寺子屋先生の秘密
とある藩の寒村に、小さな寺子屋があった。
村の外れにいつしか住み着いた一人の初老の浪人者が、己が起居するあばら家の一室で開いたもので、村の童たちが日々通っていた。
浪人の教え方は的確で分かり易く、また当人の穏やかな性格も相俟って、その寺子屋には、彼を慕う無邪気な子どもたちの声が絶えなかった。
童たちの親たちも、僅かな野菜と米の謝礼だけで、自分たちの子に読み書きや算術を教授してくれる浪人者に好感を抱き、みな浪人者の事を「先生」と呼び、気さくに接していた――。
「お邪魔致す」
ある日の夕暮れ時、寺子屋の隣に住む五兵衛の家の粗末な戸の向こうから、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「あ、先生だぁ!」
その声を耳にして、部屋の隅で棒切れを振り回していた二人の子が、喜色を露わにして戸へと駆け寄る。
「おお、これは先生! お珍しいですな」
囲炉裏の前で草鞋を編んでいた五兵衛も、太ももの上に積もった藁を手で払って立ち上がり、土間へ降りると、立て付けの悪い引き戸をゆっくりと開けた。
「五兵衛殿。斯様な遅い時間に、申し訳ない」
戸の向こうに立っていた“先生”は、軽く会釈する。
そして、その顔に穏やかな笑みを浮かべながら、言葉を継ぐ。
「……実は、お伝えしたき事があって、罷り越した」
「伝えたい……事ですかい?」
はしゃぎながら先生に纏わりつこうとする二人の子の背中を押して、家の向こうへと追いやりながら、五兵衛は訝しげな表情を浮かべた。
「改まって……何かあったんですかい?」
「あぁ……いや、大した事では無いのだが」
先生は、白いものが混じった総髪に手をやりながら、曖昧な笑みを浮かべる。
「実は……急な事で相済まぬのだが、明日の寺子屋は休みとさせて頂きたいのだ」
「へぇ……お休みでございますか? まあ、別に構いませんが、一体どうして……」
「――お願いしたい事が、もう一つあってな。それが、急な休みと関係しておる……」
そう言うと、先生はごほんと咳払いをし、言葉を継ぐ。
「実は、来たる村祭りに、某も出し物をするのだ」
「出し物……ですか」
五兵衛は、思わず首を傾げた。
確かに、毎年この村では、村はずれに建っている神社で小さな祭りを行なっていて、その中で村人の代表が、芸事を披露する習わしになっている。
……だが、今年の祭りで、先生が出し物をするという話は聞いていない。
「……初耳ですな、先生が出し物をなさるとは」
「宮司殿から、内々に話をもらっておってな。この事を知るのは、村の中でも数人しかおらぬ」
「はあ、そうなんですな」
先生は、穏やかな笑みを浮かべたままつらつらと答え、五兵衛は、その言葉を信じた。
「で……その出し物と明日のお休みが、どう?」
「演目は、寸劇にした。――仇討ちの、な」
「仇討ちの、寸劇……」
「うむ」
頷いた先生は、更に言葉を継ぐ。
「それで……明日、仇を討つ若武者役の役者を家に呼んで、芝居の稽古をする事になったのだ。それで――」
「ははぁ、なるほど。その稽古の為に、寺子屋を休むんですね。分かりやした」
「すまぬ」
そう言って先生は頭を下げた。
と、表情を改めて、五兵衛に顔を寄せ、「……で、すまぬついでにもう一つ」と囁く。
「稽古をしている間、決してその様子を見ぬようにして頂きたい」
「はぁ? ……見ぬように、ですか?」
奇妙な頼みに呆気にとられる五兵衛。
と、先生は、部屋の奥で遊ぶ二人の童の様子を窺いながら、更に言葉を継ぐ。
「ああ。特に、太吉と勘太には……」
「な、何故ですかい?」
先生の頼みの意図を図りかね、戸惑う五兵衛に、先生はいつも通りの口ぶりで答える。
「それはもちろん……祭りの日に、皆を驚かせたいからだ」
「ああ……左様でございますか」
先生の説明に、納得顔になる五兵衛。同時に、先生が披露しようとしている“芝居”の内容が気になる。
と、先生は暮れ始めた空に目を遣ると、「いかん」と呟いた。
「すまぬ。些か長居をし過ぎた。これから、村の皆にも同じ事を頼みに行かなくてはならぬ」
「はあ」
「これは、明日の詫びだ。皆で食ってくれ」
そう言うと、先生は手に提げていた干し柿の束を五兵衛に渡し、最後に「先ほどの件、くれぐれも頼むぞ」と言い置いて、足早に去っていった。
◆ ◆ ◆ ◆
翌日、“芝居”の事が気になった五兵衛は、明け方にこっそりと家を出て、隣のあばら屋の様子を窺った。
日が昇って間もなく、二本差しで、頭には白い鉢巻を巻き、たすき掛けをしたひとりの若い侍が、先生の家の戸を叩くのが見えた。
すぐに戸が開き、家から出てきた先生も、若い侍と同じような姿で帯刀していた。
五兵衛は、稽古にしては随分と本格的だなと感心する。
家の前の小道に出たふたりは、二言三言会話を交わすと、やにわに刀を抜いた。
しばしの間、刀の切っ先を互いへと向けたまま、ふたりは無言のままで睨み合う。五兵衛は、ふたりの放つ気に中てられ、息をするのも忘れて、彼らを凝視するだけだった。
「やああああああっ!」
「おおおおおおおおっ!」
ふたりの口から、裂帛の気合が放たれ、朝のひんやりとした空気を震わせる。
そして、ふたりは刀を大きく振りかぶると、一気に間合いを詰めた。
接近したふたりは、右脚を大きく踏み込みながら、二合三合と激しく斬り結ぶ。
今度は、金属が激しく打ち合わされる甲高い音が辺りに響き渡った。
そして――、
「ぐぅ……!」
くぐもった声が漏れると同時に、先生の肩口から真っ赤な液体が噴き出し、彼はそのままパタリと倒れた。
五兵衛は固唾を呑んで、迫力に満ちた芝居の結末を見守る。
そして――、夥しい返り血で身体を真っ赤に染めた若い侍が先生の首を斬り落とし、誇らしげな様子で頭上に掲げるのを見て、漸くこれが芝居ではないという事に気付いたのだった……。