2章 第64話 逆らえない欲求
「なあ鏡花、これは何で間違いなんだ?」
「ちょっと待ってね……あ、この途中式が計算間違いだね」
「え、どこ? あれ、ホントだ」
最近の放課後は、ただ2人で過ごすだけではなくなっていた。それほど勉強が得意ではない俺が、鏡花に見て貰っている。
落第するほど苦手ではないが、今のままでは入試で苦労しかねない。出来るなら鏡花と同じ大学に行きたいけど、現状では学力に差がある。
このままのんびり構えていたのでは、鏡花とは違う大学を選ぶしかなくなる。ただでさえ教師を目指すと決めたのだから、今よりは出来る様になった方が良い。教える側に回ろうと言うのだから。
「ありがとう。また分からなかったら教えて」
「うん、頑張ってね真君」
少しのやりとりの後、鏡花は読書に戻り俺は自習に戻る。鏡花の1つ前の席、結城さんに机を借りて鏡花の机と向かい合う形でくっつけている。一緒にお昼を食べたりする時に良くやるアレだ。
放課後の教室で、2人だけの時間。鏡花のページを捲る音と、俺が数字を書く音だけが室内に響く。2人とも何も言わないけれど、それはお互いが気を許しているから出来る沈黙。
夏の太陽はまだまだ高く、夏服であっても少し暑い。そろそろ図書室か自習室に居場所を変える方が良いだろう。
鏡花に去年の夏場はどうしていたかと聞いてみれば、図書室に居たとの事。いつも読書をしているのだから、そうなるのは当たり前か。
しかし図書室だと余り会話が出来ない。だが自習室なら多少の私語は許される。俺達の過ごし方としてはそちらの方が都合が良い。
まあ、俺の家と言う手もあるにはあるが……その場合ちゃんと集中出来るかが問題だ。学校で2人きりと、自宅で2人きりでは条件に大きな開きがある。
流石に学校でやましい事は出来ない。それぐらいの分別はちゃんとある。だが自宅、ましてや自室となれば流石に多少は揺らぐ。
そう、この間の様についつい鏡花に夢中になっては不味い。……それにしても、あれは良かったな。
本人が言うわりには結構あったなとか、Bって思ってたよりボリュームあるなとか、色々と衝撃的だった。
流石に恥ずかしいらしく、カップしか教えてくれなかったのは残念だが。
「真君?」
「え、あっ……」
少しジトッとした目で鏡花がこちらを見ていた。いかん、つい鏡花の胸元に視線が集中していたらしい。だが何故気付いた?
最近の鏡花には、小春の様な鋭さを感じる。あれって伝染するのか? 小春みたいになった鏡花は、ちょっと嫌なんだが。
「も、もう! ダメだよ集中しないと!」
「ごめん」
「他の女の子にそんな目を向けたらダメだからね」
「だ、大丈夫だ! それはないから」
一部嘘が含まれている。殆どはその通り、鏡花しか意識して見る事はない。ただ、あまりにも大きかったりするとつい目線が行く事はある。
それは男の性として仕方ない面があるので、許されても良いのではないか? そう言いたい所ではあるものの、鏡花はわりと嫉妬するらしいから迂闊に言えない。
「嫌じゃないけどね、今はダメだよ」
「はい……」
最近こうして気の知れたやり取りが増えて来たのは喜ばしいが、小春や友香の入れ知恵が多分に含まれている。良いんだか悪いんだか何とも言えない。
とは言え、期末テストが近いのは動かぬ事実。落第の心配は無いけれど、成績を上げたいのだから真面目にやらねば。下心に躓いている場合ではない。
再び教室に沈黙が訪れる。傾き始めた陽の光が、少しずつ室内に暗がりを作り始める。何だかんだでそれなりの集中力を有している真は、今度こそ勉強の続きに没頭する。
元々は黙々とトレーニングに打ち込める男だ。鏡花が絡むと年相応の男の子になるが、自らを高める事には必死になれる。
その姿を密かに眺めている鏡花は、頑張る真を見て喜んでいた。自分がまともに見る事が出来なかった、努力する真の姿をこうして見ていられるから。
サッカーをやっていた時も、きっとこんな表情をしていたんだろう。その一端をこうして感じる最近のこの時間が、鏡花にとっては大切な宝物だった。
どうやらしっかり集中出来ていたらしい。完全下校時間を知らせる鐘の音と、帰宅を促すアナウンスが流れる。今日も中々に有意義な時間を過ごせたのではないだろうか。
「悪い鏡花、すぐ片付けるから」
「平気だよ。そんなにすぐ門は閉まらないから」
ガタガタと借りた机を綺麗に戻し、汚して居ないか確認をする。本人に許可を得ているとは言え、女子の机には変わりない。その辺りはキチンとしておきたい。なんせ相手は鏡花の親友なんだから。
適当な紙に消しカスを集めてゴミ箱に捨てる。飲食をした訳では無いので、汚れらしい汚れもなし。これなら問題ないだろう。
「お待たせ。帰ろうか」
「うん、そうだね」
いつもなら学校では腕を組んだりしない鏡花が、今日は珍しく腕を組んで来た。そりゃあ誰かに見られる可能性は低いし、多少見られても大勢の前ではない。
しかしそれにしても珍しい。俺としては別に構わないし、むしろ嬉しいから良いけど。
そう思っていたが、何だかいつもより密着度が高い。……と言うかこれは、当てて来てないか? 腕に柔らかい感触が。
「えっと、鏡花?」
「その、さっき……気にしてたから。今日はこれで、我慢してね」
「お、おう」
鏡花って、絶対男が辛い理由を勘違いしてるよな? 何も無しだと辛いって、そう言う意味じゃないんだよ。
これだとむしろ逆に辛いって言うか。でもじゃあ、どうしたら良いかなんて言えるわけもない。
自分なりに頑張りましたって、微笑む鏡花が今は小悪魔みたい。でも可愛いから許してしまう。
結局俺はそのまま、嬉しいけど辛い感触を右腕に感じながら、駅まで歩いたのだった。




