6:Vere ac libere loquere.
「結局私では……彼を救うことなんか、出来なかったんだな」
一人歩く道は、長く感じられた。フォースがいないのなら街中を歩ける。けれど足は重いのだ。
出会った頃のことを思い出す。あの日も一度は背を向けた。
一歩一歩が重いのは、心からこぼれ落ち、目からこぼれ落ち、足へと縋り付く未練だ。
人と距離を置かなければいけないこの身体。
恐れず後ろをついて来る彼に、あの日の自分は救われた。
彼は変わった。だからもう追っては来ない。
そしてリフル自身が望んだはずだ。“自分が救われることはあってはならない”と。
だから、これで良かったのだと脳が言い顔は微笑む。それなのに心はそれを認めない。未練をだらしなく情けなくだらだらだらだら両目から流すのを止めてはくれない。
(私は彼に救われたのに……)
力になれなかった。
彼の幼なじみの1人……ロセッタという少女だって、結局フォースと引き合わせることは出来なかった。
救うつもりが「人殺し」とまで叫かれる程脅えさせてしまった。フォース達は奴隷貿易の犠牲者。そしてリフルの罪の象徴だ。
(タロック王……、セネトレア王……)
その対象が大きすぎて、容易に殺すことさえままならない相手。
殺すことだけなら出来るかも知れない。それでも、それは国が乱れる。余計無関係の人々が死ぬのだ。そして奴隷貿易は終わらない。
事を為すには時期がある。そこに辿り着くまで、一歩一歩……遠回りに見える道を歩かなければならないのだろう。
国を正しき道へ導く人間。それを見い出し、その者の支援者を影ながら増やしていくしか道はない。
「…………父様」
殺すべき男の名前を呟いて……まだその時は来ないのかと息を吐く。その息の白さに、今更のように凍える大地の寒さを思い出す。
まだ数魔薬の効果が切れていないんだろうか。気持ちの浮き沈みが激しい。
気持ちを切り替えなければ。
今回の件でセネトレアの第三聖教会が完全に信用できないことを知った。
幾らあの熱血聖十字、ラハイアがいても……今の彼では力が足りない。彼に手柄を立てさせる手助けだけではあの腐りきった教会はどうにもならない。
仕事内容、方針を今一度見当する必要がある。
重い足取りで辿り着いた部屋。まだ日は明けないが、あと1,2時間もすれば明るくなるだろう。トーラは力の酷使で未だ爆睡。抜け出していったことばバレではいない。
明日彼女が目覚めたら、何と言い訳をしよう?
疲れ切った心では何を考えるも面倒だ。目覚めたときにでも考えよう。
(どうせ、なるようにしかならないんだ)
自分はその結果を受け止めるだけ。
*
去りゆく人の後ろ姿。その直前の恩人の顔が頭にこびりついている。
解ってる。解ってる。
泣きそうな顔で笑う人。
顔も名前も違うのに、思い出の中の女性と重なる。
馬鹿な女だ。
いくらタロックの女が稀少だからって、貴族なんて幾らでも相手は買えるのに。
遊ばれた事にも気付かずに、いつまでも信じて信じて待ち続けた。
他の男が言い寄ってきたこともあっただろうに、断り断り……気がつけば鏡の中の自分が生活苦からすっかりやせ細り……男が言い寄ってきた頃の若さも美しさも失って。
あの頃からだ。母親がフォースを憎み始めたのは。
それまでは男の面影を重ね見て、何時だって優しく自分を見守ってくれていたのに。
(俺が立派になれば、あいつが戻ってくるとでも思っていたのかな……)
もしも生まれた子供が稀少な女だったら。あの人は迎えに来てくれたかもしれない。あの人が自分のもとから離れていったのは、生まれたのがどこにでもいる男児だから。
価値もない。跡を継がせられるほど、見栄えのする色でもない。
それからだ。ちょっとしたことで、彼女はすぐに怒るようになった。母親の気が静まるまで家には帰れない。怒鳴られ打たれる。
逃げ出すようにいつも外へと遊びに出かけた。
日が暮れても帰らない自分に付き添ってくれたのは…………目の前で倒れている赤目の少年、グライドだ。一晩中母親の機嫌が直らない時は野宿に付き合ってくれたり、自分の家へ招いてくれたりした。
そんな優しいグライドに比べ、弟分のパームは気まぐれで腹が減ったらさっさと帰って行ったり、過保護な親が迎えに来たり。それでも気が向くと夕飯の余り物と言う名の嫌いな食材を届けに来たりした。奴らとはいろいろ一緒に馬鹿やった。
村に一人だけいるっていう女の子。どんなお姫様だろうとこっそり塀を乗り越え探検しに行って、出会ったのは気の強いロセッタ。最初に忍び込んだ日は、全員桶の水を頭からぶっかけられた思い出がある。
そこが自分にとっての最初の居場所。
各々の理由で奴隷商に引き渡された時も、みんな一緒なら何も変わらないと思った。居場所とは場所ではなく人なのだ。そう自分に言い聞かせて。
泣きそうな顔で微笑みながら、自分の成長を喜んでくれた母親はもう死んだのだ。壁板に刻んだ背が伸びる度、嬉しそうにしていてくれた彼女はもういない。
優しかった母親が、はした金で喜ぶ様に……完全に自分への愛情を彼女は失ったのだと理解した。
肉親なんてもういない。血の繋がりが愛じゃない。
顔も知らない父親よりも、傍にいてくれる友人達の方がずっと大好きだった。大切だった。自分が守らなくてはと、強く思った。
だけど結局空回り。自分たちを逃がしたのはロセッタで。結局みんなバラバラになって。
自分は追っ手を撒けなくて、連れ戻されて殺される。そんな恐怖の中駆け抜けて……綺麗な瞳の殺人鬼、混血のリフルに出会った。
彼は死をもって死からフォースを守り、救ってくれた。パームやロセッタを探す手伝いもしてくれた。
何でそんなに優しくしてくれるかわからなかった。母親ですらそんなことは止めてしまったのに。見ず知らずの他人のために、必死になって……
そんな人だから、あの日の自分は憧れた。こんな人間が居るのかと。
再会した恩人は、罪に汚れた自分にも相変わらず優しかった。
それでも邪眼が効くようになった自分から、あからさまに距離を取って、視線も合わせてくれなくなった。
武器として生きてきた自分が、主でもない人間に冷たくされてもどうってことはない。はずななのに、心が痛んだ。価値のない自分を肯定し、好意だけを与えてくれた人だから、その反応は世界の全てに否定され、拒絶されてしまったような強い衝撃だった。
過去のトラウマの瘡蓋が一気に剥がされたような、その痛み。
主を失った辛さを、一瞬でもその痛みが上回った。いや、一瞬どころではない。波のように何度も何度も引いては満ちて、押さえ込むこともままならない痛みを運ぶ。
それを知り愕然とした。それが彼の言う邪眼の魔力なのだろうか?
フォースには幾ら考えてもよくわからなかった。
そのせいで眠れなかったなんて言えない。あの人はきっとフォースが主のことで胸を痛めていると思っていたから。
大した力もない腕で無理をしながら自分を運び、寝台を譲ってくれた彼の優しさ。
目は合わせてくれなくなったけれど、相変わらず優しい。変わらずその理不尽な好意を与えてくれていることを知り、泣きそうになった。
彼がふらふらと出かけていったのを黙って見送ることが出来なくて、後をつけ……驚いた。何をどうしたというのか。彼が向かったのは領主の城だ。
彼は、自分に人殺しをさせたくなかったのかもしれない。或いは自分を責めていたのかもしれない。ここまでフォースの手が汚れたこと、その責任全てが自分のものだと思い込み。
だから代わりに何かを為そうとしていたのかもしれない。
数魔薬が理性を壊し抑制を取り去り感情を曝き、心のままに人を動かすものならば。
カルノッフェルは危険だ。リフルでは絶対に勝てない。だから必死に追いかけた。
カルノッフェルが本気でフォースを殺すつもりなら、とうに自分は死んでいる。
生かされている。生かされたのだ。屈辱だった。この上ない惨めな気持ちを強いられた。
絶対に許せない。この手で殺してやる。そう思う。
けれど、どうやったら殺せるのか、それが見えない。身体構造が最初から、根本的に違うのだ。
リフルのような先天性混血を化け物だとは思わない。トーラも先天性だが、数術使いの彼女は物語の中の魔法使いのようで少し、憧れる。でもそれだけだ。
自分と違う力を持っているから羨んでも、それを見下したり蔑んだり罵ったりする気持ちにはなれない。ただ単に、凄いなぁと思うだけ。
だけど、後天性混血。カルノッフェル……あいつは化け物だ。そう断言出来る。
フォースは見た。部屋に集められた奴隷達が、バラバラに破壊されたのを。
彼は何をやったか?
彼の凶器すら持たず、片手でそれを成し遂げた、……悪夢の夜の勝者。
扉を開ける前から香ってきた血なまぐさい匂い。扉と床の間からあふれ出してくる赤い水溜まりに怖気が立った。
扉の中にあったのは希望ではなく、絶望。
開けてはならない箱を開けてしまったことを何度悔いたか。
その見事な惨殺風景から領主アーヌルスに気に入られたカルノッフェル。褒美を取らせると招かれた部屋で彼が望んだのは……何だったのだろう?
領主の部屋に至る道々に、倒れたメイド達。誰が誰か解らなくなるくらい、バラバラに。どこからどこまでが誰なのか。パーツが足りない。こっちは多い。何人殺されたのかもわからない。
上がった悲鳴に駆けつけるでは、遅すぎたのだ。
明らかな致命傷を喰らった領主アーヌルス。
カルノッフェルに遊ばれながら戦っているコルニクスも、深手を負っていた。
逃げろと言われ、言われるまでもないと主を背負って走り出す。
それでも血は止まらない。
だから泣きながら走った。何も聞こえなくなればいいと思った。
痛みに呻く主の声も、笑うカルノッフェルの声も。
最後に下された命令。人としての自分は抗いたかった。
だけど領主が必要としてくれたのは、武器としての自分。
裏切りだ。武器は泣かない。
謝りながら、泣きながら、命令通り、主の息の根を止めたのだ。
張り紙は、ある意味嘘ではないのだ。致命傷を食らわせたのはカルノッフェルでも、殺したのはフォースなのだから。
そこから一歩も動けなくなり、冷たくなった主を見つめていた。
やがて近づいてくる足音。それは少し後ろで止まり、此方に何かを投げてきた。
首だ。さっきまで戦っていたコルニクスの首だ。
せめて目を閉じさせてやりたかったけれど、それも叶わない。目はなかった。
カルノッフェルと同じよう……悲しい盲目にされていた。武器の癖に、コルニクスは……師匠は泣いていた。真っ赤な涙をいっぱい……目があった場所からぼたぼたと、だらだらと。
怒りは大きな力だ。それは立ち上がるだけの力となった。
奇声のような咆吼。番犬とは笑わせる。主も守れず何が番犬か。唯の犬畜生だ。
床を蹴り上へ跳躍、天井を蹴り急降下。怒りのまま振り下ろした牙を、カルノッフェルはそれを避けることなく片手を添えただけ。
主がくれた、大切な剣。ぼっきり二つに彼はへし折った。その瞬間、心も一緒に……この世界を信じていた、最後の砦のような何かを壊されたような気がした。
悔しかった。何も出来ない自分が。睨み付けることしか出来ない自分が。
自身の無力さが許せなかった。だけどそれ以上に、目の前の男が憎かった。
駆けつけた他の番犬たちに、奴は何と言ったのだったか?
「酷いことをするものだね」と、確かそう言った。
アーヌルスに気に入られ、養子にと言われた自分に嫉妬して?それでこの惨劇を引き起こしたのだとそう言ったんだ。
フォースは領主のお気に入りだったから、なるほど……ありそうな話だと番犬たちは納得した。
飼い犬に手を噛まれるとは馬鹿な領主だと、たった今までの飼い主を愚弄する奴までいた。
この城にも吐き気を催す悪や残酷は確かにあった。それでも一人一人は気の良い奴らだと思っていたのに。
ただ、どうしようもなく……気持ちが悪かった。この世界が。ここで息をしていることが耐えられなくなるくらい。
あんなに死にたくないと願っていたはずなのに、この息を止めてしまいたくて仕方が無くなった。
目に映るモノ、その全てがどうしてこんなに醜いのだろう。おぞましいのだろう。
世界は悪意に満ちている。
何もかも消えて無くなってしまえばいいのに。
もう何も発することが出来なくて、
カルノッフェルがフォースの顔に指を伸ばして……にぃと笑った。
この灰色の目も刳り抜いてしまおうと思ったのだろう。
けれどフォースが目の前の光景に涙していることに気付いた彼は、その指を引っ込めた。
その様は「君は世界の真の姿が見えて可哀想に」とでも蔑んでいるようで、自ら瞳を差し出すことも出来ない臆病者を笑っているようで。
それがまさにその通りだったから、フォースは何も言い返せずに……新領主を見送った。
処刑は城下町で。主が儲けた公開処刑用の囚人を閉じこめる施設。そこに自分が押し込められる日が来るとは、皮肉なものだと我が身を嗤った。
そこに辿り着くまでよく私刑で死ななかったものだと思う。石入りの雪玉なんかいくつも最初はいくつも飛んできた。それを危険だと思ったのか、民衆の声に答えて護送の者達が随分手荒にしてくれたお陰で、彼らの安全と身の保証……それからフォースの怪我生まれた。
身も心もボロボロだった。
からかいに来たカルノッフェル追い返したところで、最後の空元気も抜けてしまった。
(リフルさん……)
そんな時だ。そんな時に現れるんだ。
狡い人だ。どんなに助けて欲しいと思っても、これまで絶対来なかったのに。
信じるモノも守るモノなくなって、何もかも見失って空っぽになった自分の前に、彼は現れた。あの日のように。
そんなことをされたら……錯覚してしまう。
自分が信じられるモノは、信じても良いモノは、彼だけなんじゃないかって。
差し伸べられた手。その手を振り払うことなんか……
「アーヌルス様……ごめんなさい」
自分は武器だけど、やっぱり武器じゃ嫌です。武器の自分を欲しがった貴方が居ないのに、武器としては生きられません。
だって、武器は泣かない。
切れ味と打たれ強さと絶対的な力。それが武器。
(こんな弱い俺でも、人としての俺でも……あの人が傍にいても良いっていってくれるなら)
いつだってあの人は、人としての自分を求めてくれる。
この世界に確かに存在する人間なんだと、価値のないこんな自分を認めてくれる。
「出来ないよ……そんなの」
この剣は、カルノッフェルを殺すためのモノ。
そんな剣をどうしてあの人に向けられるだろう?
「ごめん……グライド」
リフルの言うよう、グライドが奴隷商側の人間なら。
グライドはリフルの正体を知れば、どうするのだろう?
売り飛ばすのだろうか?金に換えるのだろうか?そんな、酷いことを?自分がされたことを、誰かにするのか?
グライドはそんな奴じゃない。そこにいるのだって何か理由があるんだろう。
目覚めてくれればじっくりとことん話がしたい。
だけど睡眠毒を食らった彼はすぐには目覚めないだろう。
風がざわついてきた。そろそろやばい。
追っ手が来るのがわかる。捕まったら、あの人はもう二度と……自分に優しい手を差し伸べてはくれない。
選ぶ選ばないなんて高尚なモノじゃなく、それが嫌だと思った。あの優しい眼差しを失うことが、嫌だった。ガキの我が儘だ。解ってる。それでも無くしたくないと思うから。
グライドがこの人に剣を向けさせるのが、今のセネトレアだというのなら。尚更……そこには行けない。
「リフルさんは俺が守る……守りたいんだ」
あんな風に笑って欲しくない。泣きそうに、辛そうに、笑わせたくない。
普通に生きられない不器用なあの人が、もっと素直に笑えるように。そうなれるように支えたい。
そうして、あの人と一緒にこの国を変えよう。セネトレアが、この世界が在るべき姿に戻ったら……大切な二人が対峙するようなことはきっとない。
背を向けて走り出すなんて初めてだ。
背を向けられる辛さしか知らなかった。
こうする側も、こんなに辛くなるなんて……知らなかったよ。
*
自分に姉と兄がいたらしいことを知ったのは本の中から。
それが自分のきょうだいだと気付いたのは、自分の名前を取り戻してから。
顔も知らない腹違いの姉弟なんて愛着も持てない。
歴史と情報が言うにはその異母兄はもう処刑されているらしい。
歴史と情報が言うにはその異母姉は悪事ばかり起こしているよう。
一緒に生まれてくるはずだった妹は、生まれながらに死んでいた。
だから真っ直ぐな瞳の子供が、可愛らしくて仕方がなかった。
代用品とは思ったことはない。償いだとも思わない。それで私の罪が消えるとは思えないから。
それでもふとした瞬間に、もしもと思うのだ。
もし、弟なんてものがいたならこんなものだったのだろうか?
アスカが私を弟扱いして可愛がるのもこんな気持ちなのだろう。
なるほど、弟とは可愛いものだ。
名前しか知らない姉よりは、余程愛おしく思える。
くるくる変わる表情。自分には真似できないようなそれ。
眺めているのがとても楽しい。
彼は心のままの心の色を瞳に映す。相手を選びながら口では時々生意気なことも言ったりするが、それも可愛らしいものだ。目には答えが書いてある。
見ているだけで荒んだ心が癒される。
あんな風に真っ直ぐな瞳で世界を見ることが出来るなら、この世界はどんな風に映るのだろう?
きっとこの瞳で見るよりも、ずっとずっと素晴らしいモノ、美しいモノに見えているに違いない。だから彼の瞳はあんなに輝いて見えるのだ。
或いは彼の内側が澄んでいるから、それが外へと映されて……あんなふうに見えるのだろうか?
どちらにせよ、彼は私とは違う。
あんな風には生きられない。
だからだ。
私は自分が誰より憎く、大嫌いだから。違う彼が気に入っている。
きっとそう言うことだろう。
*
瞳を閉じて、二度とこの目が開かなければ……これ以上、今以上の苦痛は訪れない。
そう思いながら目を閉じ生きた日々がある。
特に辛いこと、嫌なことがあった日はそう思う。
夢見は最悪だ。嫌なことばかり思い出す。夢だというのに夢のある話など見せてはくれない。夢が自分を映す鏡なら、やはり自分というモノはろくでもないい中身しか詰まっていないのだろう。だからろくでもないそれしか映さない。
失ったモノを未練がましく夢見るなんて、自分なんてやっぱり死ねばいい。
朝一番の溜息に、薄れていく夢。次第にはっきりしていく視界。
「…………」
その色は深く、差し込む僅かな冬の朝日の下でも自らの存在を強く主張する。
黒い髪、灰色の目。
気まずそうに目をそらした後、へらと微笑み挨拶の言葉。
「えっと……お早うリフルさん」
「人の寝顔見て添い寝だと?お前はどこの色男だ!恰好付けた真似をするな馬鹿っ!」
あまりにも人を舐めた真似をしてくれるせいで、思わず布団をひっくり返し、寝台から彼を落としてしまった。
「私の涙毒返せ!目が腫れてしばらく毒の効果が薄まるかもしれないじゃないか!」
幻覚だろうか。自分の頬を抓ってみる。痛くない。
「なるほど、やはり幻覚か。疲れて居るんだな私は、くくくっ……不甲斐ない」
「リフルさんー……二度寝しないでよー」
「黙れ幻覚が。私が寝付けたのが何時だと思っているんだ」
「リフルさん……毒の副作用で痛覚麻痺してるとか言ってなかったっけ?」
「………………幻覚の割りに的を射た事をいうな。いや、だが幻覚とはそもそもそういうものなのかもしれないな」
「それ以上幻覚言うなら俺も考えがあるんですけど?」
「好きにしろ。幻覚風情に何が出来る。そもそも幻覚に話しかけること自体が精神異常を肯定していることになるか。無駄な時間を過ごしてしまった」
「そ、そこまで言う?」
引っ張り上げた布団をかけ直し、ふて寝をするよう横たわる。幻聴は聞こえない振りで。
幻覚はそれからも何かを言っていたようだが、やがて何も聞こえなくなった。
それに虚しい勝利の余韻を味わっていた時だ。
ふて寝の身体に訪れた拘束。
置いていくなと縋り付いてきた子供の頃と同じよう、しがみつく腕。
今の彼では弱々しく縋り付くというより、力任せで引き留める、といった感じになるが。
「うわー、リフルさん体温低っ!寒っ!」
「お前が高すぎるんじゃないか?」
「そんなことない……と思う」
「私をあまり舐めるなよ。一度仮死になった人間だぞ?毒人間だぞ?体温くらい低くもなるに違いない」
「そう言うモノなの?」
「さぁ?」
「いい加減だなぁ……」
適当すぎる返答にげんなりしたようなその声に、何だかもうどうでもよくなって、口から微かな笑いが漏れた。
それに釣られたように、フォースが小気味よく笑い出す。
「信じてくれた?」
信じるも信じないも、信じるしかないだろうに。
目に見えるモノが信じられなくても、聞こえるモノが信じられなくても。生きている人間の温度と死体の温度の違いくらいは知っている。
それでもふて腐れた心が偏屈な言葉を返す。
「信じないと言ったらどうなる?」
「信じてくれるまで離れない」
「私の毒で死ぬかもしれないな」
「そしたら信じてくれるんじゃない?流石に死体が見つかれば」
「……っ、私の負けだ。さっさと離れろ」
「リフルさんのケチ」
「なんでそうなる……」
不満そうな声を上げ、渋々腕を放す少年。
「ところでフォース」
「何?」
ようやく名前を呼ばれたことで機嫌を良くしたらしい彼は、明るい調子で聞き返す。
「どうして来たんだ?帰れ」
しかし続く言葉がそんなものだとは知らなかったのだろう。大げさなほどに動揺し、一人でに潜り込んだ寝台から転げ落ちていた。
「帰れって……俺、考えたんだよ」
「嘘だな。お前は私を哀れんでいるだけだ。邪眼に惑わされるな。私の目はお前の優しさにまで付け込むだろう」
目の前の少年がフォースだとして、彼がここに来る意味がわからない。邪眼が好意を持たせる程度には作用していたのだと思うのは自然な流れ。
彼に選択を与えながら、選択権を奪っていたのかも知れない。ああ、この目が憎らしい。
そうして忌々しげに呟いた言葉達。それを聞いたフォースは逆にリフルに聞いてくる。
「邪眼って……リフルさんにも効いてるんじゃない?」
「何を……」
「相手を魅了するとかそうじゃなくて。リフルさんは邪眼のせいで誰も信じられなくなってるんだ」
彼の瞳のような真っ直ぐな言葉。
「そんなことはない」
咄嗟にそれを拒もうとするけれど、拙い言葉は意味を成さずすぐに破られる。
「じゃあどうしてリフルさんは俺の言葉を信じてくれないの?」
「それは……」
「俺が頼りないから?弱いから?」
「そうじゃない。お前は私よりずっと強いだろう?」
「そんなことはないよ。解ってるんだ。確かに俺は頼りない。弱くて情けない男かもしれない。だけどそんな俺にも譲れないものはあるんだ」
そう前置きした後、僅かの怒気を孕んだ声でフォースが呟く。
彼がまず顕わにしたのは、主の仇討ちへの暗い思いだ。
「俺は俺を助けてくれた人を、居場所を守れなかった。そんな自分と、それをぶっ壊したカルノッフェルが許せない」
それがあるから、いくら友人が彼方にいようと奴隷商の仲間にはなれないのだと彼は言う。
「俺は奴隷貿易を憎んでる。でも、それによって俺はリフルさんやアーヌルス様、コルニクスに出会えた。それは全然憎んでいなくて」
手探りで自身を掘り下げるよう、自分でもよくわからないままの胸の内を懸命に言葉に変えようとしているフォース。
別れ際に残した言葉。その返答を彼なりに紡ごうとしているらしい。
それならリフルにはそれを聞く義務がある。
「俺はあの人が道を踏み外しているのを知っていた。だけど……それを止めようとはしなかった。最初はすげー……怖かった。リフルさんとは全然違う。一見意味のない酷いことをする人だと思った」
「だけど、そうじゃなかった。意味ならちゃんと、あったんだ。それに気付いた時……思ったんだ。あの人の心の支えで在りたい。価値のない俺に意味を見出してくれたあの人の武器でいたかった」
思い出すのも辛いだろう。失った人との思い出。
それをぽつぽつと話してくれる。昨日は話すこともしたくない。そんな風だったのに。
「ねぇリフルさん。リフルさんには俺がどう見える?」
「どう、とは?」
突然の話題転換の意味が分からず疑問符を浮かべると、フォースはいくつかの単語を繰り出した。
「人間、道具?武器?ペット?」
「人間に決まってるだろう」
そう返してやれば、フォースは嬉しそうに、苦しそうに微笑んだ。
「うん。そうだね。だから俺はリフルさんが好きなんだろうな。邪眼とかじゃなくて、そういう貴方の言葉が好きなんだと思う」
「辛いときとか、泣きたいときとか。貴方の言葉に俺は励まされて、救われて……なんとかここまで立ってこられたんだ。ありがとうリフルさん」
「私は……救えてなどいない」
「そんなことない。俺は貴方に出会えて良かった。そう思う。だから俺はここにいたいんだ」
フォースは言う。救うとは行為ではなく言葉だと。
何を為したかではない。贈った言葉、その拙い言葉が彼に響いたのだと。
「俺はカルノッフェルの味方になんかなれない。それはあの人への裏切りだから。武器としての俺は、やっぱり復讐しか選べない」
武器としての生き方は捨てられない。彼はそれくらい大きなモノを失ったのだ。それでも人の心を捨てることは、したくない。
自分は自分はと卑下していた少年が、自分は人間だからと初めて自身を肯定し、笑って見せた。
「だけどその道が同じ方向なら、人の俺はリフルさんと一緒にいたい。貴方の武器にはなれないけれど、俺は貴方の力になりたい。俺が貴方を助けたいんだ……人間として。それって駄目……ですか?」
「そういうことは、ないが……」
邪眼でもない彼の目は、相変わらず真っ直ぐだ。この目に弱い。
こんなに真っ直ぐ言葉を寄越されたら、なんて言って断ればいいのか見当も付かない。
そこを必死に考え、思い出したのはフィルツァー少年、フォースの友人グライドとのことだ。
「私の傍に居れば、彼と敵対することも絶対ある。私が彼を殺すかもしれない。フォース……お前はそれに耐えられるのか?」
「大丈夫。絶対そんなこと、ありえない」
その時フォースがどちらを止めるつもりかわからない。それでも絶対の言葉通り、決意を確信に変え、きっぱり言い切る強い言葉。
「またあいつに会いに行くよ。生きてるってわかっただけでも嬉しいよ。生きてれば、また会えるから。それで絶対説得してみせる。さっさと奴隷商からなんか足を洗わせるんだ。あいつはいい奴だから騙されてるんだ」
そんなことになる前に、自分が彼を説得してみせる。
だからそんなことはあり得ないのだと、フォースが笑う。
「ふ………。不思議だな、君は」
彼の言葉は幻想のような世迷い事だ。それでも子供は夢を見る権利がある。
現実ばかり見て、悪いことしか見えなくなり、想像さえろくでもないことばかり。
「私の方が余程フォースの言葉に救われてるよ」
彼の信じる夢を信じてみたくなる。惹き付けられる言葉を紡ぐ彼。
それを打ち負かす言葉を、残念ながら思いつかない。
苦笑しながら息を吐くと、目の前の少年が瞳を輝かせる。今にも飛び跳ねそうな勢いで。
「だったら尚更、俺ここにいてもいいよねリフルさん?」
「……困ったな。断る理由が全て潰されてしまったか」
「やった!俺の勝ち!」
「そうだな、お前の勝ちだよ」
「……というわけで敗者の私はふて腐れるの意味でもう一度二度寝に入ろうと思う」
「どっちにしろ寝るんですか!?」
「私は夜型だからな。基本的に今辺りが一番寝ていたい時間帯だ」
「ん~……リーちゃん達起きるの早いよぉ。ふぁぁあ」
割り込む声は、少女のもの。これまでの言葉の押収で、爆睡していたトーラが目を覚ましたよう。
目をこすりながら此方の寝台をぼんやり眼で見つめる。
「ううう……あー……うん、なんか目覚めてきた。やっぱりそろそろ準備して出発しようか?僕もぐっすりでお肌つやつや、早起きで脳みそも良い感じ」
「何っ!?私に二度寝をさせないつもりか!?」
「あー!!フォース君狡いよぉ!何僕の許しもなくリーちゃんと添い寝?同衾?二度寝賛成いいいい!でも今度は僕がリーちゃんと一緒に寝るから!」
「ああ、ありがとうトーラ。良い感じで目が覚めて来たな」
「ええええええ!酷いよリーちゃんっ!そんな恥ずかしがらなくて良いのにぃ」
*
目を開けて、目覚めた今が……夢よりずっと素晴らしいモノならば。
私は何度だってこの目を開く。
そして訪れた夜明けに私は感謝するだろう。