5:Fides, ut anima, unde abiit, eo numquam rediit.
ある意味問題回。
【主な問題点】
・主人公が女装(いつものことと言えばいつものこと)
・解毒とか毒攻撃のためとはいえキス魔化。
・女キャラがこの回は殆ど居ない(ことから上の意味を察してください)
一応後半はシリアスのはずなんでが何でこんな事に。これからろくな展開がないから脳が一発ギャグ回入れるかと仕組んだ前回からの引き継ぎのせいか。
「それで?何か言い訳はありますか領主様?」
「いや、フィルツァー君落ち着こうか?まずは。うん、話はそれからだね」
「“~だね”じゃありませんよ!あんた就任式も前に不祥事起こすつもりですか本当にっ!」
「いや、そういうつもりではなかったんだけどね」
「“ね”でもありませんよ!まったくっ!書類の山僕に押しつけて何処へ消えたかと思ったら!覗きの次は何するつもりだったんですか!」
「それは誤解だよ。そりゃあ彼女には手を出そうと思ったけど、断じて覗いてはいないよ。その辺を間違えないでもらいたいな。見えないモノを覗いても楽しく無いじゃないか」
「どうだか。どうせあんたのことです。“姉さんの匂いはぁはぁ”とか言って引き寄せられたんでしょうに」
「ああ、それについては否定しないよ」
「変態領主!さっさと出て行ってください!書類が終わるまでここの部屋は僕が封鎖しておきますから」
「それは酷いな。ここは僕の領地で僕の城なのに」
目の前で繰り広げられる少年と男の言い争い。……と言う名の一歩的な少年の叱責。それをのらりくらりとかわす領主という図か。
領主の不振な気配を察した赤目の少年が駆けつけてこなかったら今頃どうなっていたことか。運が良かったというか悪かったというか。それはリフルにとっても領主にとっても。
肝心の情報を引き出す寸前まで持ち込んだというのに、問題はそこからの領主の暴走だ。あのまま手を出されていたら、フォースの仇をあっさり殺してしまうところだった。
そう思うと悪かったのか?いや、まだ肝心な話は聞けていないから良かったのか?判断に悩む。まずはこれまでのことを少々振り返ってみるべきか。
*
領主に袖を引かれ、通された部屋は暗い部屋だった。
扉を通される前、扉に掛かっていたプレートには女のものらしき名前が彫られていた。だからおそらくここがそうなのだろう。その文字か、領主が最初に反応した言葉、それを思い出す。
「姉さんの部屋、大急ぎで掃除させたけど何か不満があったらすぐに言ってね。別の部屋に変えさせるから」
手にした灯りでばたばたと駆けながら部屋のあれこれを説明し、振り返っては微笑んでみせる領主。長身の男の癖に、その素振りは完全に子供のそれだ。
もののついでとはいえ、最初はこの男から発せられる死の香りに誘われてここまでやって来たのだが、こんな表情ばかり見せられては多少、毒気が殺がれる。
(トーラが恐れる程の得体の知れない何かとは思えないが)
まぁ相手方が友好的なのは良いことだろう。引き出せる情報を引き出させて貰うことにしよう。
「非常に申し上げにくいのですが領主様……」
「姉さん、その他人行儀な言葉は止めてよ。たった二人の姉弟じゃないか!」
しかしこの男、本当に節穴だ。雰囲気に酔っているというか……そんな感じがする。それでわかることもわからなくなっているような。
「会いたかった……ずっと探してたんだ、姉さん」
完璧にこの男は空気酔いをしている。見えない分素振りが大げさになるのは致し方ないとしても、別にここはどこかの舞台ではないのだ。
そんな台詞で抱き付かれてもどう返せばいいものか、返答に困る。
「……姉さんが殺されたって聞いたときは、この世界が終わってしまったかと思った」
新たに与えられた情報。どうやらこの部屋の真の持ち主は、もうこの世には居ない人物らしい。彼はその死に目を見ていないのだろう。だからそれを認められていない。そして都合の良い考えで、全くの別人であるリフルをそれを間違えている。
「やっぱり嘘だったんだ。馬鹿な男だよ。そんなこと言わなければ……僕だってあんなにすぐには殺さなかったのに。いや、やっぱり利口だったのかな。もっと苦しめてから殺せば良かったよ。吊るし檻にでも閉じこめて、住民達から石でも投げられながら凍死でもさせるべきだったかな。奴にとってはお似合いの報いじゃないかい?」
肩を振るわせている男の口元は、笑っているようだが……嘘も真も映さない彼の得体の知れなさが、泣いているようにも見えた。けれど彼が泣けるはずもない。だから何処か歪な笑みだった。死者への罵倒。その中には彼の自白と僅かの懺悔。
「…………民の行き場のない怒り。貴方はそれを誰かに肩代わりさせようということですか?」
盲目の領主は、それが誰を指すのかすぐに気付いた。間近で見る彼の表情は、やはりどちらとも知れない微苦笑。
「……やっぱり」
その真意を知る前に、領主の腕に力が籠もる。抱かれた身体がびくとも動かせない。凄い力だ。
間違いない。彼が……純血であるはずがない。
(後天性……混血!?)
後天性は、目の色は変わらない。髪の色だけが変わる混血児。そして……脅威の身体能力を持つ。
その確信は、もう一つの確信へと通じるもの。自分では、彼に絶対に勝てない。邪眼を、毒を使わなければ。
「ねぇ姉さん。正直に答えて……聞きたいことがあるんだ」
首筋にすり寄せられる横顔。耳元で聞こえる声は脅えさせないよう優しげではある。
だから何だ。邪眼は本当に通じるのか、わからない。だって、彼には“瞳”が無い。
今信じられるのは毒の力だけ。それには、何らかの方法をもって……彼を触れさせなければならない。汗でも涙でも血でもいい。けれどそれには時間が要る。
「私でわかることなら」
ここは話に乗る。それが最善手。
彼の問いに頷けば、僅かに手が緩む。にぃと彼が笑った気配。緩んだとはいえ、駄目だ。いっそのことこのままこうしてくれれば、その内毒は生まれる。それを待つ。
「さっきつけてた香りはどこで手に入れたの?さっきの服かな……花の香りがしたんだ。姉さんが付けていなかったなら、一体誰が付けていたんだろうね」
花の香り?心当たりが全くない。
無いというのに目の前の彼は、まるで妻の浮気を言及している夫のようだ。
「僕は姉さんを責めてるわけじゃないよ。姉さんが僕を裏切るわけがないじゃないか。僕にとって姉さんはたった一人の姉さんなんだ。姉さんの弟も僕だけ。僕は姉さんを信じてる。愛してるんだ」
真っ直ぐな言葉。引き込まれるような強い言霊。それは、時に心惹かれるものであり……時に、恐怖の対象。
盲信的なまでのその言葉。嘘の塊であるこの自分を信じ切った上でのその言葉。彼にとって彼女とは、それほど大きな存在で……絶対なのだという言葉。彼は自身の真実を語っているだけ。それを心から信じて。どうしてそこまで信じられるのか。わからない。
それが、この男への……恐ろしさ。
“何を言っているんだろう?”
それが直感的に浮かんだ言葉。同じ言語を用いた会話なのに、彼が全く解らない。
「ここにくるまで姉さんは誰かに会わなかった?通りでぶつかった。それでも僕の嗅覚でわかる程度には残ると思うんだ。よぉく思い出して?姉さんどこかで出会わなかった?例えば……黒髪の子供とか、さ」
はい、いいえ。そのどちらも答えていない。
けれど盲目の男は、一瞬強張った肌の震え。それから真実を見抜く。見えない分、見える者より真実が見えている。手強い相手だ。
「……やっぱり会ったんだね。彼に」
そう結論づけた領主は、これまでの流れでは想像できない反応を返してきた。
今度は解る。不思議なことに面白そうに微笑んでいたのだ。笑っていると解るのに、今の方がよっぽど不可解。
まるで殺すつもりがあるのかないのだか。
あんなに大々的に処刑をすると公表しておきながら、この男はフォースが逃げ出したことを喜んでいるようだ。
「そっか。まだ生きてたんだ。面白いことになりそうだ」
下手に否定するのは上策では無さそうだ。そう判断し、真実の言葉を持って彼の問いへと答えを送る。ただし、“一年半前”に。という言葉は省いたが。
「……彼は追われていたようでしたが、道に迷った私に正しい方向を教えてくれました。……優しい子でした」
「姉さんは本当に甘いね……まぁ、逃げた犬は今更どうでもいいよ。元々あれは頼まれ毎だし僕は乗り気じゃなかったからね。処刑には別の番犬から適当に吊し上げるから」
領主は嬉しそうにけらけら笑う。
群衆が求めるは餌。標的は誰でも良い。支配者とはその欲を満たすための贄を与える存在。
領主が語る彼の君主論。
なるほど、彼は前領主とは違う。民を贄にするのではなく、精神的加害者に回らせることでアルタニアの安寧を図る。けれど、だからそれが正しいか?そう聞かれたのなら……
「私は賛成できません」
「姉さん、何を言っているんだい?」
「殺される人間には、それに相応しいだけの罪が必要。彼らはそれほどのことをしてきたというのですか?」
言い返した言葉に、領主は何を当たり前なことを?そんな風な声で返した。
「姉さんだってあいつらを憎んでいるだろ?この城が、一体何をしてきたのか。姉さんは忘れたの?いくら姉さんが優しいからって、あんな奴ら許すことはないよ。そこを間違えてはいけないよ姉さん」
「……ん?ああ、そうか。姉さんは昔のことを忘れてしまっているのだったね。ごめんよ姉さん」
「でも……そうだな。忘れた方が良いことも、世の中にはあるからね。無理には思い出すこともないよ」
「でも……姉さん。僕のことまで忘れることはなかったんじゃない?それとも、僕も忘れてしまいたくなるようなことだった?」
「……そんなことはありません」
過去に一度、手放した記憶は自分にもある。
口から漏れる言葉が憐れみを含むのは、一瞬彼の姿が重なったから。彼の金髪の色のせいだろう、きっと。
(私は知らない。それでもあの人は私を知っていた)
一方的な思い出。それでもきっと彼は傷ついたのだ。
そして原因となった自分を責めた。たぶんまた……今も。
(アスカ……)
自分が泣いているとき、本当は泣きたいのは彼の方じゃないか。そう思うことは、何度もあった。一緒にいたのは僅かの時間でも、そのくらいは解ったつもり。
無理して笑っていないだろうか。彼はそう言うところがあるから心配だ。
彼は優しい人だから。自分が辛くても悲しくても、それを口に出さない。
へらへら笑って憎まれ口を叩きながら、さっさと諦めればいい自分のことなんかを探しているはずだ。
それも邪眼のせいなのだろう。そこまで執着する価値など無いのに。
「こんなに優しい貴方のことを、どうして忘れたいと思うでしょうか?……思い出せなくて、ごめんなさい。傍にいられなくて、ごめんなさい」
別の人へ紡ぐ言葉。それでもそれは真実。だからきっと、それは……らしく聞こえるはずだ。
涙を堪えて微笑めば、領主が感極まったように「姉さん」と叫び………
*
(……確かそれで床に押し倒されたんだったな)
まさか領主が実の姉(と勘違いしてる相手)に手を出そうとするとは思わなかった。邪眼が効いたならあり得ない話ではないが、彼にはいまいち効いているのかわからない。
まぁ……そんな流れで丁度現場に踏み込んだフィルツァー少年の目には“涙目の少女に襲いかかる領主”の図が見えたのだろうなとは思う。視線をやれば、少年と領主の押収は続いてる。
結局良かったのか悪かったのかいまいち思い出しても解らない。
領主の意外な面が多すぎて、そこまで殺意を抱けていないのだ。
フォースの気持ちを考えれば殺すべきなのだとは思う。けれどアルタニアにとって彼は生かすべき人間なのかそうではないのか。今までの流れだけでは判断に迷う。
カルノッフェル自身がフォースを憎からず思ってるわけでもないようで、処刑の取り決めも彼の采配に寄るものではなさそうだった。
(しかし領主に要求をのませるほどの相手とは……?)
顎に手を当てそう思い悩んでいるリフルの耳に届いた少年の怒鳴り声。それは瞳を見開かせるには十分すぎる、“情報”。
「僕が誰の使いかお忘れですか?セネトレアの裏を敵に回したくなかったらさっさと仕事仕事仕事仕事っ!」
「はーい……わかったよ。そうだフィルツァー君?姉さんに手を出してみなよ。僕はその時セネトレアの表でも裏でも敵に回すから」
「そんなことしませんよ。さぁ行った行った!」
釘を刺しながら恨めしそうに廊下へと追い出された領主の気配が消えた後、少年が一仕事終えたかのように息を吐く。
「災難でしたね。……というか、何なんですか貴女は?化け物に襲われた次は領主に襲われるわ……。まぁ、……無事で、良かったです」
少年に微笑を向けられて、少々顔と身体が強張った。
(……厄介、だな)
少年の素性が知れた途端、ここにこうして滞在していることは先程以上の我が身の危険だ。
厄介なのと二人きりになってしまった。確信する。これこそ不運だ。
(セネトレアの……“裏”、だって?)
それが新しい領主と繋がりがあると言うことは、やはりカルノッフェル。殺しておくべきだったかもしれない。どうせろくな事にはなるまい。
領主自体がどんな人間でも関係ない。奴らの手先なら、それは更なる悪を生む。
もしかしたら、前領主殺害の裏にも……目の前の少年の属するものがからんでいるのかもしれない。
アルタニアが陥落したということは、セネトレアは完全に四公が落ちたと言うことになる……“商人組合”の手中に。
依頼を果たしていたとしても、結果は同じになっていたはず。指名手配される張り紙が殺人鬼Suitの名になるくらいの変更はあったとしても。
(くそっ……)
セネトレア王都のある島、セネトレア第一島ゴールダーケン、裏の東の支配者。その組織こそ奴隷貿易の最大手“商人組合”。前アルタニア領主アーヌルスは、純血至上主義者で混血狩りの第一人者だったが……彼は四公の内、唯一商人組合に属さない貴族だった。
今回の依頼……商人組合の手の者からだったのか?トーラの治める情報請負組織TORAは商人組合に荷担する請負組織には情報公開を行っていないはずだが……その辺りの統率が乱れてきたと言うことなのか?
最悪、依頼人は全ての暗殺請負組織に同じ依頼を送った可能性もあるが、TORAの傘下に収まりながら隠れて東と繋がりを持っている者がいる可能性も……否定は出来ない。
依頼人は、あわよくば殺人鬼Suitと残虐公を相打ちさせる。そのつもりだったのだろう。
奴隷貿易に邪魔な殺人鬼を殺し、言いなりにならない領主を廃し、新たなお飾り領主を座らせる良い布石。
或いはリフルが依頼を成功させていても、大義名分が出来る。城からの指名手配は、基本的にベストバウアー東勢力、商人組合の圧力によるものだ。一年半程前……邪眼の暴走で行った大量殺戮。あれがその原因。
だが、仮にも四公の一人を殺めたとなれば…………表と、裏。完全にリフルはセネトレアを敵に回すことになっていた。
(……向こうの情報能力を見くびっていたな、反省しなくては)
此方にはトーラという優秀すぎる相棒がいるせいで、情報については彼女ばかりを頼っていた。
向こうに優秀な数術使いが居るとは思えないが……東もそれなりの情報を持っていることを心得なければ。
最悪、リフルとフォースが顔見知りだと言うことまでバレている可能性もある。
(私が……巻き込んでしまったのか?フォース……)
傷だらけの少年の姿と、人々の心ない言葉を思いだし、胸がキリキリと痛む。
もし到着が後何日か遅れていたら、目の前でフォースを殺されたかも知れない。既に殺されていたかも知れない。
その時自分は我を見失ったかも知れない。走れば間に合うのなら、処刑場に飛び出したかも知れない。
目の前の少年は……領主近辺に殺人鬼Suitが現れる可能性を考慮し、派遣された。その線は捨てきれない。現れる可能性も何も……現に自分はここにいる。
少年は立ち尽くし黙り込んでいる自分を少々不審に思い始め、首を傾げた。
「……あの?って……こんな暗い所じゃ気も滅入るか。待っててください。今そっちの大きな燭台にも火を移しますから」
「フィルツァーさん……」
咄嗟に思いついたにしてはいい嘘だ。これ以上の灯りは不味い。
思いついたばかりのそれをすかさず口に乗せてみる。
「私、気分が優れないんです。休んでしまいたいのですが、……先程のことが甦ってよく寝付けないと思うんです。もしここにお医者様でもいらしたら、お薬をいただけませんか?」
両腕で身体を抱きしめながら、肩を小刻みに振るわせながら、俯きがちに目を背けながら。
その言葉に少年は一瞬言い淀む。
「い、医者ですか?」
居ないわけでは無さそうだ。ただ、極力行きたくない。そんな声。
(もう一押しだな)
「はい。弱いものでいいので……睡眠効果のあるものを是非いただけないでしょうか?」
ここぞと上目遣いで視線を合わせる。
一期一会だ。この際邪眼が発動しても気にしない。少年はフォースと同程度。まだこの年齢ならそう強くはかからないだろう。
むしろ掛かってくれた方が助かる。多少の好意を持ってくれた方が顎で使いやすくなる。
「わかりました。でもまた領主が来ると危ないので、鍵はしっかりかけて!僕が来るまで誰も入れてはいけませんからね?」
「はい」
少年は顔を赤らめながら、さっさと背中を向けて部屋の外へと走り出す。
なるほど、突然すぎる自身に生まれた好意に困惑している模様だ。
(……所詮は子供か)
思いの外、容易く籠絡出来た。面倒事にならない程度に好意を引き出せるのなら、毒も邪眼も使いようか。
「さて、長居は無用だな」
不安要素という情報ではあるが、いくつか収穫はあった。有意義な時間だったと言うべきだろう。
扉にしっかり鍵をかけた後、窓へと近づき、その高さを確かめる。屋根伝いに移動するには難しそうな構造。飛び降りるのが一番確実か。
この程度なら余裕で行けるだろう。
その他の全てを幸福を犠牲とした、死方向への幸福。時計塔から飛び降りても死ねない悪運がこの身には宿っている。かすり傷一つ無く着地できるだろう。何分運動神経はないから尻餅くらいはつくかもしれないが。
少年が戻ってくる前にさっさと別れを告げよう。ちょうど良い風が吹いてきた。
何の躊躇いもなく飛び降りる。雪の上への衝撃はどんなものだろう。微かに胸を弾ませていたが、思いの外しっかりとした感じだ。もっとふんわりしているか物凄く固いか。そう想像していたのだが、……例えるならそうだな。
大人の細くそれでもしなやかに良い感じには筋力の付いた両腕で背中と膝の裏辺りを受け止められたような感じだ。
やけに具体的な例だと自分でも思う。だからだろうか?邪眼か毒の副作用か?幻覚で腕……人の姿まで見えてきたようだ。
「…………」
「…………」
恐る恐る見上げた顔を見て、互いに言葉を失った。
知っているか知らないかで言えば、心当たりはある。
何でこんな所にいるのか。互いに同じ疑問を抱いているのだろう。それもわかる。
だが彼に自分の健在が知られるのはどうだろう?そこから彼に繋がる可能性もある。
「……………な、……ナマステ。ハロー、グーテンアーベント」
「………あまりご無理をなさらないでください、那由多様。後時間合ってないのがいくつかありますよ」
咄嗟にセネトレア標準語から外してみたのだが、やはり正体を誤魔化すのは不可能だったようだ。それもそうか。
薄暗いとはいえ、彼の混血に対する執着は異常だ。この髪の色、目の色。一度見たら忘れない。この程度の暗さならこのくらいに変色するとか、そのくらい彼の頭なら容易に想像できるだろう。
黒髪黒目の純血タロック人。黒衣の闇医者。彼も一年半前の顔見知りの一人だ。
闇医者ということだけあって、患者が運び込まれてくることもあれば呼ばれて外診をすることもあるのだろうが、まさか島間まで行き来をしているとは思わなかった。
「洛叉先生、ありがとうございます。でも離してくださいませんか?」
フィルツァー少年には医者から薬をもらってくるようにと頼んだ。医者は誰?目の前のこの黒髪の男だ。まもなく彼のもとに彼が来る。部屋からの脱走がバレれば何を言われることか。
「なるほど、そういうことですか」
知識人は僅かの情報で多くを悟ってくれたらしく、8割方今の状況を察してくれたようだ。ようなのだが……、彼は降ろしてくれない。
「闇とはいえ一応は医者として、まだ帰すわけには参りませんね。その命令お断りします」
「え?」
抱きかかえたままスタスタと雪道を森に向かって歩き出す。
「要するに私が彼に見つからなければ良いのでしょう。下までお送りしますよ殿下」
下山がてら積もる話もあるでしょう、闇医者が薄く笑う。
「先生、森は罠があって危ないって聞きましたけど?」
「凡人の仕掛ける罠にこの私が掛かるとでも?」
東と西を逆に聞かれたような当然の答えを返す闇医者の不敵な笑み。気休めではない、腹の底からそう彼は信じている。それに裏付けされるだけの知識が自らには蓄えてあるのだと言わんばかりに。
「そうは、思いませんけど」
「それならご安心を」
そこで会話を一度区切って、迷い無く歩き出す闇医者。降ろしたらリフルが罠に掛かると思っているのかも知れない。確かにそれくらい自分は不運だ。死ぬほどの罠には掛からないだろうが、タイムロスには違いない。
外は肌寒いから密着していても汗毒が出ることはないだろう。その点は安心だ。
欲を言えばこの体勢は僅かに恥ずかしくはあったが、見る者も居ないしそもそも今更のような気がする。以前アスカにも似たようなことをされたことがあったような気もするが、態度裏腹余裕のない彼が相手だと逆に此方が余裕が出てどうでもよくなる。
しかし洛叉は年上の貫禄というか……無駄にどっしり構えた大人の余裕みたいなものがある。大きすぎる態度とかがそう見せているのかも知れないが、相手がそんなものだと此方が少々見劣りするような気がして萎縮されるのだ。
まぁ……この17年……こんなことくらい、これ以上のことだって探さなくてもいくらでもある。
その辺は思い出さないようにしておきながら、わーい歩かなくて楽だ。くらいに考えておくのが精神衛生上ベストだろう。
「とりあえず、ご無事で何よりです那由多様」
下らない思考をしていると、風景も変わってきていた。肩越しに見上げれば木々に隠れて城が姿を消している。
「先生も、お元気そうで。ここにはお仕事で?」
「まぁ、そんなところです。しかし驚きました」
出会った頃の不安定なリフル……瑠璃椿と呼ばれていた頃のリフルの姿を思い出したのか、洛叉が言葉を詰まらせる。
当時は命を軽んじるようなことばかりしていた。自分も他人も、価値を見いだせず。毒を望まれるままに命を狩った。
「貴方もつくづく…………危険なことがお好きですね」
「違います」
咄嗟に紡ぐ否定の言葉に、洛叉が僅かに驚いたよう。
しかし、あの頃とは違う。漠然とだがそんな風に強く思う。
「いや、違わないのかも知れません。今だって……いつも思います。死んでしまえたらとは」
死の誘惑は、抗うことを忘れさせる緩やかな甘い旋律。自暴自棄になって荒んだ心に染み渡る水のよう。
「だけど……まだ私は、……俺は死ねないと思うんです。やるべき事を果たすまで……きっと俺は許されても、救われても……逃げ出しても行けないんです」
時に許されるまで、死への悪運がこの命をつなぎ止める。それは、そういうことなのだと気づき始めた。そのために更なる罪を犯したのに、結局誰も救えず、守れていなかった。その現実が、今日の自分、その心を惑わしたのだろう。死へと駆り立てられたのは。
自分に言い聞かせながら紡いだ言葉に、洛叉が小さく嘆息。どちらかといえば好意的ではない笑みを浮かべる。
「……………………そういうところは、相変わらずですね。ご立派な考えですが……貴方はご自身が全く見えていない。それが誰かを、例えば貴方の大切な人を傷付けるとは?」
彼は敢えてそれが誰かは指摘しなかった。それでも心当たりはある。
彼も彼女も。この邪眼に人生を狂わされた人々は、きっとリフルの行動の果てを悼むだろう。そう仕組んでしまった我が身を呪っても、彼らの気持ちは変えられないのだ。だからもう一度。自身を含め、言い聞かせる言葉を響かせる。
「……先生?大切な人だって、そうじゃない人だって、同じ重さなんです。一人は一人。どんなに憎い相手でも、1という数字はそれだけ重いものじゃないですか?」
だから人殺しの自分は、許されてはいけないのだ。
生きていない方が良い人間が居るのは確かだ。それでも、殺して良い人間など本当は何処にもいない。
それをリフルに教えてくれたのが、フォースだった。
憎い相手でも、最低の相手でも、苦しませるような死を送った自分はそれ以下の最低。
目の前の人間の死、無関係の相手の死すら悼める人間が居るのだ。それならば、もっと親しい人間は?きっとその不幸を嘆くだろう。
誰かにとってどうでもいい人間でも、他の誰かにとっては大切な人。
自分にとって大事な人は、誰かにとって……生かす価値もないどうでもいい命。
「大切な人を重んじるのなら、他の1も同様に重んじるべき1。他の1を軽んじるのなら、大切な相手でも軽んずるべき。俺はそう思います」
大切な人をどうでもいいなんて思えない。だから自分は殺す相手の命の重さをそれと同等以上の重さをもって受け止める必要がある。
それだけのことをしでかした自分にどうして、それと同じくらいの重みを置けるだろう?
「例え……私の死で1人が泣いても99人が笑うのなら、やっぱり私は死ぬべきなんです」
導き出した結論。たぶんアスカあたりに言ったら殴られるんだろう答え。
闇医者は彼とは違う。手をあげるようなことはしなかった。その代わりに彼は一つの疑問を投げかける。もしかしたら、拳よりずっと痛いその言葉。
「それなら貴方はどうして彼を助けたんですか?……手配書を見て驚きましたよ」
「残虐公の番犬……その中でもきっての忠犬。あのニクスという少年は、以前貴方が助けたフォースという少年でしょう?」
「彼は亡命させたはず。こんな所にいるはずがない……もしいるのだとしたら、彼は被害者です。セネトレア聖教会と奴隷商に人生を狂わされた!」
「どんな理由があろうと、貴方は自信の罪を悪と言う。それならば貴方は彼にどんな理由があろうと彼を悪と認めなければならない。……違いますか?」
彼の言葉は、痛いほどの正論。
フォースの情報を集める内にわかったさ、そんなことは。
彼は残虐公の忠犬。その命令通り、明確で曖昧な法を犯した多くの人を奈落へ突き落とした処刑人。
雪が隠したこの大地。ここには多くの死者が眠っている。
仕掛けられた罠。そのいくつかは彼が考案したものだってあるんだろう。
(だけど、私は知っている)
彼の本質は。
人の本質は悪だと、言い切った自分が出会った人間。
その中でフォースともう一人……彼らだけが、そうではなかった。
この世界は捨てたものじゃない。見限るにはまだ早い。そういう人間だって居るんだ。
彼の本質は優しさ、脆さ。その弱さが彼の善。
力を手にした彼が悪に染まったのだとしても……それは、それこそが証明。
彼が元々良きものだったという証。
(それを狂わせたのは……私だ)
もし出会わなければ。力になりたいと願わなければ。救いたいなどと傲らなければ。
今とは違う未来があったのかも知れない。きっとそうだ。
だからこそ、闇医者の言葉を受け入れられない。どんなにそれが正しく聞こえても、それは自分にとっては間違っているのだ。根本的な所で、その言葉は。
「……違う!」
彼の言葉を拒むよう彼を引き離し、地へと飛び降りる。
二本の足で雪を踏み締め、思いを伝える。
怒りの感情、その高ぶりは邪眼を強める。真っ直ぐ見つめることは出来ない。目を伏せながら。
それでも、必死に言葉を紡ぐ。
「全ては私の責任だ!私が教会の腐敗を見抜けなかった!彼に手を汚させたのは、守れなかった私のせいなんだ!」
だけど目の前の男に言葉は届かない。
真実を語ってもそれはあまりに拙い言葉。共通言語というものは、意思の疎通は叶っても、心を相手に届けることは難しいのだこんなにも。
「貴方はご自身については酷く客観的だ。しかしそうするのなら、貴方は他の数字……周りの人間達も同様に助け、見捨てるべきなのです」
冷ややかな眼差し。こんな目を彼に向けられたのは初めてだったかもしれない。
見損なったような、侮蔑の視線。王の器に相応しくないと、視線がリフルに告げていた。
だけど、それでいい。自分が何時、王になりたいと言っただろう?
彼はリフルを買いかぶっていたのだ。だからリフルは洛叉に教えてやった。
「…………出来ませんよ。私は王ではありませんから」
そしてなるつもりもない。
なる資格もない。
「俺は、殺人鬼です」
自分の名を語るよう、するりと転がり出た言葉。
笑いながら言葉を紡いだはずなのに、瞳がとても熱いのは……自身の弱さ故だろう。
誤魔化すように伏せた目を開け、風がこの水を攫ってくれることを願う。
すると、吹き抜けるでも吹き付けるでもなく、風が空から舞い降りた。
木々が生い茂った森の中でも白い雪明かりはそれなりに明るく見える。
そこへ降り立つ黒い影。彼は白の中、一際はっきり明確な輪郭を持ってそこに現れる。
「なんであんたがここにいるのかとか……なんか、いろいろよくわかんねーけど」
後ろ姿でも解る。怒気を孕んだ少年の声。
その気迫と鋭い切っ先を突きつけられながら涼しげな顔の闇医者。黒衣の男と少年が対峙する。
「俺の恩人泣かせたら、洛叉さんでも容赦しねぇ!」
「フォース!?」
なんでここにとは此方の台詞だ。
名指しにされた洛叉と言えば、驚いた様子など微塵も見せず微笑さえ浮かべている。
「……あっさりかかってくれるとはな」
「ニクス!」
洛叉が小声で呟いた後、それを掻き消す少女の高い声。
「良かった!心配してたのよ!?」
木陰から飛び出して来たのは金髪のカーネフェル人の少女。使用人らしき姿。
そのまま勢いよくフォースに抱き付く。突然のことに、フォースが手にした剣を放してしまう。
「エリザ!?お前生きて……!?」
少女とフォースは顔見知りだったのか?同じく残虐公の使用人だったのか。
そう思ったのは一瞬。
甦ったのは、領主カルノッフェルの言葉。
奴は何と言ったか?
着替えを手伝わせる女がいないと、そう言っていなかったか?
“メイドは全て、殺してしまった”と。
「離れろ!フォースっ!」
確証はない。けれど彼女は信用できない。直感的にそれを知る。
(ああ、くそっ)
きょとんとした目で此方を見るフォースは、何も解っていない。ほら、彼の本質はやっぱり……
もどかしい。言葉が彼には通じない。
誰から?省いたのがそもそもの誤り。
言葉に頼ってはいけなかった。叫ぶ前に自分の足で走って引き離すべきだった。
「ごめんねニクス。これもお金のためなのよ」
「え?」
少女が背中に回した腕の裾から取り出した注射針。背中に打たれたそれに含まれた成分に、フォースの身体が傾ぐ。少女はさっさと腕を放し、……地に伏せた彼を嘲り笑う。
「っとまぁこんな感じで、捕獲完了」
少女が一仕事を終えたと微笑めば、闇医者がそれを労うように頷いた。
それと同時に届いた確信。
服に隠したダガー。それを取り出し、思い切り左手の甲を切り裂く。流れる血を両手に纏わせて、戦闘態勢に入る。
血に巣くう屍毒ゼクヴェンツ。それを消す毒はない。目の前の医者もそれはよく知るはず。迂闊に距離は詰め無いはずだ。
目の前の二人は、敵。顔見知りだと油断したのはフォースだけではない。自分も同じ。
(くそっ……すっかり毒され不抜けたものだ、私も)
清純すぎるあの聖十字兵を僅かに怨む。
彼の理想、真っ直ぐな言葉に多少感化されてしまった。この一年半で。
世界は悪意に満ちている。裏切りは良くあることだ。顔見知りだって、兄弟だって親だって、信用できない。誰でも裏切る可能性を秘めている。
他者は自分ではない。他の考えを持って自立行動を行う存在。
彼が医者という側面で、この身体の毒を学問的には誰より深く理解している。理解されていると誤認した。それは信頼ではないのに、いつも真実を与えてくれる彼を味方なのだとどこかで勘違いしていた、これは自分の非だ。
邪眼を向ければ、この状況を脱することは簡単だ。だけどそれは、彼の死。
(ディジット……)
思い出すのは1人の少女。混血の自分にも偏見を抱かず優しく接してくれたカーネフェル人。彼女は、この闇医者に想いを寄せている。
たった今、どうでもいい人間と認定した敵は、彼女にとって大切な人。
殺せば、彼女はとても悲しむ。彼女が悲しめば、彼女を気に入っているアスカも悲しむ。
殺すべきだ。殺すべきだ。奴隷貿易を厭うなら。真の平等を築くなら。
「すみませんね那由多様。いろいろわけがあって貴方方を帰すわけには行かないんです」
「貴方に薬物の類は効きませんからね、少々骨を折りました」
「数魔薬……ご存知在りませんよね貴方方西側は。聖教会秘蔵の教会兵器の一つですから」
東には教会がある。どこまで腐っているのか。
教会兵器の密売。ああ、そうだ。商人共が教会兵器の銃を所持していることもよくあることだ。けれどその数魔薬というのは耳慣れない言葉。
「毒ではありませんよ。貴方には意味を成しませんから」
「数魔薬は……脳内物質に作用する薬。感情数をコントロールするとでも言いましょうか」
「心当たりは在りませんか那由多様?貴方の五感が正しく機能している以上、数痲薬は働きます。この薬は嗅覚味覚などから働きかけるものですから」
「薬っていうか日用品みたいなものですよね、お医者の先生?例えばぁ……そう、香水とか」
金髪の少女がくすくす笑い、補足する。その手には小さな香水瓶。
「ニクスってば本当初心。硬派も良いけど女相手の経験値が低いから、まんまと引っかかってくれたんだ」
「……エ、リザ」
「あはははははは!馬ぁ鹿!あんた夢見過ぎ!」
冷たい雪に俯せで動けないままのフォース。少女はその顎を乱暴に靴先で持ち上げ上向かせ、そこに悪意の言葉を投げかける。
「そうよねぇ。何だかんだ言ってお人好しのあんたは、好意を持ってる様に見えた私を信じちゃったんだよねぇ?悪い気はしないわよねぇ?女の子に迫られて嫌がるのは真性あれくらいだものねぇ?そんな子が惨殺されて?形見なんか残したら、身につけるくらいの愚かさは持ってるわよね、女を知らないお子様は?それで?主の敵討ちの中にちょっとは私の敵討ち願望も合ったわけでしょ?笑わせるわ!あははははは!」
フォースの灰色の瞳を思い切り、悪意の矢で射抜く少女。
麻痺毒でも打たれたのだろう彼はそこから逃げることも出来ず、野ざらしの身体で言葉の刃を受け止めている。
「……なるほど」
駆け寄りたい心に負けるな。動いた時点で勝敗は決する。フォースは人質。リフルを捕らえるための餌。
トーラという優秀な数術使いのサポートで、彼らは地下牢で自分を捕らえることは出来なかった。けれどその数魔薬とやらの力で、結局……事は彼らの思惑通り。
領主がおかしかったのも、自分が感情のままに行動してしまったのも、変なテンションになってしまったりしたのも全てが全て!フォースがこの娘から送られたという形見。フォースが付けていたという香水。それがその数魔薬。私も領主もそれに踊らせられたということだ。
「だけど先生、ひとつ貴方は間違ってますよ。貴方は俺の邪眼を知らない」
目を伏せ、狂った色の瞳を瞼に隠す。
もうどうなっても知るものか。何を祈っても願っても、道はなるようにしかならない。自分はそこから誘発された全ての結果を受け入れる。それが科せられた罰。
その行為を諦めと受け取ったらしい闇医者が一歩踏み出した足音。
続いて聞こえる音。刃物のぶつかる衝撃音。
「……ほぉ、これは興味深い。目を合わせていない人間さえ、操りますか?」
「不可抗力ですよ。感情数なんか弄ったせいだ」
薄く目を開ければ、金髪の少女が古びた剣で闇医者に斬りかかっている。金の亡者を肉欲の虜に変えるほど、急な方向転換を強いる呪われた目の力。呼び起こしたのは彼らの方だ。
「邪眼の暴走は、私の感情で引火する」
気持ちが高揚すると邪眼は危ない。1年半前の港町レフトバウアーでの暴走。
落ち着いているつもりだった。冷静なつもり。
それでも、心の底はギラギラと燃えさかる炎がある。あの日もそう。
トーラとの賭け。飛び込んだ海から奴隷船に拾われて、奴隷解放のため港に戻せと船員達を脅した時。
殺すつもりじゃなかった。それは言い訳だ。目を合わせたわけじゃない。それは確かでも。確かに邪眼は発動したのだ。見ていない。私に触れたいと思うよう、目を合わせていない。けれども力は働いた。
元々邪眼の力は最初は微々たるものだった。毒もそう。殺すほどではなかった。だから自分は耐えたのだ。目を瞑って何も聞こえないように。何も感じないように。すり減らされて消えてしまいそうな自我を必死にかき集めて。
それでも同じ場所で暮らしていれば視線があることはある。それがじわじわ降り積もり、蓄積し……爆発したのが最初の事件。
一度触れるだけ。それで人を殺められるようまで強まった毒。それに呼応するよう邪眼が追いついたのが一年半前か。あれから、解ったこともいくつかはある。唯無意味に時を過ごしてきたわけではないから。
過度の怒りも期待も……駄目だ。強い気持ちは許容範囲を超え暴れ出す。
だからなるべく沈んだ心を保つよう、訓練を積んだ。常に心の内に絶望を棲まわせろ。
それが幾度の殺しの中でようやく見つけた抑制の糸口。
どんな手を使っているのかは知らないが、闇医者には効きが弱い。それでも同士討ちは、足止め程度にはなるだろう。
そう判断し、雪で片手の血毒を拭った後、倒れたフォースの元へと駆け寄る。
「……少し苦しいと思うが、我慢してくれ」
数多の毒が巣くうこの身体。それは時には薬にもなる。
屍毒ゼクヴェンツならあらゆる毒を消すことは出来るが、これはかなり危険な最後の手段。
代用できるのなら他の毒の方が安全だ。麻痺毒の浄化を行う作用のある毒は…
「睡眠毒アインシュラーフェン……か。効くまで少し眠いと思うが、我慢してくれ」
軽く舐め濡らした指で、彼の傷口をなぞる。これで毒が回れば動けるようになるはずだ。
ちらと視線をやった少女と闇医者の戦いはまだ続いている。けれど立ち去るには早いほうが言い。
「フォース、まだ駄目か?」
「ごめん、俺……助けに、来たのに」
格好悪い。そう言いながら彼は泣きそうな声。
言葉を紡ぐことは出来るようには回復したようだが、まだ完全に毒が回っていない。
もっと手っ取り早い方法があるといえばあるけれど。
「フォース」
邪眼が暴走している今となっては見ても見なくても結果は同じ。抱き起こした彼を見ながら、彼を呼ぶ。
「いいか?人生を踏み外したりトラウマを持ちたくなかったら目を瞑っていろ。絶対に開けるなよ?」
そう強く言い聞かせ、彼の両目を袖で覆った。睡眠毒は唾液。毒は此方。
いろいろと複雑な過去を持ってる自分からすれば減るものでもないしこの程度大したことではないが、健全な青少年にはあまり教育上よろしくない事だと思う。特に開放的とは言い難い文化を持つタロック人の彼にとっては悶絶ものだろう。
直接口から微量の毒を送り込むと彼は完全に毒の硬直状態から回復したよう。今は別の意味で硬直しているようだがそんなことに構ってなど居られない。
「よし、立てるな。逃げるぞ!」
手が触れないように注意しながら彼の腕を引いて、走り出す。
その間も彼は足を動かせずずるずると引き摺る形になっていた。
「ぼさっとするな!私は適当にしか知らないんだぞ?しっかりしてくれ。ここはお前の方が詳しいだろう?」
適度に叱咤すると、フォースは我に返ってくれたらしい。しかし正気=余計なことまで頭に甦るようで、何やら声にならない声で喚いている。
「余計なことは思い出すな」
「よ、余計な事って!」
「気にするな。細かいことを気にしていたら死ぬぞ?主に私が」
「えぇ!?」
「私の足の遅さと体力のなさを舐めるなよ。このままの速度では確実に追いつかれる」
「そ、そういうわけには!」
「行かないのなら、しっかりしてくれ。今はお前だけが頼りなんだから」
信頼を寄せ適度に持ち上げると、彼はようやく本来の彼に戻ったようだ。
「は、はい!……って、本当にリフルさん足遅いね」
「う、五月蠅い。そこは気にしないでくれ」
「でも本当に追いつかれたら困るし、ちょっとごめん」
短い断り文句の後、見える景色が変わってしまう。
「本日二回目とはいえ屈辱的だな……これもなかなか」
年上の余裕も腹立たしいが、年下に軽々と抱き上げられるというのも男としてのプライドが少々傷つく。いや、そんなプライドなんて奴隷時代に木っ端微塵に砕かれたような気もしないでもないが。
というか二人で走るより、荷物を抱えて走る彼の方がずっと速いとは全体的にどういう事だろう。
「え?何か言った?」
「別に、何も」
荷物を抱えているというのにフォースの足は止まらない。
決して良い体格とは言えない彼でも、自分よりは筋力が付いている。
彼のことだ。主のためと、必死に鍛えたんだろう。彼の背負った長剣こそ、彼の努力の結晶。それに引き替え、依然と変わらずダガーしか振り回せない自分。時の止まらない彼の成長がやっぱり少し妬ましい。
助走を付けるため暫く駆けて、最後に跳ぶように強く雪を蹴った後高く飛び上がり、フォースは木から木へと飛び移る。
なるほど。木には仕掛けが無いのだろう。それに足跡は追跡の痕跡になる。彼には逃げの才能があるのかもしれない。
強く蹴りすぎれば雪が落ち、どの木を蹴ったか気付かれる。それでも弱い蹴りでは遠くには跳べない。木を揺すらないような適度な蹴り。その飛距離を稼ぐのは足のバネと、彼の身軽さが生む素早さだ。
混血を同じ人間とは思えない。そう口にする純血は多数居る。
けれど、彼も同じ人間とは思えない。後天性混血には劣るとはいえ、なかなかの身体能力だ。少なくとも自分など足下にも及ばない。
「……大したものだ」
山の上から下まで来るまで、20分とかからなかったように思う。登り降りの差はあったとしても馬車より速いとは。
ここからしばらく歩けば、シュネーシュタットの街まで辿り着く。
そこまで思い、隣の少年の素性を思い出す。
「そうだ……フォース。街中を通るのは危なくないか?」
そう問いかければ少年はけろりとした顔で一言。
「屋根伝いに移動すれば、意外と気付かれないもんだよ?」
それは王都のように建物が続いているところなら、自分もよくやる。
けれど城下町とはいえ、一侯爵の街と王宮とでは規模が違う。家々の屋根との間隔も明らかに此方の方が離れている。
(私には無理そうだ……)
感心と呆れからため息が零れる。それと一緒に次なる疑問がまた生じた。
「というかよくあそこまで来られたな」
「だってリフルさんが変装して出て行くし」
「そうか、お前起きていたな?」
そう問えば、明らかにしまったという表情になるフォース。
尾行られていたのか。それ以前にどうやら彼は狸寝入りをしていたらしい。
まぁよくよく考えてみれば、相手がトーラとはいえ同衾状態で爆睡出来るような図太い神経を持っているような子ではないか。
「まぁ、心配してくれたんだな。ありがとう」
「リフルさんは……」
「ん?」
「……な、何でもない。早く帰ろう!」
「リフルさんは屋根無理だろ?街は通れないとなるとちょっと回り道にになる、急ごう」
「なんなら隠してやろうか?お前一人くらいなら余裕で隠せそうだぞ?」
「いや、それは流石に駄目だって!スカート丈長いって言っても、俺の足とかはみ出るよ」
スカート部分の裾を掴んで言ってみれば、思い切り首を左右に振るフォース。
その後、じっと此方を見て行きと帰りで服が替わっていることに気付いたようだ。
「ってその服どうしたの?」
「ああ、領主がこれを着ろって。彼の姉の服らしい」
「…………え?」
「途中で数値異常の獣に出会してな。そうそう、お前と同じくらいの年の少年に助けられたんだが血まみれになってしまって。そこにやって来た領主に生き別れだかの姉と勘違いされてな。おそらく数魔薬の影響だろう」
そこまで語るとフォースが取り乱し、案じるように此方を見やる。
「だ、大丈夫だったの!?」
「獣がか?領主がか?」
「どっちもだけど……今はあの野郎じゃない方。アルタニアに来る数値異常の奴は本当危ないんだ。お腹減らしてるから凶暴だしタロックから伝染病持ち込んだりするし」
「まぁ、確かにトーラなしで踏み込んだのは無謀だったよ。私も血迷っていたんだな」
「とりあえず彼女の手を借りなければどうしようもないことは痛いほどよくわかった。今日の所は引き下がるしかないのは確かだよ。……戻ろうか?」
肩をすくめて苦笑すれば、彼も似たような顔になる。
「リフルさん、こっち」
勝手知ったる庭のよう、走り出すフォースに手を引かれ、今度引き摺られるのは自分の方。
その効率の悪さに気付いた彼が、もう一度持ち上げるべきかと身をかがめ此方を見た。
ひとまず逃げ切れたとはいえ、馬車まで出されたら確かに厄介だ。
彼の好意に甘んじるべきか。
考え込む頬に触れる髪。風に髪が揺れている。それは徐々に強まって……
「伏せろっ!」
咄嗟にフォースを引き寄せ身を倒す。
風の中に紛れた殺意。それに対する反射行動だったが、どうやら正解だったらしい。
「最初は領主かと思ったけど、……まさかお前だったとは」
聞き覚えのある声。さっき別れた時とは全く異なる、冷たい声だ。
身を起こし、声の方を向けば、前方に赤目の少年フィルツァーがいた。剣を此方に突きつけるその様に、正体がバレたかとそう思ったのだが。
「その子を放せ!黒犬!」
彼の憎しみが向くのはリフルではなくフォースの方。
その言葉から、彼がまだ闇医者に出会していないことが知れる。
見つからなかった医者を諦め部屋に引き返し、リフルが消えたことを知った彼は領主を問い詰め、彼が犯人ではないことを知り、大急ぎで山を降ってきたのだろう。
(まずいな……)
彼が辿り着いたということは、追っ手はこれから増える可能性もある。あの血迷った領主ならやりかねない。
「は?攫ったのはそっちだろ」
「その子は領主のお気に入りだ。解ってて連れ去った。違うか?」
少年二人は一触即発状態。
フィルツァーの構えた剣。そこに微かに煌めく数値の群れ。
細身の彼に、あの大きな獣を一撃で倒すほどの力があるとは思えなかった。助けられたときに感じた風の正体。それをようやく知った。
「止めろ、フォース!彼は数術使いだ!」
叫んだ声は僅かに遅く、触れ合う剣から火花が散った。
少年の剣を後押しするは風の力。最初の一撃、それを降らせた跳躍力もその加護だ。
信じられない。だけど間違いない。
数術使いと常人では勝負にならない。次元が違うのだ。
純血は混血に比べ数術の才能に恵まれない。混血は先天的に数術使いの素質を持っている者が数多くいるが、純血は非常に稀。持っていたとしても、大きな力を奮える者などそうそういない。
(なんて、人間だ……)
唖然としたまま視界に映した均衡状態。
徐々にフォースが押されていったが、不意に少年の力が緩み、剣は離れた。
「……フォース、だって?嘘だ。まさか……そんな馬鹿な!」
まじまじと目の前の相手を見ながら少年は苦悩している。
もう一度来るかと剣を構え直し、警戒を解かないフォースを見つめるフィルツァーは……戸惑いがちにフォースへ問う。
「黒犬……お前は、君は……グライドという名を知るわけないよな?」
「グライド?お前あいつに何かしたのか!?ますます許さねぇ!」
行方知れずの幼なじみ。その名を出されたフォースは敵意と警戒心を強め、フィルツァーを睨み付ける。たたきのめして洗いざらい吐かせる。それくらいの剣幕だ。
「…………信じ、られない」
奮え出したフィルツァーの手から剣が転げ落ちる。
その隙をついたフォースが彼の首筋に狙いを定め剣を向ける。その様子に嘆息した後、泣きそうな顔で微笑むフィルツァー。
「フォース、僕がそのグライドだ!忘れたのか?」
「気安く呼ぶな!って……え?ぐぐぐぐぐぐぐグライドぉおおおおおおおおおお!?そ、そんな馬鹿な話……」
フォースの手も震え出す。
まじまじとのぞき込んだ相手の顔が、記憶のそれに重なった時……彼の手からも剣が滑り落ちた。
「ま、マジでグライドなのか?すっげー心配したんだからな!良かったぁ……生きてたんだ」
「勝手に殺すなよ馬鹿。それからそれはそっくりそのまま君にお返しする」
「ロセッタとパームも君も手がかり一つ掴めない。もう死んだものだと思ってたのに」
「そう言うお前こそなんだよ。何その高そうな服?いっぱしの貴族みてーな恰好しやがって!別人だと思っただろ!?何やってるんだよこんなところで!」
「それは僕の台詞だって!なんだってアルタニアで処刑人なんてやってたんだ!?」
「俺だって最初は来たくて来たんじゃ……せっかく見つけたパームとも離れ離れになっちまったし、ロセッタはタロックに連れて行かれるし……」
思わぬ再会に泣きそうな顔で笑う少年二人。
このまま見守ってやりたい心情ではあるが、そういうわけにはいかないのが悲しいところ。
今日は男難の運勢か何かなのかもしれない。悲しいことに一年の大半がそんなモノだが、今日は殊更に。
「…………フィルツァーさん」
話し込むフィルツァーの背後に回り、そっと彼の名を呼ぶ。
彼の振り向き様に顔を寄せて、睡眠毒で眠らせた。
目の端でフォースが絶句したのが見えたが細かいことは気にしてはいられない。
フォースの時とは訳が違う。
さっき解毒に使った毒も、健康な身体には死へと至らしめる毒。
このまま放置すると間違いなく彼は毒で死ぬので、先程傷付けた掌の血を僅かに含ませ、ゼクヴェンツでほどほどに解毒。
彼の脈が続いていることに胸をなで下ろし、フォースへ振り向く。
「フォース、逃げるぞ!」
「え?リフルさん!?」
「彼は商人組合、奴隷商の一員だ!」
「……え?」
「信じられないかも知れないが、よく聞いて欲しい。カルノッフェルがアルタニアの領主になったことで、……解るか?セネトレア議会は完全に商人組合の手に落ちたと言うこと」
うろうろと視線を彷徨わせるフォースの肩に手を置き真っ直ぐ彼に、真実を告げる。
知りたくない。聞きたくないもだろう。奴隷商の被害者が、奴隷商になっただなんて。
けれど彼は知らなければならない。選ばなければならないのだ。今、ここで。
グライドという少年は、リフルが領主の姉の偽物と知っても追ってきた。あの男は姉に弱い。とんでもないシスコンだ。姉の身代わりを餌として与えておけばアルタニアは安泰だ、奴隷商にとって。まったく商人らしい見事な計算だ。
「フォース、選べ。私の言葉が信じられないならここに残り、彼に真実を問い正せ」
自分の口から零れる言葉。それは諸刃の刃だ。
彼を傷付けることが解っている。だから、耳から飛び込む一言一言が己の胸へと突き刺さる。
「その先に何があろうと、それはお前が選んだ答えだ。私は、二度とお前を助けない。お前は再び牢へと繋がれ処刑台へと登るかも知れない。或いはお前の敵になり、お前をいつか殺める日が来るかも知れない」
大きく見開かれた灰色の瞳。彼は泣きそうだ。再会の嬉しさとは全く異なるその意味で。
「私はお前を殺したくはないけれど、お前が友を信じ友のために生きるというのならば止めない。いつか私の首を取りに来い、奴隷商として……私の敵として、私の夢を打ち砕きに来るが良い」
けれどその瞳に映る自分も、笑ってはいるが……泣きそうだ。
「その時は、容赦はしない。一なる命として敬意を表し、大切な君を殺めよう。どんな汚い手を使ってでも、必ず」
優しい少年は、友と道を違えることなど出来ないだろう。傍にいたいと思うだろう。
自分を拾った残虐公への恩のため、処刑人へを身を落とした彼だ。
その内何も感じなくなる。混血など人ではなかった。リフルと出会ったことも過去の汚点として、いつか憎しみに変わるだろう。
それでもそれが彼の選ぶ道ならば、自分如きが止めるのは、傲慢なのだ。
尺度の決められた物差し一つ。それだけを与えて一つの選択肢から選び取れと押しつけてはならない。様々な尺度を得た彼が、そこから何を選び取るか。誰のために生きるのか。
それが彼選んだ道ならば、それを祝福すべきなのだ。
未来の殺害予告を別れの言葉に送り、背中を向けると……彼が雪の上に膝を突いた音。
選んだのだろう。嗚咽が聞こえる。
「明日がどうなるかわからない」
いつか彼との出会いを憎む日が来るのかも知れない。今ここで彼を殺さない甘さを悔やむ日が来るのかも知れない。それでもいい。まだ、今の自分は彼を憎めないから。
「それでも今日の私は思うよ。私は、君に出会えて幸せだった」