3 雪山
竜の根城は切り立つ絶壁の横穴で、光は入らず風は吹かず、ピンと張った糸を震わすように絶えず水晶が反響し続けている。
そんな清浄な大気は、無垢を好む四大の精霊たちのお気に入りで、
『バチバチ、ヒューヒュー、ピチャピチャ、ドスンドスン』
飛んだり跳ねたり転げたりと、それはそれは賑やかで、竜はこれを子守歌にして大きく育つのだ。
ロシュフォールが懐かしい根城の夢を見たのは、草を編んだ布団が固いせいで、トントントンの音にまどろんで、ヨイコラショの声にハッとして周りを見渡した。
ここは洞穴を整えただけの簡素な住まいで、竜の根城よりは明るいけれど薄暗い。
「いったいどうしたことだ?」
いくら考えても覚えのない場所だが、目が覚めたのねという声がして、湯気が立つ甘汁の椀と軟膏を盆に乗せた女の子がやって来た。
「旅人さん、ごはんとしもやけの薬をどうぞ」
「しもやけ・・」
急に顔と手足が痒くなり椀より先に軟膏を手に取ったのは、ロシュフォールが痒みにめっぽう弱い地竜だからで、薬がフェンネルの香りであることに表情が弛んだ。フェンネルは魚料理と相性がいいハーブで、葉は爽やだし鱗茎はシャキシャキと舌触りが良い。
「旅人さんは雪に埋まっていたのよ」
「そういえば落ちた。雪が煙のように飛散して道が見えなくなったんだ」
ロシュフォールが日没を過ぎて町を出たのは無謀ではなく、人目を避けて地竜に戻るつもりでいたからだ。ところが地竜であれば吹雪はへっちゃらだけど、人の擬態ではへっちゃらではなく、つまりは無謀である。
「ここまでどうやって運んだ?」
その質問に女の子は目を逸らし、さては丸太のように転がしたのだろうと思ったが、地竜は頑丈だからそれくらいはへっちゃらだ。
「俺はロシュフォールだ。お前の名前は?」
「オマエって呼ばれる。バーサン魔物って呼ばれたのは昨日が初めてよ」
もしも魔物がバーサンになったなら、牙が抜けて咀嚼ができず、嚥下障害を起こすかもと考え込んでいると、どう解釈したのかロシュフォールは優しく頭を撫でた。
「真名から一文字取って名前にしちゃどうだ」
「私の真名はルネ・・うぶっ」
大きく分厚い手が口を塞いだのは、真名は魂を束縛する鍵で他人に知られてはならないものだからだ。
「モゴモゴプハっ。嘘でも本当でもない真名の欠片、全部は知らないの」
「びっくりしたぞ。うん、それじゃルネにしよう」
女の子はルネと呟きモジモジすると、
「ハイ」
そう嬉しそうに返事をして、女の子はこの時からルネになったのだ。
▽
天候の回復を待つロシュフォールはルネと暮らし、雪の合間には薪を割って凍った川で穴釣りし、吹雪がくれば崩れた竈や戸板を補強して、あっという間に商売道具を修理してくれた。
「じゃーん!ルネ印の『皮膚のゴタゴタ、まるっとおまかせクリーム』」
調合機材が直るとルネは早速調合し、万能薬もどきのネーミングが胡散臭くはあるが、しもやけでも肩の裂傷でも皮膚のゴタゴタならまるっとおまかせできる凄いクリームを創ってみせる。
「こんなに凄い薬なのに、ルネの傷は治せないのか?」
「私の皮膚は、効かないのが正しいの」
おかしなことを言うと思いはしたが、自分が人をよく知らないせいだろうと納得した。
ある朝、ルネは遠くの空に目を凝らして告げる。
「北に発つなら今日がいい」
「そうしよう。ルネが言うなら間違いない」
二度と会うことはないと別れを告げて、北の最果てへ旅立ったのだ。
天変地異が起きたのは、ロシュフォールが北に出発した二日後。
ルネの暮らす山は、雪崩と地滑りで地図から消えた。
▽
地竜は雪雲の上を飛んで北に向かい、関所の手前で人に擬態すると観光地の入場券を買った。
観光の目玉は地竜の彫像で、巨大な地竜は岩の鱗と鋼の爪がかっこいいと、子供や冒険者に人気がある。
人が彫刻に興味をもつのは芸術的な観点だけど、湖に映る己の姿しか見ることができないロシュフォールにとって、彫刻が地竜であることで十分だ。
しかしこの彫像ときたら、両翼を曇天に広げて首をぐーんと伸ばした飛翔の構えで、なんとも不安定で危なっかしくってありゃしない。
「これじゃ急所を狙ってくれといわんばかりじゃないか」
竜の彫像は硬いから良いが本来の胸は急所だし、空へ伸ばした首こそ弱点で、これでは角化した皮膚を蛇腹にして鎧化させている意味を為さない。
「何よりも地竜は、寒さが大の苦手なんだぞ」
寒がりな地竜が氷の大地に降参し、急所もへったくれもあるかと一目散に逃げだす姿に見えてきて、そっと手を合わせたのだった。
ここから目的地の北の最果てまで竜の翼なら半日ほどで、眠る主に手向ける花を買いに市場に寄った。氷に根を張るアイスアルジーは珍しい植物で、ルネならきっと何かの素材になりそうと、ハサミをカチカチさせるだろうと吹き出した。
南から荷を運ぶキャラバン隊の到着で市場はごった返しているが、賑やかというよりざわついて様子がおかしい。
「ようやく到着したのか。ずいぶんと時間がかかったものだ」
地竜が雲上を高く飛んできたのは、荷馬車と人が連なるキャラバン隊から隠れるためで、しかしあれほどの荷はどこに行ったのか、広場では商人の男が早口で捲し立てている。
「稲光が槍になって地面をひっくり返して、空には魔物、地には獣が溢れた。山は雪崩と地滑りを起こして、俺たちは荷を捨てて逃げてきたんだ」
命懸けで荷を運ぶキャラバンが天候を読み違えることはない。仮に天災ならば獣も魔物も身を隠すのが本能で、集団化の理由は種の絶滅を回避しようとする行動だ。
つまりはそこには脅威があって、生き物は数にまかせた防御行動を起こしたといえる。
「・・あの山にはルネがいる」
ロシュフォールの視界がぼんやりと霞むと、倒れこむように地脈へ溶けて消えた。
▽
山崩れが起きる少し前。
ルネはあるだけ服を着こんで雪かきのために外に出た。
「うわあ雪がカチカチだ。戸口だけでもどかさなきゃ」
洞窟は頑丈だけど雪解け水が流れ込むのが難点で、道具を手に気合いを入れた一投目、突如雷鳴が轟いた。その直後に雪原には金の槍が降りそそぎ、バリバリと轟音を響かせると雪壁に亀裂が入って雪崩が起きた。
真っ白な雪煙を魔力の風が吹き飛ばし、くぼみに身を縮めていたルネに気付いた四肢の獣は、矢のように駆けて背中を殴りつけ、小さな体は洞穴の岩に叩きつけられた。
殴打で頭がグラグラしたが、気を失ったらお終いだと歯を食い縛る。
これは天災なんかじゃなく、おばあちゃんが構築した結界を銀糸の髪の魔法使いが破壊したせいだ。
「逃げなきゃ」
ロシュフォールに貰った青い守り布は身に着けている。基本の調合機材を紐で腹に括りつければ、折れた骨に激痛が走ったが、落とさないように二度縛ってから起死回生の呪文を唱えた。
鍋蓋が沸騰するようにカタカタと揺れ、重たい鉄鍋も竈も宙に浮く。音にするならジジジとそんなふうで、天井の岩が吹き飛べば空にゴォゴォと渦巻く穴が出現していた。
その穴に手をかけた瞬間に、銀糸の髪の魔法使いはルネを見つけ、長杖に眩い雷光を纏わせると幾本もの槍を投げつけたのだ。
▽
銀糸の髪を煌めかせたリヒャエルは、血の痕がない刃にギリギリと歯を鳴らした。
「ちっ、逃したか・・!」
「見喰いをしたね。あれの行く先は知りようがない」
霊獣ア・バウア・クーのアヴォは、雪と土砂に埋まった裾の町に眉を顰めたが、雪崩と地滑りを起こした張本人のリヒャエルは、町を一瞥もせずに南の方角を凝視する。
「南に行く。霊獣のない魔法使いが庇護を求めるなら霊獣の里だ」
「霊獣の里は祀りの御方の庇護にあり、人の干渉を許さない」
「ふん、あの禍が里に入るより先に殲滅すればよい」
リヒャエルに触れた雪がバチバチッと音を立て弾けて消えた。アヴォはこれ以上被害を出さぬためにも従うことにして、しかしずいぶんと荒っぽく南へと飛んだのだった。