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第3章 美月、企画書を仕上げる

「……えっ、どうして」

静まり返ったオフィスに、美月の声が響く。

真っ黒になったパソコンの画面は、何をどうしても反応を返してくれない。

ツアー企画の資料作成に集中していた、その矢先の出来事だった。


「嘘でしょ……なんで今……」

美月が呆然とマウスをクリックし続けていると、後ろから薫子の落ち着いた声が届いた。

「プロを呼ばないとだめね。たぶん、日向がすぐ来てくれると思う」

“日向”という名前に聞き覚えはなかったが、今はとにかくデータのリカバリーだ。

美月は薫子の指示に従って、すぐにシステム会社へ連絡を入れた。

 

午後になってオフィスを訪れたのは、榊原社長の大学時代の旧友であるシステム会社の菅原社長と、部下と思われる若いスタッフ。

榊原と菅原が応接スペースで旧交を温めている間に、パソコンの前に座ったスタッフが、軽快な手つきでキーボードを叩き始めた。


「若い……」

「しかも早い……」

沙羅と美月が小声でささやく。

二人の視線は、その若いスタッフの横顔に釘付けになっていた。


しばらくして、そのスタッフが何気なく口を開いた。

「お母さん、このパソコン、そろそろ買い替えたほうがいいよ。ハードの限界」


「えっ、お母さん……?」

声を揃えた美月と沙羅に、スタッフは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにあっさりと答えた。

「……お母さん、言ってなかったの? もう、しょうがないなぁ。

張本薫子の娘、張本日向です。どうも」

そう言って、礼儀正しく頭を下げる。


「……娘なの。言う機会がなかったから……」

薫子は気まずそうに視線をそらした。

「そりゃ驚くわ」

沙羅が笑いながら言った。

日向は黙々と作業を続けながらも、どこか落ち着いていて、年齢以上の安定感があった。


「実は私のパートナーもシステムエンジニアでね」

沙羅が思い出したように、日向に声をかけた。

「『最近は、十代の天才エンジニアが世界中に次々台頭している』って言ってたんだけど、まさかこんな近くにいたとは。日向ちゃん、まだ十代でしょ?」

「18歳です」

日向はあっさりと答えた。

「高校生?」

「はい。一応、学校に籍はあります」


この返答に何か事情があると察した沙羅が、日向に語り掛ける。

「私のパートナー、ノマドワーカーなの。知ってる?」

「ノマドワーカー……?」

美月と日向が揃って首を傾げる。


「PCとネットさえあれば、どこでも仕事ができる人。今はたぶんシンガポールにいるんじゃないかな。先月はタイだったし。自分のペースで行きたい場所を選んで、風のように軽やかに世界を飛び回っているの」


日向は手を止め、興味深そうに沙羅を見つめた。

「きっと話が合うと思うよ。来週、日本に戻ってくるから、会ってみない?」


「会ってみたいです。ぜひ紹介してください」

「じゃあLINE交換しよう。日程決まったら連絡するね」

沙羅がスマートフォンを取り出しながら続ける。


「念のため確認しますが、保護者の薫子さん、いいですよね?」

不意に話を振られた薫子は目を丸くしたが、すぐに微笑みを浮かべた。

「もちろん。うちの娘をよろしくお願いします」

その目には、仕事の時には見られない、柔らかな優しい笑顔と、どこか安堵が滲んでいた。

 

日向の応急処置により、データは無事復旧した。

美月のツアー企画も、なんとか完成へとこぎつけた。


「いいね」

企画書を読んだ榊原のひと言に、美月の肩の力がふっと抜けた。

 

その週末、田村家でささやかな美月の企画書の完成祝いの食事会が開かれた。


田村家の双子の子どもたちは遊び疲れて眠っている。

「沙羅ちゃんも、美月ちゃんもありがとう。子どもたち、キレイなお姉さんたちに夢中で、大はしゃぎだったからちょっと疲れたでしょ」

「とんでもない。私たちもすっかり楽しませてもらいました」

美月が答えると、沙羅も軽くうなずいた。


「ごめんね、雄一がまだ帰ってなくて。あの人、道場へ行くと時間を忘れちゃうのよ。今日は美月ちゃんのお祝いだから早く帰ってきてねって言ったんだけど……」

「道場?」

沙羅が首をかしげる。

「うん。彼、居合道の師範なの。居合って知ってる? 日本刀を使った武道で——」


そのとき、玄関のドアが開く音がした。

「ただいま。遅くなってごめん」

「おかえりなさい」

沙織が出迎え、美月と沙羅も軽く頭を下げた。


雄一は黒い道着姿で、手に長い布袋を抱えている。

「それって……刀ですか?」

「そう。模造刀だけどね。学生相手の稽古だと安全第一だから、切れない模造刀を使っているんだ」

「でも、真剣―本物の刀でも、何かを切ろうとしたら、腕力だけじゃ無理なんだ。丹田に力を集めて、一瞬にして放たないと」

「丹田……ヨガとも通じるものがありますね。呼吸や重心の使い方とか」

ヨガのインストラクターでもある沙羅が興味深そうに言う。

「特に居合は、間合いの取り方を間違えると怪我をするから、呼吸や重心、目線、足運び、全てに感覚を研ぎ澄ませる必要があるんだ」

「田村さんがいつも落ち着いていて、何事にも動じない理由、なんとなくわかった気がします」

美月の言葉に、雄一は照れたように微笑んだ。

「そんなふうに言ってもらえるなら、続けてきた甲斐があるな」


「さぁ、雄一さん、着替えてきて。食事にしましょう」

沙織が言うと、雄一は素直にうなずき、奥の部屋へ向かった。


テーブルの上には、手作りの料理が並んでいる。ワインのボトルが抜かれ、グラスが配られる。

「美月ちゃん、新しい企画の採用、おめでとう」

沙織がグラスを掲げると、全員がそれに続き、軽やかな音を響かせて乾杯した。


「本当に、いい企画書だったよ」

田村雄一が静かに頷きながら言う。

「空路で伊丹に入って、奈良から出発っていうのも、いいアイデアよね」

沙織が続けると、美月は少し顔を赤らめながら答えた。

「あれは、堀川さんの案なんです。斎王に選ばれた女性が奈良の都を旅の起点にしたように、このツアーも“始まり”をそこに置くことで、感じられるものがきっとあるはずだって」

「さすが、堀川さんね」

沙織がにっこり微笑む。


「絶対、いいパンフレットに仕上げるから」

沙織は、榊原旅行企画の敏腕添乗員として飛び回っていたが、双子の妊娠を機に退職し、芸大卒のセンスを生かして、WEBデザインを勉強し、今では榊原旅行企画のビジュアル面を一手に引き受ける、頼もしい存在だ。


美味しい料理とお酒、そして気の置けない仲間たちとの会話に、ゆっくりと夜が深まっていく。


ふと、沙羅が思い出したように口を開いた。

「そういえば……専務に娘さんがいるって、ちょっとびっくりしました」

驚いた雄一が、ワインに咽る。


「私は知ってたよ」沙織が軽く笑う。

「妊娠したとき、すごく親身に相談に乗ってくれて。“私もそうだったから”って」

「え、教えてくれてもよかったのに」

雄一が口をはさむと、沙織は即座に言い返した。

「個人情報ですから。守秘義務があります」

その場に、軽やかな笑い声が広がった。

 

数日後、新しいPCが届き、日向が再びオフィスを訪れた。

作業を終えたあと、美月と沙織とともに、沙羅のパートナーと日向を引き合わせるために、沙羅のマンションを訪ねた。


田村雄一は、沙織に代わって双子たちの世話をするために、午後から有休をとっている。


玄関を開けた沙羅が、明るく声をかける。

「ただいま、みっくん!」

「……?」

現れたのは、エプロン姿のブロンドの髪に碧い瞳を持つ女性だった。


全員、一瞬、固まってしまった。

その反応に、

「え? 言ってなかったっけ?」

沙羅が平然と応える。


「ミカエラ・リンドグレンです。沙羅のパートナーです」

流暢な日本語で挨拶するミカエラに、三人はとっさに挨拶を返せなかった。


「みっくんはスウェーデン生まれで、語学の天才なの。日本語もあっという間にマスターしちゃって。今は万葉集に夢中なの」

「万葉集は素晴らしいです。千年以上も前のポエムが、今も私たちの心を打つ」

ミカエラの目が輝く。

「いまは英語で万葉集の解説書を書いているの」

沙羅が補足すると、ミカエラは少し恥ずかしそうに頷いた。

「趣味ですけどね」

「そういえば美月ちゃん、卒論のテーマが万葉集じゃなかった?」

沙織が思い出して口にする。

「あなたの卒論、読んでみたいです。今は、この論文を読んでいます」

ミカエラは目を輝かせ、ミカエラが差し出す論文を手にした美月は驚く。

「え? これって、堀川さんの論文……」

「アキラホリカワとお知り合いですか? 彼の詩や言葉への洞察力には、深く感動しました。いつかぜったいに会いたいです」

「堀川さんは、私たちの会社のツアーの歴史監修者です。……うん、きっと、気が合うと思います」

 

夜は更け、ミカエラお手製のスウェーデンの料理を味わいながら、女子会はますます盛り上がった。


ミカエラと日向もすぐに意気投合した。

「言葉は、自分と世界を繋ぐ架け橋。そして、自分の世界を創り出すツールでもある」

ミカエラが優しく日向に伝えた。

「だから、吸収力のある若いうちに、しっかり学ぶといい。言語習得の“回路”を一度つくれば、多言語話者になるのも夢じゃない。言語を知れば知るほど、世界が広がっていくから」


その言葉に、日向はまっすぐ頷いた。

「高校、復学しようと思います。コロナで行かなくなってから、高校なんて意味ないって思っていたけど、英語を本気でマスターしたいし、語学学習用のアプリも開発したいから」

「日向なら、きっとできるよ」

その場に、優しい風が吹いていた。


そしてミカエラが美月にも声をかける。

「ドクターホリカワにもお会いしたいし、榊原社長や、日向のお母さまにも会いたいです。その機会をつくってくださいね」

「きっと、皆、ミカエラさんを歓迎すると思います。明日、社長にスケジュールを確認しますね」

美月の返事に、ミカエラが沙羅と手を叩いて喜んでいた。




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