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逃亡の旅

 その日の夜、白雅は妙に心がざわめいて眠れなかった。牢の空気がやけに冷たく、胸の奥だけが落ち着かない。


『白雅』


 耳ではなく、胸の奥底に響く声。竜神だった。


「璙、どうした?」

『支度をせよ。紫闇が来るぞ』

「!」


 一瞬でその意味を理解した白雅は飛び起きて、急いで身支度を調えた。


 紫闇がやってきたのは、その直後だった。


「白雅、大丈夫かい?」


 小声で確認する紫闇に、白雅は頷きを返した。


「あぁ。だが、見張りはどうしたんだ?」

「全員、気持ちよくおねんねさ。呪術師謹製の眠り薬の効果を侮るんじゃないよ」


 紫闇の手の中には小瓶があった。白雅はその小瓶に見覚えがあった。だが、その眠り薬は対象に飲ませないと効果が出ないはずだ。


「どうやって見張りに飲ませたんだ?」

「そこは、ちょいちょいっとね。ほら、警備の連中って喉が渇きやすいでしょ? ……なーんて、実は協力者がいるのさ」

「……なるほどな」


 白雅の脳裏に、直感的に裁判にいた青年貴人の姿が思い浮かんだ。彼かもしれない。


 紫闇の手には白雅の荷物がある。その中には双剣と弓矢も入っていた。


 白雅は荷物を受け取ると、胸の底に熱が灯るのを感じた。もう迷わない。生きて帰る──そのための一歩だ。


 紫闇は彼女の背を軽く押した。


「さぁ、行きな」

「……紫闇は一緒に逃げないのか?」


 戸惑う白雅に、紫闇は小さく肩を竦めた。


「アタシは無罪になったんだ。どうとでもなる。だけど、問題はアンタさ。このままじゃ火炙りにされちまうよ。アタシと二人で逃げたら、また捕まるかもしれないけれど、アンタ一人ならきっと逃げ切れる」


 アンタの傍にゃ璙王もいるしね。紫闇はそう言って寂しげに微笑んだ。


「紫闇……」

「必ず無事で乗り切るんだよ? アタシの可愛い娘。また必ず会えるって、信じてるから」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がキュッと縮み、喉の奥で呼吸がひとつつかえた。声を返そうとしても、うまく言葉にならない。


 未来など、今は霧の向こうにあるように遠い。けれど──また会える、と紫闇が言った。その確信めいた声音が、暗闇の中でひとつの灯火になった。


 白雅は思った。今度こそ、誰かの思いを置き去りにしたりしない。自分の足で未来を選び取り、その先で紫闇にも、他の大切な人々にも胸を張って会いに行こう、と。


 紫闇はふわりと白雅を抱きしめた。一瞬、言葉も時間も止まったように感じた。その腕には、十三年間分の愛情がこもっていた。腕の中で、白雅は確かな温もりを実感して、それから顔をあげた。


「……わかった。紫闇もどうか無事で」

「アタシのことは気にするんじゃないよ。まずは自分の無事を一番に考えるんだ。アタシもそうするから」


 そうだ。白雅はローラン国で紫闇と竜神に約束したのだ。二度と自分の命を投げ捨てるような真似はしない、と。


「あぁ。必ず生きて、また会おう」

「約束ね」


 身体が離れる。温もりが消えてしまうのを寂しく思ったのも束の間、白雅は顔をあげ、荷物を手にすると、静まり返った地下通路へと歩き出した。


 地下通路は湿り気を帯び、壁には冷たい苔が貼りついていた。火の気がないため、薄闇がねっとりと張りついたように重く、前方に続く道すら輪郭を曖昧にしていた。


 水滴が落ちるたび、身体が無意識に強張った。音そのものより、『聞かれたかもしれない』という想像が、頭から離れない。


 通路の奥から、石が転がるようなかすかな音が響いた。白雅は息を呑み、思わず足を止めかける。


 鼻を刺す湿った土の匂いが、恐怖に敏感になった感覚をさらに研ぎ澄ませた。背筋を伝う冷気が、ただの風なのか、追手が放つ気配なのか判別できない。


 それでも白雅は歩いた。ここで立ち止まれば、この暗闇が永遠に自分を閉じ込めてしまう──そんな錯覚すら覚えながら。



 竜神が上空からの視点で道案内をしてくれるお陰で迷うことはなく、また誰にも出会うことなく皇城の外に出ることができた。


 別れ際、紫闇が白雅のために借りた馬の位置を教えてくれた。その手がかりを頼りに馬を見つけ、白雅は騎乗すると、馬を走らせた。


 まだ誰にも気づかれてはいない。このひと晩でどれだけ逃げおおせられるか、それがこの逃走劇の要だった。


 街道を避けて馬で森の縁を目指した。


『白雅、このまま北西に向かえ』

(北西……?)


 竜神の言葉に内心首をかしげる。すると竜神は呆れたように告げた。


『この国に来た目的を忘れたのか? 同胞の呼び声は北西からだ。そこへ向かうぞ』

(なるほど、了解……!)


 だが、白雅と竜神の逃亡生活はひと筋縄ではいかなかった。


 首都郊外の湿地帯は馬が足を滑らせやすくなっており、慎重に進むことが求められたうえに、途中の川沿いではぬかるみに足を取られ、時間の浪費を余儀なくされた。


 馬もすでに疲れの色を見せている。白雅はその首筋を撫で、なんとか励ますように小さく声をかけた。


 ぬかるみに足を取られるたび、馬体が不安定に揺れ、落ちそうになる。白雅の脚は力み、指先は冷たい汗で濡れていた。


 追手の動きがまだ見えないとわかっていても、安心にはほど遠い。いつ矢が飛んでくるのか、いつ森の影から誰かが飛び出すのか、警戒心が絶えず背筋を張り詰めさせる。


(まだ追手は……来てないか……)


 振り返り、振り返り、落ち着かない白雅を見かねて、竜神は口を挟んだ。


『追手が動けば我が教える。そなたは無事に北西へ向かうことだけを考えよ』

(わかった。ありがとう、璙……)


──逃亡二日目


 夜明けの冷気が骨の奥にまで染みていた。白雅は森の中へと馬を進ませた。竜神からの報告で、追手がかかったことは知っている。だが、歩みを止めるわけにはいかなかった。


 馬を控えめに歩かせつつ、森の奥へと入り込む。中は樹木が密で、空も見えないため、方向感覚を失いやすかった。


『白雅、こっちだ』


 それでも、竜神が進むべき道を示してくれるから、なんとか白雅は道を見失わずに済んでいた。


 倒木や絡まる蔓を切り払いながら、先へ先へと進んでいく。竜神と一緒にいるからなのか、野の獣たちはこちらを見ただけで逃げていった。


 喉は渇いているのに、水を飲む余裕すら惜しく感じる。『止まったら終わる』──その考えだけが、頭から離れなかった。


──逃亡三日目


 眠気はとうに消え、代わりに張りつめた緊張だけが白雅を動かしていた。


 竜神がなにかに気づいたように警戒をあらわにした。


『白雅。この先の川に、追手の一部がいるぞ。どうやら川沿いにそなたを捜しているようだ』

(そっか。教えてくれてありがとな、璙……)


 念の為、馬を樹につないで川の様子を歩いて見に行くと、確かに三人の兵士が川の傍をウロウロしていた。追手だ。


 白雅のいる場所から北西方向に進むためには、川を渡る必要がある。だが、川は増水しており、渡河は危険だった。


(さて、どうするか……)


 水嵩が減るまで待てば、渡りやすくはなるが、それは追手にも同じことがいえる。多少危険でも、今のうちに渡ってしまうべきだと白雅は判断した。


 追手が少し川から離れた隙に、森から馬で飛び出す。そのまま川に飛び込んだが、予想以上の増水に、馬の腹まで浸かってしまった。しかも物音で追手にも気づかれてしまう。


「いたぞ!」

「川を渡ろうとしているぞ!?」


 あと少しで対岸に着きそうなのに、馬が少しずつ水に流されそうになっている。


(あと少し……あと少しなのに……!)


 その様子を見た追手が二騎、川に飛び込んだ。白雅を追って徐々に迫ってくる。


 白雅は馬の腹で揺られながら、荷の奥から弓を掴み出した。水しぶきが矢羽を濡らす。追手の二騎を射抜くように睨みつけ、弦をキリリと引き絞った。


「動くな」

「!」

「それ以上、近づけば射る。川に落ちたら、まず助からないぞ」


 追手の動きが一瞬止まる。その隙を逃さず、白雅は馬首を再び対岸へと向けた。あと少し──。


(抜けた……!)


 馬はこれまでの重さが嘘のように、水を蹴りあげて対岸へ登った。思わず後方を振り返ると、追手の二人は濁流に足を取られかけ、一人はなんとか元の岸へ戻ったが、もう一人は──。


『白雅、なにをしている。今の隙に逃げろ!』


 だが白雅は、沈みかけた兵士を見捨てられなかった。彼らが敵であろうと、生きようと伸ばす手を切り捨てる──そんな人間には、なりたくなかった。それは、自分が見捨てられる側だったからかもしれない。

 逃げるべきだと頭ではわかっている。しかし、心がそれを許さない。


 白雅はゆっくりと顔をあげた。簡単に抜けないように鏃を強化した矢に、長い縄をつけて対岸のすぐ近くにある大木を狙って射た。


「その縄を使え!」


 岸にいた二人の兵士は目の前の出来事にポカンとしていたが、すぐに白雅の意図に気づき、木に深く突き刺さった矢に結ばれた縄を、流されつつある兵士に向かって投げた。兵士は過たずその縄を掴み取る。


(矢と縄の強度が保つかどうかは、あの兵士の運次第だ……)


 そこまで確認してから、白雅はようやく馬を走らせたのだった。


──逃亡四日目


 山脈に入り、洞穴で凍えるような一夜を越えた。


 白雅は夜明けを待って馬に跨がり、慎重に山の獣道へと進み出した。道が狭く、すぐ隣は崖に面している。


 崖沿いの道は、馬の蹄が一度滑ればそのまま奈落へ落ちかねない細さだった。足場は不安定だし、崖の上から落石が降ってくる可能性だってある。少しも気は抜けなかった。


『白雅、追手の一部が山を登っている』

(──!)


 竜神の警告に、白雅はすぐに動いた。馬を駈歩にさせた途端、さっきまでいたところに大きな石が降ってきた。こうなったら足場が悪いなどとは言ってられない。


 駈歩のまま、狭い山道を駆け抜ける。このまま四半刻程度は保つはずだ。白雅は辛くも追手の兵士たちの妨害を振り切ったのであった。


──逃亡五日目


 ようやく山を越え、平原に出た。開けた場所なので、ここは追手に見つかりやすい。そう考えていたそばから見つかったらしい。帝国の哨戒兵が白雅の存在に気づいた。


『白雅、このまま駆け抜けろ。この先に廃虚がある。そこまで行けば、身を隠せる場所もあろう』

(わかった……!)


 駈歩で哨戒兵を振り切り、竜神に導かれるまま、廃虚へと辿り着く。今は馬を休ませて、夜間に移動するしかなかった。だが、これは白雅にとってもしばしの休息となった。


──逃亡六日目


 廃墟を抜け、北西の海岸線に到達した。馬を降りてあたりを見回すが、見渡す限りなにもない。否、一艘の小舟は見つかった。


「璙、次はどこへ向かうんだ?」


 竜神が答えるまでには一瞬の間があった。


『……どうやら、この海岸の向こう側らしい』

「はぁ!?」


 白雅がよくよく目を凝らせば、確かに海の彼方にうっすらと対岸が見えている。


「どうやって向こう岸まで行くんだよ……?」

『……そこの小舟を使うしかあるまい』


 波は素人目にもわかるくらいに荒れており、とてもこんな小舟で渡りきれるとは思えなかった。


「簡単に無茶言ってくれるよ、まったく……!」


 それでも白雅は馬から小舟に荷物を移し、小舟を海岸まで苦労して移動させた。

 小舟を押すたびに、海のほうから低い唸り声のような風が吹き寄せてきた。


 白雅は唇を噛んだ。恐怖は確かにあった。それでも、その膝は不思議と震えなかった。ここまで来た。もう引き返す道は存在しないのだ。


 馬の手綱を離すと、その鼻面をそっと撫でた。


「お前もここまでありがとうな。お陰で助かったよ。でも、ここでお別れだ」


 馬の背が遠ざかるのを見送り、白雅はわずかに息をついた。潮風が冷たく肌を刺す。


 海は底知れず暗く、荒れた波が岩肌に叩きつけられるたび、白い飛沫が空へ散った。その様子を見つめるだけで、白雅の背筋は冷え、指先がじわりと震えた。


「本当に……これで渡るのか……?」


 思わず呟いた声は、風に浚われて消えた。古ぼけた小舟はいかにも頼りなく、櫂など一部欠けている。

 それでも進むしかない。紫闇との約束が、逃げる道を照らす唯一の灯火だった。


 海岸に小舟を押し出す。白雅が小舟に飛び乗ったところで、追手の姿が見えた。


 小舟は上手く波に乗ったようで、スルスルと滑り出して海岸から離れていく。追手がなにか叫んでいるようだったが、よく聞こえない。かろうじて『魔の海峡』という言葉だけを耳が拾った。


「なぁ、璙」

『?』

「魔の海峡って……まさかこの海のことじゃないよな……?」


 沈黙。一拍遅れて、竜神は言葉を返した。


『……うむ、我もそんな気がしてきた』

「──!?」


 声にならない悲鳴が白雅の喉から迸る。だが、後悔してももう遅い。小舟は流されるままに海岸から遠く離れていく。


 足元で小舟がギシギシと軋む。その頼りない響きが、背筋の奥に寒気を走らせた。荒波に煽られるたび、小舟が海に呑まれてしまう未来が、ほんの一瞬、脳裏を掠めた。それでも白雅は、歯を食いしばって前を向いた。


 陸はみるみる遠ざかり、風の音だけが周囲を支配している。


 白雅は思わず息を呑んだ。広大な海にひとりきり──竜神がいるとはいえ、この孤独は心を弱らせる。

 それでも前を見る。あちら側に、自分の進むべき答えがある。胸の奥で、確かな声が告げていた。


──進め。ここからが、本当の旅だ

2026/01/25

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