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8. 「やったね、二人きりだ」

ロザリオの執務室には、いつものように午後の柔らかな陽光が差し込んでいた。


分厚い書棚に囲まれ、書類の香りとインクの匂いが混じる空間に、いつもの気怠げな王がひとり。椅子にずるりともたれかかり、どこか浮世離れしたその姿は、国の頂点に立つ人物のものとは到底思えない。


だが今日の空気は、少しだけ違っていた。


「……こちら、舞踏会の準備に関する承認書類です。ご確認のうえ、印をお願いいたします」


そう言って書類の束を“ドン”と机の上に置いたのは、側近のシオンだった。王家主催の大舞踏会は数日後に控えており、貴族からの申請や予算案など、承認を要する書類は山のようにある。


ロザリオは束を一瞥し、深々と溜息を吐いた。


「はぁぁぁ……俺の印がなきゃ、花一輪買えねえのか?」


「さようでございます」


そっけなく返された言葉にも、ロザリオは大して気にするふうでもない。目を半分閉じたまま、指先だけが器用に動き始める。


──不思議なことに、彼の視線は決して鈍くない。眠たげな表情とは裏腹に、書類の内容を把握する速度は尋常ではなかった。


「舞踏会会場の飾り付け、花の発注、王族の座席配置、食事と酒の手配──ふむふむ」


印が次々と押され、書類の山が音を立てて減っていく。


その様子を見ながら、シオンは内心で嘆息していた。


(なぜこの男は、これだけだらしないのに……頭の回転だけは、常人の何十倍も早いのだろう)


ロザリオは今にも椅子から転げ落ちそうな姿勢で座りながらも、凡ミスひとつせず、王位に就いて以来、国政に混乱を招いたことがない。


──それだけは、心底驚異的だった。


そんな時、執務室の扉が小さく叩かれた。


「おー、やっと来たか……」




ロザリオが顔を上げた。入ってきたのは、レティシアだった。休暇であるこの日、控えめな格好にピンクブロンドの髪を揺らし、やわらかい光を背負って現れた彼女に、部屋の空気が一瞬だけ和らぐ。



ロザリオは嬉しそうに席を立ち──その弾みで、確認中だった資料をそのまま机の端から滑らせてしまう。さらに、ソファ前に積んであったファイルの山も、わざとらしいほど雑に“バサバサッ”と床に落とした。


「あ、そうだ。レティシア、執務室(ここ)俺の寝室(あっち)もノックしなくていいぞー返事しねぇから」


「あ、はい……えっと、陛下?」


レティシアが小首を傾げたが、ロザリオはまるで気にも留めずに指を鳴らす。


「ほら、机空いたぞ。ここで勉強していいからよ。わかんねぇことはすぐ聞け」


「いえ……あの、ちょっとこれは如何なものかと……」


「なにが?」


ロザリオは眠たげな目をしたまま、とぼけたように言った。


その瞬間、シオンの顔が静かに怒気をはらんだ。


「……陛下っ、いい加減になさってください。書類は大事な舞踏会の記録ですし、先ほども申し上げたように──!」


「わーったわーった。悪かったよ。じゃあ……片付けておいて?」


軽すぎる返答に、ついにシオンが噛みつかんばかりの勢いで息を吸い込む──その直前。


「陛下、それはいけませんわ。三人でやりましょ。その方が早いですもの」


レティシアの、やわらかくも凛とした声が空気を変えた。


シオンの怒気が和らぎ、口元にかすかな苦笑が浮かぶ。


「……了解しました。では、手分けして拾いましょうか」


「そうするか〜」


ロザリオは、しゃがみ込んだまま呑気に笑った。床一面に散らばった書類の束を、一枚一枚拾い集めていく姿は、どう見ても「大事な式典の準備を任された国王」のそれではない。どこか他人事のようで、まるで散歩帰りに落とした手紙でも拾っているかのようだった。


ようやく書類の山を拾い終えると、それらは無造作に執務机の上へと重ねられる。


「俺も、こっちでやるか」


そう呟きながら、ロザリオはすっかり自分の席を放り出し、当然のようにレティシアの隣へと腰を下ろした。書類の山を膝に置いたまま、彼は鼻歌混じりにページをめくり、王印をぽんぽんと軽快に押していく。まるで、退屈しのぎの遊びでもしているかのような調子だ。


レティシアはその様子に驚くこともなく、自分の勉学へと意識を戻した。彼が傍にいても、特別気を張るようなそぶりは見せない。


その様子を、後方からじっと観察していたシオンは、抑えきれぬ思いを心中で吐き出した。


(明らかに……陛下は彼女のことを気に入っておられる。それに、レティシア嬢も満更でもなさそうじゃないか?)


まるで恋愛相談役にでもなったかのような視線で、シオンはふたりの間に流れる空気を分析する。そして、ひとつの結論に至った。


(これは……陛下の、結婚のチャンス……!!)


「陛下、私は別件で確認したいことがございますので、また後ほど伺います」


そう言って、シオンは半ば勝手に気を遣い、執務室を後にすることを決めた。


「おー、いけいけ。邪魔だ邪魔だ〜」


いつもなら面倒くさそうに言うそのセリフも、今日は妙に明るい。心なしか、背中を押すような優しさすら感じられた。


「シオン様、お邪魔してしまい申し訳ございませんでした」


レティシアが立ち上がって小さく頭を下げると、シオンは笑みをたたえたまま言った。


「いえいえ、私はこれで。どうぞごゆっくり」


扉が閉まり、部屋に静寂が戻る。


ロザリオとレティシア。ふたりきりの空間。


一瞬の沈黙が流れるも、それは長くは続かなかった。


「やったね、二人きりだ」


ロザリオが破顔しながら、子どものような笑顔でピースサインを送る。その無邪気な仕草に、レティシアはどこか戸惑いながらも、表情に淡い赤みを帯びさせた。


「……そうですね」


うつむきがちに返した声は、どこか緊張を含んでいる。なぜ、今日の陛下はこんなにも自分に甘いのか。その理由が分からず、心臓だけが妙に早鐘を打っていた。


「もうちょい待っててな。これ終わらせたら……いろいろ教えてやるから」


言葉とは裏腹に、ロザリオの手元はまるで遊びのように軽やかだった。王印を押す手に迷いはなく、却下するものは指先で適当に弾いて隅に置く。その手際の良さは相変わらずで、見ているこちらが呆れるほど。


──それでも、ロザリオの横顔はいつになく穏やかで、どこか嬉しそうにさえ見えた。


そして、レティシアの頬の赤みも、そう簡単には消えそうになかった。

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