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海風の向こうへ

 ローラン国使節団の出立の日。空は晴れ渡り、エウロペ帝国の港には心地よい海風が吹いている。海鳥の鳴く声が遠くまで響いていた。


 行き交う船員たちの掛け声に、縄を締める音や木材の軋みが重なり、港には旅立ちの朝特有のそわそわした気配が満ちていた。


 港には見送りに来た皇帝・レグルスと宰相・フェリクスの姿があった。


「長らく世話になった。感謝する」


 ナディルがそう挨拶すると、レグルスは静かに首を横に振った。


「こちらこそ、シアン殿には本当に世話になった。まさか殿下の想い人とはつゆ知らず失礼した。今後の御多幸をお祈り申し上げる」

「ありがとう」


 微笑んで礼を言う紫闇に、フェリクスは咳払いをして告げた。


「今後は無茶をお控えになることです。いいですね、シアン殿」

「わかってるって」


 フェリクスとの出会いの一場面を思い出して、思わず苦笑した紫闇に、フェリクスはほんの一瞬だけ探るような視線を向けた。


「ナディル殿下」


 白雅が呼べば、ナディルはわざわざ足を向けてくれた。


「ハクガ殿。見送りに来てくれたのか」

「あぁ。紫闇のついでにな」

「なるほど。だが、その一言が聞ければ充分だ」


 ナディルは白雅の軽口にニヤリと口端を吊りあげて、それから白雅の耳元で囁くように告げた。


「シアン殿のことは任せてくれ。必ず私が守ると約束しよう」

「あぁ。アンタになら安心して紫闇を任せられる。よろしく頼んだ」


 白雅の言葉に力強く頷いて、ナディルは紫闇を呼びに元の場所へと戻って行った。


 次に、紫闇が駆け寄ってくる。


「白雅!」


 そのまま飛びついてきた、自分よりも背の高い紫闇の身体を、白雅は危なげなく抱きとめる。


 紫闇の腕にこもる力が強く、白雅は思わず息を呑む。強くあろうとする彼女の震えを、白雅はそっと受け止めた。別れの瞬間だけは、紫闇の腕にこもる力が、すべてを語っていた。


「元気でな、紫闇。ときどきは連絡する」

「アンタも元気で。絶対だよ。約束だからね」

「あぁ、約束するよ」


 それから紫闇は璙王に向き直った。


「璙王」

「?」

「最後に抱きしめてもいいかい?」

「? ……あぁ、構わぬが」


 突然の抱擁に戸惑いつつも、璙王はその温もりを拒まなかった。彼にとって『家族のような情』はまだ不慣れな感覚だったが、紫闇の腕に宿る優しさは、不思議と心を落ち着かせた。


 紫闇は一度、言葉を選ぶように息を吸った。


「白雅のこと、頼んだよ」

「うむ」


 泣かせたら承知しないからね! 最後にそれだけ強く言い聞かせると、紫闇は璙王を解放した。


「……母は強し、だな」


 紫闇は、どこか照れ隠しのように肩を竦めた。


「当ったり前よ。だけどね、璙王。アタシはアンタの幸せも願ってる。それだけは忘れないで」

「!」


 その瞬間、璙王の胸には温かで、それでいてどこか面映ゆいような想いが広がった。


 それから紫闇は再び白雅に向き直り、別れの名残を惜しむように二、三の言葉を交わすと、ナディルと一緒にローラン国の双月と砂狼の紋章を掲げた船に乗り込んだ。


「出航!」


 船が滑るように港を離れていく。徐々に遠ざかる船影を、白雅と璙王はいつまでも見送っていた。


 水平線に向かって小さくなっていく船影は、やがて波間の煌めきに溶けていった。白雅は胸の奥にポツリと灯った静かな寂しさを押し留めながら、そっと息を吐いたのだった。


***


 レグルスとフェリクスに別れの挨拶を告げ、新大陸へ向かう、と言ったらひどく驚かれた。


「本当に新大陸を目指すつもりか?」

「危険ではありませんか?」


 口々に心配してくれるレグルスとフェリクスに、白雅は胸の奥がじわりと温かくなった。


「ありがとう、二人とも。でも、璙──璙王を竜神の姿に戻さないと」

「?」


 首をかしげる二人に、白雅は思い出した。


「そうか。二人は璙とは初対面だったな」


 それから白雅は隣に立つ全身を外套で覆った男を紹介した。その佇まいは白雅と同じくどこか『只者ではない気配』があった。


「竜神の璙王だよ。いまは世界樹の花のせいで人間の姿をしてるけど、本当は──あの巨大な竜さ」


 璙王は二人にだけ顔が見えるように外套をそっとめくった。白銀の鱗が浮かぶ肌があらわになる。


「──!」


 ひと目見た瞬間、その異形具合にレグルスとフェリクスが息を呑む。だが驚きこそあれど、二人の眼差しに恐れはなかった。そこにあったのは、ただ静かな敬意だけだった。


「リョウオウ、というのか。お初にお目にかかる、竜神よ」


 レグルスが挨拶をすると、璙王は鷹揚に頷いた。


「うむ。会談で会ったな。あのとき、我も同席しておったのだ」

「そうだったのか。話には聞いていたが……」


 会談には竜神も密かに立ち会うとは事前に伝えてあったが、実際に目の当たりにするとまた違う感慨が生まれるらしい。


「新大陸には私と璙王の二人で向かう。だから、心配無用だ」

「……そうですね。竜神の加護があるのでしたら、あるいは一番安全かもしれません」


 神話や伝承に詳しいフェリクスがそう答えた。


「そういうことだ。二人とも、本当に世話になった。元気でな」

「こちらこそ」

「ハクガ殿とリョウオウ殿も、どうかお元気で」


 レグルスやフェリクスとはここで別れた。


***


 白雅と璙王は、港で新大陸行きの船を探した。幸いにも、本日出航予定の船が見つかった。


 出発の準備はすでに万端整っている。


「璙、一緒に行こう。新天地へ!」

「あぁ」


 行こう、白雅。そなたとなら、きっとどこへでも行ける。


 船縁に立ち、白雅は背後に寄り添う璙王の気配を感じ取る。互いの鼓動が、これから向かう未知の道を静かに肯定しているようだった。恐れよりも期待が勝っていた。


 頬を撫でる潮風が心地よいと、璙王は生まれて初めて感じた。白雅も同じ風を胸いっぱいに吸い込みながら、静かに未来を思った。

 その感覚は、小さな自由の、確かな始まりのようでもあった。



2026/02/11

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