花影の夜
即位式典から七日後。白雅はレグルスと交わした永久相互不可侵条約の調印書を手に、世界樹の島へと戻ってきていた。アルボリクスの予想では今夜、皆既月食が起こるという。
「なんか……緊張するな」
「実はルナヴェルナ様の花が咲くのを見るのは、儂も初めてじゃ」
アルボリクスの意外な告白に、白雅は驚いた。聞けばエルフ族やドワーフ族の寿命は長いといっても千年には及ばず、ほとんどの者が花を目にするのは一生に一度の機会なのだそうだ。
「だったら、絶対に見逃せないよ。私たちは立ち会えて幸運だったな、璙」
『うむ。我も初めてだからな。楽しみだ』
竜神の声音は柄にもなく浮かれているようだった。それはおそらく今、この世界樹に満ちる神秘の力のせいだろう。神秘の力は竜神と相性がいい。
霧に沈む世界樹の島は、薄い靄に包まれながら静かに息づいていた。深奥にそびえる一本の大樹だけが、赤黒く沈黙した月を受けて、ほのかに輪郭を浮かびあがらせていた。
世界樹は、天へ伸びる幹を幾重にも捻じらせ、枝葉は空を覆い隠すほどに広い。だが今夜だけは違う。
──空から光が消えていた
皆既月食が訪れ、月は夜の口に呑み込まれたように赤黒く沈黙している。星明かりさえ霧に吸われ、世界樹の周囲は、音という概念そのものを忘れたかのように澄み切っていた。
その根元に、幼い月の乙女──ルナフェリアが跪く。金色の髪は霧に濡れ、淡い光を帯びながら風に揺れた。小さな両手を胸の前で重ね、彼女はそっと目を閉じる。
祈りの声は、ほんの一滴の雫が水面に触れたような、かすかな響きだった。
それでも、世界樹は応えるように震え、葉の間からわずかな光がこぼれ落ちる。
祈りが深まるにつれ、白雅は知らず息を呑んでいた。大気そのものが、静かに震えている。
白雅は、霧の向こうに揺れる世界樹の幹を見つめながら、胸の奥に得体の知れない高鳴りを覚えた。
ただ花が咲くのを待っているだけのはずなのに、まるで自分の鼓動までもが祈りの流れに巻き込まれていくようだ。
隣でアルボリクスが小さく息を呑む。古い伝承に語られる光景を、とうとう自らの目で見ることができるのだという実感が、その横顔にはっきり浮かんでいた。
白雅はふと、自分もまた歴史の一頁に立ち会っているのだと思い、胸が熱くなるような不思議な感覚に包まれた。
霧が静かに割れ、まるで祈りの道を示すように幹へ向かって流れていく。
赤黒い月の影が揺れ──ルナフェリアの祈りが、静寂をゆっくり変えていった。
世界樹が脈動する。大地の奥底から響くような、低く柔らかな音が夜気を震わせた。
そして──世界樹の頂から、ひと筋の淡い光がふわりと浮かびあがる。光はゆっくりと枝を伝い、葉を照らし、やがて葉の付け根が震えるように膨らみ、蕾をつけた。
その瞬間、世界が一度、呼吸を止めたように感じられた。
霧の中で、世界樹の花がほころび始める。薄紅色の淡い花弁が浮遊するように開き、夜空に淡い輝きを投げかけた。
鮮やかではなく、静かで、ただただ清らか。まるで世界そのものが息を詰めて、幼い乙女の祈りを見守っているかのように。
ルナフェリアの頬に、光る花の夜露が落ちる。それは春の雪のように冷たく、月の涙のように優しかった。
「世界樹の花が、咲いた──」
「なんて、美しいんだろう……」
エルフ族の感嘆の声があがる中、白雅も視線の先に咲いた大輪の花から視線を逸らせずにいた。
世界樹の花が開ききった瞬間、白雅はふと腕輪の竜神からかすかな震えを感じた。
「本当に綺麗だ……紫闇に見せられないのが申し訳ないくらいだな、コレ。なぁ、璙……って、璙!?」
『ぐぅっ……!』
なんと世界樹の花が咲くと同時に異変に見舞われた竜神に、白雅は驚いて自分の二の腕を見た。
「璙、大丈夫か!?」
銀の腕輪が苦しみに悶えるようにうねり、それからたちまちのうちに竜神の本性へと戻る。
突如として世界樹の島に顕現した巨大な竜神に、エルフ族はただ困惑したように事態を見守っていた。
『身体が熱い……燃えるようだ……!』
白銀色の長大な身体をくねらせて、竜神はもがき苦しむ。やがて竜神の身体から目も眩むほどの目映い光が放たれて──。
白雅は思わず目を覆った。光が収まったあと、そこにはなにも残っていなかった。
世界樹の島には静寂が戻ってきていた。竜神の姿は跡形もなく消えている。白雅の腕に腕輪として戻ったわけでもない。
「な……なんだったんだ、今のは……?」
「そんな……璙……」
エルフ族の困惑に、白雅はなにも答えられない。理解の追いつかない空白だけが残った。
「あっ! 世界樹の花が──!」
ルナフェリアの叫び声に、見ればせっかく美しく咲いた世界樹の花は、みすぼらしくしおれてその薄紅色の花弁を散らしていた。
彼女は胸に手を当て、怯えるように世界樹を見上げていた。
世界樹の島には静寂だけが残り、誰もが言葉を失っていた。白雅の胸に不安が広がりかけた。
「竜神は大丈夫じゃろうか……」
アルボリクスがそう呟いたときだった。
「……我が、なんだと?」
静かな声が響いた。それは音として発せられたものだったが、その声音は──。
「……璙……?」
白雅は弾かれたように声のしたほうを見た。神秘の残滓が、まだ夜気に溶けきっていないというのに。
そこには地面から身体を起こしたばかりの、全裸の青年の姿があった。
「……」
白雅は無言で外套を脱ぎ、青年に近寄って気づいた。長い白銀の髪に金色の瞳をした青年の肌の所々には、竜神の白銀色の鱗が浮かびあがっているではないか。
「璙……なのか……?」
外套で身体をくるんでやりながら、半信半疑で白雅が尋ねると、青年は不思議そうに首をかしげた。
「先ほどから、何故そう何度も確認するのだ? 白雅よ」
「だって、璙……その姿は……」
ところどころの皮膚に鱗が浮かびあがっている以外は、完全に人間の姿なのである。それは何度も確認するというものだ。
白雅に指摘されて、青年はしばらく自分の姿──手や足を動かしたり、身体や顔にペタペタ触ってみたりしていた。
そして、いきなり叫んだ。
「なんだ、これは──!?」
「それはこっちが聞きたいわ! なんだって突然人間の姿になってるんだよ!」
思わず白雅もクワッと怒鳴り返した。それだけ混乱していたのだ。
その答えをくれたのは、意外にもアルボリクスだった。
「ルナヴェルナ様じゃ」
「!?」
その場にいる全員の視線がアルボリクスに集まった。
「ルナヴェルナ様が、世界樹の花の力で竜神を人にしてしまわれたのじゃ」
「どうして……?」
思わず呻いた白雅に、アルボリクスは彼女を安心させるように微笑んでみせた。
「忘れたかの? 世界樹の花は『誰か』の願いを叶える。花が枯れたということは、その願いが叶えられた証じゃ」
「……ってことは、誰かが璙を人間にしたいと願ったってことか?」
事態を理解した白雅の顔には不安の色が濃い。
「そうじゃ。しかし、そもそもルナヴェルナ様は悪しき願いはお叶えになられぬ……つまり」
「……別に害意はないってことか」
白雅は深く息を吐いた。安堵で胸が締めつけられるようだ。
「儂はてっきり、そなたか竜神がそう願ったのだと思ったが……違うのか? ハクガよ」
「まさか! 考えたこともなかったよ。璙は?」
尋ねられた青年──竜神・璙王は気まずそうに視線を泳がせた。
「……ない、とは言えぬ」
「……」
白雅は思わず目を眇めて沈黙した。それから、璙王の耳を思いっきり引っ張った。
「自業自得じゃないか! 心配して損した!」
「い……痛い! なんだ? 白雅、怒っておるのか?」
痛みで涙目になった璙王に、白雅は腰に手を当てて説教を開始した。
「だいたいなぁ、なんで人間になりたいなんて思ったんだ? 本当に自業自得もいいとこだ」
「そ……それは……ったから……」
言い訳の言葉は小さすぎて語尾しか聞こえなかった。
「もっと大きい声で!」
白雅に叱られて、璙王はついに開き直った。
「……我はただ、人間の身体があれば、そなたに触れられるのに、と思っただけだ!」
「んなっ──!?」
そのひと言が落ちた瞬間、白雅の思考は止まった。予想外のその言葉に、白雅は絶句するやら目を白黒させるやらで忙しい。
ようやくその言葉が頭に浸透してから、彼女は顔を真っ赤に染めたのだった。
*
世界樹の島での滞在中、白雅はいろいろ試してみた。すると、次のことがわかった。
竜神固有の能力──たとえば水を操る能力や雨を降らせる能力、精神感応力などは問題なく使えるが、竜珠由来の力──望みを叶える力は使えなくなったらしい。
あとは人間の器に閉じ込められてしまったため、その飛翔能力も封じられているようだ。自分の意思で竜身に戻ることもできない。
「これ、どうする?」
「うむ……人間の身体とは意外と重いのだな。動きが不自由でならぬ」
それはそうだろう、と白雅はため息をついた。今の璙王は、例えるなら、生まれたばかりの赤子に、いきなり千年分の自我だけ詰め込んだような状態だ。本来なら寝返りから始めるはずの身体に、不釣り合いなほど成熟した精神が入っている──そんなチグハグさだった。
「不便はないのか?」
「ある。たくさんある。だが、今のところは楽しいぞ。なにもかもが新鮮だ。だが、人間とは守らねばならぬ決まりごとが多すぎるな」
困ったことのひとつとして食事の問題があった。これまでは食事が不要だった璙王だが、人になった影響からか、食事を必要とするようになった。問題は食べ方である。
「何故このような棒切れを使ってチマチマ食べねばならぬ」
「そういう作法だからだ。それに箸と匙と突き匙って名前だと教えただろ?」
放っておけば作法は崩壊し、目を離せば惨状になる有様だった。
白雅は、この短期間で自分が『育児』をする羽目になるとは予想もしていなかった。
排泄に至っては──詳しく語るのは互いのためにやめておいた。
それから文字も読めはするが書けなかった。竜神の頃は『書く』という概念が必要なかったのだ。
「まったく……でっかい赤子みたいだな」
「む……失敬な」
璙王を人間の生活に適応させるべく、あれこれと白雅は奮闘した。その結果、食事も箸でなんとかこなし、文字も大きくゆっくりなら書けるようになり、人前に出しても差し支えない程度には『人らしく』なった。
こうして白雅と璙王は、紫闇たちの待つ帝都へと戻ったのだった。
*
ナディルは白雅が戻るまで、ローラン国の使節団の帰還を引き延ばしていた。平時の彼なら絶対にやらない『外交的な無茶』だった。それでも引き延ばさずにはいられなかった──紫闇のために。
彼に貸し与えられた客間の一室で、人になった竜神・璙王を、白雅は改めて紫闇とナディルに紹介した。
「驚いた……まさか璙王が人間になるなんて!」
口をあんぐりと開けて驚いている紫闇に、白雅はため息とともに告げた。
「そうなんだ……それで話し合った結果、自分の意思で元の姿に戻れないのは都合が悪いっていうんで、元に戻る方法を探しに行こうと思ってる」
竜珠の力を失ったままでは、いつまた身体に不具合が出るかわからない──そんな理由もあった。
アルボリクスからの提案で、世界樹の島に永住することも考えた。しかし結局のところ白雅は、表現はおかしいが、根っからの根無し草なのである。定住そのものに馴染まない可能性のほうが高かった。
「当てはあるの?」
「はっきり言って、当てなんかない。だけど、この帝国は『新大陸』を『発見』したんだろ? だったら、そこには土着の神がいる可能性が高いって、話になってさ。ちょっと璙と二人で行ってくるよ」
さもなんでもないことであるかのように軽く言い放った白雅に、紫闇は呆れたように眉根を寄せた。
白雅が軽く言っているのは、紫闇をこれ以上不安にさせたくなかったからだ──本心では、帰れなくなる可能性を彼女自身も理解していたのに。
「アンタ、ちょっと行ってくるって……日帰りで行けるような距離じゃないのよ?」
「今までだって、そうだったじゃないか」
こともなげに白雅は答える。紫闇は大きなため息をついた。その裏には、『白雅を失うかもしれない』という恐れが、言葉にならないまま潜んでいた。
「それはそうだけど……今度は大きな海を隔ててる。もしかしたら、帰ってこれない、なんてこともあるかもしれない。そこんとこ、ちゃんと考えてるのかい?」
「そのときはそのときだ。璙を通じてときどきは連絡するから、そう心配するな」
あくまでカラリと笑い飛ばす白雅に、紫闇は、その背中を引き留めたい衝動を、言葉になる前に飲み込んだ。
2026/02/09
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