7 . 見返してやろう
「……舞踏会、ですか」
静かに揺れる声音は、明らかに戸惑いと気まずさを含んでいた。
レティシアの視線は、ロザリオの瞳を避けるように俯いたまま、微かに揺れている。
ロザリオは頷きながら、机上の書類に視線を落とした。
「そうだ。二ヶ月後社交界シーズンがくる。通年通り王家主催の舞踏会からが始まりだ。……お前も知っているだろうが、ダーツロー公爵家の爵位を俺が一時的に預かっていることは、まだ公にはしていない。お前自身がどうするか、心を定めるまでは、そのつもりもない」
彼はそこで一呼吸置き、言葉の重さを吟味するように続けた。
「だが……王家主催の舞踏会だけは、出席してくれ」
レティシアの顔に浮かんだのは、あからさまなまでの困惑と、深い拒絶の色だった。
まるで、触れてはならない過去がその言葉の中に隠れていたかのように。
ロザリオは眉をひそめ、その表情に疑問を覚える。
「……社交界は、嫌いか?」
問いかけに、レティシアはゆっくりと、けれど確かに頷いた。
「……母が、元は平民だったのです。孤児として育った人で……その血筋を、貴族たちは“穢れ”と見なします。私自身、何度も陰でそう囁かれました」
ロザリオは言葉を挟まず、ただじっと耳を傾けていた。
その静寂を受けて、レティシアはぽつり、ぽつりと語りはじめた。
「男性からのお誘いも少なくはありません。でも……それは、正妻としてではなく、愛人や夜のお相手としてです。たとえどんなに努力しても、“平民の血”というだけで、すべてを否定されるのです」
「……ハンスの家も同じです。彼とは悪い関係ではありませんが、彼の母上は私が嫁ぐことを嫌がっていたそうです。もっとも、私も彼と結婚したいとは思いませんでしたが……」
そう言って、レティシアはわずかに口元を歪めた。
それは、笑みと呼ぶにはあまりに哀しく、どこか諦めを帯びた表情だった。
その瞬間、ロザリオはゆっくりと椅子の背を倒し、足を机の上に投げ出した。
王とは思えぬ、行儀の悪い姿勢に、レティシアは思わず目を見開く。
「……っ、ロザリオ陛下?」
「俺が、なんでこんなに早く王位を継いだと思う?」
問いかけは軽く、どこか挑発的ですらあった。
だが、その声音の裏には、確かな信念が滲んでいた。
「前王が仕事できなかったってのもあるけど……俺は、なるべくこの国の格差をなくしたかったんだよ。平民と貴族、その生まれで差別されるような国にはしたくなかった」
ロザリオはふっと息を吐き、天井を見上げる。
「だから孤児院を増やした。予算も上げた。無駄遣いは極力削って、国民が納めてくれた税を、ちゃんと還元できるようにしてる。貴族も平民も、それぞれの持ち場で国を支えてる。だけど、貴族から平民への尊敬があまりにも足りてない」
「……ほんとはさ、貴族制度そのものを廃止したいくらいなんだ。でも、それをやると、今うまく回ってる制度も全部崩れるから、踏み出せない」
言葉のひとつひとつが、まっすぐで、ひどく熱を帯びていた。
机の上で交差した彼の指先が、わずかに震えている。
「だから、見返してやろうぜ。そういう連中を」
不遜な笑みを浮かべながら、ロザリオはレティシアをまっすぐに見つめた。
その目は、自信に満ちていた。けれど同時に――どこか、彼女の心に寄り添おうとするような、優しい光もあった。
レティシアの胸には、不思議な温かさが満ちていた。
同じような理想を抱いていることが、こんなにも心強いものだとは思わなかった。
「……ですが、何をすれば“見返す”ことになるのか、私には……」
その呟きに、ロザリオはにやりと笑う。
「まずは、舞踏会だな。ドレスや装飾品は俺が手配しておく。ああいう場じゃ、見た目で舐められないようにするのが先決だ」
そして、少しだけ真面目な声音で続けた。
「それと、しばらく朝の起床以外では、公爵家の代表としてふるまうための勉強をしておけ。言葉遣い、礼儀は大丈夫として、応対と政の勉強……全部、俺が見てやる」
「え、ええ……はい」
思わずたじろぐレティシアに、彼は軽く手を振って言った。
「わからないことがあったら、いつでも聞いていいから。な?」
その声は、王としてではなく、ひとりの男として――どこか年若き親しみを込めていた。
そしてレティシアは、その言葉に深く息を吐きながら、胸の内にわずかな決意を宿した。
誰より先に自分自身を、誇れるようになるのなら――
王宮の片隅で、静かに始まった少女の変化は、
やがて自分たちの運命をも揺るがす光となることを、彼女自身はまだ知らない。