6 追憶
祀りの御方は世界の端々まで知り尽くした存在で、しかもとてつもない長命だから記憶の整理整頓が欠かせない。忘却もひとつの手段ではあるけれど、苦い思い出にある小さな幸せほど際立つもので、いつまでも手放せずこうやってたびたび悔恨を連れてくる。
これはそんな昔々の記憶のはなしだ。
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リンレライが守護する霊獣の里は、世界のありとあらゆるをぎゅっと凝縮した地形で、竜の卵は切り立つ崖の横穴に発生すると決まっている。卵は真っ白だが、ポッポと火を噴けば火竜の卵、フワフワ浮けば風竜の卵と属性を見分けるのは簡単だ。
孵化は半年、ピヒャアと産声をあげると同時にデタラメに空を飛んで、コブをつくってピィピィ泣くのでなく、火を噴くか、嵐を喚ぶか、洪水を起こすかと、なかなか手がかかる子である。
竜体は構造が複雑で孵化率が低い。大切な殻を守るためリンレライは孵化までの半年間、卵に張り付いて日々過ごす。ずっと昔に孵化した風竜の卵は洞窟を右へ左へふわふわ浮いて、リンレライは風船に化けて岩壁にぶつからぬようにと苦心をしたが、問題は風船が岩壁を擦ってパンっと割れることである。
『やかましいぞっ!』
そのたびに祀り巫女のイツキに叱られるのだ。
ここにあるのは地竜の卵で、地を転がるから藁を敷き詰める。そうすると卵は藁に埋もれて見えなくなって、踏んだら大変と天井に吊るした網で寝起きをしている。
「イツキがおればのう」
宙吊りは寝心地が悪いと欠伸をし、祀り巫女無き季節に顕れた王たる地竜の卵に目を細めた。
地竜は特別な霊獣で、古い文献には穢れた大地を更地にして世界の礎を創ったとある。言い換えれば気性が荒い孤高の王であり、
「強き子、祀りの御方なんぞ一捻りじゃのう」
それでは困るのだが、当代の祀りの御方はこんなである。
「卵よ、お外に出たくなったらコンコンと殻を割るのじゃぞ」
口を尖らせ殻を割るふりをすれば、ゴゴォと卵は地を揺らし返事をするようだ。
「なんとまあ賢き卵!」
頬張るおにぎりの塩加減まで上々で、リンレライは地竜が主に馳せる日をうっとりと夢見た。
無事に孵化した地竜はロシュフォールと名付けられ、ハイハイとヨチヨチはそれぞれ三日、離乳食は二日でイヤイヤ期は半日と、拍子抜けするほど手がかからない。
体は大きく力は強く、棒を拾えば振り回し、ボールを転がせば追いかけて、大好物はポテトサラダと焼き魚、おっちょこちょいだが愛嬌満点、自慢の息子と鼻高々だ。
しかし10歳になっても主の誕生がなく、有力候補の皇子に添うたのは、不死の鳥シャングラとアイラーヴァタのインドラだった。
『あれは竜らしからぬ竜、欠陥竜』
人の噂をドーディエルの霊獣である風竜エンリルから聞いたリンレライは激高し、
「報復ぞ!」
まさに鶴の一声で太陽を隠し闇にして、テコナは毒の鱗粉を風に撒く無差別の狂気、精霊まで揃って帝都を呪詛する一大事となる。
ただの噂話じゃないかとエンリルは呆れたが、
「世紀末騒ぎをどうにかしないと、てっぺんの毛を毟るぞ」
主であるドーディエルに脅されて、祀りの御方を宥めてくれとロシュフォールに手を合わせる始末で、てっぺんの毛髪は風竜の大切な要素なのだと理屈はおかしい。
ロシュフォールはエンリルが作る風車を気に入って、竜の巣穴で回しましょうとリンレライを乗せて高く飛ぶ。
地竜の背から眺める里は絶景で、リンレライの怒りはくるくる回る風車と一緒に、くるくると吹き飛んでいったのだ。
「ほろ苦い記憶でも幸せには違いない」
ルネをとうに追い越しているリンレライは、あの日を思って溜息をついた。
「業火にのたうつ地竜に儂は成す術がなかった」
身を焼かれる地竜は、それでも翼を広げて北の方角に飛翔しようとしていた。しかし咆哮は音にならず、ロシュフォールは使命と希望を失ったのだ。
▽
痛みで目が覚めたルネは、浮いた首の皮膚を押さえてくっつける。それだけ聞けば一大事だが、仮綴じが外れただけで心配はなく、いい加減な指尺採寸で皮膚を切り貼りした結果、のりしろに余裕がなくてくっつくのに時間がかかっているのだ。
「今日は首を動かさないぞ」
そう宣言してから寝返りの罠までほんの数分。体位変換は無意識の領域だから、これはどうしようもない。
じっとしてるのは辛いけど、動くのが好きかといえばちょっと違う。ルネは働き者でも怠け者でもなく、ちょうどいいくらい仕事をし、ちょうどいいくらい好きなことをする。
好きなことは薬の調合で、素材になる薬草を手にすれば芽吹いた時の温度や湿度、養分の光や風がどう影響を与えてどう活かすべきかが分かるのだ。
「ロシュはもう北に着いたかな。・・氷の割れ目に落ちたりしてなきゃいいけど」
『俺は丈夫だから、崖から落ちても沼に沈んでも擦り傷で済むんだぞ』
丈夫なおっちょこちょいがいいのか悪いのか、ともかく無事でいますようにと祈ると、緑の草原にそびえる大木の夢を見て眠った。
▽
ルネの行方をさがすロシュフォールは、明朝に隣町の避難所を訪ねるつもりで宿屋に泊まった。
「・・はずだが、ここはどこだろう」
目が覚めたら枝に絡まっていたとは困ったことである。
「無意識の行動を考えたところで答えは出ない」
それは過去の経験による落ち着きで、荷物を確認しようと体を捻り、肩に激痛が走って顔をしかめた。
「驚いた。肩をバッサリとやられてる」
牙痕は治癒を施したほうの肩にあり、故意に弱点を狙った賢い獣の仕業だろう。奇妙なのは大剣を抜いた形跡がないことで、まあこれも無意識の領域なのだから考えるだけ無駄である。
旅に必要な荷物は身につけており安心したが、抱えていた紙袋には見覚えはなく、首を傾げながら袋を開いた。
「・・パンだ」
中身は記憶に無いパンで、まさか王たる地竜がパンを万引きしたのかと青くなる。
しかも苦手な甘いパンというのが不思議で、無意識下で人格が変わるという話は聞くが、変わるのが味覚とは、危険は少ないけれど今ひとつパッとしない。
「紙袋に入っているのだから支払いは済んでる・・ハズ」
そう願って長めに手を合わせると、ジャムがたっぷりの甘いパンを頬張った。
甘いパンは当然甘くって、ルネならきっと喜ぶのにと食べてしまうのが惜しくなる。
「ルネは甘いのが好きだから・・」
ぐらりと視界が歪み、人の擬態が解けだした。
「警戒を解いて・・地竜の糧にしよう・・」
意図せず地脈に溶ければ、本能に軍配があがったことを大気は歓迎した。
▽
リンレライは雲からブーンと飛び降りて、地からドーンと湧水し、それに飽きると馬の尻尾を引っ張って、崩れた積み荷に慌てる商人を笑う。
到着した街では噴水を止め、何事かと集まった人の上にバシャンと水を浴びせかけて大騒ぎ。そんな目立つことばかりしてるから、テコナの白虎にあっという間に見つかるのだ。
「祀りの御方、あっちからツギハギの子がやって来るよ」
精霊の囁きに、やっと来たかと気配を探る指を立て、
「おお、これはてんとう虫さん」
立てた指にてんとう虫がヨジヨジと登るのを息を潜めてじっと見る。爪の先で羽を広げたてんとう虫が、ブーンと飛び立つタイミングでペチッと叩き落としてニンマリと笑った。
その間にルネは広場に到着し、『薬屋』と書いた旗を立てて商売を始める。
「てんとう虫のような丸薬からイッチリコの匂いがする」
幸いリンレライの興味は、てんとう虫からてんとう虫みたいな色をした腹薬に無事移ったようだ。
イッチリコの実は畑の害獣除けに使われる強烈な臭気をもつ植物で、お腹の薬といえばイッチリコと10人いれば9人答える常備薬。痛い腹ならピタリと治り、痛いふりなら苦渋を味わう良い子の薬である。
「繊維を叩いて水に晒してあるから飲みやすいよ」
「どれどれ土産に良い。ひとつ下さいじゃ」
イッチリコのツンと刺す匂いは薄まり、むしろスゥスゥと清涼感があるぞと感心し、褒めてやろうと子供の霊獣を呼んだが姿を見せない。
「霊獣はどこにおる」
「・・そんなの知らない」
「魔法使いが霊獣を知らぬはずはない。腹薬には上手に隠した魔力がある。魔力を魔力で隠すなどただならぬこと」
ただならぬとはただならぬと、白虎は牙を剥くとルネを壁際に追い込んでいった。
「こ、これ白虎。百歩下がって後ろを向いておれ」
そんなつもりは毛頭なかったリンレライは焦ったが、上空の異常に気付いてハッとする。
「見喰いを喚んだか!子供、行ってはならぬぞっ」
もわもわした淀みがルネの足下から渦になると、小さな体が空に浮いていく。
「それは命を喰らう穴ぞ!霊獣はどこに・・もしや霊獣がいないのか?」
リンレライは大気を宥めるためにシャララと鈴を鳴らしたが、突如転移の魔法陣が空を覆い、鈴の音はジャランシジャランと乱れて術が消失する。
転移を踏んだのは銀糸の髪の魔法使いリヒャエルで、有無を言わさず身喰いの穴に雷の刃を叩きこんだ。
「なんと愚かな。身喰いの穴はびっくり箱じゃ、人の土地を百年の死地にするか!」
怒れるリンレライを一瞥したものの、リヒャエルの攻撃は執拗に続いたのだった。