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影の対話

 通夜の夜、帝都はいつもより深い闇に包まれていた。


 皇城の最奥にある『星辰の間』には、皇帝・マルティヌスの棺が静かに安置されている。


 部屋の灯りは抑えられ、壁際に並ぶ燭台が淡い金色の光を揺らめかせ、天井へ長い影を描き出していた。


 静寂は重く積もり、まるで空気そのものが涙を含んでいるようだった。呼吸をするたび、その重さが胸の奥へ沈んでいく。星辰の間は、皇帝の不在という事実を、誰より雄弁に物語っていた。


 棺の周囲には、古来より帝室を守ってきた儀仗兵が四方に立ち、夜通し、誰一人瞬きすら惜しむほどの厳しい姿勢で警護に当たっていた。

 彼らの甲冑は黒布で半ば覆われ、喪の印として銀糸で刺繍された鉄の王冠と剣だけが沈んだ光を返している。


 通夜に参列できるのは、皇族、高官、そして皇帝に深い忠誠を誓った者だけ。


 部屋の奥には、喪服に身を包んだレグルスが静かに立ち、その隣にはフェリクスや宰相府の重臣たちが控えている。もちろん帝国の『英雄』である元帥・バルセリウスの姿もあった。


 誰も声を発しない。ただ、沈黙そのものが祈りのように重く広がっている。


 しばらくすると、祭司長がゆっくりと部屋の中央に進み出た。手には小さな香炉があり、青白い香煙が糸のように立ちのぼり、星辰の間の冷えた空気に溶け込むように漂っていく。


 祭司長は囁くような低い声で、皇帝の名を今生に刻む古い祈祷文を唱え始めた。

 言葉そのものは短いが、聞く者の心になにか深い水音のようなものを残していく。


「皇帝は世界に秩序を与えし灯。その灯は消えず、形を変えて道を照らす」


 祈祷文の間、参列者は胸に手を当て、ゆっくりと頭を垂れる。誰もがそれぞれの思いで皇帝の最期の夜を見送っていた。


 夜が深まるほどに、外の風音も、皇城の石畳の軋みも、まるで遠い世界の出来事のように消えていく。そこには、帝国の一時代を締めくくる静寂だけがあった。


 そして、最初の暁光が空を薄く染める直前。祭司長がそっと香炉の蓋を閉じ、通夜は厳かに終わりを迎えた。

 翌日には、帝国がひとつの時代に別れを告げる葬送の儀が行われる──。


 通夜が終わっても、レグルスはしばらく皇帝の棺の傍に留まっていた。


 ひとり、またひとりと高官たちが立ち去る中、フェリクスだけがレグルスの傍に残った。


(……せめて一度でいい、父上と真正面から話してみたかった……)


 レグルスは、胸の奥に沈む痛みをそっと押し殺した。ふと思い出す。幼い日の謁見の間。なにを言っても、父はひとつ眉を動かすだけだった。その沈黙が、少年の心をどれほど縛ったか──今更語るまでもない。


(……私は、貴方に背く。それでも──この帝国を変えなければならない……)


 父の棺を前に決意を新たにするレグルスの姿を、フェリクスは複雑な表情で見守っていた。


 フェリクスは知っていた。幼い頃のレグルスがどれほど父親を敬愛しつつも恐れていたかを。あの頃のレグルスにとって、父親は絶対に越えられない壁だった。だが、とフェリクスは思うのだ。


──かつて父親に怯えていた少年は、もういない


 慈悲の心を知る今のレグルスなら、きっと父親を遥かに上回る良き皇帝となるだろう。それはここ数日レグルスに接して得た、フェリクスの確信でもあった。


 ようやくレグルスは顔をあげて、フェリクスを振り返った。


「待たせてすまなかったな、フェリクス。戻るとしよう」

「はい」


 通夜の灯が遠のくほど、王宮の廊下はしんと静まり返っていた。人払いがされたわけではない。だが皆、亡き皇帝を悼み、それぞれの胸の内に沈んでいるのだろう。夜風のような冷たさが空気に満ちていた。


 レグルスが足音を殺して回廊を曲がると、その先に一人、背の高い男が立っていた。

 壁にかけられた燭台の光が揺れ、その男の赤みを帯びた栗毛を淡く照らす。


「……元帥、バルセリウス殿?」


 レグルスがそう呟くと、バルセリウスはようやくこちらに気づいたかのように緩やかに振り返り、視線を向けた。


「これは……殿下。通夜のあとにご無礼をお許しください」


 柔らかい声音だった。しかしその奥底に、硬質の芯が潜んでいるのをレグルスは直感する。

 英雄と称えられる軍人のはずなのに、その静けさは理由のない圧となってレグルスの皮膚を冷やした。


 ほんの一歩、距離を詰められただけで、空気の密度が変わる。武勲を重ねた将だけが持つ圧──それは力を誇示するためのものではなく、戦場で生き残った者が無意識に身にまとう『殺気の残り香』だった。レグルスはそれを敏感に感じ取った。


 暗がりの中で栗毛が影をまとい、表情を読み取りづらくしていた。ただ、その琥珀金の瞳だけが、冷徹にレグルスを見据えていた。


「陛下の御崩御……痛恨の極みです」


 バルセリウスは胸に手を当て、弔意を示した。所作に一切の乱れはなく、武人としての礼節も完璧だ。


 だがその直後、レグルスが返礼の言葉を述べようとした瞬間──バルセリウスの瞳の温度が、ふっと変わった。


「──殿下」


 呼びかけは穏やかだったが、足元の空気がわずかに張り詰めた。まるで廊下の温度そのものが一段階さがったような錯覚すら覚える。


「帝国は、変革を必要としています」


 琥珀金の瞳が、微動だにせずレグルスを射抜く。


「そう……お思いになりませんか?」


 問いかけは丁寧だが、選択肢を与えていない。言葉ではなく、視線で迫ってくる。『殿下がどう答えるか、見極めにきた』──その意図が露骨なほどに伝わってくる。英雄の顔をした男の、別の一面がそこにあった。


 レグルスは、胸の奥で密かに緊張が走るのを自覚した。


「……そうだな。帝国は変わらねばならない」


 声はかすかに揺れたが、言葉自体は揺らがなかった。心のどこかで、バルセリウスに対する強い違和感を抱きながら。


「平和とは、守れる者だけに許されるものです。そして、それを守れるのは──常に力を持つ側だ。帝国の未来は武力により導かれるべきだと、私は考えているのですよ」


 バルセリウスの瞳は、一点の迷いもなく燃えていた。炎ではなく、硬い金属を熱したような光で。


「……そうか」


 レグルスはそれきり黙り込んだ。口にこそ出さないが、二人の望む変革はまったく逆の方向性である。この先、二人の道が交わることは決してないだろう。


 バルセリウスはレグルスに顔を近づけて、声をひそめた。


「殿下さえお望みでしたら、私には殿下の皇帝即位を支持する用意があります。なにとぞ、よくお考えになられますよう」


 その声音は端正だった。だが、言外の『条件』だけが、冷たくレグルスの喉を締めつけた。


「……覚えておこう」


 レグルスはかろうじてそれだけを押し出したのであった。



 バルセリウスが去った廊下に、冷えた空気だけが残った。


 レグルスはしばらく呼吸ができなかった。肺の奥に、冷たい鉛を流し込まれたような感覚が残っていた。


 あの男の声音、眼差し──それはまるで、亡き父帝の影が生きて戻ってきたかのようだった。


──帝国は武力で世界を導くべし


 幼い頃から父の背中越しに聞いていた言葉。決して反論できなかった思想。その『正しさ』が、心の奥でずっとわだかまりとして沈殿していた。

 いま、その思想が別の男の口で、同じ熱を帯びて迫ってきた。


「殿下、大丈夫ですか?」

「……フェリクス」


 後ろから自分を支えてくれたフェリクスの顔を見て、ようやくレグルスは深く息を吐いた。

 レグルスはもう揺らがない。父のやり方を否定する決意は、とうの昔に固まっている。


 フェリクスは周囲に気を配りながら、レグルスを小さな控室へ誘導した。控室へ向かう途中、レグルスはふと足を止めた。

 廊下のどこかで、バルセリウスの軍靴の音がまだ響いているように錯覚した。背筋がゾクリと冷える。


(……違う。私はもう覚悟を決めたのだ……)


 自分に言い聞かせるように、レグルスは歩を進めた。


 控室にはフェリクスが声をかけた若手官僚たちが集まっていた。皆、レグルスの顔を見ると不安を押し隠すように姿勢を正す。


「殿下、お戻りになられたのですね」


 レグルスの表情を見て、皆、事態を悟った。


「元帥と……会われたのですか?」

「喪の三日間に……まさかなにかを迫られたのでは?」


 レグルスは少しだけ息を吐いた。


「……バルセリウスは、私の即位を支持すると言った」


 室内の空気がざわりと揺れた。


「『条件つき』の支持、ですよね」


 フェリクスが静かに続ける。


「軍務局への権限移譲。喪が明ける前に宰相府の半分を握るつもりでしょう。殿下を『旗』として利用するために」


 若手官僚の一人が拳を握りしめた。


「やっぱり……バルセリウスは最初から議会を無視するつもりだ」

「喪の三日間を『盾』にして……!」

「そうだ」


 その囁きを、レグルスの低い声が遮った。全員がハッと彼を振り向く。


「私も……そう感じた。あれは私に意見を求めていたのではない。『従うか否か』を見に来ただけだ」


 言葉を発した瞬間、胸につかえていた冷たい違和感が、ようやく形を成した。


 官僚たちが小さく息を呑む。フェリクスはレグルスに椅子を勧め、静かに問いかけた。


「殿下はどうお感じに?」

「嫌悪感しかないな。父のやり方をもう一度なぞるくらいなら、皇帝の座など欲しくもない」


 言葉を発した瞬間、レグルスは胸の奥にわずかな痛みが走るのを感じた。


 その言葉に、場の全員が深く頷いた。レグルスが父帝と思想的に決別していることは、フェリクスから聞いて皆知っていたが、本人の口からの宣言はやはり重い。


「では、殿下。あとは『どう勝つか』だけです」


 フェリクスはひとつ書類を前に出した。そこには宰相府の部署と人脈が複雑な線で結ばれている。


 いま帝都では、誰もが表情の奥に疑念と恐れを隠している。喪の三日間は、静寂を装った戦の始まりにすぎない。


「宰相府は明日の夕刻で割れます。レグルス派、バルセリウス派、中立派──三分です」


 その言葉に、若手官僚の一人が手を挙げた。


「中立派は、どちらに流れる可能性が?」

「殿下が『父帝の継承者ではない』と示せば、こちらにつきます」


 レグルスは目を細めた。


「だが……私が父とは違うと示すだけでは不充分だ。バルセリウスのやり方が『帝国の破滅』につながるという証拠を示さねば、官僚は動かない」


 フェリクスは深く頷いた。


「実は、その証拠があります」


 部屋の奥に積まれた木箱から、一冊の分厚い報告書が取り出された。

 フェリクスが独自に集めた『軍の不正』と『過剰な戦費』を示す資料だった。


 レグルスは資料を読みながら、一瞬だけ、胸の奥がざわつくのを感じた。


(……父上が生きていたら、これでも迷わなかったのか……?)


 その自問が、ほんのわずかな迷いを生む。だが次の瞬間、フェリクスの視線と若手官僚たちの緊張した表情が、彼を現実へ引き戻した。


「……これを見せれば、中立派は揺らぐな」

「えぇ。ですが殿下、中立派を動かすには『証拠』だけでは足りません」


 フェリクスは書類を指で軽く叩いた。


「彼らが欲しいのは、『自分たちは正しい側につく』という安心です。それを与えるのが、明日の私の役目です」


 そこでフェリクスは一旦言葉を切った。


「明日の昼、私は中立派の鍵を握る三名に示します。動くなら、あちらが先でしょう」


 レグルスは少し笑った。それは、自覚のない強い意志を宿した笑みだった。


「バルセリウスは『私が父帝と同じ道を選ぶ』と思い込んでいるらしい。しかし私は違う。帝国を強くするには、力ではなく秩序が必要なんだ」


 若手官僚たちの表情が変わった。不安と緊張に沈んでいた顔が、徐々に決意へと塗り替わっていく。


「殿下のお言葉、必ず宰相府に伝えます」

「三日目の葬儀が終わり、夜が明けた瞬間、帝国は動く。そのときに宰相府が誰の手にあるか──それがすべてです」


 フェリクスの言葉に、レグルスは静かに頷いた。


「喪が明けたら、私が帝国を動かす。父上の影ではなく、私自身の足で」


 その瞬間、部屋の空気が固く締まった。もう迷いはなかった。


 レグルス陣営は、レグルス自身が抱く『帝国を変える意志』を中心に動き始めた。


 夜気が窓を揺らし、外の黒旗が翻るたび、若手官僚たちは無意識に肩を竦めた。


 三日目の葬儀が終われば、帝国は否応なく動く。静けさはもう、嵐の前触れにしか思えなかった。


 そしてレグルスは知っていた。喪が明けた瞬間、自分が帝国を変えるための最初の一歩を踏み出すことを。

2026/01/31

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