Kehle
歌が聞こえる。
高らかに、力強く、心地よい歌声。
耳によく馴染む声だった。
おそらく声楽部の生徒が練習しているのだろう。
時刻は放課後。
遠くから野球部のバットの音や陸上部の走る声が聞こえてくる。
その中でも一際その歌声は目立っていた。
教室から出て、声の主を探す。
どうやら階段の方から聞こえてくるらしい。
何も考えずに声のする方へと向かった。
すると、足音に気づいたのか歌が止んだ。
構わず階段を登る。
誰が歌っているのかどうしても知りたかった。
階段を登り切った先、屋上の手前にその人間は立っていた。
「ああ、鳴海か。」
「え、あ、…瀬川くん?」
先程までの歌声はどこへやら、か細い声でこちらの名前を呼んだ。
鳴海満。去年同クラスだった奴だ。
いつも教室の隅で本を読んでるような人間で関わりは全くと言っていいほどなかった。
「お前声楽部だったん?」
「あ、はい…。」
声楽部も表彰式などで存在自体は知っているが学内での発表はなく、誰が所属してるかなど知りもしない。
「上手いな。」
意外としか言いようがない。
音楽の授業でもあれば知る機会はあったろうが、生憎うちの学校は芸術科目は選択制だった。
「えっと…ありがとうございます?」
「俺、お前の歌好きかも。」
鳴海は見るからに顔を赤くし、持っていた楽譜で顔を隠した。
「か、揶揄わないでください。」
「マジなんだけど。もうやらないの?」
「あの、人前は恥ずかしいから…。」
とうとう鳴海はしゃがみ込んだ。
返事ももはや蚊の鳴くような声だ。
「声楽部って人前で歌うよな?」
「…え、あ、あの…練習は恥ずかしいっていうか…。」
「ふーん?」
よくはわからないが完全ではないものを聴かれたくないといったところだろうか。
「その、瀬川くん、近づいてきてる?」
「だって声聞き取りにくい。」
こちらが進めば、鳴海は後方へ逃げる。
「なんで逃げんの?」
「なんでって…。」
とうとう、鳴海は壁に当たった。
もう逃げ場もないだろうが真ん前に立って上から見下ろす。
よく整えられた頭髪が見える。
「逃げると追いたくなるだろ。」
まるでいじめているみたいだなと笑いが込み上げてきた。
顔が見れないため怒っているか怯えているかも判断がつかない。
悪いことをしたなと思った。
「あ、あの…。」
「部活の邪魔して悪かったな。」
踵を返して教室へと戻る。
鳴海からの返事はなかった。
次の日も同じ時間、同じ場所から鳴海の歌は聞こえてきた。
邪魔をしないように、しかしできる限り近くでその歌を聴く。
背が低いためか高校生にしては高い声だ。
歌っている曲がなんなのかはよくわからないが、きっと普通のポップスなどを歌っても上手いのだろうなと思う。
友人とならカラオケでも行くのだろうか。
自分が誘っても断られるだけだろうが。
次の日も、また次の日も鳴海の声に聴き入る。
あれから会話をすることは一度もなかった。
もう一度くらいきちんと話して謝るべきかと思ってはいる。
しかし、鳴海のいる場所などこの時間しか知らないし、この声を途切れさせたくなかった。
そのうちに歌声は止んで、足音が階下へと降りて来る。
いつも通り個人練を終えて音楽室へ戻るのだろうと思っていると足音が止まった。
何かあったのだろうかと耳を立てていれば、あろうことか足音はこちらへ向かってきた。
「あっ…?」
「おん?」
鳴海が教室の入り口からひょこりと顔を覗かせた。
人がいると思ってなかったのかすぐに引っ込んでしまったが。
近付いて話しかける。
「どした?」
「その…えっと…これを…。」
差し出されたのは一枚の紙切れ。
モノクロに印刷されたチラシのようだ。
「何これ?」
「配って来てって言われたんだけど、渡す人いなくて…要らなかったら捨てていいから…!」
鳴海はチラシを押し付けると足早に去って行った。
自分に渡しにきたのかと思ったが、そんなわけないと思い直す。
チラシにはポップな手書きの文字で場所と時間が書いてあり、余白は小学生が描いたのだろう絵で埋められていた。
市が主催する発表会らしい。
日程は丁度よく何の予定も入っていない日であった。
久しぶりに来た市のホールは思いの外、賑わいを見せていた。
まだ小学生にもなっていないような子どもから老人会の参加者らしき人たちで入り口はひしめき合っている。
小さい会場であるし、控え室などろくにないのだろう。
発表会には花を持っていくものだ、と母と姉に待たされた小さな花束はどうすれば良いか。
見る限り皆本人に手渡しているようで、それに倣おうと見慣れた制服を探す。
一通り会場を回って見たが見当たらない。
外にいるのだろうかと一度ホールを出る。
ホールの裏手側に行くといくつかの学校の生徒が集まっているようだった。
その集団から少し離れたところに鳴海はいた。
ずっと本を見続けており、近づいても気づかない。
「見っけ。」
「あ、え、瀬川くん…?」
声をかければようやくこちらを向いた。
「やる。」
花束を鳴海へ押し付けるようにして渡す。
鳴海の反応といえば、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。
「あ、ありがとう……?」
「ん。」
これで任務は完了と踵を返し、ホールへと向かう。
すでに人が疎らに入っていた。
適当に人が少ない場所に陣取り開演を待つ。
早々に携帯の電源は切っておき、入り口で渡されたプログラムに目を通すことにした。
歳の若い順に始まるようでうちの学校は中休憩を挟んだ後らしい。
しばらく待っていればホールは満席状態になった。
ギリギリまで人が出入りしていたが、時間通りにブザーが鳴って幕が上がった。
市長が開会の挨拶をした後、小学生たちがちょこちょことステージに上がった。
圧巻だった。
そんなつもりはなかったのだが、自分はたかが発表会と侮っていたらしい。
小学生からして確実にそこら辺のやつより上手い。
学校でやる合唱コンクールは本当にお遊びの域だったことを思い知った。
休憩のアナウンスが流れる頃には少し放心してしまっていた。
ほとんどの人が席を立っていたが、立ち上がることも出来ずにぼんやりする。
人の流れを眺めているとどうやら途中から来たり帰ったりする人がいるようだ。
目当てがあればそんなものかと思い、再びプログラムに目を移す。
もうすぐうちの学校の出番だ。
鳴海があの場所で歌うのかと思うと、妙に心臓がうるさかった。
また、開演のブザーが鳴って会場が暗くなる。
明るいステージ上に鳴海の姿を見つけて脈が速くなる。
静まり返った中、鳴海が口を開く。
いつもの姿からは想像できない堂々とした立ち姿、響くような歌声。
そういえば、いかにも気の弱そうな見た目だが常に姿勢は良かったなと思う。
歌い終わり拍手が鳴り響く中、自然と口角が上がっていたことに気づく。
失礼だとは思うがそれから後のことはよく覚えていない。
さすが年長の人達は素晴らしい歌ばかりだったが、鳴海のことばかり思い出して溜息が出る。
気を抜くと開いてしまう口を引き締めながらホールを出た。
「瀬川くん!」
「あ?」
後ろから声がして振り向くと鳴海が立っていた。
「なに?」
「あの、今日来てくれてありがとう…。あっ、お花も……。」
「別に待たされただけだし。まあ、よかったら飾ってやってください。」
「うん…嬉しかった。」
俯いているせいでまた頭髪しか見ることができない。
どんな顔をしているのか。
「また呼んでくれれば。」
「来てくれるの?」
驚いたようで鳴海が顔を上げた。
「鳴海の歌が好きだって言わなかったっけ?」
そう言うと、鳴海は顔を赤くして固まってしまったがしばらくすると照れくさそうに笑った。
「ありがとう。」
「……もう戻った方がいいんじゃね。呼んでるぞ。」
「あ、うん。またね。」
「ん。」
頭を下げながら集団へと戻る鳴海に手を振った。
なんだか、彼の歌を聞いたあの日から自分がおかしくなってしまった気がする。
可愛い、だなんて男が男に思うものではないだろうに。