2 . 遺された娘
三日後、弔いの日。
空は静かに泣いていた。
灰色の雲が重たく垂れ込め、葬送の鐘もなく、ただ雨の音だけが辺りを満たしている。
王のロザリオは、黒の礼服に身を包み、静かにダーツロー家の墓所へと足を踏み入れた。
「……雨か」
ぽつりと呟いたその声は誰に向けたものでもなく、空に向けた独白だった。
眼前に立つ少女──レティシアの姿は、雨に濡れ、喪服の黒をさらに重たく染め上げていた。
目元には泣き腫らした痕が色濃く残り、整えられていたはずの髪も、今は風と雨に乱されている。
けれども、膝を折ることなく、王を迎えたその姿に、少女の強さと儚さが同時に滲んでいた。
「……陛下。
本日は、父のためにお越しくださり……心より感謝申し上げます」
その声音はか細く、今にも折れてしまいそうでありながら、礼節を崩さぬ矜持があった。
ロザリオは黙礼し、墓標の前に目を落とす。
その視線の先には、忠義を尽くし、幾度も国を守った重臣の名が刻まれていた。
「公爵には、とても世話になった。
……本当に、残念だ」
声音は穏やかに、けれど一線を越えぬ距離感を保ち、王としての言葉を選んでいた。
少女──レティシアは黙って頷き、そのまま目を伏せた。
だが、次の瞬間、ロザリオは一歩踏み込む。
「……こんな時に聞くのは無粋かもしれぬが、爵位の継承について確認させてほしい。
ダーツロー家は代々、辺境防衛の要であった。なるべく早く、正式な手続きを──」
「爵位を継ぐつもりはございません」
静かだが、揺るぎのない声だった。
ロザリオは、微かに眉を寄せる。
まるで、予想外だったと言わんばかりに。
「……理由を聞こうか」
「父の死を以て、公爵令嬢としての私の人生も終わりました。
私は今後、一人の娘として生きて参ります。
爵位も、領地も──全て、王国にお返しいたします」
「返還、だと?」
ロザリオの低く落ち着いた声に、レティシアはただ小さく頷いた。
その仕草には、意志の強さも決意もなかった。ただ、すべてを終わらせたいという──諦めにも似た空気が漂っていた。
「……あれは、父の背負っていたものです。
私には……継ぐ理由も、力もありません」
雨粒が頬を流れ落ちる。涙かどうか、彼女自身ももう分からないのかもしれない。
「……ひとりで生きていきます」
その言葉に、熱はなかった。
むしろ感情の欠片を削ぎ落としたような、無機質な声音だった。
──まるで、自身が生きている価値すら測れていないような、そんな響きだった。
まだ四十にも満たない若さの父を亡くし、たった一人で取り残された少女にとって、貴族の義務も名誉も、もはや重荷でしかなかったのだろう。
この先をどう生きていくべきか、その道すら彼女には見えていない。
ロザリオは黙して彼女を見つめた。
言葉の一つも返せばよかったのかもしれない。だが、それすら見当たらなかった。
無垢な哀しみに浸るでもなく、激情を吐くでもなく。
ただ、あまりにも静かに、崩れ落ちようとしている。
──放っておけば、消えてしまう。
そんな直感的な危うさが、心の奥で警鐘を鳴らしていた。
「……そうか」
絞り出すように返された声には、王の権威も、命令の響きも宿っていなかった。
ただ一人の男として、少女の孤独と向き合おうとするかすかな迷いが滲んでいた。
灰色の空は、なおも静かに、無慈悲な雨を降らせ続けていた。
鈍色の雲の下、人々は既に立ち去り、残されたのは二人だけ。
本来ならば弔問を終え次第、城へ戻る予定であったロザリオは、侍従シオンにすべての予定を取り下げさせ、ただ墓前に佇む少女を見つめていた。
小雨に打たれながらも、レティシアは身じろぎ一つせず、父の眠る墓標を見上げていた。
その瞳には、生の光と呼べるものがすでに宿っていなかった。
「……どうして。どうして皆、私の前から消えてしまうの……」
掠れた声が、雨音の隙間から洩れる。
ダーツロー公爵家は、かつて四人家族だった。
だが七年前、レティシアの誕生日の贈り物を買いに出た母と兄が、道中、盗賊に襲われ命を落とした。
その後、公爵の両親も流行病と心臓の病で相次いで世を去る。
母は元平民の孤児であったため、レティシアには祖父母も、頼る縁者も存在しなかった。
彼女は、たったひとりになった。
ロザリオは一歩、また一歩とゆっくり歩み寄り、墓前にしゃがみ込んだレティシアの背に影を落とした。
「ダーツロー公爵令嬢──……いや、レティシア。お前、王宮で働け」
低く、しかし確かに通る声だった。
レティシアの肩が小さく震える。
それでも振り向かず、沈んだ声を漏らした。
「……気を使っていただくことはありません。わたしは、ひとりで……」
「生きる気がある人間の瞳じゃない」
ロザリオは淡々とした声音のまま、吐き捨てるように言った。
「このままお前の言う通りにして……万が一、どこかで首でも括られたら、寝覚めが悪い」
「自殺なんて、そんな……!」
「だったら、顔を上げろ。今のお前、まるでこのまま雨に溶けて消えるみたいな目をしてる」
ぐっと唇を噛む音が、雨音の中にかすかに聞こえた。
「……公爵が、あれほど大切にしていた領地だ。領民のこと、土地のこと……よく俺に話してくれてた」
ロザリオはレティシアの隣にしゃがみこむと、同じ視線の高さから穏やかに告げた。
「だからこそ、一時的に爵位と領地は国が預かる。王命として。お前は王宮で働け。
人並みの生活をして、もっとまともに物事を判断できるようになってから──そのとき、継ぐか手放すか考えろ」
レティシアは俯いたまま、堪えていた感情の堤が崩れたように、嗚咽を漏らした。
「……お父様……」
ぽろり、ぽろりと、目から滴がこぼれる。
ずっと抑えていたものが、ロザリオの言葉をきっかけに溢れ出した。
「……会いたい……まだ……なにも……ありがとうも……言えてないのに……」
声を震わせながら泣くレティシアに、ロザリオは黙って肩を貸した。
両手で顔を塞ぐ彼女の頭に、そっと手を添え、なだめるように軽く撫でた。
その手は、驚くほど優しかった。
彼女が落とす涙は止まる気配もなく、
その小さな身体に積もる哀しみは、雨の重さとさして変わらないほどに静かだった。
ロザリオは、レティシアの肩をそっと抱き寄せながら、しばし無言でその背を撫で続けた。
慰めの言葉など、今の彼女には何の役にも立たないことを、彼は理解していたからだ。
やがて、レティシアの呼吸がかすかに落ち着きを見せ始める。
ロザリオはゆっくりとその肩から手を離し、立ち上がった。
黒の喪服の内ポケットから、丁寧に包まれた一輪の白百合を取り出すと、墓標の前に静かに跪き──その花を供えた。
「安らかに眠れ、ダーツロー公爵。……お前の娘は、俺が預かる」
短くそう告げて、彼は再びレティシアのもとへ寄る。
彼女の手を取り、立たせることなく、ただ傍に寄り添った。
雨脚はまだ止む気配もなく、空は灰色のままだったが──
墓前に置かれた白百合だけが、凛とした白さで雨を受けていた。