5 飛び降り騒ぎ
早朝ということもあり、寮を歩く生徒は多くない。だが、まったくいないというわけでもない。
カラルミスは武術全般を重んじる寮だ。実技に秀でた生徒が多く所属し、自主的に鍛錬に励む者はテトス以外にもいる。
堅牢荘厳な要塞もかくやな寮は、内装までも武骨だ。規則正しく並んだ石壁に、真四角のタイルがはめられた石畳。華美な飾りが少ないところは、テトスも気に入っている。
廊下をいつも通りに歩いていると、向かいから生徒が一人慌ただしく走ってきた。
「チャジア!」
けたたましい物音を立ててテトスの前まで来ると、モール・ル・グリクセンは息をきらせて止まった。
貴族の仲間入りだと好んで整えていた赤茶の髪は乱れ、シャツのボタンも掛け違えている。表情は慌てて飛びこんできたために、歪んで顔色も悪い。
その様子を見て、さすがに何かあったのだとわかる。
「おい、どうした」
モールは、ほうほうの体で顔を上げた。テトスを見て、周りを見る。辺りに、テトス以外の通行人はいない。
いつもならテトスに嫌味混じりの挨拶をしてくるものだが、今日に限ってはそれすらない。息を整えるのさえ煩わしそうに聞いてきた。
「ヴァーダル様は」
「まだ寝てるぜ」
「なら起こしてくれ!」
口泡を飛ばして、モールはテトスに縋った。
「ヒルダが、妹がいないんだ!」
「妹?」
テトスが聞き返す。モールが頷くと同時に悲鳴がした。
甲高くよく通る声だ。上のあたりからする。
(上に階はないのに?)
カラルミス寮は東西で男女の寮に分かれている。そして四階建ての上に行くほど、階級や成績が高い者の部屋がある。ヴァーダルのおかげで、テトスたちの寮の部屋も今年から四階になった。
そしてその上には、屋根があるばかり。当然、歩くスペースもくつろげるスペースもない。
テトスは咄嗟に廊下の窓に向かった。嵌め込み式の窓に見える魔法がかかった大きな窓だ。特定の位置に触れれば、両側になんなく開く。
身を乗り出して見上げると、曇り空が広がっている。屋根上にある寮旗がはためき、時折引っ張られるように布地を伸ばしていた。
また悲鳴がする。いや、甲高い奇声だ。下手くそな鳥の鳴きまねのような。
(誰かいる?)
逆行で影しか見えない。姿かたちからすると誰かがふらふらと歩いている。
「な、なんだ?」
戸惑いながらモールも窓から身を乗り出して覗く。
――瞬間、屋上から人の体が落ちてきた。
わずかな時間にも関わらず、その人物を見てモールが叫んだ。
「ヒルダァ!」
テトスは窓を跨いで飛び越えた。
飾り紐を外して緩めながら、壁伝いに猛スピードで走る。それよりも早く、意識のない女生徒の体が落ちていく。
三階を通り過ぎる。
(まだ届く)
紐を右手で軽く回しながら、大股で壁を蹴って掛け降りる。前傾姿勢で急降下するみたく女生徒より下に入りこむ。
二階を歩いていた生徒が、慌てて窓に駆け寄っているのが一瞬見えた。
(取った!)
掴み、抱える。
テトスはすぐさま紐を上に投げつけた。
壁の適当な隙間に見事はまった紐が、ピン、と伸びる。鋭い刃先となった先端部のおかげで、深く刺さったようだ。
ゆっくりと壁を段階的に蹴って降りて、意識のない体を下に寝かせる。
それが終わると、テトスはまた壁を登り戻って紐の先端を取り、体をひねって下に飛んで着地した。
「さすが俺。余裕」
体に異常はない。自画自賛をこめてテトスは呟いた。
紐を腕に巻いて、女生徒のほうまで歩く。
騒ぎに気づいた他の生徒も、窓から顔をのぞかせている。そこにはヴァーダルに仕える者もいるはずだ。じきに連絡は寮監督にも教師にも行くだろう。
(それまでに簡単にでも調べとくか)
モールの言う通りなら、女生徒は彼の妹であるヒルダ・ル・グリクセンなのだろう。
くすんだ赤茶の髪や細かな顔のパーツが似ている。
ヒルダは深く眠っているみたいに、ひっそりと息をしていた。
外傷で目立つのは手だろうか。指先の爪は割れ、皮膚も破れて血がぷつりと膨らんでは流れていた。落ちている最中は気絶した状態だったので、その直前に負った傷だと想像できた。
それから気になるといえば、目元の隈だ。不眠患者みたいな青黒い隈が目の下にできている。
体を起こそうとするフリをしながらポケットも探ってみたが、何も入っていない。
「おい、意識はあるか」
軽く声をかけてみる。
「……黒……さま」
一瞬だけ目が開いた。
「黒?」
聞き返しても、またすぐに気を失ってしまった。そのまま眠りに落ちたのか、浅い呼吸を始めている。
(なんで屋上から落ちてきた? 事故か?)
そもそも、入って早々に自殺まがいのことをする者が入学できるとも思わない。
学園入学時は学力だけでなく精神面の検査もあるのだ。途中で病む者はともかくとして、初っ端からそうである者は弾かれるはずだった。
「チャジア、よくやった」
声をかけられて、そちらを向く。どうやら寮監督たちが教師を引っ張ってきたようだ。中には学園医のスピヌムもいる。
テトスは大人しくヒルダの身を渡して、事情説明に協力をした。
教師たちの見解は、隠された。
どんな事情があるのかと聞こうと思ったが、講義とヒルダの療養を理由にテトスたち生徒は追い返されたのだ。
しかし、はいそうですかと物分かりよく引くテトスではない。
気になるなら、調べたくなるもの。ちょうど医務室には、都合よく頼れる友人がいる。
今日の講義が終わると、すぐさまテトスはヨランを探してたずねた。
「で、なんかわかったことないか?」
「そう言われても、面会禁止の病室に僕は入れませんよ。ムーグたちが長く居座るなと思いましたけど……そんなことがあったんですか」
「なんだ、手当の手伝いとかしなかったのか」
「早朝の出来事ならスピヌム先生だけで処置されたと思います。そのとき僕は寮にいたので」
そう言って、ヨランは小さくため息をついた。
「今日は姉の付き人が一人休んだみたいで、朝は手伝いをしていたんです。医務室には午後行ったくらいで。だから、僕はよく知らないです」
「へえ。ジエマさんは不便がっていないか? 俺が手伝うのもやぶさかではないが」
「いや、いいです。間に合っています。家のことなので」
きっぱり断ったヨランは、テトスから一歩引いた。なぜ引くのかと一歩寄ると、さらに一歩ヨランは下がった。
「未来の義兄として頼ってくれても、一向にかまわないぞ」
「はい。まあ、考えておきます。それより、テトスは忙しくないんですか」
「いや別に」
「カロッタの護衛とか、ないんです?」
さらっと流されたが、テトスは気にせず質問に答えた。
「本人から、今の所はいいと言われている。基本的に俺は好きに過ごしてくれたらいいんだと」
「そんなので契約料もらえるんですか」
「まあな。ヴァーダルはそういうところ雑だが、雇用主としてはいい奴だぜ。金払いがいい」
話しながら、どちらともなく歩く。
「ヨランはこの後、医務室か?」
「いえ、もう今日は休みでいいと」
「なら、ジエマさんの手伝いに?」
「期待されているところすみませんが、姉のことは朝の時点で引き継ぎ済みです」
年は離れていても親しい友人だ。遠慮のない会話をしながら、ヨランはテトスに呆れた目を向けた。
「あのですね、僕を引き合いにしないでください。テトスなら、家の者が遮ることは……おそらく、ないですから」
「そうか。じゃあ普通に会いに行くか」
「そうしてください。でないと、もれなく姉が僕に気を遣うんです。テトスが姉をかまう空間に居させられるなんて、いやがらせですか」
「ナーナも呼べばいいだろ」
「呼んだら姉はナーナティカにべったりしますが」
「お可愛らしいな」
大きな息が返ってきた。全然よくないとでも言いたげだ。
(ナーナにつきっきりなのが面白くないと? なんだ、思ったより好かれてるな)
涼し気にしていても、一丁前に独占欲をもっているとは。それもあのナーナに。人の価値観とは様々なものだといっそ感心してしまう。
胡乱な目つきと合った。そんな目で見られる筋合いはないのだが。
そのとき、前方で猛然と進む赤金の髪の女生徒が見えた。
ホリィだ。
ホリィは、ずんずんと進んで小さな背丈の女生徒へと向かっていた。
「クェリコ! ちょっと、どういうことなの」
「ひぃ」
身を縮めて首飾りを握りしめているのはクェリコだ。ホリィは怯えるクェリコの様子も見えていないように詰め寄っている。
「呪いじゃないってどういうこと! どう見ても、あの子は変だったじゃない!」
「ひえ、声が、声が大きいですよう。ホリィさんどうかお気を鎮めて」
「私は冷静よっ。モールも納得しないわ。ああ、モール! 痛ましいモール……っ」
そのままホリィは劇場が開催でもしたかのように、大仰に身を震わせた。
思わずテトスとヨランは壁際に寄って、息をひそめた。
「これ、朝の件では」
「だろうな」
ヨランの言葉に肯定して、テトスは様子を見た。
取り乱したホリィをクェリコが恐る恐る宥めている。周囲の生徒が二人の様子を遠巻きに見て通り過ぎていく。ぼそぼそと「朝の」「飛び降りだって」と囁き声が聞こえた。
「医務室に行きましょうよ、ホリィさん。ヒルダさんも目が覚めているはずです」
「ああ、ヒルダ。そうね。会いに行くわよ、クェリコ。ちょっと、何よ、見世物じゃないわよ。散りなさい!」
そうしてホリィたちは医務室へ向かうようだ。泣きはらした顔でも躊躇なく威嚇をするのは、さすがの気の強さである。
姿が見えなくなると、まためいめいに生徒たちは好きに言いながら歩いていく。それも見送って、テトスとヨランも歩き出した。
「呪いではないって、本当なんでしょうか」
ヨランが言う。
クェリコのことをまだ知らないのだ。テトスは簡単に説明をした。
「ムーグと一緒に居たのが、ヴァーダル預かりの解呪士だ。判別は魔法道具頼りだが、性能は良さそうだったぜ」
「へえ。じゃあ、信用はできそうな話ですね」
「呪いでないなら、魔法かもな。ナーナにでも聞くか」
「ナーナティカなら、この日は魔法構築学のところかと思います。迎えに……」
すっと居場所が出てくるのは、いつもの行動だからかもしれない。
テトスが思わず視線を向けると、ヨランはハッと表情を変えて咳払いをした。
「と、とにかく、行きましょう」
「妹と仲良くしてくれて義兄は嬉しいぞ、とでも言おうか」
「結構です」
(堂々としていりゃあいいものを)
照れているのか、ヨランは早足で進む。
そこがいいのだと脳内のナーナが力説しているのを頭から放りだして、テトスはその横を歩いた。