4章 第180話 家庭崩壊
学校が再開して初めての日曜日。鏡花と約束をしていたのだが、朝から反応がない。
メッセージも通話も試みたけど、共にノーリアクション。珍しく寝坊でもしたか、もしくは体調不良か。
何にしても約束の時間を過ぎてしまったので、迎えに行く事にした。電車に乗ればすぐだし焦る必要もない。
新しい参考書を買いに行ったり、一緒に勉強したり。ただそれだけの予定だから多少時間が遅れても大きな問題はない。
焦らずのんびり鏡花の家へと向かい、呼び鈴を鳴らす。やはり反応はなく、どうしたものかと悩んでいたら異変に気付いた。
明らかに食器か何かが割れる音がした。突然の異常事態に、玄関扉に手を伸ばす。呼び鈴への反応が無かったのに鍵が開いている。
湧き上がる嫌な予感に、緊張しながら家の中に入る。もし泥棒でも入っているのなら、速攻で110番をしてやる。
入ってすぐ、最早見慣れた鏡花の家のリビングに人影がある。あの後ろ姿は、間違いなく鏡花のお母さんだ。
一瞬浮かんだ安堵は、一気に困惑へと変わる。杏子さんが、包丁を手に振り上げていたからだ。
「な、何やってるんですか!?」
思わず飛び出して、杏子さんの腕を抑える。その包丁を振り下ろそうとしていた先には、初めて見る男性がへたり込んでいた。
何処となく鏡花にも似た所があるから、多分父親なんだろう。こんな状況で初顔合わせとは、お互い最悪と言う他ないだろう。
部屋の片隅では、怯えて涙を流す鏡花が居た。何がどうなっているんだこれは。
「落ち着いて下さい! 包丁を置いて下さい!」
「離して!! どうして!? どうして私は!?」
「包丁を置きましょう? 話なら聞きますから!」
暫く暴れようとしていた杏子さんも、次第に落ち着きを取り戻し包丁を手離した。危険だから預かって、台所に戻す。
その間に鏡花のお父さんと思われる男性は、逃げる様に家を出て行ってしまった。止めるまでもない全力疾走だった。
とにかく先ずは、震えている鏡花の下へと向かう。差し伸べた手を、これまでに無い強い力で鏡花が握る。
こんな状況だ、無理もない。荒れ果てたリビングは、滅茶苦茶になっている。落ちて割れた花瓶や、床に散らばった食器類。
恐らくは包丁を振り回した結果だろう、カーテンが大きく裂けていた。平和な筈の空間は、酷い有様になっている。
「鏡花、ほらおいで」
「真……」
震える鏡花を抱きしめるが、ここからどうしたら良いのか分からない。明らかにただの夫婦喧嘩ではない惨状だ。
まるで強盗犯でも暴れたかの如く荒れている。呆然としている鏡花は心ここに非ずで、杏子さんも似たような状態だ。
ただの高校生に過ぎない俺には、何をどうしたら良いのか分からない。これが映画の主人公なら、上手く事を収めるのかも知れない。
だが俺には、ただ震える鏡花を支える以外に出来る事がない。どうしてこうなったのかすら、俺は分からないのだから。
「鏡花、何があったんだ?」
「分からないよ、朝から2人が喧嘩してて……」
鏡花から何の返答も来なかった理由が判明した。リビングがこんな風になるまで、ずっと喧嘩をしていれば反応なんて出来ないだろう。
恐らくは止めに入って、それでも止まらなくて。そして気付けばこの有り様。女の子1人で、どうにかなる問題ではない。
かと言って、俺が来たからどうなんだと言う話でもあるが。少なくとも最悪の自体は避けられたのだろう。
かと言ってこのお通夜みたいな状況が、良いのかと言えばそんな筈もない。とにかく杏子さんに事情を聞かない事には何も分からない。
「あの、何があったんですか?」
「ああ……貴方だったのね……」
虚ろな目で虚空を見上げて居た彼女の目に、漸く乱入者である俺が映ったらしい。そして語られる、佐々木家の隠された事情。
俺が想像もしなかった、歪んだ日々の歴史。独白の様に語られる内容は、鏡花から聞いていた不仲と言う言葉の真相。
お互いに不倫状態にあり、ほぼ放置されていた鏡花。そこに気付いてやり直そうとするも、既に壊れていた親子関係。
自らの行いの結果、残ったのは孤独だけ。惨めな自分の現状に、苛まれる日々。そこで再会してしまった、自分の旦那。
些細な一言で始まった喧嘩はこの通り。完全に壊れてしまった家庭の、分かり易い終わり。
「私はこんな、こんなつもりじゃ」
「お母さん……」
「惨めでしょう? 母親としても妻としてもこの有り様で」
何も言えなかった。その悲しい目が忘れられそうにない。鏡花と良く似た女性の、全てを諦めたかの様な表情が頭から離れない。
いつか自分も、こんな表情を鏡花にさせてしまうんじゃないか。ふと頭を過ったその考えが、俺の心に重くのしかかる。
まるで鏡花の未来を見せられた気がして。もちろんそんな過ちを、俺は犯すつもりなんてない。鏡花の事は、絶対に幸せにしたい。
でも出来なかったら? そんな恐怖が俺を確実に蝕み始めた。俺が絶対に鏡花を幸せに出来る保証なんてない。その事を、強く意識させられた。
「とりあえず、片付けませんか?」
どうにかそれだけは絞り出せた。その後の事は良く覚えていない。3人で滅茶苦茶になったリビングを掃除して、片付けて。
その後に出掛ける元気なんて鏡花にも俺にも無かった。気が付けば俺は自室にボケッと突っ立っていた。
そして一気に押し寄せて来る、知ろうと知らなかった事への後悔。もっと早く知っていれば、もっとちゃんと鏡花に聞いていれば。
そうすれば最低でも、この事態は避けられたのではないか。様々な後悔に、俺の思考は埋め尽くされた。
これも実話だったりします(笑)