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分かたれる道

「それで……紫闇はどうするんだ?」


 白雅の声の調子がガラリと変わった。どこか心配するような、少しだけ不安の混ざった声。


「アンタ、今更それを聞くのかい?」

「だって……」


 白雅はチラリと紫闇の隣に視線を向けた。そこにはどこか幸せそうな笑みを浮かべているナディルがいたからだ。二人の距離は、近い。


 会わなかったこの一ヶ月の間に、二人の間に流れる空気は明らかに変わっていた。

 その変化が、白雅の胸に小さなざわめきを落とす。


「なぁ、紫闇。ナディル殿下の顔が緩んでるんだが……アンタ、なにかしたのか?」


 白雅が半ば茶化すように言う。紫闇は軽く肩を竦めた。


「……さぁね。本人に訊いてごらん」


 そっけない返事なのに、声の奥底にはかすかな柔らかさが滲んでいた。その変化に気づいた白雅は、思わず目を細める。


──あぁ、これはもう大丈夫なんだ


 そんな確信が胸の内にゆっくりと落ちてきた。


「で、実際のところどうなんだ? ナディル殿下」

「ちょっと……本当に訊くヤツがあるかい」


 紫闇の冷静なツッコミには構わず、ナディルはにっこりと笑った。


「聞くか? 長い話になるぞ」


 白雅は、一瞬だけ肩の力が抜けた。自分が以前、彼に言った台詞だったからだ。


「……やめとく。馬に蹴られたくはないからな。結論だけ教えてくれ」


 フッと口元を緩めて本来の調子に戻った白雅に、ナディルはそっと紫闇の背中をさすって促した。


 紫闇はひとつ深呼吸をすると、穏やかに話し始めた。


「アタシね……ナディル殿下と一緒に、ローラン国へ戻ろうと思うの」

「!」


 白雅の心臓が大きく跳ねた。


「そっか……決めたのか」

「うん」


 しばしの沈黙が降りた。白雅はたっぷり迷って、それからようやく口を開いた。


「理由、聞いてもいいか?」

「あのね……」


 紫闇はポツリ、ポツリと白雅に本音を吐露した。紫闇がこれまで恋愛を避けていた理由。名前を変えてまで、呪術師として邁進しようと思ったこと。

 そして──白雅のことを、本当に娘として愛していること。そこだけは、どれだけ自分を取り繕っても揺らがなかった。


「アタシは、これまで逃げてたんだ。自分の本音から。そんな自分がずっと嫌いだった。なのに、そんなアタシのこと、この人は好きって言ってくれて、待つって言ってくれて……アタシは本当に嬉しかったんだ」


 そう語る紫闇の表情は、本当に穏やかでどこまでも優しかった。


「もう一度、自分の本音とちゃんと向き合おうって思えたのは、アンタのお陰だよ。白雅」

「私?」


 思わず目を丸くした白雅に、紫闇はおかしそうに笑った。


「そうさ。アンタが迷ってるアタシの背中を押してくれたんだ。子供だ、子供だとばかり思ってたけど……いつの間にか成長してるもんだねぇ」

「紫闇……」


 その実感のこもった言葉に、白雅の胸がキュッとなった。


「だからさ……アタシも勇気を出してみようと思ったわけ。可愛い娘が独り立ちしようとしてるってのに、アタシがそれを邪魔するわけにはいかないだろう?」


 白雅の顔色がサッと青褪めた。


「紫闇、それって……」

「わかってるよ、白雅。寂しさを紛らわすためにナディル殿下に縋ってるんじゃないか、って言いたいんだろ?」

「……あぁ。違うんだな?」


 その確認に、紫闇は笑った。晴れやかに。


「アタシも最初はそれを疑ってたんだけどねぇ……どうやら杞憂だったみたいだよ」


 ナディルはなにも言わず、ただ紫闇の背に手を添えていた。その仕草だけで、答えは充分だった。


「それじゃあ……」


 紫闇は大きく頷いた。胸に押し寄せる寂しさを、ぐっと飲み込んで。


「この一ヶ月で確信した。アタシは、アタシなりにナディル殿下に惹かれてる。それも、自分で思った以上にね。だから……新大陸には、一緒に行けない」


 言うべきことは次で最後のはずだった。紫闇は泣き笑いの表情で白雅に告げた。


「アンタとは、ここでお別れだよ。白雅」

「──!」


 白雅の胸が鷲掴みにされたみたいに痛かった。だけど、やっぱり紫闇には幸せになってほしくて、口ではあっさりと返事をしてみせた。


「そっか……わかった。紫闇が決めたことなら、私はそれを尊重するよ」

「白雅……」


 どちらも、ギリギリだった。紫闇の頬にはすでに涙が伝っており、その肩をナディルが抱いて慰めている。


 白雅は意地でも泣かないつもりだった。泣き顔よりも笑顔で別れるほうが、ずっと自分らしいと思ったから。


「じゃあ、私たちはこれで失礼するよ。あんまり長居して、お邪魔虫にはなりたくないしね」


 あえて軽口を叩き、帰ろう、と璙王を促す。だが、璙王は動こうとはしなかった。


「よいのか? 白雅」

「なにがだ?」


 しかし、璙王の金色の瞳は真剣そのものだった。


「……後悔するぞ」

「後悔? そんなもの、どうして私が……」


 白雅の声が震える。璙王が白雅の手を掴んだ。


「このまま、もう二度と紫闇に会えなくなってもよいのか?」

「……!」


 重ねての問いに、もう限界だった白雅は思わず璙王を睨みつけた。


「なんで、璙がそんなこと言うんだ……?」

「我は、これまでそなたたちの深い絆をつぶさに観察してきた。これで終われるほど簡単な関係であるはずがなかろう」

「!」


 それは静かな声だった。怒りでも哀しみでもない、ただ事実として璙王は告げていた。


「白雅。我は人間ではない故、こんなときにどうすればよいかなど知らぬ。だが、そなたが泣きたい気持ちを我慢していることくらいはわかる。何故、泣かぬのだ?」


 せっかく隠していたのに、これでは台無しではないか。白雅は今にも泣き出しそうに首を横に振った。


「だって……私が泣いたら、紫闇が困るだろ。紫闇の幸せは、私の幸せでもあるんだから、私が泣く理由なんて……」

「……馬鹿だねぇ」


 これまで黙って話を聞いていた紫闇が長椅子から立ち上がった。紫闇は流れる涙を拭いもせずに、白雅の肩をそっと抱き寄せた。


「そんなことで困る親がいるもんかい……親ってのはね、そういう涙に弱いのさ。泣きたいときは泣けばいいの。アタシは逆に嬉しいけどね」

「紫闇……」


 白雅は息を吸おうとして、それが途中でつかえた。胸の奥がひりつく。

 目の奥が熱くなり、視界がじわりと滲んだ。もう無理だ、と白雅は思った。涙腺がもう限界だった。


「本当は寂しい……もっと一緒にいたかった……でも……!」

「わかってるよ、白雅。全部わかってる」


 愛しているよ、アタシの可愛い娘。紫闇は白雅の耳元でそう囁いた。その言葉が、いつも本当に嬉しかった。それなのに。


「素直じゃなくて、ごめん……意地張って、ごめん……大好きだよ、紫闇」


 だから、どうか幸せに。そう囁き返すと、紫闇が、うん、と頷いた。


 抱きしめ合う二人の肩が震えるたび、傍に立っているナディルも胸の奥がじんと熱くなった。ローラン国の王太子として、いつも毅然としていなければならない立場の彼でさえ、紫闇と白雅の絆を目の前で見せられると、言葉が喉につかえてしまう。


 紫闇が白雅の背を優しく撫でる。撫でるほどに白雅はこらえきれず、子供のように鼻をすする音を漏らしてしまう。白雅のそんな姿を見るのは、紫闇にとっても久しぶりだった。


 あぁ、この子はずっと無理をしてきたのだ──紫闇は胸の奥でひっそりと呟いた。

 もっと早く気づいてあげたかった。もっと甘えさせてあげればよかった。

 けれど、いま泣いてくれる。その涙は後悔の涙ではなく、つながるための涙だ。


 紫闇はしばらく、なにも言わずに白雅を抱いていた。それから白雅の白い髪に指を通し、そっと額に口づけた。


「大丈夫さ。アンタは一人じゃないよ。アタシは遠くに行くけど、絆まで薄れるわけじゃないんだ」


 白雅は涙で潤む目をあげ、かすかに笑った。


「……うん。わかってる。わかってるけど……寂しいんだよ……」


 ようやく素直になれた白雅と紫闇を、ナディルと璙王は静かに見守っていた。

 その静けさは、長い旅路の終わりと新しい道の始まりを、静かに祝福しているようだった。



 宿に帰って、寝る準備を整えてから、白雅は寝台に腰をおろし、ふと天井を見つめた。紫闇と別れたあとの部屋は、いつもより広く感じられた。胸の奥がヒュウッと冷えるような感覚がある。


 璙王はそんな白雅の気配の揺らぎを敏感に察した。そっと白雅の肩に毛布をかけると、彼女の横に腰をおろした。


「……静かだな」

「うん。紫闇がいたら、きっとなんだかんだで賑やかだったんだろうな」


 自分でも驚くくらい素直な声が出た。璙王は白雅の横顔をしばらく観察し、それからポツリと呟いた。


「泣いたあとのそなたは、どこか吹っ切れた顔をしておる」

「……そうか?」

「うむ。強くなったのだ。別れを受け止められる強さだ」


 白雅は少しだけ照れくさくなり、毛布をギュッと握った。


「強くなりたかったわけじゃないけど……紫闇が幸せになるなら、それでいいから」

「その心根が、そなたの強さだ」


 璙王の言葉に、白雅は知らず息を整えていた。


「でもさ、璙。あそこでバラすのは狡くないか?」

「では、互いにわかり合えないまま別れたほうがよかったのか?」

「それは……違うけど」


 璙王の正論に、白雅はむくれたように唇を尖らせた。


「……ありがとな、璙」

「素直でよろしい」


 白雅は毛布を握った手をゆっくり離し、呼吸を整えた。それから、なんだか腹が立ったので、白雅は璙王の両頬を軽く摘んだ。


「いひゃい(痛い)」


 璙王は静かに抗議したが、白雅はそれどころではなかった。


「意外だ……鱗って硬そうに見えるのに実は柔らかいんだな」


 ムニムニとしばらく遠慮なく遊んでから両頬を解放すると、璙王が涙目で軽く睨んできた。


「我が鱗は硬いぞ。剣も弓も通しはせぬ。思うに、これは人間仕様の鱗なのだ」

「そうなのか。これって綺麗に隠すことはできないもんなのかな」


 自分の特徴の一部を否定されたようで、璙王は少しだけ気を悪くしたように眉根を寄せた。


「む……何故だ?」

「いや、だって、私ですら『異形』と呼ばれるのに、人間がこの姿の璙を見たら、迫害してしまうんじゃないか? そう思ったら気になって……」


 璙王を心配するが故の発言だとわかり、今度は璙王の機嫌が良くなった。ほんとうに現金で、わかりやすすぎる。白雅はそう思った。


「そなたは、この姿の我は嫌か?」

「いや? 全然気にならないな。むしろ璙らしいというか」


 白雅の感想に、璙王はさらに調子に乗った。


「そうであろう。気に入ったなら、もっと触ってもよいぞ。そなたには特別に許してやろう」

「調子に乗るな……まぁ、触っていいなら触るけど」


 現金なのは白雅も同じだった。璙王の頬に手を伸ばす。鱗は流れに沿って撫でるとスルリと心地よく流れるが、流れに逆らうとわずかに引っかかりがある。その差が面白くて、つい、鱗の流れに沿って上から下へと撫で回してしまう。


「白雅の手は温かくて優しくて、心地よいな」

「へ……?」


 気づけば璙王のほうから白雅の手に頬を擦り寄せていた。その、まるで大型動物に懐かれたかのような感覚に、白雅は違う意味でドキッとする。


(ちょっと……可愛い、かも……?)


 見た目は成人男性なのに、なんだか変な感じだった。


「なんかさ……璙って、人間生活、案外気に入ってないか?」

「うむ、楽しいな。なにより、こうしてそなたに触れられる。それが一番嬉しいし楽しい」

「!」


 そうだった。璙王は白雅に触れてみたいという一念で、うっかり人間になってしまったのだから。白雅の頬がじわじわと熱を持ち始める。


「顔が赤いな」

「……言うな」


 白雅は片手で顔を覆って隠してしまう。璙王はその様子を嬉しそうに眺めた。


「よい。その調子で、もっと我を意識するのだ」

「台無しだぞ、璙」


 軽い咳払いをして、すぐに元の調子を取り戻した白雅に、璙王は不満そうに唇を尖らせた。


「そなたは鈍いからな。これくらい言ってちょうどよい」

「……心外だ。鈍いなんて、璙以外には言われたこと、ないぞ」


 それは周りが遠慮して言えないだけではないだろうか。璙王はそう思った。

 考えてみれば、紫闇は白雅を鈍いくらいでちょうどいいと思っている節があったし、周りの男どもは露骨すぎて白雅に引かれるか、奥手すぎて白雅に気づいてすらもらえない者ばかりだった気がする。璙王は納得した。


「うむ。やはり我は間違ってはおらぬ」

「いや、なんだかよくわからんが、私は別に鈍くはないはず……」


 言っているうちに自信がなくなってきたのか、白雅の声はどこか頼りない。


「まぁ、よい。追々わかるであろう」

「なんだよ……気になる言い方をするな」


 釈然としない気持ちのまま、白雅はいつもの癖で璙王と同じ寝台に寝転んだ。そしてわずかも間を置かず、健やかな寝息が聞こえてくる。


「……こういうところが鈍いというのだが……まぁ、よいか」


 逆にその無防備さが愛おしい。変に警戒されるよりずっとマシなので、璙王は白雅の小柄な身体を抱きしめるようにして、眠りについた。


 分かたれた道の先で、白雅は新しい隣人を得ていた。

2026/02/10

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