5. はじめての繁華街
王都の繁華街。午後の陽射しが黄金色に街を包み込み、噴水広場では旅芸人が皿回しの妙技を披露していた。背後には荘厳な大時計塔が時を刻み、通りには香ばしい匂いと人々の笑い声が立ち込めている。
レティシアは目を輝かせながら、通りに並ぶ露店を見つめていた。
焼きたてのパン、異国の果物、鮮やかな薬草、湯気を立てる串焼き──どれも、彼女にとっては初めて見るものばかりだった。
彼女の手には、自分で働いて手に入れた報酬が入った布袋が握られている。その手は少しだけ震えていた。喜びのあまりに。
その様子をロザリオは後ろから見つめていた。気だるげに立ちつくすその姿とは裏腹に、どこか柔らかい眼差しで。
「なんだ。来るのは初めてか?」
レティシアは顔を上げて、少し照れたように微笑んだ。
「あ、いえ。来たことはあります。ですが……いつも南通りだけでして」
そう言いながら、彼女は指先で南の方角を示す。
南通り──そこは上級貴族向けの高級ブティック街だった。仕立て屋、香水店、宝飾店。かつて公爵令嬢だったレティシアにとって、それが“王都”だった。
「ま、公爵令嬢ならそんなもんだろうな。ここまで来れてるだけ、まだマシな方か」
ロザリオはふっと息を吐き、空を仰ぐ。
「今日は自分で汗水たらして稼いだ金で、存分に楽しめ。露店の串焼きはうまいぞ。果物もいい。疲れてるなら薬草もある。喫茶で茶をすするのも良し……ああ、噴水に突っ込んだって構わんさ」
レティシアはその言葉にくすっと笑いながら、街の喧騒に目を向けた。
人々が笑っている。店主と話す客、恋人らしき二人、子どもを抱えた母親──
ここには、かつて自分が知らなかった日常があった。
王であるロザリオは、そんな景色を清らかな眼差しで見渡していた。真剣で、誠実で、誰よりもこの国を愛していることが、ただの背中からすら伝わってくる。
レティシアは胸を張り、小さな声で、けれどはっきりと答えた。
「はい!」
それから二人で、活気あふれる東通りへと足を踏み入れた。左右には露店がずらりと並び、賑やかな声と湯気と香りが渦を巻いている。
「国王陛下、この前はありがとうございました!」
ふいに声がかかる。
振り向けば、果物を売る青年が深く頭を下げていた。
「ああ、あの露店のトラブルか。……その後は?」
「はい。おかげさまで順調です!」
続けて、別の店主が駆け寄ってくる。
「陛下、この前の風で店が壊れた時、補助金を出してくれてありがとうございました。これ、よかったら……」
「……あれは君たちが納めた税金だ。私の懐から出したわけじゃない」
そう言いつつも、ロザリオは差し出された紙袋を丁寧に受け取る。次々と声をかけられ、いつしか通りには彼を囲む小さな輪ができていた。
気怠げな男だったはずのその姿が、今は王として堂々と街に立っていた。
その背を見つめながら、レティシアは思い出す。
──あの雨の日。
父が死に、世界が崩れ落ちたと思ったあの日に、光を灯してくれたのは、この人だった。
そんな時、ロザリオがふいに振り返った。
「……それで、おまえは何か欲しいものはあったか?」
レティシアは一瞬考えてから、小さく指をさした。
「……陛下が美味しいと仰っていた、あれが食べてみたいです」
彼女の指先が向いていたのは、香ばしい香りを漂わせる串焼きの屋台だった。
「レティシア。……お前、あれの食い方わかるのか?」
ロザリオは鼻で笑う。
「失礼ですね! そこまで世間知らずじゃありません!」
ぷくっと頬を膨らませて、レティシアはロザリオの元を離れ、一人で屋台へ向かった。
(緊張する……でも、大丈夫)
「お、おじ様。この串焼きを二本、いただけますか……?」
「はいよ、三十ベルだ」
財布袋から丁寧にお金を取り出し、レティシアは串焼きを受け取ると、満面の笑みでロザリオの元へ駆け戻った。
「か、買えました!!」
誇らしげに差し出された串焼きを見て、ロザリオの口元がふっと緩んだ。
「よかったな」
すると、レティシアはもう一本を彼に差し出した。
「どうぞ、陛下」
ロザリオは一瞬だけ固まった。
──奢られたことなど、一度もない。
国の頂点に立つ身として、それは当然のことだった。金は腐るほどある。誰かに何かを買ってもらうなんて、考えたことすらない。
だが、目の前の少女はそれを当然のようにして、ただの“好意”として差し出してきた。
平然を装いながら、ロザリオは串焼きを受け取る。
レティシアはそんな彼に気づくことなく、串焼きを一口かじった。
「……美味しい!! 初めて食べましたが、歯ごたえがあって、香ばしくて……すごく美味しいです」
ロザリオも一口食べ、静かに言った。
「……ああ。美味いな」
何気ない午後の陽射しの中。
何気ない串焼き。
だが、その一本は確かに、心に沁みる味だった。
香ばしい煙が鼻をくすぐり、じゅわりと広がる肉の旨味が、胸の奥に何かを灯すように優しく染み渡る。
ロザリオは、串焼きを最後まで食べ終えると、ふと隣を見やった。
レティシアは、小さな口で丁寧に、一口ずつ確かめるように串焼きを食べていた。どこまでも上品に、そして、どこまでも大切に。
だが、急に目を見開いたかと思うと、視線を一箇所に止め、ふいに駆け出した。
「レティシア?」
ロザリオがゆっくりとその後ろを追うと、彼女は路地裏の通路に身をかがめていた。目の前には、痩せた子供が、膝を抱えるように座り込んでいる。
「お腹がすいたの? お父さんやお母さんは?」
レティシアが優しく声をかけると、子供は小さく頷いた。か細い声で、搾り出すように言葉を紡ぐ。
「お母さんとふたりで暮らしてたんだけど、死んじゃって……。
死ぬ前に、お母さんが言ってたんだ……『王様に頼めば、助けてくれる』って……それで、ここまで来たの……っ」
その言葉に、ロザリオの表情がわずかに揺れた。
彼は無言のまま、子供の前にしゃがみ込む。レティシアの隣に、同じ目線で。
「……助けるのが遅くなって、悪かったな」
ロザリオの手が、汚れた髪にそっと触れる。何のためらいもない仕草だった。
その掌の温もりに、子供の肩がわずかに震える。
「でもな、王様に直接頼る必要なんかない。お前の周りには、ちゃんと優しい大人がいる。困ったときは、ちゃんと頼りなさい。それでいい」
レティシアはその横顔を、静かに、じっと見つめた。
澄んだ瞳に、どこまでもまっすぐな信念が宿っている。
なぜロザリオが、これほどまでに民から慕われているのか。
その理由が、痛いほどに胸に響いていた。
やがて、子供は隠れていた護衛の一人に連れられ、近くの孤児院へと送られていった。
レティシアは、その小さな背中を見送りながら、そっと胸元を押さえた。
◇◇◇
夕暮れ時、街を赤く染める光の中。噴水の前の小さなベンチにふたりは並んで腰を下ろしていた。
水の跳ねる音だけが、静かに周囲を満たしている。
「今日は、助かった」
ロザリオがぽつりと口を開いた。噴水を見つめたまま、低く、静かな声で。
「本当は、あの子供を見つけるのは、視察でここに来た俺の役目だ。……でも、お前が気づかなければ、見逃していたかもしれない」
自嘲のような笑みを浮かべながら、ロザリオは目を伏せた。
世界一の領土を誇るこの国において、飢えた子供が存在しないようにする──それが、彼の政治の根幹だった。
誰もが平等に生き、子供は笑い、食卓には温かい食事がある。そんな「当たり前」を築くために、どれほどの犠牲と努力があったのか。
それを誰よりもわかっている彼自身だからこそ、たったひとりの子供すら見逃した事実が、胸に重くのしかかっていた。
「私は……なにも。たまたま発見したのが、私だっただけです。
あの子も、陛下が整えてきた支援の中で、これからきっと立派に生きていけます。……それは、あなたのおかげでしょう?」
レティシアは優しく微笑んだ。
その時、噴水の水が音を立てて勢いよく跳ね上がる。
夕焼けの光が、水飛沫に反射してきらきらと輝き、レティシアの横顔を一瞬、神々しく照らした。
ロザリオの目に、その姿が焼きつく。
「それに、私……あの時、咄嗟にパンとか買って渡せばよかったのに、戸惑ってしまって……」
「いや、あの子はしばらく満足に食べていない。だから、孤児院に着いてからは、まず粥から始めるように言ってある。……今度、一緒に視察に行こう」
「はい」
風が吹く。
一日の終わりを告げるような、やや涼やかな風が、ふたりの間を通り抜けた。
そろそろ帰ろうか、と雰囲気が変わり始めたその時。
背後から声がかかった。
「レティ?」
レティシアがピクリと肩を震わせ、振り向く。
そこに立っていたのは、南通りの高級仕立て屋から出てきたばかりのような、高位貴族の男だった。
細身の長身、洗練された仕立ての服、そして――どこか懐かしい瞳。
「……ハンス……」
レティシアは、わずかに目を見開いたまま、その名を呟いた。
その表情には、驚きと戸惑い、そして……少しの緊張が滲んでいた。