4:Hoc coactus sum.
悪い癖だ。しかしそれでも止められない。
治せるならば誰も癖などとは呼ばない。治せないからこそ、癖なのだ。
頭では、やらなければならないこと。わかっている。理解している。
それでも誘惑には抗えない。
どうせ、今回も無理だ。それも頭ではわかっている。それでも試さずにはいられない。
それを希望と私が呼べば、彼や彼女が気分を害するだろうことも易々見当できる。
彼女は泣くかもしれないし、彼には一発くらい殴られるかもしれない。
低すぎる私の幸福値。こういう時に働いてくれればどんなに良いことか。
殴られて打ち所が悪く……とか。それで倒れた拍子に運悪く……とか。
いや、それは高望みか。
それならせめて……
「足を滑らせ、運悪く……」
これならどうだろう。
何を隠そう……隠さずとも周囲にはとっくに知られているが、私はこれでもかというくらいの死にたがりだった。
*
数術には何かしらの代償が要る。
自分にとっての数術……邪眼にもリスクはある。
例えば、トーラの数術代償は睡眠だ。空間移動は大きな部類の数術で、その消費はかなり大きかったのだろう。それ以外にも今日は情報収集に変装用の視覚数術……細々とした術を何度も使っている。
だから数術計算で疲労した彼女は寝台に着くなりぐっすり爆睡。
自分には毒があるからあまり人との接触は望ましくはない。寝ぼけて何かやらかしたら、取り返しの付かないことになる。
そういう自覚はリフルの中には強くある。
それが周りにも知られているのだろう。トーラもフォースも二台の寝台をどう使うか、すぐに一つの結論に行き当たる。
冗談でトーラが「僕はリーちゃんと一緒がいいな」などと少しは騒いでいたが、彼女はリフルが嫌がることは基本的には行わない。口で言うだけだ。
数術使いは人の心の変化に聡い。逆に此方が欲しがる言葉は程度をほどよく見極め、贈ってくれる。彼女の好意を弄んでいる自覚もある。それに甘えている自責の念もある。けれど今はそれに甘えなければ、邪眼と共には生きてはいけない。彼女がいてくれるからこそ、この程度の暴走で済んでいる。
時間がない。この暴走がもう一段階進んでしまうその前に……やらなければならないことがある。すべきこと。その二つ……どちらが先に終わるだろう。
時間がない。気ばかり急ぐ。
(いや……駄目だな)
そんな風に急いだ結果がこれだ。トーラの隣で肩身狭そうに眠っている少年は……平和と名高いシャトランジアに亡命させたはず。そんな彼がどうしてここにいるのか。
セネトレアはここまで腐っている。それに気づけなかった自分の落ち度だ。
「…………」
大きくなったな、と思う。出会ったときは本当に子供みたいだったのに。
嬉しいと言えば嬉しいし、ショックと言えばショックだ。素直に喜べない自分の心に、混血と自身の毒の因果を呪う。
数術以外でも、世の中には代償、リスクが存在する。
毒との共生にはなかなか問題が多い。今だってブーツで大分身長を誤魔化している。これを脱げば、この黒髪の少年にすら背を追い越されているだろう。それが無くとも……成長の止まる混血は多い。トーラはどうなのかは知らない。視覚数術を越えたでたらめな術を彼女はいくらでも持っているから。
そんなでたらめなトーラも、人間だ。爆睡しているのも疲労からであって……出来ればのんびり休んで欲しい。二人とも場所を取るような体格ではないし問題は無いような気もするが、手足を伸ばせる方がいいに決まっている。
フォースは二日も牢に捕らわれていたんだ。治せる怪我は数術で塞いだが……心身共に疲労は大きい。彼女同様、しっかりとした休養が必要だ。
完全装備を確認し、触れても毒に冒されることがないことを確かめ……彼を移動させようと抱き上げて……両腕が震える。ついでに言えば、足腰も。
思いの外、重い。しまった。運ぶなら彼女の方にしておくんだった。
いや……でもトーラは外見がそのままとは限らないから。空中浮遊の数式すら持っている。重力緩和で体重を誤魔化すくらい朝飯前だろう。その辺を暴くのは女性に対し失礼だから、自分の判断は今回ばかりは正しかったはず。
後悔の気持ちを追いやったところで、ようやく隣の寝台まで辿り着く。すぐ傍なのに、かなりの労力を費やしたように思う。成長の止まった身体は本当に使えない。鍛えても筋力なんてほとんど付かないから、未だに長剣は重くて扱えない。
愛用している短剣で人を殺めることはあまりないが、それでも切れ味は悪くなってきている。殺した数なら覚えていても、自分を切った数はあまり覚えていないものだ。麻痺した痛覚のため、記憶に残りにくいものなのだろう。
(それにしても……どうしたものか)
せっかく譲って貰った寝台だが、自分は使わない。だから譲って正解だ。
基本的に夜はあまり眠れないのだ。職業病と言っても良い。寝付かず唯ごろごろしているだけなら別に床でもソファでも机の上でも個人的には構わない。……が、そんなことをしていれば、目覚めた彼らを反応に困らせることになるだろうからそれは出来ない。
夜は日によって長さを変える。概して一人の夜とは長く感じられるもの。もっともそうではない夜も、相手にも寄り長くなる。奴隷の頃を思い出し、どうしたものかと自嘲してもまだ夜はそこにある。はっきり言って暇だ。しかし二人を起こす気は毛頭無い。
室内はトーラの施した数術が未だ継続しているが、外出するとなると問題だ。視覚数術は自分には使えない。それでも夜の空気に誘われてしまうのは、これも職業病というものか。
こんな時に役立つのは、自身の変装。変装と言えば聞こえは良いが、女装と言えばそれまでの話。変わらない外見というのもこういう時ばかりは利点になると自嘲する。
死んだ母を知る青年が言うには、自分は彼女に似ているらしい。髪は切ったが結った髪でも降ろせば女に見えないこともないだろう。
混血の奇異の色も、夜の不確かさの下では意外と隠し通せるものだ。銀髪は薄い金髪に。紫の目はカーネフェルの青目あたりに見えるだろう。
「さて……仕事にでも行くか」
これも一つの職業病。好奇心は猫をも殺す。死ねない自分を殺すには、おそらくそれしかないのだ。
*
白に彩られたその街は、物欲から解放された幻想的な風景。そんな風に見ることも出来る。
こんな体になる前の……毒を飲む前の、古ぼけた記憶。夢の中で見る夢のように、それは遠く不確かで、それでも懐かしく……心を引き寄せる奇妙な何か。そんな何かの中で、雪が降る。あの日見た雪は、窓の外から。出られない部屋の中から、よく眺めたものだった。こうやってそれを歩けるというのは、なんだか感慨深いものがあり、封じ込めた憧憬をくすぐられるような感覚だ。
まだ深夜という時間でもないので、店はちらほら開いている。飲食店や酒場から漂う料理の匂いまでいつもと違った風に感じるのは、旅のなせる技だろう。
(もっとも観光に来たわけではなかったのだが)
それでも引きこもっているのは、あまりに勿体ない話。アルタニアはセネトレアに、世界に出回る武器の原産地。殺人鬼Suitが足を運ぶのはこれが初めてだ。
基本的にリフルの活動圏は王都周辺、第一島ゴールダーケンがメイン。トーラの情報の多さが第一島に集中しているというのがそのもっともな理由。他の島となると、情報量が不足し、今回のような不測の事態に陥ることも多い。
ついでに言えば、目を掛けている聖十字兵が王都近くの第三聖教会に配属されているのもいけない。自分を捕らえるために追ってくる彼に奴隷保護の任を押しつけるまでは良かったが……彼にも他の仕事がある。遠出をすれば彼との連携(と言う名の押しつけ)は出来なくなる。
彼はセネトレア色に染まっていない、珍しくも貴重な聖十字らしい聖十字。彼に託せば奴隷達は大丈夫だろう。そう信じるに値する人物だと思っていた。
けれど、彼一人がそうであっても意味がない。それが今回のことでよく、わかった。
奴隷保護を押しつけるより……手っ取り早く彼を出世させるため、ここは大犯罪者として一度くらい捕まってやった方がいいのかもしれない。
そんなことはさておき、身に覚えのある悪人共の間に殺人鬼Suitは第一島から出ない、という憶測が広まり……それなら自分は余裕だろうと、他の島で暴れる者が多くなったのが最近の問題だ。
この辺りでそれは誤解なのだと知らしめる必要があった。
アルタニア公アーヌルス。トーラには言っていないが、今回の暗殺を発案したのは自分ではない。そしてそれに反対していたトーラでもない。
殺人鬼と語っているが、一応自分は暗殺請負組織である。依頼がなければ動かない。
依頼を受け、標的をトーラの情報で徹底的に調べ上げ……白か黒かを判断し、そこでようやく仕事に赴く。情報請負組織の頭として、トーラ自身が依頼してくることもよくある。その見返りとして自分は仕事の度に情報提供をしてもらっている形。
今回の依頼は風変わりだ。奇妙と言っても良い。
それでも標的を調べれば……明らかに黒。見過ごせるレベルではなかった。……というより、相手が大きすぎて時期尚早。噂程度の情報なら持ってはいたが、その程度で太刀打ち出来る相手だとは思えなかった。トーラが反対したのもその辺りの理由からだろう。
彼への暗殺依頼を寄越した依頼人。その相手が指定した場所へと向かえば……その人物は既に殺されていた。物騒なセネトレアなら、起こり得ること。そう言ってしまえばそれまでだが……腑に落ちないものがある。
(まぁ……考えるだけ無駄か)
この面倒体質だ。厄介事なら向こうから勝手にやって来てくれるだろう。それからどうなろうと、別にどうでもいいのだ。
(せっかくだし……見てもらうかな)
良い武器がそのまま自分の力や強さになるわけではない。それはわかっていても、力に魅せられるのは仕方のないことだ。自分が非力だと思えば思うほど、そういう思いは強くなる。いつまでも邪眼に頼っているわけにはいかない。この目と付き合ってきた期間はそう長くはないけれど、そろそろそれがどんなものなのか、推測は付くようになった。これは、使えば使うほど……強くなる。
二年半前。目覚めた頃は虜にするまで時間が掛かった。何度も何度も目を合わせ……
一年半前。邪眼を意識して、一度目を合わせれば。
それから、暴走。意識して見なくても、最悪目を合わせなくても邪眼にかかる相手もいる。
邪眼の決定打が目であるというだけで、それを引き起こしているのはある種の数術。毒で書き換えられた存在値、それから片割れ殺しという稀少すぎるこの色が複雑に絡み合い、それを引き起こしている。
何度目かの失敗の後、目を覚ませばトーラに保護されていた。混血には殺し合わせる程の影響はまだないと知り、彼女に邪眼の解析を行ってもらった。
彼女は医師ではないからどうしても数術学的側面からの解釈になったが、解決策を見つけてくれただけでも感謝はしている。
髪を切ることで、邪眼の力は少しは抑えられている。顔を隠せば更にもう少し。
それでも、それが彼女に出来る限界だった。
世界最高の数術使いでも、邪眼を成立させているメカニズムを解析しきることは不可能。謎の数式。それを書き換えることは彼女にも出来ない。それは、この世の誰にも不可能。それに同じ。
例え出来たとしても。数術には代償が要る。これだけの呪い。どれほどの代償が要るというのか。……止そう。そんな仮定は訪れない。
誰に言うでもないが、首を振って否定。俯きながら歩いてきたが、宿からは大分離れ……通りの近くまでやって来ていた。夜だというのに、雪もちらほら降っているというのに……通りは活気に溢れている。セネトレアのいいところは、島国だということか。航海の途中に海が荒れても近場の島に停泊することが可能。海が荒れていなければ、夜でも貿易船は来る。金儲けのためにご苦労なことだ。商売に精を出す商人達を目に留めて、自然とリフルの視線が冷たくなる。商人全般にいい印象は持っていない。……それでも商品に人を扱わないだけ彼らはマシだろうか。
目深に被ったフードから、目を合わせないよう人混みを行く。こんな時間に起きているのは大人ばかり。子供のような自分の身長なら、普通にあるけばまず瞳が合うことはないだろう。……そう思って油断していた。
特殊な環境で生きてきたため、自分に若干世間知らずの気があるのは知っていたが、セネトレアについては理解しているつもりだった。しかしセネトレアと言えど、ここまで道理が違うとは。
「ん?お嬢ちゃん迷子かい?」
「あれまぁ。めんこいねぇ……こんな時間にお使いかい?偉いねぇ」
話しかけてくる声、声……声。
セネトレアで子供一人で出歩くのは危険だとは言うけれど、それは奴隷商的な問題であって……話しかけられたらまず敵だと思え。それがセネトレア。
うまい話には裏があり、怒鳴り声は喧嘩か慰謝料請求の当たり屋。何も起こらなければ財布の無事を確認しろ。それがセネトレア。
それが……一体どうしたことだろう。自分に向けられた視線は、田舎特有のしつこさを含んだ、暖かみ。雪国の人々は、親切……いや、構いたがりだった。あっと言う間に人々に囲まれる。
「どこのうちの子だい?おばちゃんが連れて行ってあげるから」
「あ、あの……私は」
「この辺じゃ見ない服だね。観光に来たのかい?」
これはどうしたものだろう。こういう厄介事が欲しくて外出したわけではないのに。
自分は暗殺請負組織、そしてやはり殺人鬼。依頼で殺すのが前者。依頼以外で殺すのが後者。依頼が無くとも殺すことはある。
今回もそれ。フォースは自分の事を話したくないようだったが、此方には情報専門家がいる。粗方の背景は見えている。無理に話させる必要はないが、このまま野放しにもしてはおけない。
フォースを調べる間に得た情報で、教会は完全に黒と断定。奴隷貿易に荷担した腐りきったネットワークを絶つために、その辺りの関係者を消してこようと思ったのだが……そうも行かなそうである。
この場から逃げ出すためなら恥も外聞も捨てる。……女装している辺りでもうそんなものは初めから自分の中には残っていない。というか数年前にもうそんなもの悪魔に売り渡した。
「……パパに会いに来たんです。でも……ここのどこかに居るってしか……知らなくてっ」
十七にもなって、何を言って居るんだろう自分。いや、今はそこのところは冷静になってはいけない。だが冷静になれ。涙は毒だから流せない。目を合わせるのも危険だ。
泣きそうな声。両目を手袋の手で覆う。嗚咽くらいなんとでも。
「第一島から?一人で船旅を?よく無事だったね!あんたみたいな子、奴隷商が見たら放っておかないよ。気をつけるんだよ」
気をつけるも何も、数年前まで奴隷商の家で奴隷やってました。全てが今更だ。いや、そこは今は気にしてはいけない。泣いたら終わりだ。毒に触れさせるわけにはいけない。
「こんな子今時いるんだね……あたしゃ感動したよ」
「健気な娘さんだねぇ……」
聞き耳を立ててみた感じでは、涙もろい人々の中にはもらい泣きを始めている者もいる。
強面の武器屋まで男泣きをしているのを見たときは、セネトレアへの認識を少々改めざるをえなかった。
「ここに、教会ってありますか?教会に行けば何か教えていただけるかも……」
「いや!止めときなあんた!」
「奴らに目を付けられたらお終いだよ!!」
「え?そうなんですか?私の村ではとても親切に……」
「新しい領主様は、あいつらも処刑してくれないだろうかねぇ。あいつらも鴉たちと同じ!残虐公の手の者さ。金欲しさに、大したことをしてない子まで連れて行くんだ」
「……鴉?」
「ああ。こっちに来たばかりじゃ知らないだろうね。残虐公の手下さ。上から下まで黒い服来た連中さ」
「おっかない番犬だよ。あんな無法者達をどうして法に五月蠅い残虐公が雇ったのかねぇ……とにかく目を付けられないよう気をつけるんだよ。台風みたいなものさ。逆らわずじっとしていれば通り過ぎる」
「殆どは今回の件でくたばったみたいようだが、まだ何匹か残ってるみたいだからねぇ……怖い怖い」
彼らはその黒服達に嫌悪感と虐げられ続けた恐怖を顕わに、身震い。けれど彼らの瞳の中には彼らに対する憎しみも覗いていた。
女装最高……昼間は視覚数術をトーラに任せていたから問題なかったが、普段着の黒ずくめで着ていたら私刑に会っていたかも知れない。
(……いや、それも悪くないな。なんで女装して来てしまったんだ)
もしかしたら運良く死ねたかも。そう思い歯噛みするが……よくよく考えればそんな簡単に死ねるなら、自分は今ここにはいない。おそらく死ぬどころか殺してしまっていた可能性の方が遙かに高い。結論、はやり女装してきて良かった。
(…………黒服)
再会した少年。彼も黒服を身に纏っていた。それは彼らの言う鴉……
昼間の噂話では、飼い犬に手を噛まれた。そんな風に語られていたけれど……フォースはそういう子ではない。残虐公がどんな極悪人でも、……彼は使えていた主に牙を剥くようなことはしない。
「…………それなら、領主様のお城はどちらにありますか?」
これまで満足に口にすることも前領主と飼い犬たちへの不満。行き交うその言葉達を遮るリフルの言葉。期待の主。それがどんな者か知らないまま、人々は理想を押しつける。
「新しい領主様なら、お力になってくださるでしょうか?」
その質問は、彼ら自身も誰かに問いたい。第三者から聞かれることで、人の良い彼らはそれを肯定する。肯定することで、自分自身に理想を現実だと思いこませようとする。
「ああ!きっとあの方なら!」
「そうだね!お城になら残虐公の集めた戸籍もあるだろう!」
「運が良かったなお嬢ちゃん!丁度これから城へ馬車が出る所だったみたいだ。引き留めておかせたから行っておいで!」
「親父さん、見つかると良いな!」
「いや、もしかしたらお前……俺の子供じゃないか?あの時の」
「あんたっ!あの時って何の話だい!?」
「いや!誤解だよおまえっ!ただあんな可愛い子ならうちの娘に欲しいじゃねぇか!うちの馬鹿息子なんかよりよっぽど」
「抜け駆けかい?それならあんた、うちの子になりなよ。親父さんが見つからなかったら」
「いや、ここはこないだ子供をしょっ引かれた内の娘に譲るべきだろう」
「いやいや、ここはお嬢さん。ここは間を取って俺の嫁にでも…」
「馬鹿なこと言ってるんじゃないよ馬鹿息子っ!この恥さらしがっ!……いや、でも可愛い子だね。この馬鹿捨てる代わりにうちの娘にならないかい?」
「酷ぇよ母ちゃんっ!」
後半から何やら話がおかしな方向になってきたのは、邪眼の微弱な副作用だろう。目を合わせていないのに、人々の好意を弄ぶ。申し訳なさと有り難み……二重の意味で頭を下げた後、教えられた馬車へと向かう。
仕事のついでだ。それからフォースとの事もある。新領主、どんな奴か見極めに行ってやろう。
彼の情報は少ない。トーラの情報数術での収集結果で集まったのは、偏った情報。
罪を犯したというフォースに対する噂がプラスとマイナス、そのどちらの側面も存在するというのに、歓迎ムードの街では新領主への良い噂しか聞かない。やってきたばかりとはいえ、それはおかしな話。この情報は、操作されている。意図的に。
どこからやって来た?何者かも解らない。そんな相手を鵜呑みにするのは危険なこと。
よくわからない。
その不透明を自分の理想の色で染め上げているのが今の彼ら。真実に蓋をして補完する。
情報を操る相方が居るからこそ、それはおかしな事だとリフルには解る。一年以上もコンビを組んでいないのだ。それくらいわからないでどうする。
トーラがそれを示唆しなかったのは、自分には見えない何かを隠しているか。危険に自分を近づけさせたくなかったからか。死にたがりの自分を、死なせたくない彼女。相方への情報操作。
……あのトーラがそうするということは、新領主……面白そうな相手ではないか。
絶対に死ねないこの自分が、死ぬかも知れない。彼女がそう思ったわけだ。
(カルノッフェル……どんな奴か、楽しみだ)
事を為すまで死んではならない。そういう心は建前だ。危険な香りが漂えば、そちらに足が向かってしまう。生への本能があるように、死への本能……そういうものもあるんだろう。生者が死にたくないと望むよう、死者は棺に帰りたい……そう望む。生きた屍である自分がその本能に突き動かされるのは、……やはり仕方がないことなのだ。
ついつい口から笑いが零れると、馬車を動かす商人が……不思議そうにどうかしたのかと尋ねてくる。
「いえ……私、お城がどんなところなのか……楽しみなんです」
別に嘘ではない。建物自体ではなく、中にいる相手が興味の対象であるだけで。
*
王都にあるセネトレア城は金ばかりかけた見る者を圧倒する建物。
そして心の狭い商人達の頂点たるに相応しく、城の中に立ち入ることは許されない。
外観だけ見せて、自慢するだけ自慢して、天と地……貧富の差を見せつける。
悪戯坊主や観光客が、記念に落書きでもしようものなら……城の前に置かれた処刑台でどうにかされるだろう。
金持ちは見せびらかすのは好きでも、自分の所有物を他人に触らせるのは何より嫌がる。そういうものだ。触りたくなるよう誘うだけ誘っておいてその仕打ちとは……人のことは言えない。苦笑するしかない。
まぁ、それはさておき……だ。対するこの城。
シュネーシュタットの街からくねった山道を進み、アルタニア公の居城まで迫りアルタニア公、辺境伯の城。絢爛さより、強度を重視している無骨な外観。深い森の生い茂る山の上というその場所は、守りに向いた場所だろう。
馬車旅で目に入ったが、海沿いにはいくつか砦もあった。ここは司令塔として機能しているのか。
セネトレアからカーネフェルは東、シャトランジアは南。北方への警戒……それはタロックを脅威として捉えているということなのだろうか。
金の力で独立したとはいえ、セネトレアとタロックは同じタロック人国家。タロックが唯一外交を続けているのがセネトレア。一応は友好国のような間柄。それなら……これはどういうことなのか。
よくわからない。わからないけれど辺境伯というだけあって、彼は北方守護の任に就かされていた。
無法王国とはいえ、全てが無法地帯では国として成り行かない。
数ある島の中から大きな五つ……第一島から第五島までがそれぞれ統治している五つの小国、その連合王国だと考える。それがもっともセネトレアを正確に言い表してる。
その一つである第三島アルタニア。無法王国の中で最も法が機能している場所。
勿論国としての方針に、一侯爵が逆らうことは不可能。セネトレアは商人議会が決定権を持つ。それでもある程度大目に見られていたのは……純粋に、恐怖だ。
金はあっても自分自身の命は買えない。
セネトレアの武器、世界中の武器、防具。その最高水準を作っているのはアルタニア。その供給を止められたら?その隙に他の国に攻められたらどうなる?その武器をアルタニアが他国へ流したら?彼らの恐怖を煽り、彼は奴隷商達と渡り合った。
そうして商人組合からの制約を抜けある程度の自由と自治を勝ち取った彼は、理想郷の建設に取りかかる。
彼はセネトレアを律するために、模範となるべく自らの領地を法で縛り上げた。どんなに小さな悪の芽も摘んだ。一度悪に手を染めた者は、死ぬまで治らない。だから殺す。軽罪だろうとすべてを死刑。それでも悪は消えない。それなら見せしめだ。こうはなりたくないだろう。そういうものを愚民共に見せつけ、罰を覚えさせる。
その過程。いつかはしらない。彼もまた、人としての階段を転げ落ちた。
トーラの過去視数術。依頼を受けると決めてから始めた情報収集。その中で彼女の部下が持ち帰ったのは、昔の彼の工房……そこに残された物。触れた彼女が引き出した情報。「何故だ?どうして?」……そんな疑問が繰り返させる中、彼の葛藤の声を彼女は聞いたという。
法とは本来守るもの。盾であるべきもの。それが守るべき多くを傷付ける剣に変わったのなら、それは矛盾に他ならない。その時点で、彼は気付くべきだった。
気付かないのは、傲慢、愚か……或いは既に狂気へ堕ちた後。その手を引き戻す相手は居なかったのか。
フォースがここに流れ着いたのは、既に彼の凶行の晩期。幼い彼にそれを止めろと言うのは無茶な話か。
フォースの主、前領主アーヌルス。
山の中には、幾つもの剣が打ち捨てられている。まるで墓標だ。
商人にここが十字架山と呼ばれていることを聞き、そう見えていたのは自分だけではないのだと知る。
数え切れないその作品。剣は力……分かり易い暴力、殺害機能。
彼は一体その中に何を求めていたのだろう。がむしゃらに。他人から見ればそれが誤った道でも……突き進むには理由があったはず。
殺すつもりだった相手に思うことではないけれど、少しだけ会ってみたかった。話してみたかった。法に囚われた狂人。自身の父親の片鱗がそこに見えていた。
何を考え、何を思い……彼らは悪に手を染めたのか。それに触れてみたかった。
その興味があったから……トーラに無理を言って遠出の、得体の知らない依頼を受けたのかも知れない。
殺されてしまった今となっては……この山自体が彼の墳墓のように見える。彼は自らの死に向かって突き進んでいたのではないか。そんな風に考えてしまう。考え過ぎかも知れない。
「しかし父親探しのためとはね……こんな十字架山になんか来たがるなんざ、お嬢ちゃんも変わってるねぇ。そんなに親父に会いたいのかい?」
心を読んだような呼びかけに、僅かな驚きが生まれ、取り乱す。「え?」とか聞き返した自分に商人は笑いながらもう一度最後の問いを繰り返す。
それまで適当な話に相づちを打ってはいたが、こちらに突っ込んだ話を振られるのは久々だ。馬車に乗った頃はお互いいろいろ聞き会っていたけれど……しばらく互いに当たり障りのない話へと変えていたのに。
(父親か……)
どうなんだろう。今も……彼は生きている。タロックの狂王として、民から恐れられ……今日も彼は……呼吸をしながら誰かの命を奪っている。生きることが、彼にとっても自分にとっても、そういうこと。悲しいことだ。一日でも早く、終わらせなければならない……彼も、自分もだ。
「会いたくない……と言えば嘘になります。でも……その時私は、どんな顔をすればいいのか……よくわかりません」
憎しみは、飼い慣らせるようになって来た。
傀儡の王としてやるべきこと。その模範。
一と九十九。そのどちらかを殺すなら、少ない方が良い。
彼は正しい道を選んだ。どんなに痛くても、辛くても……そこに生まれた自分は、彼の答えを受け入れる義務がある。身分という立場は責任だ。あの日の父の冷たい眼差し……演じきった彼は賞賛されるべき人物。自分の……誇りで在るべき存在だ。
(…………それでも)
今の彼。たった一。それを殺した程度で、人としての階段を踏み外した愚か者。
狂った彼は九十九を厭わない。何のために?誰のために?それを殺しているのか……彼自身ももう忘れてしまっているのかも。
(何を、しているんだろう……私は)
死にたい。ここにいてはいけない。死んでしまいたい。
死の誘惑。それはとても大きなもの。
自分を生へと繋ぐのは……罪悪感と、贖いと……名前の責任。
そもそもフォースがセネトレアに奴隷として売られてきたのも。アスカが両親を失ったのも。全ては父の凶行のせい。死ぬと言うことは、その全てに目を瞑り……責任から逃げ出すこと。死ねない悪運という不運は、それを止めろと言うことなのだろうか。
(夜の空気はいけないな……)
誰かの視線を失えば、すぐに本能へと引き摺られる。一人の思考は毎回ろくでもない方向へと向かい出す。帰ったらトーラ辺りに叱られることにしよう。今回は聞き流さずに、真摯にそれを受け止めよう。
リフルの溜息を吐かずには居られない様子を見、髭面の商人はうっすら微笑んだ。
「何、笑ってやれ。父親って奴は娘の笑顔と涙に弱いんだ」
優しげに紡がれたその何気ない一言が、胸に深く突き刺さる。
(……脆弱だな)
自分自身には呆れるけれど、けれど過去のトラウマはそうそう乗り越えられるものではない。乗り越えようとはしていても、傷口は痛むのだ。
父への理解をどれだけ頭で示そうと、心は未だに納得を受け入れない強情さを隠し持つ。
不運と言えばそれまでのこと。
片割れ殺し……その片割れ。それが自分ではなく、死産の妹だったなら……
自分が娘だったなら、そもそもこんなことにはならなかった。
跡継ぎではない第二子からの男児を殺すべし。父を狂王への階段を上らせた最初の悪法。
異母と言えど、兄は兄。自分は弟だ。けれどもしも妹だったなら……処刑もされず、毒も飲まずに済み……邪眼や毒を持つこともなく、一生優雅に暮らしただろう。異母姉である姫のように。
「…………いや、……これでいいんだ」
自分が彼女だったなら、自分は何も知らずに生きていた。奴隷や混血への差別も我関せずと高みの見物をしていたに決まっている。痛みを知らない人間は、痛みを与えることだけ覚える。痛みを知ることが出来たのは、代え難い幸い。
例え誰かと触れ合うことは出来なくても、思うことは出来る。多くの人を思えることは、自分だけを思い続けることよりずっと恵まれたこと。
痛覚のない屍で構わないのなら、誰かの痛みを肩代わりできるなら、その方がずっといい。
もっと早く自分がアルタニア公を殺していれば、フォースが捕まることもなかった。あのように犯罪者として扱われることもなかった。
どうして自分は間に合わなかったのか。あの優しい子に、罪を背をわせてしまうなんて。
彼が憎まれるより、自分が憎まれた方が良い。それで彼に憎まれた方がずっといい。
彼には未来がある。あるべきなんだ。明るい未来が。可能性が。生きている人間にはそれが在って然るべき。それを奪うことは許されない。だから私は罪人なんだ。
「まだ……出来ること、ありますよね」
此方の顔色から、複雑な家庭環境を推測したらしい商人は気遣うような視線を時折向けていたが……よく馬車転倒しなかったな。……ではなくて、そんな暗い顔色の娘 (でもない) が意気込む様子を見せたことに安堵したよう。自分が不味いことでも聞いてしまったのかと不安だったのだろう。馬鹿みたいに明るい笑顔でこちらに微笑む彼。
「……ああ!人間生きてりゃ何度だってやり直せる。嬢ちゃんの親父さんがどんな奴かは知らないけどな……信じてりゃ、きっといつかなんとかなるよ!約束する」
(見ず知らずの他人に約束されても……というか今全然違うことを考えているのに)
そうは思ったが、暖かな言葉を嫌う人間は居ない。それが嘘ではないのなら、誰だって。
引き出したのが自分の目の力なのだとしても、真っ直ぐな言葉は何時だって胸へと届く。
だから今は素直に礼を言っておこう。こちらも真っ直ぐな感謝を込めて。
「おじさん……あ」
りがとう。たった四文字。それを続ける前に、馬車を強い衝撃が襲った。
自慢ではないが、運動神経なんて欠片も持ち合わせては居ないリフルはその衝撃をモロに喰らった。痛覚が毒で麻痺しているのが幸いだった……なんて言っていられたのは一瞬。
衝撃で転倒。傾いた馬車。
馬車が運んでいたのは……特産品。崩れた積み荷。箱の蓋は開き、襲い来る凶器。それに続くは中身のぎっしり詰まった箱。このまま来れば串刺しか、圧死かどちらが先か。どちらもという可能性もある。
それでも不思議と、死ぬ気はしなかった。
一度目の衝撃で外に投げ出されたらしい商人の悲鳴。自分を呼んでいるようだ。良かった、叫べる程度に彼はどうやら無事らしい。そんな状況ではないけれど、笑みが零れ……最初の剣が辿り着き、頬を掠り馬車へと刺さる。貫通音が鳴り響いたその刹那……風が吹いた。
突風に馬車はもう一度、傾く。それを見計らったように馬車を通り抜ける風。それがリフルと何本かの剣を外へと投げ出した。
着地も受け身も取れない。運動神経はからっきしだ。
「おお!奇跡だっ!よく無事だったな嬢ちゃんっ!」
涙目の商人が駆け寄ってこようとし……歩みを止める。
彼の視線は上空。釣られるよう視線を上へとあげれば……
アルタニア公の北方守護の意味。なぜ武器商が多いのか?そして馬車が傾いたのは何故?
その全ての答えがそこにいた。
混血が生まれ始めたのを遺伝子に起こった数値異常だと主張する人間が居るよう、近年の数値異常。それは自然界でも現れている。
有り体に言うなら、異常。
ここ数十年だ。その異常個体数は年々増えていく。
彼らを魔物と呼ぶのなら、混血が人ではなく悪魔の子と呼ばれるのも道理である。
だからリフルとしては、何が何でも彼らを動物と呼びたい。
その動物。
動物は鳥のようだ。小鳥とは呼べない。大きすぎる。鷲……なんてこれに比べば雛鳥以下。翼を広げたその鳥は、三メートルくらいは在りそうだ。
そこまではいい。普通、鳥というのは頭が一つではなかっただろうか。それとも彼……もしくは彼女は物凄い勢いで首を振っているのだろうか。あれは残像なんだろうか。それにしてはくっきりしている。威嚇の声は左右から聞こえる。それがズレて聞こえるのは時差なんだろうか。
「ぎゃああああああああああああああ!で、出やがったあああああああああ」
リフルが思考を飛ばしている内に、商人は悲鳴を上げて走り去る。親切な現地の住民が好感を抱いて (抱かせて) いた女の子 (ではない) を見捨てるくらい恐れると言うことは、この相手はなかなか危険な相手であるらしい。
時計塔から飛び降りても死ねない程度の悪運を持つリフルとしては、はやり目前のそれに恐怖は抱けない。
(動物にも……邪眼って効くんだろうか)
そこまで考え、掛かった場合の問題を考え始める。掛かるまではまだいい。問題はそれから。近づいてきたそれに下手な毒を使った場合、効くまでどのくらいかかるのかが問題だ。身体が大きければその分毒が回るのが遅くなる。
流石に邪眼が獣姦なんて引き起こしたら困る。これ以上人としてあれな方向に進んだら死んだ母様に顔向けが出来ない。既に顔向けできるような人生ではないことはこの際置いておく。不可抗力だ。
そもそもこの子が雄なのか雌なのかもよくわからない。そして自分がどっちだと思われているのかも謎だ。よって成立しない可能性も高い。
王都周辺ではあまり大型の獣は出ない。裏町に多少大きな鼠や虫が出ることがあるかないか。第一島は獣の被害より、人為的な危険の方が大きい。
タロックは万年雪に覆われた地域も多い。数値異常で夏は暑く、冬はより寒くなっているのはトーラの記録している気象データの統計からも明らか。
そして何よりタロックがカーネフェルに戦争を仕掛ける理由が食糧難。作物の育てにくい土地だというのは有名だ。かつてシャトランジアから贈られた数値改良の植物も、育てられる地域は限られる。雨が続けば苗は腐る。雪が続けば植えられない。
そしてタロックは……王の妾であるシャトランジアの姫を処刑した所からシャトランジアとは国交断絶。数術改良の知恵は貸されていない。
そんなところに数値異常の動物が生まれれば、自然界の法則も狂い出す。食うに困った彼らは海を渡り……セネトレアへとやって来るわけか。
ここに来るまでそういうものたちに出会わなかったのは幸運か、それとも……フォースの元主の功績か。
(……ん?)
何かがおかしい。よくよく考えれば、今の自分にはよくよく考える時間など無いはずだ。
それならどうして自分は無事なのか。
顔を上げれば……風を切る音。そして……
「怪我はありませんか?」
少年のものらしい声。そのすぐ後に、水を切るような音。落下音。頭から何かを被った。赤い。血だ。
上を見上げれば、二つ頭の鳥たちが、聖夜前の食卓のような惨状。首を失ってもしばらくは動けるとは本当だった。血まみれのまま動けないでいる身体が不意に軽くなる。抱き上げられたのだと気付いたのは近くに顔があったから。「大丈夫でしたか?」というその声で先程の声の持ち主だと気付く。
少年に抱えられたまま、暫く走る。後ろであがる轟音。鳥が倒れた音だろう。
「……私は問題ありませんが、男を一人見ませんでしたか?」
「………ふ、ふふふふふふふ、も、問題……ありませんか?」
何故そこで笑う。ツボにはまったらしい。まだ笑いを堪えている。
この血まみれ惨状引き起こした要因の一つは君のような気がするのだが?……なんて言い返す気はなかった。彼は一応助けてくれたらしいのだ。
「これくらいよくあることですし」
「よく、あるんですか!?」
何故そこで笑う。
颯爽と登場した彼だが、笑うと幼さが顔へと滲む。茶色の髪に、赤い瞳。タロック人だろう。伸ばした髪を首の後ろで結っている様にどことなく品がある。出で立ちから貴族か何かだろう。年の頃はフォースと似たり寄ったりと言った感じの十代半ば?
純血にしては珍しいくらい、なかなか整った顔立ちだ。このまま良い感じに成長するのが何かアクシデント的な成長をしてしまうのか、継続観察、数年後の成長が楽しみな感じの子だ。
なんとなく回りくどい言い方をしてしまったが、要するにあれだ。俗に言う美少年的な何かだ。唯……素直にそう認めるのがなんとなく、嫌だった。
純血で……地位と顔と金を持ち合わせるとは……おまけに性格も悪く話さそうとは、なんだろうこいつは。どこかの絵本から抜け出してきた王子様か?未来視でトーラが言っていたCGなんちゃらとかいう奴か?平民の娘衣装の自分を助けるとは、珍しい貴族もいたものだ。
あまりの完成度の高さに、助けておいて貰ってなんだが舌打ちをしそうになる。
こっちは混血、生まれは良くてもそこから転落奴隷人生……おまけに邪眼持ちの毒人間。肩書きなんか殺人鬼だぞ殺人鬼。逆さになっても勝てる気がしない。
微妙な顔をしていると、少年は少々戸惑っているよう。
(くそぉ……可愛いじゃないか)
最近わかったことだが、自分は年下に弱い。年下と言うだけでみんな可愛く見えてくる。邪眼にかからない純粋さが単純に好ましい。この手が毒ではなかったのなら、思いっきり頭を撫でてやりたい可愛さだ。
(ああ、父様!母様っ!何故僕に毒を盛ったんだ……今ばかりはそれを憎みます)
折り合いを付けたはずの心が文句を言い出すくらいの衝撃だ。
だって仕方がない。可愛いんだし。
こんな弟が居たら毎日どんなに楽しいだろう。
こんな子にお兄ちゃんとか言われたら鼻血で殺してしまうかも知れない。良かった、女装してて。お姉ちゃんなら自分の女装の寒さ加減に目が覚めるから問題ないだろう。
前に出会った闇医者の先生を、正直な感想として変態だなぁと思った自分が間違いだったのかも知れない。年下万歳。
しかし困った。過去のトラウマやら何やら……年上にはいろいろしてやられた過去があるため、ついつい年下と言うだけで大目に見てしまうのは悪癖の一つ。
性善説を唱える顔見知りの聖十字兵が悪い。あいつに大分洗脳されてしまったか?年下というだけでみんな純真に見える。性善説が真実ならば、年下は年上より善が残ってる。
舌打ちするかしないかを考えている自分より、数値異常の獣に立ち向かう勇敢な少年。どちらが善かわかりきったものじゃないか。対する自分が持っているのは一生では償いきれないほどの前科。
あまりのがっかりステータスに、口から漏れた溜息は見逃してくれると嬉しい。
そんなコンプレックス思考に折り合いを付けた頃、安全な場所まで逃げ切ったと認識したらしい彼に降ろされる。この少年……何㎝か背が高い。こっちはブーツ履いてるのに。
(前言撤回だ)
一回舌打ちしてしまった。すぐさま咳をして誤魔化したからおそらく聞こえていない。そういうことを願う。切に。
顔つきはまだ幼く見えるから年下だと思ったが。いや、年下なんだろう。
しかし年下に背を追い越されるのは……なんだかやっぱり屈辱だ。舌打ちしそうになったが、それもどうだろう。ここは年上として我慢するしかない。
「そういえば貴女はどうしてこんなところに?」
「こんなところ……?」
言われてみればこんなところ。だがしかし。こんなところとは仮にも侯爵の住まいに失礼すぎる発言。お前は貴族ではないのか?
どこからツッコミを入れるべきだろう?しかし初対面の相手にツッコミを入れられるだけの応対スキルは所持していない。故に私は吹き出すしかない。……とは思うけれど、それもあまりに失礼な気がしたので、笑いを堪えることにした。だって大笑いとかして唾とか飛んで、それで命の恩人毒殺なんてしてしまったら、流石にそろそろ私は首を吊るべきだ。
頼むから少年、何処か痛むんですか?とか聞いて来ないでくれないか?腹筋としか答えようがない。
いや、なんだか調子を狂わされているが……そもそもの目的を忘れてはならない。自分は別に出会いを求めてこんな場所に来たわけではないのだから。
「……父を捜しに。領主様ならば、戸籍を持っていらっしゃるのでは……そう思いまして。親切な商人さんの馬車に乗せていただいていたのですが……見かけませんでした?」
「道を外れて森へと入ったのなら……生きてはいないでしょうね」
少年の返答の直後、そう遠くない場所から聞き覚えのある悲鳴が上がった。その方向へ走り出そうとした手を、少年に引かれ、止められる。
「危ないですよ」
「離してください」
「嫌です」
「今ここで貴女を離したら、僕が助けた意味がなくなります。森は危険です、先代の仕掛けた罠がまだ埋められていて」
「それなら尚更っ!」
掴まれた手を思い切り振る。手袋片方を彼の手へと残したまま、森へと急ぐ。
どれだけ危険でも。別に私は命は惜しくない。
まだ死ねないけれど、仮に死んでも構わない。
目の前で助かるかもしれない。助けてくれた人を置いていくことはどうしても出来ない。
さっきまでの反省?そんなものまたあとから反省すればいい。生きていたなら。
「おじさんっ!大丈夫ですか!?」
「お、お、……お、お嬢ちゃん!?」
駆け寄った男に外傷は見あたらない。ほっと安堵の息を吐く。
それなら彼は何故悲鳴を上げたのか?
「……これは」
彼以外へと焦点を合わせれば、その答えはすぐに見つかる。
森の木々。吊り下げられた死体は、さながら木の実。どの方角を見回しても、剣の十字架は続いている。剣の下、土の分の雪が盛り上がっているのは何故?
自分がここまで駆けてくるまで……冷たい冷たい雪の下。自分は一体何を踏んでいたというのか。
「っ……」
本能的な嫌悪感。それが隣の男のように恐怖に変わることはなく、それのまま己が内に在り続ける。
これだけの食料が在れば……誘き寄せられる。血の匂いは目印だ。残虐公の裏の顔、そこに隠された算段。見えた意図。それは解った。それでも人は……人に対し、ここまで酷いことが出来るのか?
純血が混血に、じゃない。純血が……純血に対し……だ。
よくわからない。
人が自信の理解の範疇を越えたとき、喜怒哀楽……その中の一つを無意識に選ぶなら。
かつてのそれは怒りだった。でも、今日は怒ることが出来なかった。代わりに頬を伝ったのは涙だ。
よくわからない。
そんな感情に振り回されて、泣くことしか出来なかった。先代アルタニア公……彼はそれほど理解を超えていた。
そうして立ち尽くす背中に届く声。
「何やってるんだあんたっ!」
危険だ危険だ言いながら、後を追ってきた少年。丁寧な言葉が粗野になるほど気を荒げていた。
呼ばれるがまま振り向けば、彼が言葉を失った。
目の前の少女が泣いていたことにか、目の前の木の実に対する感想か。そのどちらかはわからない。
しかしこの高スペック少年は、正気を取り戻すまでの時間も短かった。
「と、兎に角……さっさとここから離れましょう。領主様から危険だと聞いてますから」
腰を抜かしたままの男に手を貸し起き上がらせて、もと来た道へと二人を誘う。
ここに来るまで罠に掛からなかったのは不運中の幸い。雪道に残った足跡をなぞれば身の安全は保証される。少年は森からの襲撃者に備え、殿を務める。
商人を見捨てようと言ったときは軽蔑したが、少々見直した。あの時自分を追ってくると言うことは、自分が商人を追うことを選んだその選択と同じ意味を持つ。
「優しいんですね」
「……それは貴女でしょう?」
殺人鬼に向かってその台詞はない。その答えを知っている自分だけがそれに笑えば、彼は不思議そうに首を傾げる。
「別に。唯放っておけなかっただけです」
自分という一を捨てるのは簡単だ。そこに価値を見出していないのなら。
けれど、一を見捨てると言うことは難しい。すぐ手を伸ばせばそれを救える可能性があるのなら。
その先で九十九が待っていても。急がなければその九十九が死んでしまうのだとしても。
だからといって目の前の一を見捨てられるだろうか?
悲鳴が聞こえるのに。聞こえなかった振りが出来るだろうか。
自分にはそれが出来ない。それだけのことだ。
「時間って……大切ですね」
急げば。一を救って。走って走って……そうすれば九十九も救えるかもしれない。そうすれば自分は誰も失わずに済む。
独り言のように呟いた言葉に、少年が小さく同意した。どういう意味で同意したのかまでは定かではない。微かに聞こえたその声は……
「もっと早く手にしていれば……僕はもっと力になれるのに」
誰に?何に?
抜けている言葉があるが、彼が何かを悔いているのがぼんやり伝わってくる。
何となくその言葉から彼の腰に下げられていた剣の存在を思い出し……そのことだろうかとそう思う。
そして、助けられたときのことを思い出す。
身体能力数値が異常である同僚、後天性混血である蒼薔薇や鶸紅葉。彼とか彼女なら……あれくらいの獣の首、簡単に落とすことは出来そうだけれど。
純血であれを行うとは、どういう剣技だったのか。その瞬間を見ていなかったことが惜しく感じられた。
筋力不足で短剣しか扱えないリフルからすれば、長剣を扱える時点で十分賞賛に値する。それも年下の少年が、立派なことだ。
「剣……使えるんですね。私は全然駄目です」
「女性が剣を振るう必要はありません。それは僕らの役目です」
僕ら。それが男を意味するのなら、やはり“私”はそれを扱えなければならないし、“私”はやはり全然駄目だ。
そう俯けば、背後であがる少年の声。
「領主様!」
「ああ、其方だったかお客人?」
少年を呼ぶのは、若い男の声だ。商人の馬車より数段立派で大きなものを従えている。
歩いてきた男は、まだ若い。貴族の嫡子、そんな雰囲気だ。
これがまたコンプレックスを刺激……するなんてレベルはもう通り越している。すらりとした長い足。ほっそりとした長身。遠目に見るならなかなかの美形だ。
「…………おや、……其方は?随分と血の匂いがするねぇ」
「は、怪鳥に襲われていた者達です」
「……そうか、君が頼んでいた武器商か。匂いで解るよ」
この会話で感じた違和感。男が側に来ることで、あ……と思った。
「あっちに転がってるのが積み荷かな?金属の匂いが濃厚だ」
「も、申し訳ありませんっ!領主様っ!」
「いいよいいよ。気にしないでくれ。僕が後から召使いにでも運ばせておくから」
長い優雅な金髪はカーネフェル人のそれ。
優しげな声の男。彼が嗅覚を軸とした視点でものを言うのは、彼には目がないからだ。
本来眼球が在るべき場所はべっこりへこんだ窪み。
陰影の影響で……一瞬白骨が此方を見ているようにすら見える。肌が白いせいで余計そう見える。
何か不幸でもあったのだろうか。何も知らずに哀れむのも、かといってそれを問いただすのも失礼だと思う。だから言葉が凍る、背筋と一緒に。
通りで見た張り紙では両目を包帯で覆っていた。眼病でも患っているのか。そう思ったが、どうやらそんな次元の話ではなかったようだ。
「それで、もう一人足音があるねぇ……そちらのお客様はどうしたのかなフィルツァー君?」
「彼女は領主様にお聞きしたいことがあるようです。なんでも父親探しをしているのだとか……」
フィルツァー君……この少年のことか。茶髪の彼を見た後、領主の方へと視線を戻すと……領主が近い。すぐ傍にいる。
「父親……」
そしてずいと顔を寄せる彼。邪眼の範囲内。咄嗟に目を瞑る。
「個性的な体臭のお嬢さんだね」
くすと男が笑った。目を開ければもう顔は離れている。
そもそも……彼が相手でも邪眼はかかるのか。まだ獣の方が効きそうだ。
「すみません領主様。怪鳥に襲われていた際に助けた私のミスです。それは奴らの血です」
「そうか。そうだろうね……君、香水は何を使ってるのかな?嗅いだことのない香りが混ざっているよ」
「……え?」
香り?香水なんか付けていない。しかし心当たりがまるでない。
(あ!)
剣で掠った時の血。屍毒ゼクヴェンツ。
確かに毒にはそれぞれ異なる香りがある。
けれど少量の……しかも獣の血で掻き消されたであろうそれを嗅ぎ取るこの男。目が見えていない分……相手に困る。
見えないと言うことは、変装はまず通用しない。
今だってあの少年が“彼女”と断言してくれなければ疑われたかもしれない。血まみれでなければ男だと看破されていた可能性さえ在る。
……一通言うなら利点もある。人種がバレないと言うのは助かる話ではあるが……見えないと言うことは、邪眼が通用しない可能性が高い。
彼が敵ではないことを祈る。ああ、駄目だな。
(私がこういうことを祈ったら……)
命の続く悪運の代償は、それ以外の不幸。悪い予感は当たると思え。外れたら幸福。それくらいの覚悟で。
「香水ですか?……よくわかりませんが、洗髪料か何かでしょうか?も、申し訳ありません領主様!下々が身だしなみも気を使わずに」
香水の質問。それを逆に返す。しているのか?をしていなかったら失礼。そういう解釈で。
「……いや、僕は気にしないけれど。血の匂いは嫌いじゃないからねぇ」
「領主様、だからその血はですね」
「ははは、わかっているよタロックフタゴハラグロオオワシの亜種だねぇ」
「そんなソムリエじゃないですから……」
「ちなみにあの鳥は焼いて食べると香ばしいんだ」
「は、はぁ……そうなんですか。帰ったら主に伝えておきます」
「そうしてくれると嬉しいねぇ」
少年と領主のボケツッコミの会話が続く。話題の中心から自分が外れたことにほっと息を吐いたときだ。
「ちょっと失礼」
「!?」
一言言い残し、領主がパントマイムの要領で人の身体をぺたぺた触ってくる。肩からまずは頭に登りそこから、顔……次第に下ってくるようだ。目の付近をなぞられたとき、ぞっと背筋が震えたのは一瞬異様な空気を感じたから。
彼はそれに気付いたのか気付かないのか。どちらとも取れるような図りかねるにぃという笑み。そしてウキウキと人の顔の実況を始めた。
仮にこの寒さの中汗が出たとして、目の前の男が死んでも……今回ばかりは自分のせいではないと思う。
「目ははっきりしてる。童顔だね。いや……なかなか素材はいい。鼻も口の位置も的確だ!フィルツァー君!この子はもしかして可愛くはないかい?」
「…………」
突然話題を振られても。そんな微妙な表情の少年だ。
社交辞令で褒めるのは慣れてそうだが、それ以外をどうするべきか、いろいろ考えているようだ。好み以外のタイプをはっきり可愛いと言い切るのはどうだろう。もしかしたら思い人でもいるのかもしれない。
こちらにちらちら視線が向いてくる。邪眼で、僅かに好意を持たせてしまっているのかも知れない。だからこそ言い難いのかもしれない。微妙な年頃だし、そう言うモノだろう。自分には、そういう青春時代など皆無だったが。奴隷時代全盛期だったとも。いや、何考えてるんだ。鬱になるから止めておこう。
まぁ、少年……無理に言わなくてもいいから。実際お嬢さんでも何でもないしな。正体バレたら健全な青少年の淡い夢とか希望を砕いてしまいそうだ。
「……可愛いと、思いますよ。かなり」
本人の目の前で肯定するのはかなり屈辱的だったようだ。横目で見るとそっぽ向かれた。
フェミニストぶってはいたが、やはりタロック人としてのプライド的にカーネフェル人(を装っている混血)を褒めるのはいささか抵抗があるらしい。
何故か心中に「勝った」とか「してやったり」とか言う言葉が浮かんできた。彼の悔しがる表情があれだったのがいけないと思う。
そんなからかいの気持ちを持ったのがいけなかった。滑り降りてきた男の手に、流石に動揺。赤面くらいはしたかもしれない。その両方を目にした少年が倒れる。
(ああ、タロック人だもんな)
あの初心な反応ならセネトレア歴は短いのかもしれない。
「あの、領主様?」
別に今更感も強い。胸くらい触られても別に減るものでもない。だが仮にクシャミをして唾で彼を殺してしまっても、今なら言える。不可抗力であると。
それにこの領主は(既に開花していそうだが)将来立派な変態貴族に成長しそうだ。素質がある。今ここで殺しておいた方が世界のためかもしれない。
(いや、待て。感情で人を殺してはいけない……)
あくまで客観的な立場で考え、善悪を判断しなければ。自分に強いたルールを破るわけには……
「ふむ……ちょっと小さいかな。もっと食べないといけないよ君。いい声してるからきっと将来素敵なお姉さんになる」
すみません。なりません。なるとしてもお兄さんです。
あと素敵の基準が声ってどういうことでしょうか?
よくよく考えたら、この領主唯の変態だ。仮に今みたいな事を出会った女全員にしているとしたらとんでもない領主だ。セクハラでやっぱり抹殺すべきだ。
けれど、一つの大きな落とし穴。自分の力は何だったか。相手の好意を無理矢理引きずり出して虜にする力。
(……もしかして、邪眼効いてるのか?)
目も髪も見えていないのに効いている?そんな馬鹿な話が……しかしよく考えてみれば暗がりで片割れ殺し本来の色、その力が発揮できているとは言い難い。
耳に聞こえた領主の言葉がそれを肯定。
「時にフィルツァー君!このお嬢さんの髪の色と目の色を教えてくれるかな?」
「普通にカーネフェル人でしょう?プラチナブロンドの……目は、暗くてあんまりよくわかりませんけど。……それ以前に血まみれで色の判別しようがないですね、今は」
「青ですけれど、何か問題でも?」
混血とバレたら大変だ。アルタニアは混血迫害者も多くいる。武器がある分血気盛んな奴も集まるらしい。
今思えば何危険なことをしていたんだろう。死にたがりにも程がある。
「お嬢さんっ!君の名前は!?」
両手を包まれ顔をのぞき込まれる。身長差はかなりある。頭三つ分は越えていると思う。もしかしたら四つ分くらいあるかもしれない。そんな相手が背中から曲げて顔をのぞき込んでくるんだ。その迫力が怖い。
本名を話す勇気はなく、咄嗟に口から出任せ。出てきたのは母の名前だ。
「マリーです」
「マリー!!!美しいっ!いい名前だ!殺したくなる!」
「領主様、褒めてるんですか?貶してるんですか?」
フィルツァー少年の冷静なツッコミが入る。高スペック少年は復活も早かった。まだほんのり頬が赤かったり視線がこっちを向いてない辺りが可愛らしい反応だ。手袋越しでも頭を撫でに行きたい。将来禿げるとか文句言われるまで撫で回したい。クマのぬいぐるみか何かみたいにぎゅっとしたくなる可愛らしい反応だ。
(別に私の部屋にはぬいぐるなどないけれどな。他者と接触できない分無性に抱きしめたくなる癖があるとかそんなことは勿論ないこともないこともないし、そんなものは私の部屋に一体もいないけれどな)
誰にいうでもなく始まる言い訳。一体は居ないが……何匹かはいる。こともないこともないわけではないようなそんな……ええと。
(それにしても父様……何故貴方はあんな悪法をっ!)
タロックという土地から何人の可愛らしい弟が亡くなったと思っているんだ。あんな感じに成長したかもしれない無垢な幼子を刑にかけるとは悪魔の所行。
(……ってさっきから私は何なんだ?)
なんだか調子が狂う。軽い混乱状態で訳が分からなくなっている所に、更に問題発生。
葛藤の間ずっと此方を見つめて(勿論瞳はない)いた領主。若干今更怖くなる。
「プラチナブロンド……青の瞳…………そして、父を捜していると言っては居なかったかな!?」
「は、はい」
条件反射でした返事。それに感極まったような領主の声。
「……………姉さんっ」
「………………………え?」
「会いたかった!姉さんんんんんんんん!やっぱり嘘だったんだね!?嬉しいよ!姉さんが会いに来てくれるなんて!!」
膝を突いた男が思いきり背中を抱きしめる。
「こんなに小さなままだなんて……可哀想に。随分と辛い生活を送ってきたんだね!?腕なんかこんなに細くて……ううっ姉さん姉さん姉さん姉さん!」
抱きしめるなんてレベルじゃない。彼に他意はないのだろうが、物凄い力だ。このまま背骨をへし折られる。そう思った。
「……っ!」
苦痛への呻き。それに領主が我に返った。
「ご、ごめん姉さん!痛かった!?痛かったよね!?すぐに医者に診せるから!そこの君っ!呼んできてくれ!」
いや、診せないでくれ。いろいろバレる。大丈夫ですとその提案を却下した。
しかし……痛覚の麻痺している自分が痛いと思うというのは、どういうことだ?この領主……一体、何者?
このまま逃走、というわけには行かない。想像が正しければ……走ったところで逃げ切れない。
「おや…?武器商がどこかへ行ったみたいだ姉さん」
さっきから気になってたやたらねぇねぇ伸びる語尾は、姉さんだったのか。姉さんって言いたくて語尾まで侵されるってどんなシスコンなんだろうこの領主。
「“姉さんって、どういうことですか?”」
あの高スペック少年なら読心術使い使えるだろうか。試してみたら、通じた。
何でも出来るなあの子。
家出でもしたんだろうか。こんな弟ならわからないでもない。
「“僕も詳しくは……主から聞いてないです”」
どうやらこの少年は何かの使いでこの変態領主の所に寄越されていたらしい。人生若い内から酷い知り合いに巡り会ったものだ、可哀想に。……いや、そうそう人のことも言えないが。
「“モクモク?拍手?牡鹿?轢いてないです?”」
ここで理解したら、お前何者?と思われるのがオチ。適度にボケてみるべきだろう。
「全然駄目じゃないですか……」
少年の溜息。そこはかとなく「これだからカーネフェリーは」という嘲りの色が浮かんでいる。別に構わない。誤魔化すのが目的だから。まだまだ甘いな少年。
しかし領主にバレなくて良かったな少年。これバレてたらこの領主、今にも君に襲いかかっていただろうな。
「ところでフィルツァー君……さっき僕の姉さんが可愛いとかなんとか言ってなかったかな?」
「え?あの……」
現在進行形だった。どうしよう。あの少年には一度助けて貰ったから、このまま領主を黒と認定するための判断材料にするわけにもいかない。話を此方に戻させよう。
「あ、あの……領主様?私、話がよくわからないのですが?」
「ま、まさか姉さんっ!?養親に虐待でもされたの!?それで記憶喪失に!?僕だよ!僕のこと忘れたの姉さん!?」
ちょっと声を掛ければこの領主、すぐにこっちにを向きやがる。
姉さん以外はピンポイントで大当たりだよどちくしょう。
「大丈夫、僕が絶対思い出させてあげるから!安心して」
口元と眉で満面の笑みを表現する領主。勢い余って瞼が開いたらどうしよう。怖い。地味に怖い。中、どうなっているんだろう。
(…………)
駄目だ。想像するだけで怖い。
そんな恐怖の震えを不安と勘違いした勘違い野郎が、熱い抱擁をかましてくれる。個人的には年上に抱きしめられるより年下に抱きしめられたい。むしろ抱きしめたい。
まぁ、これもフォースのためだ。この変態領主の情報集めるだけ集めて……そこからあれだったら殺すだけ。
フォースを牢屋にぶち込んだのもこいつのせいなんらしい。殺しに私情を挟みすぎてはいけないが、真実を見極めて黒だったら覚悟するが良い。その時は逃がすものか。この手で殺してやる。
逃がすかとぎゅっと服の裾を掴めば、なんかもう呪文か呪詛か何かみたいに姉さん姉さんを繰り返す領主。
「あのー……領主様?」
少年が声を掛けるとシスコンモードから領主モードに切り替えたらしい領主。
出迎えてくれた時のような態度に戻る(が、奴が変態だと言うことは十二分に理解した。若い男が相手だというのにここまで帰りたい仕事も久々だ)。
「君たちも災難だったね。部屋を用意しておくからゆっくりしていってくれ」
「領主様、貴方が変なことばかりしているから武器商が帰ってしまいましたよ?」
「え?いつ頃?」
「医者の下りのあたりからはもう既に姿は見えませんでしたが」
あの男、なかなか逃げ足が速いな。羨ましい。こうがっちりホールドされてる私は逃げようがない。これ、夏場だったら完全にもう私が勝ってるのに。毒殺終わってるのに。
冬は勝手が悪い。こまめに水分摂取しておくべきだったか。
失策に溜息を吐いていると、苦しかったのかと勘違いした勘違い領主がようやく腕を解放。
「大丈夫だよ姉さん。城にはちょうど腕の良い医者が来て居るんだ。友人の所から借りていてね。すぐに姉さんの部屋を用意するから、そうだ!食べたいものはある?すぐに作らせるよ!?」
領主はまたシスコンモードに戻った。短かったな領主モード。
それでも無邪気にはしゃいでいる姿を見ると、それが長身の男だというのに絆されそうになる自分は駄目だ。そもそも人違いだ。そりゃあ弟とか妹とかいたらいいなとか思ったことはあるけれど。片割れの妹が生きていたとは思ったことはあるけれど。
いつか思い描いた片割れは、こんなに足は長くなかった。
必死に絆されそうになる心を否定する。本当に、今日はどうしたんだろう。何かがおかしい。
「……とりあえず、着替えお借りしてもいいですか?」
そう尋ねると赤面する領主。
まさか覗かないだろうなこのシスコン。
一瞬懸念したが、よくよく考えれば意味のない話だった。着替えで正体がバレることはないだろう。
そう思い通された部屋で服を脱ごうとした時、鳴り響くノック音!
「ごめん姉さん、湯浴みを手伝わせるメイド達、全員殺し……暇をあげてしまったんだ」
メイドなだけに冥土にか。ツッコんだら負けだ。
領主が自分が黒だと自白に来ているようにしか聞こえない。
代わりにと人を寄越されても困るし彼に来られてもいろんな意味で困る。ここは一発ガツンと言っておくべきか。
「は、恥ずかしいから来ないでっ!」
静まりかえった廊下。扉の下から血が流れてきた。どうやら鼻血のようだ。
そのまま出血多量で死ねばいいと思う。
とりあえず、無駄に拾い湯船のお湯を借りて血なまぐさい匂いから解放される。扉を開ければまた血なまぐさいとかその辺は今は忘れよう。
本日何度目の問いかはわからないが、本当に自分は何をして居るんだろう。犬も歩けばとは言うが、本当に厄介事しかやって来ない。
髪と身体を洗ってようやくすっきりした。
(そう言えば、香水とか言っていたな)
彼は見えない。その分聞こえるし、鼻が利く。男だとバレたら、その時点で姉では無いとも気付かれる。
姉の振りをしていれば情報を引き出すことも容易く、殺すことも簡単にできそうだ。
このまま姉の振りをしているべきだろう。
彼は毒の匂いに興味を示した。ゼクヴェンツをセネトレアの人間が知っているとは思えない。
もし彼の鼻が男女の違いまで知ることが出来るのなら、それは厄介だ。視覚なら誤魔化せる自身があるが、そんな相手は今まで居なかった。毒の香りも香水代わりにはなるか。
服から隠れる所……脇腹辺りで良いだろう。斬りつけた血を水で薄めて身体に振りかける。
……確かに鼻に残る匂いかもしれない。この毒を作った狂王はどんな毒を混ぜたんだったか。片っ端から毒と名の付くもの全部放り込んで煮詰めて干して磨り潰してまた煮詰めて……とにかくいろいろやったらしい。それを死体の口に流し込んで流し込んで……完成した屍毒がこれだ。
香りだけなら甘い。引き寄せられるような香り。頭がぼうっとなり、眠くなるような。嗅ぎ慣れている自分としては、今更何とも思わないけれど。
もし領主に「え?香水?」とか何か聞かれたら「体臭です」と言い張り逃げる。それでいい。所詮あれも男だ。そういわれれば「姉さんがそう言うならそうなんだろうね」とか納得するに違いない。これで問題一つめは解決だ。
次は……領主以外の人間対策。血まみれだったときは目を伏せていれば良かった。けれど屋敷は外ほど暗くはない。昼間ほど明るいとは言えないけれど、食堂なんて明るい場所に赴けば、目の色髪の色で混血だとばれてしまう。それはいただけない。
(とりあえず……服でも着ながら考えるか)
用意されていた服は女物のドレスだ。流行からすると……十年くらい前のものだろう。
着られないこともなかったが、少々丈が短い。だからどうしても肌の露出が増えるが……そういうのはこういう服を用意した変態か、人を触ってくる変態が悪いのだと思う。
「姉さん!着替えを手伝うメイドだけど昨日邪魔だったから全員殺しちゃったんだどうしよう!!」
もはやこいつ隠す気もないな。
どれだけシスコンなんだ。
「だ、駄目!今裸なんだから!…………」
廊下は再び静まった。
勿論服は既に着ている。
「あの……領主様?」
「ねぇさん……ああ姉さん」
「昔みたいに名前で呼んでよ」
「それは……みんなが居るところだと、不敬罪だと思うから駄目です」
「わかった!あいつらみんな処刑すればいいんだね!」
「そ、そうじゃなくて!」
「あのね……ここのお城、男の人ばかりでしょう?」
「そうだね。ここに数値異常の化け物集めて倒しているから、どうしても男の手下が要るんだ」
「そ、それでね……男の人ばっかりだと怖いから」
何を今更。我ながらツッコミ所しかない。男に馬車に乗せて貰って、さっきは少年と普通に会話をしていただろう。思い出せないのかこの領主は。
「一緒に居て」
しかし男とは馬鹿な生き物だ。
この程度で堕ちるなら、こいつの目は節穴だろうか。
「勿論だよ!姉さんっ!食事は姉さんの部屋に運ばせるね!」
節穴だった。