9 十八年前の残滓
「全員、離れられたか。ならばいい」
伝言を伝えに来た侍従に、カイデンは努めて冷静に指示をした。
「お前は腕に覚えが?」
「生憎と優れていませんが、足の速さは自信があります。攪乱にお役立てください」
「いや、足が速いなら第一子マカト様の元へ行き、お役に立つといい。あとはこちらが受け持つ」
「しかし」
「行け。こちらにはチャジアの隊がある」
侍従は無言で頭を下げて、急いで部屋を出て行った。
辺境領主の居城、その一角。広間には、もう人っ子一人いない。
普段は、領主をねめつけ声高に非難する議会の者たちは我先にと逃げ出したか、家に閉じこもっている。いっそのこと、どさくさに紛れて倒れてしまえばいいと思うが、それでは襲い来る出蘆教と変わりない。
それに、議会全てが悪ではない。領主派閥の議会員は城外と一番街の各所で奮闘しているのだ。
街のあちこちで、領民も奮起している様子がここからでもわかる。
広間の横側は透明なガラス窓が設置され、外の景色がわかるようにしている。街の様子がここからでも分かるようにという考えから作られた。
おかげで、被害状況や侵攻の様子の把握ができる。
(既に一番街まで来たか)
足の速い異形は居城付近に出没しだしてもおかしくない。喧騒と共に、「領主を狙え」「強き者の世を」と陶酔たっぷりに叫んでいる。吐き気がする。
「くだらぬ」
自分が呟いたと思った言葉は、違う声色によって放たれた。
しわがれた声、柔らかな声、男女の性差、老いもないまぜにして無理やりつぎはぎしたような声音だった。
カイデンが声のほうを振り向くと、黒い服の女が佇んでいた。
広間の、ちょうどカイデンと反対側の窓を背に立っている。窓は開かれ、隙間を埋める代わりに黒々とした複数の手が蛇のようにまとわりついていた。
「変わった登場をされますな」
カイデンの言葉には反応もしない。
女。それも、年老いた婦人は冷たい顔のまま、どうでも良さそうに天井や領主のいた椅子を眺めている。そしておもむろに、また呟いた。
「くだらぬ」
「ユマ殿。異形に落ちたか」
「落ちた?」
軋んだ戸板のように、ぎこちなく頭がぎぎぎと動いた。帯剣に手を掛け、いつでも抜けるように向き合う。
「なれば、それはお前たちのせいだ」
否定はしない。その咎と責は、カイデンは甘んじて受け入れる。だが、被害は広がり過ぎてしまった。これ以上は過剰にすぎる。
「私一人で収めるつもりは」
「相も変わらず、愚かな。愚かなヘンドリク。ヘンドリク、ヘンドリク」
形相が一変する。
「赦さぬ。お前とて。お前さえ。死ね。死ね、死ね、すべからく死んでしまえ!」
老女、ユマ・ノルヴェンタルの足元に暗闇が広がった。
(かの領主家から興ったノルヴェンタルも、こうとなっては……もう過ぎた話か)
数歩後ずさる。
「我が前から、ことごとく消えろ!!」
血を吐くかわりに、黒々とした泥を吐き出してユマは叫ぶ。
凄まじい勢いで突進したユマを、抜き放った剣でいなす。ユマの相貌がどろどろと溶けだす。人の形を保つことすら難しくなってしまったのだろう。
異形化は不可逆だ。
悲鳴とも猿叫ともとれる金切声で、再び凄まじい速さでユマが迫る。老婦人の見る影もない。膂力も人間離れした脅威に、跳ねのけるカイデンの体が悲鳴をあげた。
「ぐ」
魔法で強化をかけた剣も、耐えきれず刃こぼれしそうな猛撃だ。
一撃一撃がひどく重たい。それに、複数に増え、神出鬼没な黒い触腕が厄介だ。
しかし粘って時間を稼ぐくらいなら、カイデンはこなせそうだと安心した。それが気に障ったのだろうか。
ユマはますます激しくカイデンを責め立てた。
「しね」
「しぃね」
「いいいいいぁああ」
もはや言葉も成さない。突進を何度か止めていくうちに、ユマの体が大きく蠢いた。
「あ。あぁああ」
顔を覆って、頭を掻きむしる。ぼたぼたと溶けた体の部位が落ちていく。しかし足元に黒い塊が落ちるたびに、また体にくっついて同化する。生きた泥人形のような有様だ。
「ユマ殿」
カイデンの声に、ユマは動きを止めて顔を上げた。ゆっくりと手が外れる。
「どうして」
男の声。
忘れかけていた、懐かしい声。
顔は、ついぞ忘れたことはない。まだ若かった、カイデンの家族の顔だ。
「どうして」
「……兄上、なぜ」
思わず呟いたカイデンの背後。黒い触腕が差し迫っていた。
それにも気づかない。気づけなかった。
脳裏にかつての記憶がよみがえる。遠い情景が場違いなほど鮮明に、カイデンはただ息を呑んでその顔を見つめた。
***
からり、からり。
車輪が回る。
男は急いで家路を辿っていた。
都では、足の速い動物を使うよりもさらに速く動く車が出来たという。それがこの場にあったなら、どんなに良かったか。
もしくは足に祝福を付けるような、そんな異能や特殊な力があれば良かった。
残念ながら男は生まれながらにして引きこもりの研究者肌で、運動は不得手だった。そのうえ凡才だったので、大人しく旧時代的な馬車に揺られるがままだ。
やきもきする時間を車内で過ごす。車窓からどんよりと曇った空が見える。
本格的に振りだす前に迎えるといいのだが。そう思って溜息を吐く。それも何度目だろう。
からり。
車輪が回る。
家について、弾かれたように慌てて飛び出した。
おかしさに気づいた。
本来ならあるはずの明りが付いていない。玄関は魔法道具の明りが灯されているが、他の窓は暗いままだった。
男は息をのんで、玄関を開けた。鍵はかかっていない。
ひどい有様だった。
まだ生々しい血があちこちに飛び散っていた。出かける前の様子から一変して、静かに沈黙している。
玄関にいた使用人が、男を出迎えてすぐ嗚咽をこぼした。顔色が悪い。男が古くから知る優しいおばのような女性が、震える声でこぼした。
「奥様が、奥様が」
二階に指を向けて、女性の使用人は血を吐いて伏した。嗚咽まじりの吐息が響く。
吐きそうなほどの眩暈と動悸がした。喉に空気が張り付いて、うまく息ができない。
浅く短い呼吸を繰り返して、男は二階の夫婦の寝室へ上がった。
暗い。
雷鳴が屋内を一瞬だけ照らす。
血の跡が続いている。引きずって登ったような、残酷な絵筆の跡だ。
震えが止まらない。
ドアノブに手をかける。ゆっくりとノブを回した。いつも以上に重たい感触が手の内にあるようだった。
「アニエス」
男が囁く。
部屋は、ぼんやりとした明りが灯されていた。
燭台が部屋の四方に置かれ、その中心の床に妻は横たわっていた。その前には、腹部を覗き込む痩せた男がいる。
「一人じゃない。一人じゃない一人じゃない一人じゃない。なぜだ、騙したな畜生。言ったじゃないか」
ぶつぶつと物言わぬ妻に向かって、ひたすらなじっている。男が音もなく近寄ったのは気づかなかった。
長兄の幼馴染だった妻を、ひたすらに懇願して好き合って、結ばれた。家族は皆、祝福してくれた。
何より、幸せそうに微笑んだ彼女を愛していた。男を見つけると、柔らかに迎え入れてくれる顔が何より好きだった。
それが、今は。
もう動いていない。こちらに語りかけてこない。唯一、彼女だったとわかる瞳が男のほうを向いている。
あの美しく輝いていた青い瞳は、暗く澱んでいた。
「特別な、選ばれた子どもを創り出そう。神聖な、教えに沿う子どもを……君に言った。言ったはずだ。なのに!」
衝動だった。
妻の姿を見て、男は理性もなくわめき呟く痩せた男の頭目掛けて力いっぱい殴りつけた。
部屋に転がる燭台も拾い、驚き逃げようとする背中に。
頭に。
容赦なく何度も。何度も。
何度も。
何度も。
何度も!
「あぁ、あ、うああ!」
出た言葉は男だったか。命を失う瞬間の痩せた男だったか。
男は、怒りと悲しさとすべての感情で頭が一杯になったのだけは、今も覚えている。
次に目が覚めた時は、悲しそうな顔をしたカイデン・モングスマがいた。
病弱ながらも内政の才覚に優れた、穏やかな兄。その尊敬する兄の眼差しを受け取っても、心はちっとも安らげない。
「今は、力が及ばず悔しい思いをさせる。だが……いつか、報われる日が来るだろう」
カイデンがゆっくりと立ち上がる。多忙な中を駆けつけて、すぐ傍で優しい兄は見守ってくれたのだ。感謝をするべきなのに、男は何も言えなかった。
「始末はネルソンと、家周りはマルギットが助けてくれる。私が居なくとも、うまくやれる。お前に負担をかけることになるが」
返事をする気力も起きなかった。それを物悲しく見下ろして、カイデンは言った。
「子は、ムリナイ様が保護された。感謝は、彼の方に。決して恨むな」
「子……」
子ども。アニエスと自分の。
再び頭の中に惨劇がよみがえり、吐き気がこみ上がってくる。半端に起き上がって、男は嘔吐した。
「ヘンドリク。私は先に行く。お前は、当分この道にこないことを祈る」
どういうことだと聞く余裕は、男に残っていなかった。代わりにやってきた弟妹たちが声をかけてくる。それさえも何を言われたのか覚えてない。
ほどなくしてまた男は意識を溶かして、逃避した。逃げる場所なんて、もう残っていなかったというのを承知で、暗がりに身を寄せた。
長兄が処罰により死んだと聞いたのは、それからすぐだ。
父母はすでになく、若いながらも次期領主のムリナイに見出された兄が死んだ。次々とくる不幸に、もはや言葉もなかった。
その知らせを寄越したムリナイは、わざわざ臣下の屋敷に一人で来た。男を前に立つと、抱えていた双子を男に差し出した。
「この子たちは類まれなる特殊な子だ。目をつけられることになるだろう。そこで提案がある」
出された提案に、男は拒否の一つもできなかった。いや、したくなかった。
断れば兄の思いも、妻が命がけで守った双子の命も台無しになる。もう何も残らないくらいぐちゃぐちゃの人生だが、これ以上無くしてはきっと生きていけないだろうと思った。
その日、ヘンドリクという男が死んだ。
あの日、ヘンドリクという男は一人しか存在していなかった。
そういうことになった。
議会も周囲も、領主家にいたはずのヘンドリク・ディアデムタルが消えたことを疑問には出さなかった。もともと精神虚弱で隠されて生きてきたので、存在を知るものは幸運にもほとんどいなかったのだ。
それはヘンドリク・モングスマも同じだ。ほとんど外に出回らず引きこもっての研究三昧。社会に顔も出さずに暮らしてきた。
だから、誰もなにも言わなかった。
それに、存在の事実を知る口の軽いものは、ほとんどが領主によって粛正された。あってはならないことだったから、と。
そのせいで領主の代替わりが早まったのは皮肉だった。
惨劇で生き残った双子はカイデンが引き取り、信のおける配下に養子へ行かせた。
すり替わる様に顔を変えた。そんな、カイデンとして生きる己の姿を非難するみたいに、マルギットは去っていった。だがそれでもよかった。
「愚かなヘンドリク」
遠くで声が聞こえた気がした。
それは、愛しい妻の声でもあり、兄弟の声でもあり、自分の声でもあった。




