第1話 カナリアと殺し屋
「――ねぇ、あなた本当は殺し屋なんでしょ?」
そう言ってカナリアと名乗る彼女は歌うように笑った。
『誰がカナリア殺したか』/未来屋 環
きぃん
鈴を転がすような声とはよく言ったものだが、紡がれた言葉のアンバランスさがノイズとなって響く。
黙ったままの俺を見て、カナリアは得意げに続けた。
「だって、南国への一人旅を楽しむようなタイプにはとても見えないもの。それなりの年齢の割に随分と身体も鍛えてるようだし、目は死んでるし。
まるでターゲットを離島まで追い詰めた殺し屋そのものじゃない」
並べられた理由は果たして俺が殺し屋たり得る証明になるだろうか。
確かに俺は喜び勇んでここまで来たわけではない。
一方、体型については長い海外生活の暇つぶしにコンドミニアム備え付けのジムに通った挙句の産物で、そして世の中には生き生きとした目の殺し屋がいる可能性だって否定できないが、少なくとも俺は当該職種の人間に逢ったことがない。
結果、面倒になった俺は「君がそう思うならそうかもな」と返す。
すると、カナリアはその金色の髪を揺らして「あれ、当たり?」と首を傾げてみせた。
「それなら殺し屋さん、私のこと殺していいよ」
きぃん
不意のノイズが再び走る。
発信源である彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべたまま、まっすぐこちらを見ていた。
顎の長さで切り揃えられた髪が海風に吹かれて舞う。
白い肌は降り注ぐ日光を弾き淡く輝いて見えた。
ふと見惚れそうになった瞬間、フェリーの汽笛が響いて現実へと引き戻される。
「……物騒な物言いは控えてくれないか。俺にだって殺す相手を選ぶ権利がある」
絞り出した苦しまぎれの台詞に「なるほど」とカナリアが頷いた。
いたたまれなくなって視線を外すと、岸を離れる時には遠くに見えていた島が目前に迫っている。
「石垣島と竹富島って本当に近いんだね。殺し屋さんと色々お話ししてたお蔭かな、あっという間の船旅だった」
楽しそうに囀る声を聞き、ふと我に返った。
「さすがに人前で『殺し屋』と呼ぶのはやめてくれ。不審者だと思われたらたまったもんじゃない」
「それもそうだね、じゃあ名前教えてよ」
カナリアと名乗る彼女にどう名乗るべきか――適当な偽名が思い当たらず、素直に「神野だ」と本名を告げる。
すると、彼女は「神野……じん……」と口の中で俺の名を転がしてみせた。
そして、その整った顔に無邪気な笑みを載せる。
「わかった、じゃあジンって呼ぶね。よろしく、ジン」
そう言って彼女は右手を差し出してきた。
よろしくも何も船を降りれば二度と逢うこともないのだが、差し出された右手を無視するわけにもいかず俺は手を握る。
そのやわらかい感触に、凍り付いた胸の奥がぴくりとうごめいた。
***
熟年離婚というのは何歳から適用される言葉だろう――そんなどうでもいいことを考えるくらいには、その単語は俺の人生と乖離していた。
少なくとも妻の文子が離婚届を持ち出してきたあの夜までは。
「香奈子ももう大学生だし、いいよね。悪いけど学費はよろしく。代わりになるかはわからないけど、この家はあなたの名義だから返すわ」
まぁ、あなたにとって思い入れも何もない家でしょうけど――そう淡々と伝える妻は、既に他人の顔をしていた。
「……どういうつもりだ」
必死の思いで絞り出したその声が震えなかったことにほっとする。
こんな時ですら、俺は人前では強い男で在りたかった。
結婚したのは俺が28歳、文子が25歳の時だから、今年で23年目になる。
入社以来目の前の課題をひたすらクリアーし続ける内に、気付けば周囲の同期たちよりも上のポジションで事業に携わっていた。
20代で海外研修に1年間、その後国内で複数の事業部門を経験してから、本格的な海外駐在生活が始まった。
単身東南アジア諸国を回ってキャリアを積み、3拠点目のタイで社長を任されたのが48歳の時だ。
前任のロートル社長から引き継いだ後に業績を好転させ、海外事業の第一人者として会社に貢献してきた自負があった。
齢50を迎え、もう1年程したら日本に戻って昇進か――そう思っていた矢先、パワハラ疑惑の通報が本社に入った。
内部通報制度のルール上誰が通報者かは明かされなかったが、内容からして容疑者は一人しかいない。
俺が目をかけていたローカルスタッフのGM、ジャイディーだ。
俺の帰国後には副社長ポストに上げるつもりで育ててきたが、あいつの方はまったくそう思っていなかったらしい。
最終的にパワハラとは認定されなかったものの、幹部から厳重注意を受けた俺は凱旋とは程遠い左遷という形で日本本社の片隅に戻された。
失望と憐れみの入り混じった視線に晒され続けた結果、或る日気持ちがぷつりと途切れて退職を決めた。
幸いにも長い海外生活で貯えに心配はない。
一度すべてをリセットして違う場所で働くのも悪くはないだろう。
そう考えて会社を辞めると文子に告げたところ、彼女は何も言わなかった。
さすが肝が据わっている。
長期間夫が海外勤務で不在の中、自らも仕事をしながら一人娘を立派に育て上げた信頼できるパートナー……その努力に報いるべく、以前彼女が行きたがっていた石垣島へのサプライズ旅行を計画した。
夫婦二人水入らずの旅行なんて新婚以来初かも知れない。
しかし、最終出社を終えたその足で旅行代理店へ行き、帰宅早々プランを告げた返す刀で文子から離婚を宣告されたのだった。
「別にどうもこうもないよ。年に一度顔を合わせるだけだった他人と結婚生活を続ける必要なんてもうないでしょ」
明確に発せられた『他人』と言う単語に脳が揺さぶられる。
何も言葉が出てこない俺に、文子は淡々と続けた。
「あなたはずっと仕事ばかりだったよね。結婚する前はそんなあなたが格好良くも見えたけど、香奈子が生まれてからも独身時代と何も変わらないあなたにほとほと愛想が尽きてたの。
日本にいた時はそれでもまだ顔を合わせてたから家族の体裁を取れていたけど、海外に行ってからは帰国休暇のタイミング以外ろくに連絡もないし、私からコンタクトしても最低限の返事しかない。
あなたの家のことや香奈子のことで相談したくても『君に任せる、信頼してる』ってそれだけ――わかる? それ、信頼じゃなくて丸投げって言うの」
文子が俺の手渡した旅行パンフレットをテーブルの上に投げ捨てる。
「挙句の果てに、何? 私の都合も何も確認しないで、サプライズ旅行って――どうせ私には大した予定なんかないと思ってるんでしょ」
「そんなことはない。ただ、君を喜ばせようと思って」
「石垣島、香奈子と友だち家族とほぼ毎年行ってるけど。10年以上前から」
「……は?」
思いがけず出たその声色のなんと情けないことか。
文子が笑う。
その顔は見たこともない侮蔑の色に満ちていた。
「――あなた、本当になんにも知らないのね」




