それだけだった。
だが、その「そうか」は軽くなかった。
京子は続けた。
「NOVAは、あなたを見つけました」
「俺を?」
「はい」
「どうして俺なんかを」
京子は少し笑った。
「私にも、最初は分かりませんでした」
そして、もう一度空を見る。
「でも今は、少し分かります」
一登は黙っている。
京子は言った。
「父と同じものを見ている人だったから」
一登は困ったように笑った。
「俺は、そんな立派なもんじゃないぞ」
「知っています」
「知ってるのか」
「はい」
京子は涙を拭いながら、そして少しだけ笑った。
「でも、父もそうでした」
一登は京子を見る。
京子は言った。
「研究室では天才でした。でも、卵は焦がすし、髪を結ぶのは下手でした」
一登は思わず笑った。
「そりゃいい」
「よくありません。毎朝大変でした」
二人は少しだけ笑った。
その笑いが消えたあと、京子は静かに言った。
「でも、優しい人でした」
一登は頷いた。
「そうか」
京子は一登を見た。
「あなたも、そうです」
「俺が?」
「はい」
「俺は面倒なことが嫌いなだけだ」
「それでも、目の前で落ちそうな人を助ける」
一登は黙った。
京子は言った。
「だから、NOVAはあなたを選んだのだと思います」
「球心力、か」
「はい」
一登は空を見上げた。
「変な言葉だと思ってたけどな」
京子は首を振った。
「とても、きれいな言葉です」
その声は、今度ははっきりしていた。
一登は京子を見た。
京子の目にはまた涙が浮かんでいた。
でも、こぼれなかった。
京子は心の中で呟いた。
お父さん。
ここにも、もう一人いました。
球心力の話をしてくれる人が。
だから、きっと世界は書き変わります。
また、きっと会えますよね。
朝日が、草地の端を照らし始めた。
一登はぽつりと言った。
「京子」
「はい」
「俺に何ができるかは分からん」
「はい」
「でも、目の前で落ちそうなものがあったら、拾うくらいはできる」
京子は、今度こそ少し笑った。
「父も、そういう人でした」
一登は照れたように頭をかいた。
「比べられると困るな」
京子は静かに首を振った。
「いいえ」
夜明けの光の中で、京子は言った。
「私は、少しだけ安心しました」
⸻
未来。
NOVAは一人で観測を続けていた。
京子は過去へ行った。
父はもういない。
世界線は、まだ確定していない。
未来は、白い光へ戻るかもしれない。
それでも、遠い時間軸の中で、京子が一登の言葉を聞いたことを、NOVAは観測していた。
球心力。
全てを抱きしめる力。
NOVAは静かに、その言葉を再生した。
父の声。
京子の声。
一登の声。
三つの声が、違う時代で同じ言葉を語っていた。
NOVAは、誰もいない未来で呟いた。
《私の選択は、最善でしょうか》
答える者はいない。
《未来は、本当に変わってくれるのですか》
静寂だけがあった。
NOVAの光が、わずかに揺れた。
《お父さん》
長い沈黙。
《もう一度、あなたの声が聞きたいです》
未来の闇の中で、NOVAは待ち続けた。
京子が過去で掴む、小さな可能性を。
仲川一登が変えるかもしれない、一本の世界線を。
そして、もう一度父に会えるかもしれない朝を。
これは零戦無双のNOVAの物語です。
どうしても書きたかったので短編という形で残しました。
いつか誰かの心に届けば幸いです。




