裁かれる側
「救いようがないな」
椅子に座り項垂れる青年の姿を見て、水島が吐き捨てるように言い残しその場を離れた。
「世も末だな」
去っていく水島の背中に俺は呟いた。
全くもって彼の言う通りだった。幾多の死を見てきたがこの手の事件に出くわす度、人間としての感情がすり減り心が死んでいくような感覚に襲われる。
江田光男。二十八歳、無職。T大学、K大学などの有名校を受験するもことごとく失敗。実家で浪人生活を続けるもこの年まで一度も合格する事は叶わなかった。
母親の方針で外に出る事は許されず、ほぼ軟禁状態で勉強を強いられ続けたが、昨日その母親を小学校の頃に使用していた彫刻刀で滅多刺しにして殺害。その後凶器を包丁に取り替え外に繰り出し無差別に通行人を切りつけ、母親含め計八名が死亡。その他複数名の重軽傷者を出した。
江田の部屋は問題集や過去問などのテキストで溢れている代わりに、ゲームや漫画といった娯楽の類は一切なかった。おそらく厳格な母に禁じられていたのだろう。スマホすら持っていなかった。
しかし勉強する為だけの檻のような部屋の中に、唯一彼の人間としての存在が確かめられるものがあった。一見それは勉強用のノートだったが、そこにあったのは勉強への不満や苦しみ、両親への罵詈雑言等、彼が普段吐き出す事の出来ない負の感情がひたすらに書き殴られていた。しかし徐々にその内容が日々の苦痛を吐き出す日記から、小説のような創作物へと変貌していった。
最初は恋愛小説。主人公は江田光男本人で、真壁瀬里奈という女生徒との甘い学園生活が綴られていた。しかしその内容は青春の甘酸っぱさや爽やかさとはかけ離れた、内に秘めた欲望を瀬里奈という女性にひたすらなすりつけるような生々しく不快極まりないものだった。
やがて物語は現実からファンタジーの世界へと変貌していった。
エミリオという勇者が女神セレイアの導きにより、悪に染まった世界を浄化する救いの旅に出るといった内容だった。
何度も同じようなストーリーを書こうとしているようだったが、その内容はまるで監禁された部屋から出られなかったように、旅路に向かおうとする所までで終わり、そこから先が描かれる事はなかった。
後の調べで分かった事だが、小学校の時のあだ名が江田光男という名前をもじったエミリオで、このあだ名をつけた人物こそ当時同級生の真壁瀬里奈だった。
真壁にも話を聞くとこの事を覚えており、小学生の頃は仲良くしていたそうだ。しかし中学に上がると江田の性格は暗くなり孤立するようになった。自然と真壁も接する機会は減り、その後違う高校へ進学した事で一切の接点はなくなったそうだ。
『聖なる裁きを』
ノートの最後はその言葉で終わっていた。
おそらく限界を超えた彼の精神は、事件当日ついに勇者エミリオとして覚醒した。
伝える事も出来ず蓄積された秘めた想いは、真壁瀬里奈を唯一自分を救う存在、女神セレイアへと昇華させた。
そして自分を閉じ込め続けた諸悪の根源である母親という魔女を殺害し、外界へと飛び出し悪に染まった穢れた世界を浄化するという名目で罪のない人間を多数殺傷した。
当日仕事に出ていた父親は魂が抜けたようにただただ呆然と立ち尽くし、『すみませんすみません申し訳ございません』と謝罪を口にし続けた。
「魔女は殺したが、魔女の従順な下僕がまだ生きている。奴を殺さないと本当の救いはない」
取り調べで江田が口にした下僕とはおそらく父親の事であるようだった。
彼曰く、狂信的な妻の教育方針に口を出すとこちらに火の粉が飛んでくるので、以来自分は息子に関わる事をやめたとの事だった。
“救いようがないな”
水島の言葉を思い出す。
殺された無実の人々はもちろん、全てを知った時何を思えば良いかすら分からなくなった。
江田の罪は決して許されないものだ。死刑は間違いないだろう。ただ彼はあの日、小説の中ですら出られなかった外の世界にようやく飛び出した。それは彼にとって女神から差し出された救いの手を掴むような希望の一歩だったのだろう。
「私がずっと彼の友達でいれば、こんな事も起きなかったんでしょうかね」
罪を犯した江田に対しての真壁の言葉がしばらく頭から離れなかった。