盲いた遺恨
門は開けられた。
この土地から出て行く。離れる。考えもしなかったことだった。
変わったのだ。
変わらざるを得なかったのだ。
遠い外壁を無感動に眺めた。
「こんなものか」
枷なんて、とっくに壊れていた。
腹に触れる。変わり果てた皮膚を撫でて、鋭利な棘となった指先を突き刺した。
痛みはとうに感じなくなった。
手のひらくらいの球体が腹から現れた。腹の内臓を引き裂いて出したというのに、もうまともに血すらでてこない。ぼたりぼたりと黒い液体が血の代わりに落ちた。ひどく生臭い。
「炉よ」
細長い金属が網目状に張り巡らされ、呼吸をするように蠢動する。時折見える隙間からは、いつかのように燐光が漏れ出ている。
「ようやく」
これは炉であり、揺籠。全てを飲んで生み出して、壊す魔法の道具。
歴史だけは古い家にあった、前時代の箍が外れた呪いのごとき強力な道具。
中立というどうでもいい見栄のためにできた土地。そこからやってきた祖先が作った、恨みを昇華させた果ての道具。
けれど今となっては、祝福の道具になった。
煌々と灯る道具の中の光を覗き込む。
「ようやく満ちる」
満たされた容量に、老女は息を吐いた。
長かった。やっと終わりが見える。
始まりはいつからだったろう。
婚姻が幸せに繋がりはしないと理解した、あの日からだろうか。女にとっては、それは牢獄への案内状だった。
由緒正しい家の者が相手だから。お前もきっと幸せだ。
そんなもの、誰が決めたのだろう。
もともと立場も弱かったから、連れ去られるように嫁入りした。当然、誰も助けてくれなかった。
屈辱だった。
だけど、弱かったから。逆らっては生きていけなかったから。一人だったから。
女は耐えて、耐えて、下を向いて粛々と従った。夫となった者からの癇癪も、子がなかなかできなかったことの後ろ指も甘受した。
立派な家柄。資産。だからなんだというのだ。誰も省みてくれなかった。必要だと、認めてもくれなかった。
自分は道具で、人間ではなかった。
憎らしかった。
「憎きディアデムタル」
ああ、でも違う。それだけではない。
始まりは、たった一つの光を失ってからだった。
愛すべき家族。何を変えても守りたかった我が子。高齢で授かった、かけがえのない宝。
あの子が美しく澄んだ目を輝かせて、名前を呼んでくれたとき。生まれてはじめて、やっと息ができた気さえした。
この炉の光のように、明るく我が身を照らしてくれた。支えだった。
目の前から奪われた、その日までは。
「……モングスマ」
おいさばらえた枯れ木のような手に力が籠る。握りしめた道具の外枠が、キチキチと軋んだ。
自分だけなら耐えられた。
同じように奪われ、利用された我が子。
腹を割かれ、くだらない儀式遊びに使い捨てられた。殺された。
自分から奪っただけでなく、尊厳を貶め、陵辱し、壊し尽くした。
何が、辺境の盾であり剣か。満足に守ることすらできなかったくせに。
ヘンドリクという狂人を産み出した家は、咎なく今ものうのうと生きている。
なぜだ。
それを許容したディアデムタルという土地も、融和をしようと手を伸ばしてきた都も、中立特区という甘い思想の土地も。すべてを過去に捨て去って進もうとしている。
忌まわしい婚姻を推し進めた前代を亡くして、古いしきたりを廃して新たな風を誰もが望んでいた。
過去を風化させ、美談にして過ぎ去ろうとしているのだ。
なぜだ。
「許さぬ」
あの時だ。そうだ、あの時からだ。
濃い血で異形化した夫を見て、天啓を得た。
人でなしだからこうなるのだ。
ならば、人でなしは根絶やしにしなくては。
夫を殺して、その血肉を食らった。濃い血を求めて、我が身を異形へと変えさせ、異能を得た。
そして、弱かった自分は死んだ。
怒りと恨みを糧に、歩み続けた。次第に人らしい感情が削げていった。
「赦しはせぬ」
我が子の顔がもう思い出せない。壊れた顔しか記憶に残っていないから。
我が子の声がもう聞こえない。沈黙がそこにあるばかり。
我が子の形は、なくなった。思い出さえも穢されてしまった。
「人でなしのお前たちを、壊して、壊して、壊して壊して! そのためなら我が身さえも惜しくはない」
老女が道具を掲げた。
灯りが漏れる。じわりとあたりを侵食していくたびに、周囲に潜む異形たちを照らした。
「≪炉よ。赤々と燃えろ≫」
辺境の街から離れた片隅。広がる森の中。
老女を中心に黒い影が伸びた。より黒く濃い、木の根のような腕だ。
それは木々から一歩姿を現した異形を捕まえては弄ぶように、殺して丸い形状に変えていく。
あれらは、全部、老女にとってのヘンドリクだった。憎い敵だ。そうでなくても、そうした。何度殺しても飽き足りない。
命乞いも、身分のひけらかしも、懐柔を試みようとすることもすべて戯言。この場では、等しく無価値で理不尽に踏みにじれるものだった。
「≪燃せ。燃せ。すべてを燃せ≫」
宙へと球体が浮かび上がる。金属の網目がみるみるうちに広がった。その一部に大きく避けた空間は巨大な口だ。
「≪捧ぐ。捧ぐ。すべてを飲み込め≫」
赤黒い球体になったものを黒い根が掴み、巨大な口へと放り込んだ。
そして、すべてを平らげてさらに広がった炉から注ぐ燐光が一層広がった。
両手を広げて仰ぎ見た。
黒々とした木の根が花弁のように老女を囲む。細かったそれが重なり、より大きくまとまり老女を覆う。
「≪溶かせ。混ざり、産み出せ≫」
その言葉を最後に、老女も黒い塊となって燐光の中心へ登り、消えた。
風がそよいで、草木が揺れて葉の擦れる音ばかりが響く。小動物も虫も、生き物の声ひとつない。
炉はしばらく燐光をまとい宙を優雅に浮かんだ。
まるで繭のように楕円状に形を変えると、徐々に降下して地面へと根付いた。
やがて、繭が割れる。
中から、二対の腕が静かに突き出て蠢いた。




