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霧の島

──そして、逃亡七日目


『白雅、起きろ』


 波に揺られているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 竜神の呼び声に、白雅が目を開けるといつの間にか小舟は岸に流れ着いていた。


「ここは……?」

『あの海の対岸だ』


 寝起きの白雅が竜神の言葉を理解するには、しばらくの時間を要した。理解した瞬間、事態の異常さに気づく。


「嘘だろ……? あんなに離れていたのに、偶然流れ着いたってのか?」

『偶然ではない。おそらく導かれたのだ』


 どこか確信がある様子の竜神の返答に、白雅は納得せざるを得なかった。


 空を仰いで時間を確認しようとしたが、周囲には濃霧が満ちており、空自体がほとんど見えなかった。


「私はどれくらい眠っていた?」

『小舟が動き出してから、気を失うようにして眠りに落ちたからな……約三刻、といったところであろう』


 そんなに眠っていたのか。白雅は目を丸くしたが、ふいにこちらへ近づいてくる気配に気づき、双剣に手をかけた。霧の奥で、誰かが水底を踏むような気配が揺れた。


 いつでも双剣を抜けるように警戒していると、やがて三人の人影が霧の中から現れた。


「──!」


 彼らは皆、一様に長い金色の髪を背中に流し、淡い翡翠色の瞳に、そして──尖った耳をしていた。

 思わず、白雅の指先に力がこもる。噂でしか知らない種族が、今、目の前に立っている。


「……まさか、世界樹ルナヴェルナ様が人の子をこの島に呼び寄せるとは」


 三人の中で先頭にいた男がそう言った。


世界樹ルナヴェルナ……? アンタたちは、いったい……?」


 不思議そうにしている白雅に、男たちは不機嫌そうに、その端正な顔立ちを歪めて吐き捨てた。


「その質問に答える前に、正体を表せ。まったく、人の子というものは……」


 白雅は慌てて外套の頭巾を脱いだ。戸惑う暇も覚悟する時間すらなかった。


「──!」


 今度は男たちが白雅の容姿に息を呑む番だった。


「……なるほど。『白い子供』か……ならば、人の子でありながら、ルナヴェルナ様に呼ばれるのも道理」


 その言葉に、先ほどまでの強い嫌悪感はない。白雅は不思議に思った。


 胸の鼓動を落ち着かせるように白雅は息を吸った。


「私は白雅だ。アンタたちは、何者だ?」


 白雅の問いに、男たちは口々に答えた。


「我らは、この霧の中に住まうエルフ族……この島におわす世界樹・ルナヴェルナ様の守護を司っている」


 どうやらここは島で、世界樹・ルナヴェルナと呼ばれる存在がいるらしい。


「エルフ族か……初めて見た。アンタたちの名前は?」


 だが、エルフ族の男は白雅を小馬鹿にするようにフンと鼻を鳴らした。


「我々にとって名とは、枝葉のようなものだ。根はひとつ。名を持つ必要などない。代々の族長だけが、唯一『アルボリクス』と呼ばれているのみだ」

「へぇ……人間とは根本的に違うんだな」


 白雅の言葉に、男たちは呆れたように目を細めた。


「当たり前だ。我らを愚劣な人間どもと同列に語るとは、片腹痛い」

「……なるほど」


 どうやら彼らは人間たちが大のつくほど嫌いらしい。それがわかったので、白雅は大人しく口をつぐんだ。


「……『白い子供』、ハクガよ。アルボリクス様が貴様をお呼びだ。ついてこい」

「え? ……あぁ」


 エルフ族の男たちは小舟から白雅の荷物を手に取ると、白雅を先導して歩き出した。


 霧は濃く、一寸先さえも見えないほどだ。彼らの手にしている提灯ランタンのような翡翠色の灯りが、かろうじて識別できる。

 霧は肌に触れるたび、冷たいというよりも重く、白雅は思わず身震いした。


「そういえばさ」

「?」

「私が渡ってきた海だが……何故、魔の海峡と呼ばれているんだ?」


 その名前を耳にした途端、エルフ族は嫌悪感をあらわにした。


「……それは人間側の呼称だ。あれは聖なる潮の流れが、世界樹を人間の魔の手から守っているにすぎぬ」

「……なるほど。悪かった」


 立場が変われば、ものの見方も変わる。白雅は素直に謝罪した。


「……おかしな人間だな、貴様は」


 エルフ族の男たちはポツリとそう呟いたのだった。


***


 エルフ族の族長・アルボリクスは老エルフの男性だった。身長が高く、高齢なのに矍鑠としている。


「よくぞおいでなさった、人の子よ。儂はエルフ族の族長・アルボリクスと申す」

「白雅だ。まぁ、気軽に頼む」


 アルボリクスは白雅の反応に、面白そうに肩を震わせた。


「これは……なんとも快活な女子おなごじゃ。人の子の女子はみな、そのように話すのかね?」


 白雅はアルボリクスの質問に首をかしげた。


「いや? 私のような話し方をする女性には、ほとんど会ったことがない。みんなもっとお淑やかだ」


 アルボリクスはついに声をあげて笑った。


「そうであろう、そうであろう。そなたのような者は珍しい。実に興味深い」


 その穏やかな翡翠色の瞳には、恐怖も嫌悪の色もない。それが逆に白雅には不思議だった。


「エルフ族って『白い子供』を嫌がらないんだな」

「そうじゃのう。それも自然の摂理ゆえ。白き者は『偏り』ではなく『均衡』の兆し。自然は常に揺らぎを抱えるものよ」


 アルボリクスの言葉は深かった。彼の言うことが本当なら、『白い子供』が生まれるのは、凶兆でもなんでもなくなるのだから。


「ふぅん……どっちかっていうと、これまでで一番親切にされてる気がするくらいだ」


 親切にされすぎて、少しだけ居心地が悪い。白雅の言葉に、アルボリクスは目を細めた。今度はその翡翠色の瞳に同情の色が見えた。


「外の世界は、そなたのような『白い子供』には生きづらい……人は、理解できぬものを恐れるからのう。それゆえ、皆、哀れと思うのじゃよ」

「……そっか。アンタたち、人間嫌いなのに、ありがとな」


 胸の奥がじんと熱くなった。こんなふうに真正面から肯定されたことなんて、ほとんどなかったから。

 どこか苦笑するような白雅の言葉に、アルボリクスは思わず目を丸くした。


「そなた……変わっておるのう……じゃが、悪くない」


 アルボリクスは好々爺然として目を細めた。なんだかさっきもそんなことを言われたような気がする。白雅はそう思った。


「それで……世界樹──ルナヴェルナが私を呼んだと聞いた。璙王──竜神も同胞に呼ばれたと言っている。どちらもルナヴェルナのことで間違いないんだな?」

「貴様……ルナヴェルナ様を呼び捨てに……!」


 案内してきてくれたエルフ族の男が激昂したが、アルボリクスがサッと右手を挙げると、すぐに静かになった。


「……なるほど。そなた、竜神に選ばれし者か。それならば、その危ういまでのまっすぐな純粋さ、頷ける話じゃ」


 アルボリクスの言葉に、白雅は小さく肩を竦めた。


「まぁ、望みを叶えてもらった対価だけどな」

『……白雅よ。そなた、対価だから我とともにいるのか……?』


 どこか傷ついたような竜神の声に、白雅は慌てて弁解した。


「違うって。最初は確かに対価だったけど、今は違う。私は璙が好きだし、対価でつながってるのはむしろ璙のほうだろ?」

『……』


 至って真面目にそう口にする白雅に、竜神は沈黙しか返せなかった。誰かが吹き出す声が聞こえて、白雅が振り返ると、エルフ族の男たちが肩を震わせて笑いをこらえていた。竜神がどこに傷ついたのか、白雅だけがまったく気づいていなかった。


 アルボリクスは肩を竦め、ため息まじりに呟いた。


「……こりゃあ、前途多難じゃのう。竜神よ」

『……まったくだ』


 どこか呆然とした様子のアルボリクスに、竜神は相槌を打ってから気づいた。


『……待て。そなたら、我の声が聞こえておるのか?』


 竜神の問いに、アルボリクスは笑って答えた。


「もちろん、はっきりとな。そもそも我らエルフ族は世界樹・ルナヴェルナ様の『声』を聞ける者たちなのじゃ。ここまで強い精神感応力ならば、普通に会話するのとなんら変わらぬよ」


 元々話さない植物の声が聞こえる彼らには、竜神の声は筒抜けなのだった。



 白雅は、アルボリクスに連れられて世界樹・ルナヴェルナの元を訪れていた。


 霧の帳をくぐるたびに、空気は澄み、音は遠ざかり──白雅は世界そのものが静まり返っていくような感覚を覚えた。


 霧の中の奥深く、天高くそびえるようにして、その神聖な大樹は立っていた。


「これが……ルナヴェルナ……」


 思わず息を呑むほどに清冽な空気が大樹の周囲には漂い、許しを得て樹皮に触れると不思議に温かな脈動を感じた。

 霧の粒子が光を帯びたように揺れ、枝葉はかすかに呼吸しているようでもあった。


「世界樹はすべての『命の源』……」

「……『命の源』?」


 白雅は不思議そうに繰り返した。


「そうじゃ。あらゆる命はルナヴェルナ様のご加護のもとに生まれ、巡り、還っていく」

「まるで……母親、みたいだな」


 白雅の素直な呟きに、アルボリクスは慈愛を含んだ微笑みを返した。


「そう、ルナヴェルナ様は、まさにすべての命の母親でいらっしゃるのじゃよ」


 アルボリクスの言葉は敬愛に満ちていた。


「ルナヴェルナ様は千年に一度、その花をお咲かせになる……皆既月食の夜に、ルナヴェルナ様に選ばれし『月の乙女ルナフェリア』が祈りを捧げることで、花が咲くのじゃ」


 ルナフェリアに選ばれるのは、心の清らかな者だという。


「世界樹の花には願いを叶える力があってのう」

「へぇ、璙の竜珠みたいだな」


 アルボリクスの言葉に、白雅がそう答えると、アルボリクスはおかしそうに肩を震わせた。


「ただし、誰の願いが叶うのかは誰にもわからぬ。竜珠との大きな違いはそこじゃな」

「へ……? そんなの、願う側にしたら地獄じゃないか」


 誰の願いが叶うかわからない? そんな博打みたいな話があっていいのだろうか。


「心配せずともよい。悪しき願いは絶対に叶わぬようになっておる。我らがルナヴェルナ様は公明正大な御方ゆえ」


 それなら少しは安心だが、それにしても尺度スケールの大きな話だった。


「次に花が咲くのは、いつなんだ?」


 白雅が気になって尋ねると、アルボリクスは目を細めた。


「今年じゃ」

「え? 今年?」


 聞き間違いかと思ったが、そうではないらしい。今年などあと半年もないではないか。


「そう……今年、花は咲くはずであった。しかし……」


 ルナヴェルナが月の乙女ルナフェリアを選ばないのだという。


「どうして……?」


 アルボリクスは遠く霧の彼方を見はるかすように、エウロペ帝国のある方角を見遣った。


「貪欲な人間どもが、この地を狙っておるのじゃ……己が領土の拡大というくだらぬ理由でな」

「!」


 それはおそらくエウロペ帝国のことだろう。当代の皇帝・マルティヌスは野心家で強欲なことで有名だった。


「ルナヴェルナ様は世界中を見守っておいでじゃ。だからこそ、邪な声も悪意も届きやすい」

「もしかして……弱ってるのか?」


 白雅の言葉に、アルボリクスは静かに頷いた。


「その中で、ルナヴェルナ様は竜神と絆を結んだそなたの存在をお知りになった。そこで、竜神を介して、そなたをこの島へ導かれた、というわけじゃ」


 事情を打ち明けられた白雅は、わずかに視線を落とした。


「……私に、なにができると?」


 同族であるはずの人間から追われ、殺されそうになっている自分に、いったいなにが──。


「人間たちを止めてほしい」

「──!」


 予想通りの言葉に、白雅は胸の奥が痛むのを感じていた。


「……悪いけど、それは──」


 言葉が、喉で止まった。拒めば楽だと、わかっている。それでも、胸の奥が妙にざわついた。


「無理じゃと? やってみもせずに、何故わかる?」


 アルボリクスの言葉は、白雅を責めているわけではなかった。だからこそ、白雅は自分の迷いを正直に告白した。


「私は……逃げてきたんだ。人間に追われて……

もう少しで火炙りにされるところだった。あのとき、死が背中に触れていた。そんな私に彼らを止められるなんて、とても思えないんだ」

「ふむ……それはつらかったのう……」


 だがしかし、とアルボリクスは思うのだ。


「聞くが、そなた、どのようにして人間の手を逃れたのだ?」

「え? それは、馬で逃げて……」


 しかし、アルボリクスは静かに首を横に振った。


「その前じゃ。人間に捕まって、どのようにして逃げた?」

「……紫闇が……仲間が逃がしてくれた。もう一度、生きてまた会おうって……!」


 言葉はそこまでだった。あとは形にならない嗚咽として唇からこぼれ落ちる。


 アルボリクスは優しく白雅の背をさすった。


「よしよし……よう耐えたな。つらかったじゃろう。今は好きなだけ泣くがよい。じゃがな、ハクガよ」

「……?」


 ボロボロと涙をこぼしながら、白雅はアルボリクスの話に耳を傾けた。


「そなたの、その仲間に恵まれるという才能……それこそが、ルナヴェルナ様がそなたをここにお呼びになった理由ではないか、と儂は思うのじゃ」

「……仲間……?」


 どこか頑是ない幼子のように、頼りなく言葉を繰り返す白雅に、アルボリクスは微笑んで告げた。


「そうとも。そなた一人にできることは少なくとも、そなたには心強い仲間がおる。そなたたちが心をひとつに力を合わせるとき……そのときこそ、可能性の扉は開かれるのではなかろうか?」

『……!』


 それまで黙って話を聞いていた竜神は、ハッとした。白雅が竜神の元を訪ねてきたとき、白雅には仲間がいた。ローラン国で砂毒事件を解決したときにも、仲間がいた。

 仲間とは、白雅にとってかけがえのないものなのだ。竜神はここにきてそれを悟った。


『白雅……そなたは、一人で立っておるように見えて、いつも誰かが支えておる。そのことを、どうか忘れないでほしい。そなたの傍には我がいる。紫闇もいる。我らを頼ればよいのだ』

「璙、でも……!」


 泣いている白雅に泣きやんでほしい一心で、竜神は言葉を重ねた。


『紫闇のことが心配ならば、我を頼れ。我らは精神感応でつながっておるゆえ、世界中どこにいても我を介して話は可能だ』

「そ……」


 そこで白雅は言葉に詰まった。竜神は不思議に思った。


『……そ?』

「それを早く言え──!」


 珍しく白雅の怒りが爆発したのだった。

2026/01/26

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