白刃の決闘
帝国艦隊が叩きつけられた大陸側の海岸には、破れた帆布と折れた桁が無惨に散らばり、海は荒れの名残を引きずり、波は未だ不機嫌そうに岸を叩いていた。波に揺られた木片が岸へ寄せては返し、焦げ臭い油と濡れた木の匂いが重く漂っている。
バルセリウスは胸甲に付いた砂を払いながら周囲を見渡した。部下たちは生存者の救助に追われているが、誰もが敗北という言葉を喉に詰まらせ、目を合わせようとしなかった。
しかし──その静寂を破るように、波間を切り裂く細い音が届いた。
チャプ、チャプ。その音に部下が顔をあげる。
「船……?」
だが、それは『船』と呼ぶにはあまりにも小さかった。小舟だ。漁師が使うような素朴な舟が、霧に包まれた対岸からゆっくりと近づいてくる。
櫂を握っていたのは──白雅だった。小柄な全身を分厚い外套で包んで、ただ、まっすぐに進み、まっすぐにバルセリウスを見据えていた。
その視線には怯えも誇張もない。ただ静かな怒りだけが燃えていた。
やがて小舟が軋みながら浜に乗りあげる。白雅は波に濡れた砂の上に降り立ち、歩み出た。風が彼女の外套をはためかせ、荒れの名残を抱えた海が、遠くで低くうねり続けている。
バルセリウスが険しい顔で睨む。
「お前は……あの島の者か?」
「違う。だが、あの島に世話になった者だ」
白雅の声は驚くほど静かだった。嵐の余韻が残る海辺にも関わらず、その声ははっきりと届く。
「帝国軍元帥、バルセリウス」
彼の名が呼ばれると、周囲の空気が締まり、兵士たちは思わず息を呑んだ。
白雅は外套の頭巾に手をかけると、一息にその容姿を晒した。雪のように白い髪と、血のごとく紅い瞳があらわになる。
「私は白雅」
一拍置いて、紅い瞳がまっすぐに元帥を射抜く。
「あの島の代表として──アンタに決闘を申し込む」
バルセリウスは一瞬でその正体を看過した。
「貴様……! 逃亡した『白い子供』か!」
「その通り」
白雅は懐から片方の手袋を取り出すと、バルセリウスの眼前に放って投げた。正式な決闘の申し込みである。
「ここで決着をつける。帝国と、この島の未来を賭けて……あの人たちの笑顔を奪わせはしない」
バルセリウスの顔に、初めてわずかな翳りが走った。それは怒りでも嘲りでもない──『理解できないものに出会った』ときの沈黙だった。
これほどの大艦隊を押し流した海のただ中から、生身の少女が小舟ひとつで現れる──その事実が、彼の世界観をわずかに軋ませた。
「……小娘一人で、帝国に勝てるとでも?」
白雅は、わずかに首をかしげた。
「勝つつもりで来ている。負けるつもりなら、こんなところまで来ない」
その言葉には虚勢も芝居もなかった。ただ『本気』だった。
バルセリウスの拳が、静かに震える。怒りか、苛立ちか、あるいは認めざるを得ない感情か。
部下たちは息を呑み、砂浜に漂う船の破片までもが沈黙したかのように動かない。
風が一度だけ強く吹き抜け、白雅の白い髪を揺らした。彼女は一歩、砂を踏みしめて進む。
「さぁ、選べ。逃げるか、戦うか。ここで、アンタの『正義』を見せてみろ」
その瞬間、荒れた海よりも鋭く──白雅という一人の少女が、帝国軍元帥の視界を圧倒していた。
「小娘が……! よかろう、ハクガとやら。その決闘、受けて立つ!」
バルセリウスが手袋を拾いあげると、周囲の空気が沈んだ。海鳴りすら遠のいたように感じられた。
砂浜に立つのは、少女と巨躯の武人──ただそれだけ。互いの呼吸が、わずかに潮騒に溶ける。
「規定は簡単だ。この場にいる全員が立会人であり、生き証人。決着は──生か、死か」
「……よかろう。望むところだ」
バルセリウスはスラリと背に負った己の長剣を抜き放った。
白雅が双剣・風翠を抜いた瞬間、彼女の中の『静』が『刃』に変わった。紅い瞳がわずかに細くなり、海風が彼女の背を押した。
『風翠』はドワーフ族に鍛えてもらった、白雅の新たな相棒である。双剣はまるで羽毛のように軽く、白雅の手に吸いつくように馴染んだ。
「ほう……双剣使いとは珍しい。が、所詮は私の敵ではない」
バルセリウスは鼻でせせら笑ったが、白雅は淡々と無感動に返しただけだった。
「勝手に吠えてろ。結果だけがすべてだ」
「この小娘……!」
額に青筋を浮かべながら、バルセリウスはジリジリと間合いを詰めてきた。まだ少し遠い。
生き残った兵士たちは固唾を呑んで、この決闘の行方を見守っていた。
大破した艦隊も、荒れの名残を抱えた海も、まるで誰かが息を潜めたように静まり返っている。
間合いに踏み込んだ瞬間、先手必勝とばかりに攻撃を繰り出したのはバルセリウスのほうだった。
長剣が唸りをあげて白雅に迫る。白雅の紅い瞳が、剣筋の軌跡を一瞬で読み切る。砂がひと粒、足の裏で跳ねた。
次の瞬間、双剣が交差し、白雅の小柄な身体が風のようにバルセリウスの懐へ滑り込む。
(速い──!)
バルセリウスが顔色を変えた。この間合いなら白雅に有利だ。だが、女の細腕で甲冑に身を包んだバルセリウスの命を狙うなら、首を狙うしかない。
そう予想したバルセリウスは、首を防御するため、長剣を構えた。しかし──。
白雅の双剣は、バルセリウスの予想とは裏腹に彼の右脇腹を狙っていた。そこは甲冑で覆われていたが、反射的に身を捩って攻撃を躱す。これが功を奏した。
──ビシィッ!
甲冑に亀裂が入る大きな音がして、バルセリウスは慌てて白雅から距離を取った。チラリと視界に映ったのは大きく裂けた甲冑と、皮一枚を薄く斬り裂かれた右脇腹である。
周囲に大きなどよめきが走った。
「甲冑を貫通するとは……貴様、どんな魔術を使った?」
バルセリウスの問いに、白雅はただニヤリと笑っただけだった。
「魔術? そんな便利なものがあったら、とっくに使ってるさ。油断しすぎなんじゃないのか」
「!」
あからさまに馬鹿にされ、バルセリウスの顔に憤怒の色が浮かんだ。だが、ここで手を緩める白雅ではなかった。
「今度はこっちから行かせてもらう!」
白雅は、波が足元で引く瞬間を狙って踏み込んだ。足裏が砂に沈まないその一拍が、剣速を倍化させた。
バルセリウスが反射的に退いたのは正しかった。だが、退き足は砂に沈み、体勢が半拍遅れた。その一瞬だけで、白雅の双剣は甲冑を二ヶ所同時に断ち割っていた。
「まだまだ!」
休む間もない連続攻撃に、バルセリウスは防戦一方に追い込まれる。風の加護を受けた風翠は、空気を裂くたびに抵抗を失い、白雅の動きを一段速めた。
砂地で足場が悪いというのに、白雅の足運びには無駄がなかった。これまで、生きるために何度も戦い抜いてきた。生き延びるために磨きあげた動きが、今ここで形を成していた。
(なぜだ……剣が重い。違う、腕が震えている。恐怖ではない。これは──焦りか……?)
あっという間に彼の甲冑は、まるでボロ雑巾のように身体にまとわりついているだけの無用の長物に成りさがった。
(そんな馬鹿な──!?)
作られた英雄像とはいえ、バルセリウスの剣の実力は本物だった。それなのに、こんなにも簡単に、こんなにも呆気なく、たかが小娘に圧倒されるなんて──。
(負けられない……この時代に、置き去りにされるわけには……!)
バルセリウスの闘志は燃えあがった。帝国の、自分の、威信をここで示さなければ。
「ぬおぉぉぉ!」
突如として力押しで反撃に移ったバルセリウスに、白雅は勝機を見た。双剣でいなしながら、ヒラリ、ヒラリと長剣が繰り出す攻撃を躱す。だが、その紅い瞳だけは虎視眈々と機を窺っていた。
「覚悟──!」
特別に速く、特別に重い一撃が白雅を襲う。白雅が双剣を交差させた刹那、火花が白閃となって弾けた。
──パキィン!
次の瞬間、バルセリウスの長剣は、まるで氷のごとく脆く折れ飛んだ。折れた剣身は宙を舞い、少し離れた砂浜に重い音を立てて突き刺さった。
折れた長剣を前に呆然とするバルセリウスを、白雅の容赦ない連続攻撃が襲う。
(負ける……? この私が……? 帝国が築いてきたものを、この場で落とすというのか……)
白雅の双剣が閃き、バルセリウスの左膝の裏側を掠めた。ほんのわずかな切り込み──だが、その一撃だけで膝が横に折れ、地に沈んだ。
利き腕である右手の腱も斬り裂かれ、バルセリウスは折れた長剣を取り落とした。
「……勝負あり、だな」
双剣の片方をバルセリウスの首筋に突きつけて、白雅は静かに告げた。その息は軽くあがっている。だが、刃を持つ手は微塵も震えていなかった。
「……何故、殺さない」
地を這うようなバルセリウスの低い声に、白雅は肩を竦めて答えた。
「私にアンタを殺す理由はない。生かす理由のほうが、今は多い。それに──裁くのは私じゃない。この帝国の正当な後継者だ」
「!」
「アンタを殺すのは簡単さ。でも──楽な道ばかり選んで勝った気になるほど、私は弱くない」
白雅は双剣を引き、静かに背を向けた。その歩みは、勝者の傲りではなく──人を生かす者だけが持つ、揺るぎない強さだった。
それはバルセリウスにとって、殺されるよりも屈辱的な負け方だった。
「くそっ……!」
バルセリウスの左の拳が沈んだ砂は、どこまでも柔らかく、反撃の手応えがない。
それは──何度叩いても折れない、あのどこか憎らしい皇太子の芯のようだった。
*
その頃、帝都・ヴェラントゥスの皇城ではひと騒動が持ちあがっていた。
バルセリウスが投獄したはずの皇太子・レグルスと補佐官・フェリクスが──なぜか牢の外に姿を現したのである。
しかも、彼らは宰相府の中枢を掌握してしまっていた。皇城と宰相府を軍で包囲するというバルセリウスの暴挙に辟易していた宰相府の文官たちは、皇太子の帰還を知るや否や、半数以上が自ら協力を申し出たのである。
レグルスは宰相府を通じて皇城と宰相府を包囲する軍に対して『即時撤退』を勧告した。
元帥にして軍務卿であるバルセリウス不在の今、軍の指揮系統は混乱を極めていた。
「退かぬというなら、それでもよい。だが、その場合……帝都を揺るがした責任は取ってもらう」
皇太子からの伝令の声が、今度は逆に包囲網を震わせた。
「ぜ……全軍、撤退せよ!」
「撤退──!」
てんでにバラバラの動きで撤退していく兵士たちに、皇城の窓からその様子を見守っていた紫闇は思わず苦笑を隠せなかった。
「元帥がいなきゃ……軍って、こんなに静かになるのね。所詮は烏合の衆か」
そんな紫闇に、レグルスは穏やかに微笑んで礼を言った。
「ありがとう、シアン殿。そなたのお陰で地下牢を無事に脱することができた。そなたの作った眠り薬の効果は凄まじいな」
紫闇は口の端をあげ、ゾクリとするほど冷ややかな笑みを浮かべた。
「でしょ? 呪術師謹製をナメんじゃないわよ、ってね」
フェリクスが苦笑する。
「……なるほど、こうやってハクガ殿も脱獄させたというわけですね」
「そうよ。まぁ、レグルス殿下の協力の賜物なんだけどねー」
気楽に笑う紫闇に、フェリクスは微妙に笑顔を引き攣らせた。味方にすると心強いが、敵に回すと心底恐ろしい。そう思って。
「そのお陰で、今回は我々が助かるとは……善行はしておくものですね、殿下」
「……そのようだ」
レグルスが小さく笑って肩を竦めたそのときだった。
『紫闇』
(アラ、どうしたの? 璙王……)
それは竜神からの連絡だった。
『白雅が決闘でバルセリウスを破りおった。正式な報告が早馬でそちらに届くのは約三日後になるとは思うが……軍勢が壊滅したのは白雅の働きではなく、海峡の潮の急変によるものだ。荒れ狂った潮に艦隊が呑まれ、半数以上が座礁した。バルセリウス本人は、白雅の剣で手足の腱を断たれ、今は拘束されておる。命に別状はない。白雅が、世界樹の島の今後について皇太子と話し合いをしたい、と』
紫闇の眉がピクリと跳ねた。
「……なんですって!?」
突然声をあげた紫闇は、自らを落ち着かせるようにひとつ深呼吸をすると、それからレグルスに向き直った。
「レグルス殿下……バルセリウスが、敗れたわ」
「なに……?」
予想だにしなかった報告に、レグルスとフェリクスが目を丸くする。
「白雅から連絡が来たの。あの子、やったわよ」
無邪気に喜ぶ紫闇をよそに、レグルスは急いで考えを巡らせた。迷いは一瞬。結論はすぐに出た。
「……ならば急がねばならぬな。帝国軍への撤退命令、バルセリウス隊への救護隊の派遣、宰相府の一時統制──すべて私が責任を負う」
「承知しました。さっそく皇太子殿下のお名前で書類を作成します」
フェリクスが心得たとばかりに仕事に取りかかる。紫闇は思い出したように付け加えた。
「あ、それと白雅が世界樹の島の今後について、殿下と話をしたいんですって」
「なるほど……それはこちらから出向かざるを得んな」
顎に手を当てて考え込むレグルスに、フェリクスは驚きをあらわにした。
「まさか、殿下自ら行くおつもりですか?」
だが、レグルスの答えは簡潔だった。
「この戦を始めたのは帝国だ。ならば終わらせるのは私の務めだ」
避けてはならぬ責務だ、と胸の奥でなにかが冷たく定まった。手のひらの熱が、決意を帯びて静かに変わっていく。
その言葉は揺るぎなく、帝国を統べる者の目をしていた。
2026/02/04
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