3. 軽蔑と尊敬
王宮でレティシアが働くことになり、一週間が経った。
その間、ロザリオの命によって彼女にはしっかりと休息が与えられ、この日が初めての出勤となった。
「働くなら、働けるだけ心身を整えてからだ」と、王は言ったのだ。
そしてその言葉通り、王命のもとレティシアは“誰にも特別扱いされない”待遇を得ていた。
──貴族の娘でも、元公爵令嬢でもなく、一人の使用人として扱われること。
それは、彼女にとってこの上なく心地のよい環境だった。
貴族社会にいた頃なら、
「平民の血が混じった娘」
「両親も兄もいない可哀想な子」
──そんな、同情と蔑みが混ざり合った視線が、容赦なく肌を刺していたからだ。
だが今、王宮で彼女を見る者たちに、そうした色眼鏡はなかった。
ただ、それでも──
(……どうしてあんな恥ずかしい姿を……!)
心が落ち着いてくるほどに、国王・ロザリオの前で取り乱した自分の姿が思い出され、頬を赤らめてしまう。
思えば、あの時。
肩を抱かれ、何も言わず、ただ黙って寄り添ってくれた彼の背中は、あまりにも大きく、温かく、どこか人間離れしていて……
十七歳の少女には、それはまるで“神のような存在”に思えたのだった。
──そうして迎えた初出勤の日。
レティシアの初仕事は、国王・ロザリオを起こしに行くことだった。
緊張で硬くなった手で、寝室の扉に触れる。
深呼吸をひとつ置き、決意を込めて、そっと扉を開いた。
カーテンの隙間朝の光が差し込む広い寝室。
高い天窓から柔らかな陽が差し、カーテンを引くと白い光が床に舞い落ちる。
「陛下、起きてください。もう、七の鐘が鳴ってしまいますわ」
そう言って、レティシアはゆっくりと寝台の布団に手をかける。
──しかし、彼女がその布を捲った瞬間。
目に飛び込んできたのは、肌色。
肌。肌。肌──。
乱れた金髪。素肌の肩。そして、ロザリオの半裸の胸元。
彼の腕の中には、布団で巧みに隠されていたが──明らかに、女の裸。
「ゔぅ、まぶしい……俺さっき寝たばっかりぃ……」
掠れた声で、ロザリオが目を擦りながら呻くように呟く。
レティシアは、ピクリと肩を震わせると、布団をそっと戻し、扉を閉じて寝室を退出した。
──その顔は、煮え立つほど真っ赤だった。
そして廊下で、タイミング悪くシオンと鉢合わせる。
「レティシア嬢、おはようございます。陛下はお目覚めに──」
「──……!!」
レティシアは俯いたまま、ブルブルと震え、言葉にならない息を漏らしていた。
「レティシア嬢……?」
「なんなんですか!!あの人はっ!! な、なんで裸で──!ふ、二人で──っ、あんなのっ!?」
耳まで真っ赤に染まり、涙すら浮かべながら怒るレティシア。
あまりの反応に、シオンは一瞬目を瞠ったが──次の瞬間、小さく舌打ちをした。
「……ッ失礼」
すぐに寝室の扉を開け、無言で中へと乗り込む。
「──陛下。私は、レティシア嬢が本日初めてお仕えする日だと、昨日も、昨夜も、寝る直前にもお伝えしましたよね?」
普段は事務的なシオンの声が、珍しく鋭くなっていた。
「この状況は一体何です? どうして今朝、陛下の寝室に裸の女が一人いるんです?」
「ん〜? だってぇ、なんか……寂しそうだったから?」
布団の中で眠たげに目を擦りながら、まるで言い訳にもなっていない答えを返すロザリオ。
その時。
「──っ失礼いたしますっ!」
ガバリと布団の中から、女がシーツで身体を包むようにしながら飛び出す。
散らばる服を抱え、裸足のまま颯爽と寝室を走り抜けていった。
「お、お騒がせしましたっ!」
その背中を見送りながら、シオンは額に手を当てて深いため息をついた。
「……陛下。最低です」
「えー……俺が悪いのぉ?」
「悪い以外の何物でもありません」
「……ぅーん。レティシア怒ってた?」
「呆れ果てて、真っ赤になっておりました。……もしかすると泣いてますよ」
「……やっば」
そう呟いて、ようやくロザリオは布団から上半身を起こした。
シオンは肩を落とし、背を向けて部屋を出ながらひとことだけ、静かに言い残した。
「……せめて着てください、服を」
◇◇◇
慌ただしい朝を迎え、王宮ではいつもと変わらぬ一日が始まろうとしていた。
朝の執務室──ロザリオが着座する前に、控えめなノックの音が響く。
「レティシアです。本日からお世話になります」
扉の向こうから届いた凛とした声に、ロザリオは自然と顔を上げた。
中へ入ってきたレティシアは、すっかり顔色を取り戻していた。
しっとりと整えられた髪、目元の腫れも引き、立ち姿には気高さが宿っている。
だが、その整った顔に浮かぶ表情には、はっきりとした軽蔑の色が滲んでいた。
(わぁ、めっちゃ怒ってる……)
彼女の視線が何を物語っているかなど、ロザリオにはすぐにわかった。
あの朝の出来事──つまり、自室で“うっかり”見られてしまった寝起きの姿と、
その添い寝の“おまけ”までを。
だが、それよりも気になったのは彼女の変化だった。
ほんの数日前、魂の抜けたように父の墓前で座り込んでいた少女とは、まるで別人だ。
「使用人らしくないね」
ロザリオがぽつりと零した言葉に、シオンの眉がピクリと反応した。
「陛下、余計なことは仰らないでください」
やんわりとした口調ながら、その言葉には明確な刺があった。
レティシアはそのやり取りに少し首を傾げたが、すぐに気を取り直し、直立して礼をした。
「まあいいや、レティシア。今日は初日だから、一日俺や使用人の様子見ておくだけでいいよ」
「は、はい」
「あ〜……あと、俺ここではこんな感じだから。慣れてねー」
ロザリオはそう言いながら、だるそうに王座へと腰を下ろした。
背もたれに寄りかかると、あろうことか靴まで脱ごうとする。
その姿に、レティシアは混乱を隠せなかった。
──あの雨の日、私の肩を抱いて黙って支えてくれた方と、目の前のこの男が……本当に同一人物なの……?
神のように思えた男が、ただの“だらしない人”に見える。
あまりのギャップに、口が開いてしまい、言葉が出ない。
そしてこっそり、隣のシオンへと問いかけた。
「あの……シオンさん、陛下って───」
「ああ、本当の姿はこっちです。深夜は女性を侍らし、その結果毎日眠いと駄々を捏ねながら仕事をするのです」
淡々とした語調に、レティシアは思わず絶句した。
「──へ、へぇ……」
小さく咳払いをして誤魔化したレティシアは、平然を装いながらも明らかに視線を泳がせていた。
まるで『国王陛下』という存在の再構築を頭の中で行っているようだった。
だがその混乱も、時が経つにつれて少しずつ静まっていく。
彼女はこの日、初めてロザリオの一日を見学するという役目を与えられた。
使用人たちと共に控え、飲み物を運んだり書類を並べたりと、些細な雑務に徹しながら、彼の“執務”を静かに見つめていた。
──そして、驚いた。
次から次へと運び込まれる報告書や依頼文書。
それらを前にしても、ロザリオの手は止まることがなかった。
椅子にぐったりと腰かけたまま、髪をくしゃくしゃと掻き上げる姿は怠惰そのものだったが、口を開けばまるで別人だった。
「シオン、それ、第三騎士団からの物資運用報告だろ。先月より消耗率が三割も高い。原因を照会しろ。もし前線の動きが活発化してるなら、補給路の再調整が必要になる」
「畏まりました」
「それと、学術院からの協議案……“アルカナ結界の外殻式再編案”? これ、予算案の添付がない。理論ばっかりで金の話がない案は通さないって、あいつら未だに覚えてないのか? 返答文に『理論の整合性は確認した。実現性と予算編成案が整い次第、再度提出を求む』って書いといて」
「仰せのままに」
「北の開拓地からの要請……ん、資材の融資だけじゃなく、人員不足か。農耕区画の整備も進んでないな。第四管区の民兵を一部移して支援できるか、明日までに検討して」
「はい」
目まぐるしく飛び交う言葉と判断。
その全てが即断即決でありながら、ただの鷹揚ではない。
報告書の行間を読み、周囲の政治や軍、学術までも考慮して采配を下すその姿に、レティシアは思わず見惚れていた。
「……すごい」
思わず、小さく呟いた。
(“国を治める”って、こんなにも……)
彼のだらしない私生活とのギャップがあまりにも大きく、レティシアの中で何かが軋んだ。
けれどそれは、否定ではなく、認識の更新だった。
──この人は、怠け者でどうしようもない王様、なんかじゃない。
ちゃんと、民を、国を見てる。誰よりも。
やがてロザリオが、何かに気づいたように目をあげた。
「レティシア」
「は、はい!」
少し声が裏返った。
「さっきのお茶、美味しかった。ありがとう。緊張せず、いつも通りでいいよ」
優しく微笑むその表情は、やはり雨の夜に見た“あの人”と同じだった。
レティシアはそっと胸元を抑え、小さく深呼吸をする。
(……やっぱり、お父様が信頼するだけの人なんだ)
◇◇◇
そしてその日の夕方──
控えめに活けられた一輪の白百合が、ロザリオの執務机の端にそっと飾られた。
何も言わずそれを見つめたロザリオは、ふと目元を緩めると、小さく呟いた。
「……似合わねぇな、俺に百合って」
誰に聞かせるでもなく、ただ静かに、笑っていた。
レティシアはその背中を遠くから見つめながら、心の中で小さく告げる。
(いいえ……今のあなたには、きっと、似合います)
白百合──それはこの国では“尊厳”の象徴。
少女の中で、確かな信頼と希望の芽が息づき始めていた。