1 霊獣の軌跡
ピューピュー・・
ぎゅっと身を竦ませる冷たい風が、枝にしがみつく最後の葉っぱをもぎ取った晩秋。
ほうき星が夕暮れ空に弧を描いて、女の子は川藻を刈る手を止め空を見上げた。
「どこかの町で魔法使いが誕生したのね」
ほうき星ならキラリと光って消えるけど、あれは魔法使いの誕生に馳せる守護霊獣の軌跡で、空を真っ白に染めて誕生を祝福する光だ。
『そうやって運命は、魔法使いと霊獣の魂を縛るのさ』
春に死んだおばあちゃんはそう吐き捨てながら、光が消えるまでずっと空を見上げているものだった。
▽
万象を原動力にするのは太古より存在する精霊と霊獣で、ぎゅっと圧縮した万象からポコリと飛び出したあぶくを精霊、万象をよく練って形を整えたのを霊獣と呼ぶ。
精霊が暮らすのは、肥沃な地、潤沢な水辺、栄える都市、長閑な田園で、大気を安定させ人に恵みをもたらすが、ひとたび環境が悪化すれば、人災だろうが天災だろうが知ったことかと姿を消してしまう。
恵みを失った人は非情だと恨むが、そもそも精霊と人に利害の関係はなく、一方的に恩恵を享受しながら文句をいうのはお門違いというものである。
精霊に対し霊獣は利害によって成り立つ関係で、利害を使命と読み換え人と共存する。
使命は唯一無二の魔法使いを守護することで、その為に人に擬態し暮らしてはいるが、守護を与える魔法使いが願うならば、道に悖るも厭わない。
つまり霊獣とは、精霊よりもよほど非情な生き物といえるのだ。
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初霜が下りた朝、身丈の五倍もある大木を軽々と担いだ男が、シャリシャリと霜を踏み分け林にやって来た。
「霊獣の里の入口は祀りの御方の気分次第。さて今日はどこにあるだろう」
探しているのは入口で、入口を見つけないと霊獣の里には入れない。
持ち運び式の入口を毎朝設置するのは霊獣の里長リンレライであるが、うおりゃと気合を入れて遠投する日もあれば、ひょいと枝にひっかけるだけの日もあって、霊獣の里の入口は祀りの御方リンレライの気分次第と歌にあるほどだ。
岩をヒョイと退けてハズレと呟く男の名前はロシュフォール。茶の髪は大地、緑の瞳は草原の色で、逞しい腕と首は歴戦の戦士のようだが、騎士というには質素な皮鎧だし、傭兵というには立派すぎる幅広の大剣を携えている。
「あったあった。今日の入口は難儀な場所にあった」
半時間ほどさがした入口は谷底で、ゴォゴォと渦巻く突風が相手では、神事の依り代になる大切な大木を木っ端微塵にしかねない。
「今日の入口は見送ろう。これは丈夫な大木だけど地竜の自分ほど頑丈とは限らない」
そう決めると大の字に寝転んで、一度目の瞬きで夕暮れに、二度目の瞬きで夜中になって、満天の星空を眺めながら三度目の眠りに落ちた。
朝日が顔を照らして目を覚ましたロシュフォールは、高い木のてっぺんに靡いている今日の入口に、さあどうしたものかと苦笑いをする。何故ならこの木はずいぶんひょろりとしており、一番下の枝に足を掛けた途端にポキリと折れて、これではてっぺん辺りの枝は鶴の脚ほど細いだろうと思ったのだ。
「やぐらを組もう」
長丁場になるぞと火を起こし、まずは腹ごしらえだと串刺しソーセージをぐるぐる炙る。香ばしい香りでパチッと皮が弾け、肉汁がじゅわぁと溢れた時が食べ頃で、口を大きく開いた視界の端に、パクっと入口を咥えたカラスが見えて慌てて立ち上がった。
「わわっ、ちょっと待ってくれっ」
ロシュフォールはソーセージを手にしたまま岩を蹴って跳躍し、もう片方の手でカラスを鷲掴みにする超人的な身のこなしで、しかし霊獣の身体能力であれば他愛もないことである。
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カラスとの交渉は肉汁が溢れるソーセージと入口を交換することで決着し、一年ぶりの生まれ故郷の空気をたっぷりと吸いこむ。
遥か彼方で滝の瀑布が一帯を白く霞ませて、そびえ立つ火山の噴火口は雲のように噴煙をたなびかせている。
あの壕爆は祀り巫女の祠がある地底湖に流れ着き、そこから里へと下る結界でもある。祠は小高い丘の洞穴で、そこから扇形に広がるのが霊獣が暮らす里だ。見渡せば家の数はそれなりにあるけれど、霊獣はここ数百年減少しており、半数は空き家となっている。
「入口の出口が果樹園とは、今日はツイてたな」
霊獣の里の入口を裏返せば霊獣の里の出口で、今日の出口はリンゴの果樹園だ。ソーセージを食べ損ねたロシュフォールの腹がグゥと鳴り、あっという間に三個もいで平らげた。
四個目のリンゴは、キラキラと眩しい丘を眺めながらゆっくりと咀嚼する。あのキラキラは金林檎の輝きで、味は赤りんごと同じだが、金色は富の象徴だから注文がひっきりなしの里の交易品なのだ。
ロシュフォールは大木を担ぎ直すと、霊獣の学校目指して道を進んでいく。霊獣は浮遊するから道の必要はないのだが、人の擬態では人らしくするのが里の掟で、これを破れば咎めがある。
まさに今、始業の鐘に慌てた鳥の霊獣が、羽を広げて校門を飛び超え簀巻きになったところで、
「擬態無視と通学路無視のダブル違反か。こりゃ昼休みは反省文だな」
簀巻きにされてジタバタする姿が、学生時代の自分のようだと懐かしさに鼻がツンとした。
ロシュフォールの本性は五感に優れた地竜だから、意識を鈍くする人の擬態が大の苦手だ。校則違反の罠は総舐めし、いい加減に罠の在処も覚えそうなものだが、視力検査の環の切れ目と同じで覚えられないから罠なのだ。
学校の裏庭に大木を下ろして、小屋から斧と鉈を借りてくる。
担いできた大木は一年の厄を祓う依り代で、幹の樹皮を剥ぐと丁寧に形を整えていく。硬い芯の部分は風車の補強用で、その他は薪にしてロープで結んでおけば、必要な誰かが必要な分だけ持っていくだろう。
昼を報せる鐘が鳴り終えるより早く、光煌めく黒アゲハ蝶がヒラリヒラリと飛んできて、ロシュフォールの目の前で片眼鏡をかけた女に擬態する。
彼女は蝶の霊獣テコナ、夢を渡る夢見の占者でも霊獣の学校長である。
「こんにちはテコナ。奉りの間はまた世話になります」
「待っていたよ、ロシュフォール。さあ川で魚を獲っておいで」
「奉り期間に収穫を得るのは禁忌でしょう?」
ロシュフォールが困った顔をすると、テコナは周囲をうががいながら囁いた。
「鮭の奴ときたら禁忌を侵して餌を得ているというのに、禁忌を守る私は三日も酒しか飲んでいないのだよ」
「えっ、それは大変だ」
いくらテコナが死人でも、いや死人であるからこそ偏った食事は体に障りがあるに違いない。
「禁忌を侵した鮭なら不問です」
ロシュフォールは服の木屑を払うと急いで川へと走り去り、それを見送ったテコナは、
「おやまあ、可愛いったらありゃしない」
蝶の羽を震わせて笑うのだった。
▽
テコナは薄紅の羽を持つ美しい蝶の霊獣であったが、精霊王に愛された薄紅の羽と真珠の肌は戦火に焼かれ、あの頃の面影はもう残っていない。それでも精霊王と分かち合う紋章だけは、彼女が生を終え、故あって死人になった今でも色褪せることのない唯一無二のものである。
彼女はヒラリヒラリと舞う蝶だけど、掟に従い里長がいる祠への一本道を歩いて昇る。夕陽を遮るものの無い丘は金色に輝いて、瞼を閉じれば視力を無くした左目がほんのりと明るくなることをテコナはとても気に入っている。
しばらくそうしているとチリンと風鈴の音が響き、祠からお出ましになった祀りの御方リンレライが、手にした種火に息を吹きかける。
「主を残し逝った霊獣の、魂を鎮める奉りの始まりじゃ」
種火は四方へ八方へ、さらに散り散りになって、里中のぼんぼりに橙の光を灯した。
「やあリンレライ。ロシュが無事に戻ってきたよ」
「なんとっ、儂には顔も見せに来ぬ」
祀りの御方リンレライの姿は子供のようだが、最も長命で特別な役目を持つ霊獣の里長で、唯一無二の紋章を分かち合う祀り巫女を守り神として里に迎えた後は、主のない霊獣の庇護者でも、先に逝く祀り巫女がいない季節を繋ぐ里の守り人でもある。
「ロシュはまんまと騙されて、川に鮭を獲りにいったもの」
「そうかそうか、ロシュらしい」
リンレライは残りの種火を捩じってポイっと地面に放ち、すると種火はシュルシュルと細い蛇になると、坂道を駆けるロシュフォールの足元を明るく照らした。
「見てください!大きい鮭がバシャバシャ獲れました、さすが禁漁期間です」
「そんなバカでかい声で禁漁と叫ぶでないっ。まったく冬眠前の熊でもあるまいし、バシャバシャとは何たるや」
「えっ、なんでわかるんですか!冬眠前の熊を手本にしたんですよ」
どうも主旨が食い違っているが、これも祭りの無礼講とマツリ違いに目を瞑るから、リンレライは地竜に甘いといわれるのだ。
「おや?ロシュ、襟に血が滲んでいるようだ」
火を起こすためにしゃがんだロシュフォールの襟元を、テコナはぐいっと引っ張って傷口を容赦なくこじ開けた。
「いっ、いたたっ・・!」
「なんとも立派な怪我だね。しかし頑丈な地竜の命を取るほどはなく、今夜は痒みで眠れない」
地竜は痛みには強いが痒みは苦手で、ひえっと情けない声をあげた。
「治癒が紋章に障りませんか?」
「私の腕前は知っているだろう?ついでにロシュの宝に保護もかけておこうね」
うなじに残った一端の紋章と同じくらいに命も大切にして欲しいものだが、闇を彷徨うロシュフォールには酷だから諫めることはしない。
霊獣が霊獣である証の紋章は業火の中で崩れ落ち、地竜の主の消滅から15年が経つ。しかし消滅そのものは目の当たりにはしておらず、主の生存を一縷の望みに生き永らえてきたが、年ごとに絶望に侵食され、地竜のロシュフォールは生の終わりを願っている。
▽
鎮魂奉りの火の番は祀りの御方の大切だけど退屈な役目で、テコナを話し相手に朝まで酒を酌み交わすのが毎年恒例だ。
「今年も新しい祀り巫女の誕生はなかった。のうテコナよ、もしも儂が役目を放ったらかして逝けば、イツキは怒るかのう」
かがり火に薪をくべたリンレライは、妻のイツキは怒りん坊だとウットリし、そのイツキを知るテコナは思わずゲホゲホと酒を喉に詰まらせた。
「・・リンレライ、それだけはやめようね」
元気過ぎる祀り巫女イツキの在りし日を思い浮かべ、テコナは祠から目を逸らすのだった。
霊獣の里が予言を以て魔法使いの誕生を監理するのは、無力な赤ん坊を邪なものに奪われぬよう、里と人が唯一連携を図る事柄だ。
しかしロシュフォールの主となる魔法使いには誕生の予言がなく、更に地竜の紋章は発現と同時に崩れるという前代未聞が起こったのである。
「紋章の発現は命の誕生が絶対条件だろう?例え業火といえども、理が施す命の祝福を破壊するなど説明がつかないよ」
占者のテコナは歯痒くてならないが、リンレライはこれの究明にまるで乗り気でない。
「その道理を通せば、ロシュに残る一端の紋章を刻んだ刻だけが主が人であった時間で、業火で崩れた紋章はすでに人でなかったといえる。祝福なき命は魔物だとテコナはロシュに告げるのか」
それがリンレライの答えで、霊獣の里は欺かれたのだと地団駄を踏むのだ。
災厄か禍か、ともかく人の領域を超えたもの。
主の無い地竜は王たる力を削がれ、さらに祀り巫女無き季節が長引くほどに世界の理は歪んでいく。