19 飴玉
間一髪で馬車に飛び乗ったルネは、ホッと気を抜いた途端に頭痛に襲われた。
「まずい。魔力の限界濃度だ」
魔力を持つ生き物の体は大気で出来ているが人の体は物質だ。大気が水だとすれば、水に水を入れたところで問題はないが、物体である人の体では吸収できる水に限界があって、これを超えれば器を壊し溢れ出る。
その危険を避けるため、人は減った魔力の分だけを新生し負担を抑制するのだが、仕損じれば魔力が急激な上昇を起こして相応のダメージを受けるのである。
ルネは四大の薬を創るのに蓄積魔力を高く設定し、それが減らないうちに濃厚な狭間と夢渡りの領域に触れたことによる不調和を起こしてしまった。
「鍛冶屋の納品をすませなきゃ・・」
夢なら自由に飛んだり跳ねたりできるのに、現実は油が切れて軋んだ歯車のようだと歯痒い。
商会前で馬車を下り、鍛冶屋通りまでほんの二角。指先がかじかみ唇が青くなるのは不調和が起こす顕著な症状で、納品を待っていた鍛冶屋さんはギョッとして椅子に座らせてくれた。
「時間はまだ大丈夫だよね?ああ良かった・・これはおみやげ、お城印のいいお菓子」
体が重たいのは担いだお菓子のせいだと気付き、袋のまま渡せばちょっとだけ楽になる。ルネも食べろと言うからひとつ摘まんだが、ゲホゲホとむせた途端にピリリとどこかの皮膚が裂け、慌てて手を引っ込めた。
引き留める鍛冶屋に平気と笑い、ロシュフォールと待ち合わせの公園へとゆっくりとゆっくりと歩く。
こんなに苦しいのに魔力ばかりは潤沢で、追い風で背中を押して清楚な水で肌を潤し、どうにか持ち堪えますようにと祈った。
約束の場所は見えたけど足をもつらせバタリと倒れ、ここが茂みとは運が悪い。
この体はとうに限界が来ているのを、ダマしダマしで酷使しているのだ。
『脳を騙せばだいたいうまくいく。死んだって脳さえ騙しゃ生きてられるんだ』
あの頃はおばあちゃんを信じていて、へえ人はそういうもんなんだと感心したが、騙されたのは脳でなくルネである。
不規則な鼓動で皮膚がパンパンに膨れあがり、浅い呼吸をして体力の回復に集中した。
いつかはこうなる覚悟はあるが今でなく、まだやり残しがたくさんあるのだ。何よりロシュフォールが心配で、紋章を奪うのは難しくともそれに代わる何かを準備出来れば良かったのに。
「私の皮膚は象みたいって言ったでしょう?でもインドラさんの背中はスベスベだったよ」
おばあちゃんがそこにいるように話しかけ、ゆっくりと目を閉じた。
▽
『生きよ』
ルネの耳元でそう囁く人がいる。
目は瞑ったまま動くこともままならないが、とても綺麗な人がじっと顔を覗き込んでいるのがわかった。
それは紅色の流線が額と目尻を染め、大きな金の瞳に艶やかな真紅の唇、帳のような漆黒の髪に煌めく羅の被り物をした美少女だ。
『間違いが正されるその日まで生きよ』
そうしたくても方法がないとボヤけば、美少女はコロコロと鈴の声で笑う。
『さてどうしようかのう』
袖で口元を隠してあれやこれやと音を転がしながら、そうじゃと微笑む唇は春に綻ぶ蕾を思い起こさせた。
『飴玉は好きかえ』
七色の糸を巻いた毬のような二つの飴を差し出され、ルネはうんと頷く。
『素直なお子』
美少女はひとつをルネの口の中に入れて、もうひとつを手に握らせる。
『今はまだひとつで良い。もうひとつは残しておくも良し、地にくれても良し』
やがて体のたぎりは消えていき、日向水に浮かんだように心地よい。
「リンレライの若木とおんなじ味がする」
若木の味は知らないけれどと慌てて言えば、美少女はリンレライと呟き目を細めた。
「ありがとうございます。だけど私の体はボロだから飴と等価交換できるものがない」
食べてしまったものは仕方がないが、せめてひとつは返そうと差し出す。
『それでは近いうちに頼みごとをひとつ聞いてくれるかの』
「うん。ロシュが困らないことならいいよ」
『なんとまあ良いお子。安心してよいぞ、あれの息子を妾が悲しませるものか』
美しい顔が近づいて、ルネは真っ赤になって俯いた。
『あれの息子は妾の息子でもある。良きお子よ、よろしく頼む』
羅の薄被りがふわりと揺れて、甘い沈丁花の匂いがいつまでも漂い続けた。
▽
目を開ければ、またもやルネは縦と横にガコガコ揺れていた。
「ロロロッ、ロシュ!ストッープ!」
声を張りあげたら、半端に擬態が解けたロシュフォールがハッと立ち止まり、そのまま道端にズルズルと座り込む。
「ルネが破れて裂けたんだ。だからって俺は・・」
一人で食事をするロシュフォールを想像したのは、おばあちゃんが死んで一番嫌だったのが一人ぼっちの食事だったせいだ。
「どこに行くの?」
「・・里」
リンレライに助けを求めて走っていた。矜持などどうでも良くなって縋りつくつもりだったのだ。
「私なら平気よ。今まで通り暮らそう」
里に助けを求めた理由はそればかりでなく、草むらに蹲るルネをウマソウだと思ったと言えるはずがない。
「もう市場には間に合わないね。今日はポテトサラダにミカンが入ったのを作ろうか」
レーズンじゃなきゃいいとルネを肩に抱き上げ、おぞましい考えが知られないようにと目を合わせずにいた。
▽
その日を境に、ロシュフォールはルネとの間にテーブルや椅子を置き距離を取る。
引っ越したばかりだから家具は少なくて、テーブルをガタゴトズズズと動かすのがやかましく、仕事に集中できないと叱ったのだが、そうすると廊下を行ったり来たりして気が気でない。
「私は元気。こんな硬い水晶だってさざれ石にできるくらい」
水晶をトンカチで砕くのは骨が折れるわとうっかり口にして、骨が折れたのかとロシュフォールは青ざめる。
「ロシュ、落ち着くお茶を淹れようか?」
それは珍妙な味の葉っぱだが、ひとまず口をすぼめて黙らせることができる優秀なお茶でもある。
「いや、あれは二度と飲まないぞ!なあ、ルネは竜もイチコロの毒薬が創れるか?」
「なんで竜を」
「竜の中でも特等の竜で、地・・竜とかだな、血肉に毒の性質を持っており、重力操作でグシャリとなる系、防御はかなり高め」
「ふーん。それじゃ接近不可ね、武器に付与したらどう?」
「ルネは武器を持てない」
「なんとっ、私に地竜退治をしろっていうの?」
きっと私から魔力を摂取していたことに気付いたのだ、だからテーブルバリケードを作ってるのだと合点がいって呆れてしまう。
「素材が揃えば何だって創れるよ」
「何が必要なんだ、すぐに集めてくる」
「七つの相容れぬ血」
「なんだって?」
「ななつのあいいれぬ、ち」
「うっ、ルネが難しいことを言っている」
頭を抱えたいのはルネだって同じで、図書館の賢い先生も都市伝説だと言っていた。
「毒ではないけど、強い系竜さんをも吹っ飛ばす薬なら持ってるよ」
あのきれいな少女から貰った飴玉を見せれば、ロシュフォールはとても驚いた。
「死と再生の力だ。リンレライの魔力と似ているが、いやもっと奇跡」
「吹っ飛ばすんだよ、それはそれは特等の竜さんをドォーンっとね」
現物を見たロシュフォールは満足そうに頷く。
「迷わず使うんだぞ。その竜は殺されたってルネを絶対恨まない」
それから首にカプリと牙を立て魔力を摂取した。
「オマエハ、トテモ、ウマソウダカラ」
この飴玉はロシュフォールにあげるつもりだったのにと、ルネは小さく溜息をつくのだった。
▽
書類に埋もれて今日という一日を終えたリヒャエルは、自室に戻りさらに眉間の皺を深くしている。
部屋の調度品は燻した銀色で統率され、赤紫のカーテンはビロード。ガーゴイルを模した銀細工のタッセルは特注品、四面ともガラスを嵌めた飾り棚には伝説級の魔法使いの杖が鎮座する。
ここまでは彼の趣味によるもので、ここからは陛下に賜った傍迷惑の品々。
天井から吊るされた金と銀と財宝と、なんだかよくわからない三面顔。窓を塞ぐ棚には、夜店の射的屋に並んだ奇抜な景品のようなもの。
これらは全て鳴り物で、明かりを灯せばカランカラン、前を通ればカッコウカッコウ、相手にしないとメソメソと、この世のものとは思えぬやかましさで心落ち着く暇がない。
「まる、しかく」
リヒャエルに喚ばれ、極楽鳥のように鮮やかな従魔が現れた。
面倒だからとふたつを同じにしたら識別が必要となり、まる、しかくと呼んではいるが、どちらがどちらと決めてはいない。
「歪みを見張れ」
新月は過ぎたというのに月のようすがおかしい。月は繊細で世の乱れを如実に映し出すから、人災でも天災でも歪みを起こす指針である。
「歪むのは構わんが歪むふりなら凶」
まるとしかくを見張りに立たせ、ようやく浴槽に体をしずめてハアと息を吐いた。
奇妙な飾り物に侵食されていないのは今や浴室だけとなり、浴槽の縁に顎を乗せて蕩ける行儀の悪さは格別の癒しだ。
お気に入りの香油瓶は逆さに振って数滴で終いになった。アヴォが調合したこの香油はリヒャエルの好みを追求した特別だから市販されていない。
「まったく愛想のない月だな」
彼はぬる湯の長風呂派で、浴室は月の光に照らされた壁が透明になる不思議仕様、浴槽の縁に乗せた顎を少しずつずらして眺めるのがお気に入りで、しかしここのところの月は何とも不愛想なのだ。
ポロンと音色が聞こえて顔を上げる。
弦を弾く音は月の影響を弱めるもので、アヴォは月が明るい晩には竪琴の調べを紗にして覆い、リヒャエルの安眠を助けた。
しかし音はそれっきりで、ああこれかと脱いだ服のポケットからおもちゃの楽器を取り出す。
ドーディエルを見舞うと、必ず何かひとつをリヒャエルの手に握らせる。
国を頼むということか、それとも子供たちを気にしてのことか。私室を埋め尽くすこの品々はすべてそういう経緯のもので、そのもの自体に何の意味もない。
帝王が狂気の淵にあることを誰にも気づかせてはならないのだ。
リヒャエルはおもちゃの楽器をそっと指で撫でて、また浴槽の縁に顎を乗っけて月を眺めた。




