1 よろしくない朝
ジエマ・レラレは、いつも通りに朝を迎えた。
コウサミュステ寮の一人部屋。特別に小さな部屋をあてがわれて、ジエマはそこで生活をしている。この部屋から出れば、また家の者の目が届く範囲で動くだけ。
難儀な自分の性分のせいだから仕方がない。もうずっと、小さいころからそうだった。
(また、もう一度最初から……)
擦り切れた本のページをめくりなおす。
自然と口も一緒に動く。
「ごきげんよう。今日のお日差しは、とってもすばらしいものです」
ページをめくる。
「ありがとう存じます。何卒、お願い申し上げますわ」
さらにめくって言葉を呟く。表情も自然と対応するように動く。教本通りに。沁みついた言動となった今では、自分の意思の通りなのかわからないくらいになった。
ジエマの一面を形作ってきた習慣が一通り終わると、本を閉じて机に立てかける。
次にしたのは、小箱の確認だ。
昨年、帰省したときに持たされた魔法道具だった。
弟のヨランも知らないこの道具を、ジエマは恐る恐る引き出しから取り出した。
親指の長さくらいの小箱は、一部だけ開くような仕掛けがある。
いざというとき、開けなければならない。そう言い添えて渡された。
ジエマは知っている。これはいわゆる自決のためのものだ。
(前みたいに、呪いがあったなら)
ジエマは過去に呪われたことがある。
解決してくれたのは、学園で初めて気の置けない友達になれたナーナたちだった。ジエマの予知をヨラン経由で知って、守ることに協力してくれた。
とはいえ、いつも誰かが助けてくれるなんて期待するわけにもいかない。
もし、不測の事態が起きたなら。ジエマだけで、助けも見込めないことがあるなら。
さらには、ジエマだけでなく周りを巻き込んでしまうなら。万が一を考え、予知能力が不特定多数の者に知られないように。そのために、使って身を封じよ。
そう言って託された魔法道具だった。
(そんなことが、起きなければいいのに)
だが起きる。きっと何がが起きる。
ジエマが、いつかの予知をしたと両親が言った。
──三年目。色移る森を行くの。道具は忍ばせて、守らなくては。私が、使わないと。
ああ、暗くて、何も見えない。もう、先も見えない。あれは、鏡。どうか、選び取って。
曖昧で、何を指すかもわからない言葉。しかし身の危険を予知するかのようなもの。
それをもとに、いつかのためと代々残されていた古道具の中で、この魔法道具を両親は見つけたのだ。
それが、魔法道具『箱入り鏡』だった。
解決するにはどうするのか。それはまだ解らない。ジエマが新たに関連する予知をするか、神経を尖らせて監視される日々が続くばかり。
しかし関連する予知の発現は、今の今まで結局なかった。
(何も見えなくなるのは、恐ろしいことかしら)
じ、と小箱を見下ろしても反応はない。当然だ。仕掛けを起動させていないのだから。
机上の時計を見れば、もう朝食を摂る時間だ。
着替えを取り出して、身支度を丁寧に行う。家で世話されていたことを、学園では自分の手で一つ一つ作業する。そのことが最初は嬉しかった。
本日の講義予定の教科書やノート、筆記具。貴重品である小箱も入った鞄を手に、ドアの前に立つ。すぐ横の壁に備え付けられたベルは、ジエマのための魔法道具だ。
ちりん。ちりん。
ベルに触れると、澄んだ音色が数度響く。
しばらく待っていると、ドアの向こうからノックがした。
ドアスコープで確認すると、同学年の女子生徒が立っている。ジエマの家が斡旋したお付きの者だ。女子生徒は、また繰り返し同じリズムでノックをする。
それを確認してようやく、ジエマは部屋を出ることができるのだった。
進級早々に事件があったものの、一ヵ月二ヵ月と経てば少しずつ日常に移行していく。
最初のうちは、被害者がジエマの家の関係者だからと、周りから注目され悪意の言葉がくることもあった。
今では、それも数を減らして遠巻きにされるくらいに収まった。内心はどうであれ、前と同じにほぼ戻ってきたといえる。
今もちらと耳に入ったが、すぐにジエマの先を行く頼もしい付き人が鋭い目つきで追い払ってしまった。
(お世話になってばかりだわ。厚く御礼をするよう家に言っておかないと)
短く切りそろえた赤毛が歩くにつれて揺れる。首筋をはっきり晒す髪型は、活発さを感じさせるものだ。
オーディ・アウエは、芸術家気質の多いコウサミュステ寮に属しながら、武術を好む奇特な女生徒だった。
彼女は一つ上の学年で、ジエマが入学したころからの馴染みだ。それでも親しく話すほどの関係ではなかった。
けれども、レラレ家の秘密を知る、口の堅い人物でもあった。だからこそジエマのお付きとして抜擢され、学園に通えるようになった経緯がある。そのことをジエマたちに感謝しているのだと、先の事件後に会話して初めて聞いた。
家では味わえなかった世界の広がりを、ここでは学べている。きっと良いことなのだろう。
「ジエマさん」
オーディが振り返る。
いつの間にか食堂に着いたのだ。
「いつものお席へ。ご希望は?」
「ございません。いつもありがとう存じます」
「いえ。では」
頭を下げて、オーディが離れる。この時間の食堂は時間が早いため、人がそう多くない。多人数の空間を避けるべく、ジエマの朝食はいつも早い。
馴染みの席で、オーディが食事を運ぶのを待つ。これは配膳途中でジエマが予知をして食事を台無しにしないための決まりだった。昨年、ヨランの前でやってしまい、ひどく叱られたのを思い出してしまった。
「ヨランは、いないのね」
いずれ家を出るからと、ヨランはジエマから離れて行動することが増えた。明確に将来を見据えて学び出している。それは喜ばしいことなのだろう。
(お友達とご飯を賑やかに食べるのかしら。きっと、楽しいものに違いないわ)
あまりきょろきょろとしないように、辺りを軽く見回す。
すると、見知った姿が視界に入って、ジエマは「あっ」と声をあげた。
その声が聞こえたはずはないのに、視線が合った。その人物はオーディを見つけると、彼女の分の配膳盆まで取ってやってきた。
「おはようございます、ジエマさん」
「チャジア様。おはようございます」
テトスはジエマとオーディ、それから自分の分の食事をテーブルに並べる。オーディはわずかに眉を寄せたが、ジエマが見ているのに気づくと表情を取り繕って口を開いた。
「ジエマさん、彼がご一緒したいと……よろしいですか」
「まあ。もちろん。オーディさんも一緒に居てくださるなら」
「ええ、それはもちろん。では、チャジアはこちらに」
ジエマの隣にオーディが腰掛け、その隣にテトスが座る。
「チャジア様は朝の訓練でしょうか」
「そんなところです。おかげでジエマさんと朝から会えました」
テトスと朝に遭遇したのは、これが初めてではない。事件以来、数日に一度は必ずある。
(気にかけてくださっているのだわ)
ジエマがショックを受けていないかどうか。誰に言われるでもなく会いに来て、その話題を出さずに和やかに食事を共にする。
遠巻きに見てきた生徒たちの視線も、異性と食事をとるという緊張に比べたらなんてことはないものだった。
「ところでジエマさん」
食事を始めてから、しばらく。
行儀よく作法通りにジエマが食べ終わるのを待って、テトスは声をかけてきた。
しかし、続く言葉は遮られた。
「あっ、いました! いましたよ、チャジアさん!」
「おはようございます!」
まだ幼さを残す高い声が響く。年若い、伸びやかな女性の声音だ。
「ここはコウサミュステの場所では? カラルミスはあっちですよう」
「テトス様。朝からお会いできて光栄ですう」
めいめいに話しかけてきた女生徒たちは、カラルミスの女子たちだった。制服の刺繍から判断するに、一年生のようだ。
テトスは先ほどまでの愛想の良さが嘘のように、すっと不愛想な顔に変わった。眉間をもんで、それから振り返ると雑な仕草で手を払った。
「そうか。自分の席に行ってこい」
「嫌ですぅー! ヒルダはご一緒したいんです!」
勝気そうな顔つきの女子、ヒルダが返す。彼女は確か、先の事件でテトスに助けられた人ではないか。それならば、慕う態度にも頷ける。
(お隣の方は、きっと解呪士の方ね。お可愛らしい方々なのに、チャジア様はつれない態度だわ)
ジエマだったら、テトスにこんな対応をされれば驚いてしまうのに、とても度胸がある子たちだ。
目をぱちぱちと瞬かせていると、横のオーディがジエマにそっと距離を取るよう促してきた。でも、と視線をやっても首を振られる。
(お邪魔してしまうのかしら……けれど、先約は私だったはず)
こういうときは、どうしたらいいのだろう。
ジエマが学んできた教本を頭の内でめくっても、最適解はすぐに出てこない。家では、他者が話しているところへ無暗に介入するべからずと言い含められてきた。
迷っているうちに、とうとうオーディに肩を軽く押されてしまった。
「あの、チャジア様」
恐る恐るジエマが言えば、テトスはすぐさまジエマのほうを向いた。それから食べ終わった食器を素早くまとめると、片手で持った。
「まだお時間はありますか」
「え、えっと。はい、今少しでしたら構いませんわ」
「良かった。では、御手をとっても?」
「チャジア!」
鋭くオーディが名を呼ぶが、テトスは素知らぬ顔でジエマを見た。ヒルダたちが口を挟む前にジエマが頷いて返すと、すぐに手を取られた。
「些か強く引きます。気をつけて着いてきてください」
言いながら、まとめた食器をオーディに「悪いが頼む」と任せ、テトスはジエマの手を引いて早足で歩き出した。
後ろからテトスの名前を呼ぶ声が聞こえる。顔を向けようとしたが、腕を緩く引かれて留まる。
そうして、ジエマは引かれるまま小走りになって食堂を後にした。
走りながら、テトスはジエマを褒めた。
「走り方に、重心の移動、姿勢……いつ見てもジエマさんの動作は素晴らしい」
「皆様がそうなのでは?」
「まさか。ナーナが走るのを見たことはありませんか? 泳ぎに不慣れな水鳥のバタ足ですよ」
遠慮のない貶しに、ジエマは目をぱちぱちと瞬かせた。
「俺が見た限りですが。この学園の女子の中で一等、言葉や仕草を懸命に励んでいるのは貴女だけですよ」
そうなのだろうか。
ジエマの知る貴族子女は、洗練された振る舞いをしている。そう思う。
しかし、褒め言葉は素直に嬉しかった。価値あるものと評価されたことは、これまでの自分を肯定されたみたいだった。
「お言葉、嬉しゅうございます」
「本当のことです……と、ついた」
小さく呟いて、テトスは止まった。
ここは、学園内にある庭園だ。その一角に卒業生が造ったという、古びた東屋がある。
東屋には長椅子が向かい合う形で置かれ、天井には虫除けの魔法が込められた照明が吊り下げられている。
テトスはジエマをその長椅子に案内して座らせると、対面に腰掛けた。
「講義時間もあるので、手短にお伝えします」
「はい」
何を言われるのだろう。
ジエマは膝の上に乗せた両手を、そっと組んだ。
「ジエマさん、ちょっとした旅行をしませんか」
「旅行、ですか? まあ、それは……」
とても心惹かれることだ。しかし、絶対に家の者は苦い顔で止めるようなことだった。
「こちらを」
テトスがいつも身につけている腰元のカバンから、手紙を取り出した。
ジエマの前に差し出された手紙には、間違いなくレラレ家の印章が施されている。これは、ジエマの兄が使っている印章だ。
「お兄様から?」
「はい。少しの間、遠くに身を隠せと」
素早く中身に目を通す。言われた言葉通りの事柄が記述されていた。
ジエマは、春からのざわめきはこのことだったのではと思わずにはいられなかった。
「それは……ええ、わかりましたわ」
兄からの頼りには、実家の背後についていた都の貴族家が傾いたとあった。
古い商家である看板を使いたがる者も現れかねない。その拍子で予知能力者の隠匿もしていたと判明させるわけにはいかない。
ポケットに入れていた、もしものときの道具。
ジエマは、その存在をひどく重く感じてしまった。




