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4. 道徳ビンタ




レティシアが、ロザリオ陛下の専属侍女として仕えるようになって、はや数ヶ月が経った。


朝の光が薄く差し込む寝室には、今日もまた、脱ぎ散らかされた衣の山と、布団にくるまった一人の肌色がある。


「……陛下、とっくに六の鐘が鳴りました。起きてくださいませ」


レティシアの声は、以前よりも容赦なく鋭い。無論、それ相応の鍛錬を積んできた結果である。


「やだぁ……寝たの三の鐘ぇ……」


「それは、自己責任でございます」


淡々と布団を剥ぎ取るレティシアの手には、かつての遠慮や羞恥心の影もない。


上半身をあらわにしながら、ロザリオがふにゃりと身を起こした。

寝癖で跳ねた金の髪と、眠たげに細められた瞳。どこからどう見ても、国を背負う王の風格など微塵もない。


「レティシア、鬼ぃ〜……」


「光栄です。鬼でも閻魔でも、陛下が起きてくださるなら何にでもなります」


そう答えるレティシアの口元に浮かんだ微笑には、すでにこの日常に慣れきった余裕すらあった。


──毎朝裸、高確率で見知らぬ女性の残り香付き。しかも一糸まとわぬ国王つき。


最初の頃は、布団をめくるたびに悲鳴を上げ、視線のやり場に困っていたのが嘘のようだ。

最近ではむしろ、服を着ていれば「奇跡」と称するほどだった。


今日もまた、そう──運の良い日である。部屋にはロザリオひとりだけ。寝癖と寝息と半裸だけ。


その幸運を噛み締めつつ、レティシアはふと思い立ったように口を開いた。


「……陛下は、そんなに女性がお好きなのに、なぜご結婚なさらないのですか?」


ロザリオは上着の袖に腕を通しながら、目をしばたかせた。


「んぇ、結婚? うーん、まだよくない?」


「よくない、とは……? 陛下は今年で二十四と把握しております。歴代の王と比べても、おそらく遅すぎる方かと」


「まぁ……まだ遊んでたいし〜、ひとりの女性に絞るの寂しいし〜、恋とかしたことないし〜」


その締まりのない語尾に、レティシアの眉がほんの僅かにひくついた。

丁寧な言葉遣いの裏に、怒気すら感じるほどだった。


(……毎朝裸。知らない女性の痕跡。私に着替えさせておいて、恋を知らない?)


呆れと困惑を詰め込んだような眼差しを、じっとロザリオに向けながら、レティシアはなおも淡々と続けた。


「それでは……侍女の人数が極端に少ないのも、そうした理由で?」


ロザリオは、シャツの裾を整えながら、ひょいと首を傾げた。


「んー……まあ、それもある。俺、誘われると断れない性質でさ。すぐベッドで頑張っちゃうから。だからなるべく女性は近くに置かないようにしてる」


その瞬間。


レティシアの手が止まった。

そして次の瞬間には、まるで地雷を踏んだかのように、彼女は大きく数歩、後退していた。


「……最低です」


胸の前で両手を交差し、眉根を寄せて睨みつける視線は、もはや人間を見る目ではない。


「ばーか。俺だって、誰でもいいわけじゃねぇよ」


ロザリオは軽く肩をすくめながら言った。


「まだ十七の子供に手出すほど腐ってねぇし。それに、レティシアには……質量が足りない」


そう言って、彼は両手で空気を掴むような仕草をした。

胸元を表現するその不埒な動きに、レティシアの顔が真っ赤になる。


しばらく固まっていたが──


「…………」


ずかずかと距離を詰めると、振りかぶって、渾身の一撃。


バシンッ!


乾いた音が部屋中に響いた。


──ロザリオの頬に、真っ赤な手形が残る。


「最低です」


それだけを告げると、レティシアは背を向け、静かに扉の方へ歩き出した。


その背に向けて、ロザリオは頬を押さえながら苦笑した。


「……だよね〜」


やれやれ、と呟く声の奥には、どこか楽しげな響きが滲んでいた。


(いや、あの子に手を出したら、俺マジで終わるよな……)


自覚があるのかないのか、国王としての威厳はいつも通りどこかへ置いてきたまま。

それでも──レティシアの掌は、しっかりと彼の頬に“道徳”を刻んだのだった。



◇◇◇



「まって……これ、不敬罪? いや、普通に暴行? 処刑される……?」


ひとりごとのように呟きながら、レティシアは回廊を怒気に満ちた足取りで歩いていた。

だが、足音が石床に響くたびに、彼女の頭には一つの疑念が膨らんでいく。


(よく考えたら……あの方、国王なんだよね……)


自らの手が放ったあの一撃。

それが国王の頬を打ったものだと、ようやく現実として胸にのしかかる。


──あり得ない。

一介の侍女が、君主に対して手を上げるなど、首が飛んでもおかしくない所業だ。


(まずい……まずすぎる……!)


ロザリオ王の、時に無邪気で自由奔放すぎる振る舞いにすっかり慣れてしまったことが原因だった。

彼は、王としての威厳を保つべき公式の場では完璧な統治者の顔を見せる。

だが、私室においてはまるで幼馴染のように馴れ馴れしく、王冠を忘れた少年のようだった。


それに甘えてしまった。

彼が“陛下”であるという当たり前の事実を、ほんのひととき、忘れてしまったのだ。


(とにかく謝らなきゃ……!)


迷う余地はない。

レティシアは心を決め、一直線に執務室へと向かった。


扉の前に立つと、緊張のあまり手が震えたが、意を決して数度、ノックする。

中から「どうぞ」と短くシオンの声がして、そっと扉を開ける。


ちょうどその時、ロザリオと側近のシオンが部屋を出ようとしていた。

レティシアは慌てて頭を深く下げ、大声で叫んだ。


「先程は、大変申し訳ございませんでした!!」


扉が閉まったかのように、辺りは一瞬にして静まり返った。

空気が凍りついたようで、レティシアは下げた顔に力を込め、固く目を閉じる。


(どうしよう……やっぱり怒ってるよね……)


一人で生きていくと誓ったこの道で、ようやく得た職を、こんなことで失うかもしれない。

情けなさと不安が入り混じり、喉が締めつけられるようだった。


だが──

あまりにも返事が来ないので、恐る恐る顔を上げると、ロザリオは腕を組んだまま、どこか思案するような顔つきで彼女を見ていた。


やがて彼は、ゆっくりとした口調で呟く。


「……なんかあった?」


その一言に、レティシアは呆然とした。

しどろもどろに言葉を返す。


「あ、いえ……あの……その、頬を叩いてしまって……」


「ああ、それか!」


思い出したように彼は手を打ち鳴らし、あっけらかんと笑った。


「そんなことか!!」


レティシアは、言葉の意味が理解できず、ただ呆気に取られてしまう。

すると隣で、シオンが呆れたように肩を竦め、彼女に優しく言った。


「レティシア嬢、どうかお気になさらず。どうせ、陛下がまた下衆な発言でもされたのでしょう。あの方、頬を叩かれることなど珍しくもありませんよ」


「えっ……王様なのに……?」


思わず漏らしたレティシアの言葉に、シオンは冷静に答えた。


「男女としてです。男として最低な言動をすれば、当然の報いを受けるべきかと」


「ちょ、ちょっと待てシオン! 俺、お前にそんな話したっけ……?」


「されなくても、見ていれば分かりますよ」


淡々と返され、ロザリオは苦笑しながら頭を掻いた。

それを見たレティシアは、思わず小さく笑ってしまった。


(……なんなの、この王様)


ついさっきまで処刑を覚悟していたというのに、現実の王は、まるで叱られる子どものように立ち尽くしている。

なんとも女にだらしなく、くだらない冗談ばかり言うこの人に、恐れを抱いていた自分が可笑しくなってしまった。


その笑みを捉えたロザリオが、彼女をまっすぐに見つめ、呟く。


「……なんだ、笑ったらもっと可愛いじゃん」


「えっ……」


レティシアの頬が、さっと朱に染まる。

胸の奥が不意に跳ね、鼓動が早まった。



その反応に満足げな笑みを浮かべたロザリオは、少し真面目な眼差しをレティシアに向けた。

そして、唐突に話題を変える。


「なあ、レティシア。これから、王都(ここ)の繁華街へ行く。お前もこい」

「……えっ?」


予想外の提案に、レティシアはきょとんと目を瞬かせる。

すると、ロザリオは軽く肩を竦めながら、冗談のような、しかしどこか真剣な口調で続けた。


「仕事だよ、仕事。まあ、建前上はな。視察ってやつ」

「……私が、一緒に?」

「もちろん」


王としての命令というより、どこか自然で、私的な誘いの響きすらあった。

レティシアが戸惑っていると、ロザリオは少し目を細めて、優しく微笑む。


「お前さ、最近ずっと真面目に働いてばっかりだろ。休みの日だって城から出ないし、息抜きって言葉、知らないのか?」


レティシアは思わず口を閉ざした。

確かに、彼の言う通りだった。与えられた職を失いたくなくて、真面目に、誠実に、ただそれだけを守っていた。


「ちょっとくらい、風に当たってこい。……ま、国王と一緒なら文句言われないだろ?」


そう言ってウィンクすらしてみせるロザリオの軽薄な仕草に、誘われたことに動揺していたレティシアは少し落ち着いた心を取り戻した。


だがその軽やかな態度の裏に、彼が自分のことをちゃんと見ていたのだと気づき、胸の奥がじんわりと温かくなった。


「……はい。では、僭越ながら、お供いたします」


頭を下げたレティシアに、ロザリオは満足そうにうなずいた。


「よし決まり。じゃ、まずはシオンの護衛抜きでな。お前と二人きりの方が、面白いことが起こりそうだから」


「……は?」


「冗談だよ冗談。ちゃんと護衛はつけるって。俺だって一応、命惜しいし?」


「お強い陛下の命の心配はしておりません。陛下に引っかかってしまいそうな女性のための護衛です」


「ひどい言い草だな……」


冗談めかして笑いながらも、ロザリオの視線は真っ直ぐにレティシアを見つめていた。

それが、どうにも不思議で、けれどどこか安心できて——

レティシアは心の奥で、自分がこの王に少しずつ心を開いていることをじんわりと感じていた。


お読み頂きありがとうございます˖ ࣪⊹

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