6. 無自覚
「陛下、こちらの書類を」
静かな執務室に、シオンの丁寧な声が落ちる。机上には、既に山と積まれた文書が無言の圧力となって君主を取り囲んでいた。
「……チッ、また仕事を増やしやがって」
珍しく苛立ちを隠さない国王ロザリオに、シオンは眉ひとつ動かさず従う。
言いたいことなど山ほどある。だが、臣下としての矜持が、唇を噤ませた。
仮面のような微笑をたたえ、ただ静かに主の筆が止まるのを待つ。
「……なあシオン、これお前が見てから回してるんだよな?」
ロザリオは紙束を指先で弾くように叩き、机に投げつけた。
「文言がちぐはぐ。何? 文章の繋がりも確認してねぇのか? ──ったく、読むだけで頭が痛ぇ」
彼は気怠げに首を鳴らしながら、眉間に深いシワを刻んだ。
「それと、あの使節団への返答。あれ、あんなザマでよく提出したな。言葉は足りねぇし、妙に馴れ馴れしいし……向こうが噛みついてこなかったのが奇跡だぞ。誰が書いたかは知らねぇけど、最低限の外交文書くらいチェックしてから寄越せよ」
「申し訳ございません」
シオンは黙って頭を下げるしかなかった。
だがロザリオの苛立ちは収まらない。
「いや、わかってる。お前の筆じゃねぇのは。でもな? 結局それを通して俺の机に乗ったんだ。つまり──お前の責任ってことだ」
ペンを机に叩きつける音が響いた。
「はぁ……。これが“仕事”だと思ってる連中と、毎日顔突き合わせなきゃならねぇ俺の気持ち、少しは察してくれよ。頼むから……ちゃんと精査してくれ、な?」
「はっ」
鋭い指摘が飛ぶたび、シオンはひとつずつ頷いて答えた。
やがて、ロザリオの手が止まり、ため息とともにペン先で机を小刻みに叩き始めたとき——
シオンの中の堪忍袋の緒が、音もなく切れた。
「陛下……昨日、何かございましたか?機嫌がよろしくないようですが」
あくまで丁寧に。けれど、内に秘めた苛立ちは声の端に微かに滲んでいた。
本来、国王に向けるには不敬ともいえる問いかけ。だが、それほどにロザリオの様子は異様だった。
「…………聞きたいか?」
ふてくされたような、少年のような表情でそう返すロザリオに、シオンは一抹の不安を覚えた。
「いえ……別に」
「うんうん。だが、せっかくだ。聞かせてやろう。実はな───」
ロザリオが語り出したのは、昨日、王都の噴水前で起きた一幕だった。
◇◇
レティシアと城下の広場から帰ろうとしたそのとき、ひとりの青年が彼女に駆け寄った。
彼の名はハンス。ヨルダン公爵家の嫡男だった——
「レティ、やっと見つけた……」
感極まった様子で、彼はレティシアの両手を取った。
「ダーツロー公爵が崩御されたと聞いて、屋敷を訪ねた。だが、君の所在は伏せられていて……どれだけ尋ねても誰も教えてくれなかった」
レティシアは、戸惑っていた。
あの日、雨に濡れながら、絶望の底に沈みかけていた自分を迎え入れてくれた王宮。
その後、公爵家のことを気に掛けることもなかったのは——ロザリオが「家のことは任せておけ」と言ったからだ。
チラリと視線を向ければ、ロザリオは鋭いまなざしでハンスを見据えている。
レティシアの視線に気づくこともないほどに。
(……隠す必要なんて、ないわよね)
「私、今は王宮で仕えているの」
そう告げたレティシアの言葉に、ハンスは明らかに衝撃を受けた。
「王宮……!?どうして、君のような高貴な方が……」
彼の視線がレティシアの服装に落ちる。
言われてみれば、公爵令嬢としてはあまりに簡素な衣装。町娘と見紛うほどの、質素な佇まいだった。
「こんな格好までして……家に困窮があったなら、なぜ私に相談してくれなかった。君にそんな衣装は似合わない。いますぐこんな奉公などやめて——」
「下働きではない」
ハンスの言葉を遮るように、ロザリオの低い声が落ちた。
「彼女は、我が専属侍女だ」
ようやく、ハンスは目前の人物が国王その人であることに気づき、慌てて姿勢を正し、深く頭を垂れた。
「……失礼いたしました、陛下。ヨルダン家のハンスと申します。御威光、常に仰いでおります」
「それで」ロザリオは冷ややかに問う。「レティシアが王宮にいる理由を聞きたいのか?」
「はい、できましたら……」
「ちょうど侍女が辞めたばかりだった。貴族の娘なら礼節も弁えているし、領地の学びもできる。レティシアも突然ひとりになり、不安を抱えていた。だから、こちらで預かることにした」
それは、真実のすべてではなかった。
いや、むしろ大半が虚構である。
だが、あのときの、壊れそうなほどに弱りきったレティシアを語ることなど、できようはずもない。
あの瞳を知っているのは、自分だけであればそれでいい——
「……そうだったのですか。しかし、よき侍女をご所望ならば、我が家から優秀な者を紹介いたします。レティシアも、必要であれば我が家で預かりましょう」
「ハンス……やめて」
レティシアの声には、明確な拒絶がにじんでいた。
だが、ハンスの態度は変わらない。むしろ、その真摯さを盾に迫るように言葉を重ねる。
「レティ。君は、ここにいるべきではない。公爵家の令嬢として、相応しい生活を——」
「君は、レティシアの何だ?」
ロザリオの声が、低く鋭く響いた。
冷たいが、どこか抑えた怒気を孕んでいる。
ハンスは、拳を握りしめながら答えた。
「私は……レティの、婚約者です」
「勝手なこと言わないで。かつて候補に挙がっただけで、私は婚約するつもりなんてなかったわ」
「今だからこそ、正式に結び直すべきだ。私の思いは、ずっと変わっていない」
「……私には、私の人生があるの。勝手に、決めないで」
静かに、しかし毅然と語るレティシアの瞳には、かつて見た脆さのかけらもなかった。
それが、ロザリオの胸に奇妙な棘を刺した。
仲の良い同年の公爵家同士——それだけのことかもしれない。
だが、それを目の前で見せつけられるのは、どうにも面白くない。
彼の胸奥に、今まで知らなかった感情が、じわりと沸き上がっていた。
◇◇
「……てことがあったんだよ。ムカつくだろ?」
語気は軽く、投げやりのようでいて、妙に真剣な声音だった。
ロザリオは、机に肘をついたまま顔をしかめ、シオンの反応を待っている。
だが、シオンは答えない。
机の上にある書類に視線を落としたまま、口を開いた。
「……申し訳ありません。陛下が苛立たれる理由が……正直、よく分かりません」
乾いた筆致のような言葉に、ロザリオは目を細めた。
「は?」
「ヨルダン公子殿が、公爵令嬢のご身分を慮り、申し出たのはむしろ自然な流れでは」
「……いや、あれはどう見ても余計な口出しだっただろ。まるで、俺が彼女を無理やり働かせてるみたいな言い草でさ」
「ですが、陛下ご自身が、レティシア様に関する“いくつかの事実”をお伝えになっていないように見受けられました。……当然、陛下のご裁量ではございますが」
皮肉を交えるでもなく、ただ事実として静かに指摘するその声音に、ロザリオは再び苛立ちを覚えた。
しかし、それを感情として表に出すには、自分でも何かが足りない気がする。
「……ちょっと考えてみろよ。あの場で、俺が彼女の過去まで晒したらどうなってた。『壊れそうだった』なんて、他人に言えることか?」
「お優しいですね」
「は?」
「陛下が、侍女の過去をも守ろうとするお気持ちが……思いのほか、深いのだと」
シオンの言葉は、あくまで穏やかだった。
だが、その奥底にある“確信”のようなものが、ロザリオの胸に刺さる。
「深い……? いや、そういうことじゃなくてだな。俺は王として、責任があるからだ」
「……陛下は、そうお考えなのでしょう」
筆を取り上げたシオンは、そのまま紙に視線を落とす。
会話は終わった――そう告げるような、潔い動きだった。
だがロザリオは、何か釈然としない。
苛立ちの理由は、確かにあのハンスの態度だったはずだ。
だが、今思い返しても、彼の言葉のすべてが間違っていたわけではない。
むしろ、まっとうな意見だった。
なのに、なぜこうも胸の奥に棘のような違和感が残るのか。
なぜレティシアが毅然とした顔で「勝手に決めないで」と言ったとき、彼女が自分のものではないことを思い知らされたような気がしたのか――
「……お前、たまに分かりづらい言い方するよな」
ロザリオは、気だるげに椅子に深く座り直した。
「光栄です」
シオンの声には、微かに笑みがあった。
けれど顔は見せない。筆の動きは止まらない。
まるで――核心に踏み込まないことが、最大の思いやりであるかのように。
「とにかく、今後ハンスとやらにレティシアを引き渡すなんて話は、無しだ。あいつは……うん、あいつは俺が預かってるんだから」
「承知しました」
一切の皮肉も、感情もない声音。
それでもシオンの瞳の奥には、何かを見透かした光が宿っていた。
“預かっている”――それは、王の言葉ではなく、
とある男の、ただの未成熟な感情の吐露だった。
だが、それに本人はまだ気づいていない。
シオンは、また一枚、書類を机の上に重ねる。
「では、次の案件ですが……」
淡々とした声が再び執務室に響き、日常の帳が下ろされていく。
その奥にある揺れる心など、誰も触れないままで。