表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/20

金灯の陰で

 即位式典が終わった夜、皇城の金葉の広間には千の灯が揺れ、黄金色の光が空気を満たしていた。天井の水晶飾りは、まるで火の粒を閉じ込めたように静かに輝いている。


 広間の奥では吟遊詩人たちが銀弦の竪琴を奏で、静かに叙事詩を紡いでいた。

 東方の絹衣をまとう使節は、香辛料の入った甘い酒を振る舞い、北海の商人たちは氷原で採れる宝石を誇らしげに披露している。


 帝国の即位式は、諸国にとっても『力と繁栄の祭典』だ。

 その熱気に押されるように、天井の水晶飾りが風もないのにかすかに鳴った。


 白雅はその不思議な音を聴きながら、胸の奥で静かに思う。


(確かに、この光景は小さな世界地図だな……)


 そして、皇城の牢で過ごしたあの静寂の夜とはまるで別の世界にいることに、ふと目眩のような感覚さえ覚えた。


 白雅と紫闇は、その煌めく人波の中から、ローラン国の使節団──その中心にいるはずのナディルの姿を捜していた。

 やや細身だが長身で華やかな立ち姿の彼はすぐに見つかった。


「ナディル殿下」


 白雅が声をかけると、彼はすぐに反応した。ゆっくりと振り返った横顔に、揺れる金灯りが淡く差す。


「ハクガ殿、それに……」


 ナディルの瞳が、紫闇の姿を捉える。その朝焼け色が一瞬切なさを帯びて、それから和らいだ。


「……シアン殿。久しぶりだ」


 紫闇の胸がギュッと縮み、その鼓動が、自分以外にも聞こえてしまうのではないかと思うほどに速くなった。視線が自然と逃げる。いつもは堂々としている彼女らしからぬ仕草だった。

 どうして紫闇を見つめる彼の瞳はそんなに優しいのだろうか。


「……久しぶり」


 言ってから、自分でも驚くほど声が弱いことに気づいた。髪に指を絡め、うつむいてしまうなんて──らしくもない、と胸の奥がざわつく。


 そのいつもとはまったく違う紫闇の様子に、白雅は少し考えてから、ナディルに提案した。


「会えて嬉しいよ。だけど、実は他にも話したい人がいてね。だから……まずは紫闇と二人でゆっくり話をしてくるといい」


 すぐに白雅の意図を察したナディルは、少しだけ苦笑した。


「……わかった。気遣いに感謝する」

「んじゃ、またあとで」


 白雅は金の灯火の海へと紛れ込むように、ヒラリと手を振った。その背後から、紫闇の声だけが追いかけてくる。


「ちょっと、白雅……!」


 だが、白雅は最後まで振り返らず、その場を離れたのだった。


 使節団の中には韋煌イコウ国の宰相・緋煉ヒレンの姿もあった。レグルスやフェリクスとなにやら話し込んでいる。


「緋煉」


 話が終わるの待って声をかけると、三十代という若さのわりに老獪な彼は、目を細めて底の知れない笑顔を浮かべた。まるで周囲の光そのものが、彼の影を深めるために存在しているかのようだった。白雅は、理由もなく肩に力が入るのを感じた。


 緋煉はほんのわずかに顎を傾けた。笑っているのか探っているのかわからない角度で。


「おや、これはこれは……白雅殿ではありませんか。お久しぶりですね。聞きましたよ。なんでも、魔女裁判にかけられて火炙り寸前だったとか」


 緋煉は、あいかわらず薄闇の似合う男だった。華やかな大広間にあっても、彼の周囲だけは妙に光が落ち着き、底の知れぬ影を落としているように見える。まるで喧騒が彼だけを避けて流れていくようだった。


「うっ……さすがに耳が早いな。赤……紅煇コウキは元気か?」


 うっかり赤鴉と言いそうになり、緋煉の刺すような眼光に気づいた白雅は、慌てて呼び名を改めた。


「あの人なら元気そのものですよ。うっかり殺しても死なないくらいにピンピンしています」


 緋煉の口ぶりには遠慮がない。自国の王を貶すのも相変わらずだ。


「ですが……魔女裁判の話を聞けば、烈火の如く怒り狂うでしょうね。なぜ自分の佩玉を使わなかったのか、と」

「!」


 スッと細められた緋煉の眼差しに、白雅は思わず背筋が冷えた。それは白雅を値踏みするような視線だったから。


 白雅は無意識に胸の巾着を握りしめた。その革の手触りが、妙に心臓の鼓動とよく合っているように感じられた。


 一度息を吐くと、白雅はそれから緋煉をまっすぐに見つめた。


「……紅煇にもらった佩玉を使えば、韋煌国にも『異端』の嫌疑がかかる。そうなれば、国家間の紛争になりかねないだろ。私個人のことで、韋煌国に迷惑をかけたくない。だから、使わなかったんだ」


 その迷いのない答えに、緋煉は軽く頷いて呟いた。


「あの人がどうして貴女に佩玉を与えたのか……今ならわかるような気がします」


 このやりとりに驚きを隠せなかったのは、傍らで話を聞いていたレグルスだった。


「ハクガ殿、今の話は……!?」


 緋煉に視線で促され、白雅は首からさげた革の巾着に大事にしまい込んだ佩玉を取り出した。

 白雅が巾着を開いた瞬間、小さく石と金属の触れ合う澄んだ音がした。その澄んだ音は、喧騒に沈んでいた大広間の一角が、まるで一瞬だけ清められたかのように感じられた。


 それを目にしたレグルスは固まり、隣で主の手元を覗き込んだフェリクスも息を呑んで固まった。

 その佩玉の片面には韋煌国の紋章が、そしてもう片面には──韋煌国国王・紅煇の個人の紋章が彫り込まれていた。熟練の職人の手による精緻な細工は、間違いなく本物だった。


「これは……!」


 それきり絶句するレグルスに、緋煉はにっこりと笑いかけた。だが、その目は笑っていない。


「ご紹介が遅れました。こちらの白雅殿は我が国の王・紅煇が後見を務めております。どうか以後、お見知り置きを」

「──!?」


 思わず口をついて出そうになった叫びを、レグルスは辛うじて飲み込んだ。それはフェリクスも同様である。


(やはりただの庶民ではなかったか……!)


 レグルスの脳裏に、会談で白雅と交わした非公式の会話が甦る。あのとき白雅は言葉を濁したが、白雅を拾い育てたという、とある国の王族出身の師匠とは間違いなく紅煇王のことだ。レグルスはそう確信した。

 同時に、新皇帝として白雅への処遇が間違っていなかったことに安堵した。一歩間違えれば国際問題に発展していたところを、白雅の信念により救われたのだ。本当に白雅には感謝してもしきれない。


「ハクガ殿……」

「……なんだよ。謝罪とか、もういらないからな。聞き飽きたし、その……落ち着かないんだ」


 白雅はどこかソワソワと落ち着きがなく、その視線は泳いでいる。意外な本音に触れて、レグルスは目を瞬いた。なるほど、彼女はこういう照れ方をするのか。


「私はただの流れの旅人、それだけだ」


 それは、自分を縛らないための言葉であり、同時に誰も縛らないための逃げ道でもあった。


 その言葉に、緋煉は胡乱げに目を細めた。


「そう思っているのは貴女だけですよ」

「……うむ」


 レグルスはしばし白雅を見つめ、それからふっと息を吐いた。


「……そう名乗りたいなら、今はそれでいい。しかし、ハクガ殿。貴女には、帝国がまだ知らない『力』がある」


 冗談めかした言い方なのに、瞳の奥はどこまでも真剣だった。フェリクスもまた、静かに頷く。


「皇帝陛下の負担は大きい。貴女のように、民と国の狭間で苦しむ者を理解できる人材は貴重です……もし、力を貸していただけるのなら」

「えっ……」


 白雅は戸惑い、思わず言葉を失う。戴冠の夜、こんなふうに『必要とされる』とは思ってもいなかった。


 胸の奥で静かに灯が揺れる。


(……私は、何者でいたいんだろう……)


 答えはまだ出ない。ただ、白雅はそっと視線を落とした。


「考えておくよ。今は……宴を楽しもう。やっと自由の身なんだから」


 レグルスとフェリクスは微笑み、白雅の肩の力が少し抜けた。


 その場を離れながら、白雅は胸の奥にひっそり残ったざわめきを意識した。

 自由の身になったはずなのに、いま自分の周囲には各国の王族や重職の者たちがいる。

 その誰もが、自分の選択ひとつで動き、あるいは動かされるのだ。


(……私の言葉や一挙手一投足で、なにかが変わり得るってことか……)


 それは『流れの旅人』でいたい白雅にとってはやや荷が重かった。


 白雅はそっと息を吸い、胸のざわめきを押し沈めるように広間の灯りを見上げたのだった。



 一方のナディルは、紫闇を静かな露台へと誘った。大広間の喧騒から少し離れると、そこは意外なほどに静まり返っていた。


 露台の下では、庭園の池に灯りが揺れ、風が通るたびに金の波紋が広がっていく。


「シアン殿、こちらへ」


 ナディルは紫闇に手を差し出した。おずおずと自分の手を重ね、紫闇はナディルに手を引かれて露台に出た。冷たい夜風が火照った頬を心地よく撫でていく。


「寒くはないか?」

「……大丈夫」


 取られた手が熱を持ち、心臓はうるさいほどに高鳴っている。


「なんで……」

「?」


 ナディルが不思議そうに紫闇を見る。一方の紫闇はまともにナディルの顔を見ることができなかった。


「……なんでわざわざ来たのさ」


 そのどこか震える憎まれ口に、ナディルは淡く微笑んだ。


「偶然だ、と言いたいところだが……この国に来れば貴女に会えるような、そんな気がしていた」

「……!」


 正解だったな。そう囁くナディルに、紫闇は一瞬、呼吸を忘れた。心臓が胸の奥で跳ね、視界がわずかに揺らぐ。


「この半年……貴女を想わぬ日はなかった。会いたかった」

「……」


 言葉の重さに、紫闇は息を呑んだ。返事が喉につかえて、どうしても出てこない。


 もはやナディルの情熱は、紫闇の許容量を超えていた。思考が追いつかず、ただ息を呑むしかない。


 露台の向こうでは、宴の灯りが揺れていた。遠くから聞こえる笑い声が、二人の沈黙をそっと包む。


 沈黙を破ったのはナディルのほうだった。


「今日はずいぶんと大人しいな」

「……誰のせいよ」


 なんとか押し出した憎まれ口にも、ナディルは柔らかく微笑むばかり。


「私のせいか。それはすまない」


 紫闇は震える声を絞り出した。


「アタシは……アンタに会いたくなかった。会えば……自分の気持ちを誤魔化せなくなる気がして……ずっと怖かった」


 それは身を切るような紫闇の本音の吐露だった。


「……そうか」

「今も……少し怖い」


 自分自身を守るように片手で肩を抱いた紫闇を見て、ナディルは考えるよりも先に動いていた。


「……わかった」


 ナディルはそっと紫闇の手を引いた。引くべきか、一瞬ためらいが胸を掠めた。それでも気づけば、ナディルは紫闇の震えに応じていた。


 紫闇は抵抗しなかった。気づけば、そのまますっぽりとナディルの腕の中に収まっていた。彼の腕は驚くほど温かく、鼓動は紫闇と同じくらい忙しなく打っていた。


 ほんの数拍、どちらも動かなかった。その沈黙が、言葉よりも雄弁だった。


「怖いのは、私も同じだ。もし貴女に拒絶されたら……そう考えると、心が竦む。今はどうだ? まだ怖いか?」


 ナディルの声は深く静かで、そしてとても優しい。紫闇の震えは、いつの間にか止まっていた。


「……大丈夫」

「それはよかった」


 耳元に直接滑り込むナディルの低い声が心地よかった。


「それにしても……今日は珍しいことばかりだな。貴女の本音が聞けて、私は嬉しい限りだが」


 髪をそっと撫でる手が優しすぎて、紫闇の目の奥がじんわりと熱くなる。


「……白雅に言われたのよ」

「ハクガ殿に? ……なんと?」


 意外な言葉にナディルは軽く目を見開いた。紫闇はそれに気づかず、ポツリ、ポツリと呟いた。


「もし、アタシの気持ちが少しでもナディル殿下にあるのなら……殿下の傍にいるべきだ、って」


 ナディルは今度こそ驚いた。まさか彼女がそんなことを言うなんて。


「……それは、私にとっては望外の言葉だ」


 そう告げるナディルの声は、隠しきれない静かな喜びに満ちていた。


「だが、シアン殿。大事なのはハクガ殿の言葉ではない。貴女の心だ」


 ナディルはあくまで紫闇の気持ちを最優先に考えてくれるのだ。


「貴女は……どうしたい?」


 紫闇はすぐには答えられなかった。言いたいことはあるのに、言葉が迷子になった気分だ。だが、どうにか言葉を探して口を開いた。


「アタシは……正直、よくわからない」


 そう言いながら、紫闇は迷子になった言葉を探し続けた。


「……白雅はもう、幼い子供じゃない。あの子がアタシの手を離れていく寂しさから、アンタの手を取ろうとしてるんじゃないかって……そんな気がして」


 話しているうちに、紫闇の中で言葉がようやく形になっていった。


「逃げ道にしちゃいけないって、頭ではわかってる。でも、アタシはまだ……自分の気持ちに自信が持てないんだよ」


 強くありたいのに、心が追いつかない──そんな自分が悔しかった。


 アタシはアンタに対して誠実でありたいんだ。その言葉がナディルの胸に温かな熱を灯した。


「ならば……私はまだ待とう。貴女の答えが出る、その時まで」


 ナディルは柔らかく微笑んだ。


「幸いにも、この国への滞在期間はそれほど短くはない。貴女の傍にいる時間も取れるだろう。ゆっくりでいい……その答えが、どんな形でも。私は受け止める」

「……わかった」


 紫闇はナディルの温もりにくるまれたまま、コクリと小さく頷いたのであった。

2026/02/08

公開しました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ