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賢者の帰還

 レグルスから紫闇に任されている任務は、主に市井しせい水準レベルでの諜報活動である。


 街角の露店では、いつもは明るく声を張る店主たちも、この日は周囲を気にして落ち着かない。兵士の一団が通るたび、街の空気はヒヤリと凍りつき、笑い声がスッと消えた。そうした街の変化が、紫闇の肌にもじっとりと張りついていた。


 この一週間ほどで、街には軍靴の音が増え、食料が一般市民に回りにくくなっていた。


(……これは、戦の前触れかもしれないね……)


 日常に混じる不穏な気配をヒシヒシと感じ取り、紫闇は不快そうにギュッと眉根を寄せた。


 ついでにそれとなく『帝国軍元帥・バルセリウス』に関する情報も集めてみたが、レグルスが言った通りの人気ぶりだった。


(『勇者』に『英雄』、ねぇ……でも、どうにもそれが胡散臭いったら……)


 ここまで国民に好意的な噂が浸透しているのは、誰かが意図的に情報を流したからかもしれない。そう裏読みしてしまうほどには、紫闇の中でバルセリウスに対する警戒は強かった。


 噂の内容がどこも同じなのも不可解だった。『強く優しい』『国の盾』『民の英雄』──まるで教科書を読みあげているように、兵士たちは揃いも揃って同じ言葉しか口にしない。誰かが考えた文章を、ただ暗唱しているようだった。


 本来なら、上官の愚痴や酒席の本音が混じるものだ。それが一切ないのは、教育か、洗脳か、恐怖か。いずれにせよ自然ではない。


 そこから導き出された答えはひとつだった。


(誰かが意図的に『英雄』を作ってる……?)


 それが本人の仕業なのか、はたまた別の何者かの意図なのかは判然としないが、バルセリウスの『英雄像』が人為的なものだということは、これではっきりした。


(じゃあ、なにがなんでもレグルス殿下の『依頼』を遂行しなくてはねぇ……!)


 使命感に燃える紫闇は、とある民家の前に立ち、入口の扉を三度叩いた。


 扉を開けた住人は、紫闇の顔を見るなり無言で扉を閉めようとした。


「ちょいとお待ちよ……!」


 紫闇はすかさず足を扉の間に押し入れ、扉が閉ざされるのを阻止した。住人の男性は呆れたように落ち着いた口調で告げる。


「やれやれ……貴女もたいがいしつこい人ですね。帰ってください。そして二度と来ないでほしいものです。迷惑ですよ」

「まだ三回目じゃないの! 世の中にはねぇ、『三度目の正直』って言葉があるんだよ。アタシは絶対に諦めないからね!」


 だが、住人の反応はつれなかった。


「……『二度あることは三度ある』とも申しますよ。お引き取りください」


 紫闇の足と扉の間で、木が軋む音がした。是が非でも家の中に入り込もうとする美女の紫闇と、扉を閉めたい住人の男性は、しばし睨み合う。その構図は嫌でも人目を引いた。


 周囲からジロジロと向けられる好奇の視線に耐えられなくなった男性は、やがて深いため息をついて、扉を開けた。


「……紅茶を飲んだら帰ってくださいね」

「はぁい」


 三度目の訪問にして、ようやく目当ての人物の家に入り込んだ紫闇は、上機嫌で家の中を見回した。壁という壁が本棚で占められ、そのどれもが溢れるほどの本で埋まっている。


(学者さんの家って感じ……)


 経歴から想像していた以上に、学者の匂いが濃い家だった。

 近づいてよく見れば、幾度も読み返された形跡があった。机の端には手製の地図や年代記も積みあげられている。紫闇はその几帳面さに、彼がどれほど理性と研鑽を重んじる人間なのかを悟った。


(……行政法に戦史、古代語まで揃ってる。なるほど、ただの政務官じゃない──これは『国を動かす側』の頭の作りだねぇ……こういう人間は、正義より『真実』に弱いのさ……)


 武断的な帝国だからこそ、高級政務官でも学者型の人間は珍しい。レグルスからしてみれば喉から手が出るほど戻ってきてほしい人材に他ならなかった。


「さてと……アタシとお話ししないかい、元・高級政務官にして、レグルス皇太子殿下の元・教育係のフェリクスさん?」


 厨房で紅茶を淹れて戻ってきた男性は、嫌そうに紫闇へ椅子を勧めて、紅茶を差し出した。


 白髪混じりの柔らかそうな灰色の髪に、嵐の空のような濃い灰色の瞳をしている。背筋はピンと伸びているが圧はなく、その目元にはほのかな笑い皺が刻まれていた。


「はぁ……シアン殿とおっしゃいましたね。申し訳ないのですが、私はあの場所から距離を置くと決めた身です。今の静かな暮らしを手放すつもりはありません。殿下には、どうかそのようにお伝えください」


 男性──フェリクスの言葉は、表面上は穏やかだがとりつく島もなかった。だが、紫闇はこの程度ではめげない。


「これは殿下の依頼とは別に、貴方自身に関わる話さ。こっちのほうがよっぽど大事だろうねぇ」

「……?」


 皇太子の命令よりも大事な用件とはなんぞや。フェリクスは困惑したように目を瞬いた。


「そうだねぇ……例えば『世界樹』の話とか」

「──!」


 フェリクスが大きく目を見開く。その表情に、理性と感情のせめぎ合う影が走った。


 消されたはずの知識を、他者の口から聞かされる。フェリクスの瞳に、わずかな恐怖と、抑えきれない歓喜が混じる。


 紫闇はニッと口端を吊りあげて、さらに畳みかけた。


「世界樹を守る『エルフ族』とか、地下世界に住む『ドワーフ族』とか、アンタが興味を惹かれそうな話題なら、こっちにはいっぱいあるんだよ」


 紫闇の誘惑にフェリクスの視線が揺れた。その灰色の瞳には明らかな知的好奇心の色が見え隠れしている。もうひと押しかな、と紫闇は思った。


「そういえば……願いを叶える『世界樹の花』、なんて話題もあったねぇ」


 その瞳の奥に、理性が負ける音を紫闇は確かに聞いた。


「……話を伺いましょうか」


 ついに知的好奇心の誘惑に負けたのか、フェリクスは観念した様子で、紫闇の向かい側にある椅子に腰をおろしたのだった。


***


 紫闇の長い話を聞き終えたフェリクスは、額に手を当てて、まるで自分たちの国のあまりの変化を嘆くように、深く息を吐いた。


「そうでしたか……魔女裁判の噂は聞きました。しかし……そこまで荒れていたとは……私が目を逸らした間に、帝国は狂い始めていたのですね」


 フェリクスのどこか後悔の滲む声音に、紫闇は静かに返した。


「そう……世界樹の島が狙われてるのは、この国ひとつの問題じゃないよ。アタシらは呼ばれたんだ、世界樹に──そして竜神にね。あれは、ただの偶然じゃない」


 紫闇の言葉にフェリクスは頷いた。だが、心はひどく揺らいだままだった。


「この帝国で、伝説や伝承を専門にした学者はみんな追放されたか火炙りにされたかで、いなくなっちまった。アンタはそれに反発して政務官を辞めたんだろう?」

「それは……そう、ですが……」


 フェリクスの迷いは晴れない。あの混乱の日々を、彼は忘れたことがなかった。学者が次々と連れ去られ、火刑台の煙が帝都を覆ったあの地獄を。フェリクスは無意識に、紅茶のカップを強く握っていた。


「帝国は、一度『異端狩り』に火をつけました。一度燃えた炎は、そう簡単には消えません……私が戻ったところで、また同じ結末を迎えるかもしれません」


 彼の懸念はもっともだった。だが、きっとそうはならない──紫闇はレグルスの変化をこの目で見てきたからこそ、そう言い切れた。


「今、レグルス殿下はあの魔窟に一人きりで戦ってる。彼は本気でこの帝国を変えようとしてるのさ。アンタの助けが必要なんだ。お願いだよ」


 紫闇の言葉に揺れ続けるフェリクスは、一度だけ目を閉じて深呼吸をすると、目を開けて紫闇を見据えた。


「……ひとつ、教えてください」

「?」

「貴女は異国の旅人でしょう。なのに何故、それほどまでにレグルス殿下の肩を持つのですか?」


 だが、紫闇の返事は明快だった。


「そんなの、決まってるじゃない。殿下はアタシの育ての娘を逃がすのを手伝ってくれたんだ。火炙りにされそうだった『白い子供』を助けてくれたのさ」


 受けた恩は必ず返すのがアタシ流だよ。紫闇の言葉に、フェリクスは思わず目を丸くした。


「あの殿下が……?」


 フェリクスの記憶にあるレグルスはいつも弱気でウジウジしたまま頼りなくて。それが我慢ならなくて、皇家そのものを見限ったつもりだった。


「アンタがいつの頃の殿下の話をしてるのか知らないけどさ、彼は間違いなく日々成長してる」


 紫闇はそこで一旦言葉を切った。最近のレグルスは、見ているだけで涙ぐましい成長を遂げていた。


「殿下は毎晩、ろくに寝てないよ。兵站から民生の調査まで一人で抱えてさ。昨日なんて、書類に突っ伏したまま気絶したみたいに寝てたし。それでも朝には誰より早く起きてた……あれは本気さ。誰より帝国をよくしようと足掻いてる。その背中、アンタなら見る価値あると思うけどね」

「──!」


 決定的だった。それが事実なら、今の皇太子はフェリクスが知る頃に比べて、確かに成長しているのだから。


「……わかりました。そこまで言われては、私も覚悟を決めましょう。ですが──もし殿下が、あの頃のまま一歩も変わっていないというのなら……私は二度と皇城の敷居は跨ぎません」


 フェリクスの言葉に、紫闇はただニヤッと笑った。


「……それ、本人に言ってやりなよ。殿下はね、もう逃げるような男じゃないよ。アンタも、きっと驚く」

「フッ……いいでしょう」


 こうして、フェリクスは再び皇城へ戻る決意を固めたのだった。



 身なりを調えたフェリクスを連れて、紫闇が皇城に戻ると、レグルスはまるで幻でも見たかのような反応を示した。


「……いかんな。フェリクスの幻影が見える……こんなものが見えるほど、私は追い詰められているのか……」


 レグルスの独り言がしっかり聞こえていた紫闇は思わず苦笑した。


「少し休んだほうがいいのは賛成だけど……幻影にしては、ずいぶん足音が重いだろ? 本物さ」

「──!」


 弾かれたようにレグルスは椅子から立ち上がり、机に手をつきながらよろめくように歩み寄った。幻を恐れる子供のように、しかし願わずにはいられない大人のように。その瞳が揺れていた。


 否定したいのに、目が逸らせなかった。あり得ない光景を前に、レグルスの胸の奥で凍りついていたなにかが、かすかに溶けた。

 あの日、自分を叱り、導いてくれた背中が──もう二度と会えないと思っていた影が──そこにあった。


「……本当にフェリクスなのか?」


 震える声が、元・教育係の名を呼ぶ。その憔悴した様子に、過ぎ去った時の重みに、フェリクスは胸の痛みを覚えた。


「はい、殿下。何度もお迎えをくださったのに、応じるのが遅くなり、大変申し訳ありません……ただいま、お傍に馳せ参じました」


 深々と頭をさげたフェリクスに、レグルスは震える手でフェリクスの肩に触れ、そっと頭をあげさせた。


「フェリクス……よく戻ってきてくれた」


 レグルスの今にも泣き出しそうな紺碧の瞳に、真摯な反省の色を見て取ったフェリクスは、今回ばかりは早く皇太子の傍に戻らなかったことを後悔した。


「さっそく席を用意させよう。フェリクスを、元・高級政務官であり、私の元・教育係という実績により、皇太子補佐官に任命する。それでよいな?」


 それは命令ではなく、ただレグルスがフェリクスに与えた『逃げ道』だった。皇太子としてではなく、かつて教えを受けた者としての、無理強いはしないという最後の優しさ。


 それがわかったからこそ、フェリクスは胸に込みあげるものを抑えきれず、深く頭を垂れた。


「ここに来た時点で、覚悟はできております。どうぞ、なんなりとご下命ください」

「!」


 フェリクスの態度に思わず戸惑ったレグルスに、紫闇は笑って背を押してやった。


「アンタの努力が、ひとつ実ったのよ。もっと素直に喜びなさいな」


 その言葉に、レグルスはようやく泣き笑いのような安堵の表情を浮かべた。


「……では、さっそく任命書を作ろう。これからもっと忙しくなる。頼んだぞ、フェリクス」

「承知しました」


 すでに二人の間には親子のような旧知の気安さが漂っている。紫闇は、レグルスとフェリクスの姿を見やりながら、満足げに腕を組んだ。


 フェリクスはレグルスと短く視線を合わせたあと、ゆっくりと紫闇へ向き直った。


「さっそくですが、シアン殿」

「ん?」


 紫闇は腕組みを解くと、フェリクスを見た。


「貴女を腕利きの呪術師と見込んで、ひとつ内密の調査を依頼したいのですが」

「なんだい?」


 依頼内容を聞き終えた紫闇は、しばし無言で思案すると、ゆっくりと頷いた。


「……いいだろ。アタシに任せな」


 その口元に浮かんだ笑みは、これから暴かれる真実を楽しむかのようだった。

2026/01/29

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