3:Satius est impunitum relinqui facinus nocentis, quam innocentem damnari.
夢だ。夢を見ていた。
懐かしい。そう思うのは、それがもう戻らないものだから。
ついこの間。数日前の事じゃないか。
それなのに、それなのに。
無惨に転がる冬椿。あの人が俺のためにと打ってくれた一本の剣。
守れなかった何よりの、証。
金色の悪魔。盲目の死神。殺してやる、絶対に!
そのためなら悪魔に魂を売り渡しても構わない。
虚空へ伸ばした腕を、握り替えしてくれる指はない。冷たくすり抜けるすきま風。
悪魔はここには訪れない。
力なくして地に落ちた腕。伸ばせば届く場所に転がる冬椿。
悪魔なら、いた。
囁いてくる。誘惑の……
*
ニクスという名前。最初感じた違和感も、今では解けて無くなって……呼ばれることを待っている。次の命令は何ですか?それが自分の存在理由。存在価値で、存在証明。
眠気が消えれば愛しい幻聴も遠くへ消える。
それが何故だかとても悲しくて、一年半ぶりの涙が溢れる。嗚咽は漏らしてはならない。あの化け物に聞こえるかもしれない。こんなに早く、心が折れただなんて……僅かに残ったプライドが許せない。
悪魔の誘惑。死の誘い。あの人が磨いでくれた椿の花は何人斬っても綺麗な光を宿していた。もう一人くらい、斬れるだろう。折られたそれは使いづらいけれど鋭さはまだ残されている。
(アーヌルス様……)
(コルニクス……)
父を知らない自分にとって、彼らはそれに変わる存在だった。優しかったり怖かったり厳しかったり。相容れない部分も勿論あった。母親と子供は家族でも、父親と子供は所詮他人のようなものだ。だから他人との繋がりに、そういうものを感じることはあるのだろう。それでも彼らが自分を、大事にしていてくれたことも知っている。
彼らは何かへの償いのように、自分を愛してくれていた。その償いの相手があの悪魔……カルノッフェルだということはもう気付いている。代用品でも……彼らの優しさは嘘ではなかった。自分はそれを幸福だと確かに感じた。
逆恨みなのだろうか。彼らが償いに殉じたことを怨むのは、筋違いなのだろうか?
(それでも俺は……俺は、あいつを……許せないんです)
どんなに心を捧げて尽くしても、報われるとは限らない。手を汚し、罪に塗れ……あの人のためと生きてきた。そんなあの人達はもういない。残されたのは俺の罪だけだ。
あの人が愛した土地。守りたかった場所。理想と掲げた楽園。それは届かず悪魔の手へと渡った。
俺は守れなかった。
何のために生きてきたのか。それがもう解らない。
二人の前で泣いたことはない。彼らはどんな顔をするだろう。泣きやめと命令するだろうか?情けない顔だと笑うだろうか?煩わしいと処刑されるだろうか?
それさえ今はわからない。
解ることは一つだけ。この手が、取り返しの付かないくらい汚れているということ。
(雪なんて名前……全然、相応しくない)
今も外で降っているであろう真っ白な……それに例えられるような人間では無いというのに。聞けるだろうか?あのふざけた態度の中年男も、死んだら少しはマシな人格になっていたりするんだろうか?それなら教えてくれるかも知れない。
折られた愛剣、その上部分。握りしめた掌からは血が滴り落ちて……すぐに凍った。あまりの寒さで麻痺しかけていた痛覚が、掌の痛みを教えてくるが、首を絞めるよりこっちの方が痛くないかもしれない。
あんな憎まれ口を吐いて、こんなにすぐに心が折れるとは……我ながら情けない。賭けた連中も、徹夜で頭を悩ませているだろうカルノッフェルもざまぁみろ。その過大評価を裏切ってやる。自分はどこまでもつまらなく、退屈で、ちっぽけな存在なんだ。主を守れなかった剣なんかに、居場所はない。人として……帰れる場所もない。なら、向かう先は一つじゃないか。
これで最後になるだろう。最後の呼吸を始めたときだ。
「食事をお持ちしました」
背後で上がった声。それに驚いた臆病者は、手にした凶器を落としてしまう。
振り返った先、金髪に青い瞳のカーネフェル人。城で雇われているメイドだろうか?それにしては……見たことのない顔だ。
「……何時の間に名前を変えたんだ、フォース?」
泣いたままの情けない顔。そんな奴の目をじっと見つめて、目の前の女が苦笑する。その笑い方に、見覚えがあった。それを思い出し、思い浮かべた人の姿。その刹那、弾けるように視界が割れる。これまで見ていたまやかしが打ち破られた。
あの日と変わらない優しい眼差し。変わったのは、長かったその銀髪。綺麗なその色の髪を、彼はばっさり切り落とし髪を結っていた。それでもそれがその人だと解る、絶対のアイデンティティ。片割れ殺しの混血児、紫色の瞳の少年がそこにいた。
「……リ、……リフル…さん?」
自分はまだ夢でも見ているんだろうか。立ち上がると、背丈は差ほど変わらない。その違和感が現実味のなさに拍車を掛けていた。
「よかった。やっぱりフォースだったか。間違えだったらどうしようかと思った」
こんな自分に、あの人はまだ……こんな風に笑みかける。突如重たくのし掛かる罪悪感が、手にした剣を強く握らせ痛みを覚える。
痛い……俺は今、起きている。そう思うと何を言えばいいのか。解らなくなって、ニクスの言葉が凍り付く。
「いろいろ聞きたいことはあるが、時間が惜しい。トーラっ!」
彼の声に、マントの内側から上がる声。それにも何だか聞き覚えがあるような……
「僕としては一生に一度あるか無いかの貴重な機会だし、もう暫くしがみついていたいんだけど……」
「ふざけている場合か」
「わかってるよぅ……」
「はぁ……冬場ならそうそう汗も出ないしな。後でなら抱き付いてきてもいつもみたいに文句は言わないから、この場を何とかしてもらえるか?」
「リーちゃん太っ腹!好き好き大好き愛してる!」
ばっとマントから飛び出してきたのは小柄な少女。自分たちよりもっと背丈は低いが、彼女だけは信用ならない。耳のような装飾の付いた可愛らしい帽子は勿論、衣類は全て赤系統。女の子らしいピンクがよく似合っているけれど、騙されてはいけない。だって自分より彼女は年上だったはずだから。
「え、トーラ?え…?え……?だって、リフルさん見つからなかったって言って……あれ?」
というかこいつが情報屋だったはず。セネトレア一有名な混血。それは目の前の彼女だ。迫害される混血という立場でありながら、情報の剣と盾をもってそれを免れたという……有名すぎる請負組織、その頭が彼女。そんな情報の専門家である彼女が、目の前の彼が海に落ちたまま行方不明だとか無責任なことを言っていた彼女が、どうして彼と一緒に?
「ごめんねフォース君、僕みたいな悪女に騙されちゃったんだ、良い子良い子」
あんぐりと口を開いたまま何も言えないでいると、彼女の手が此方に向かう。頭を撫でようと伸ばされたその手は、牢の存在に気付き引っ込められた。
「でも、その辺も時間ないから後回しね」
まるで魔法。彼女がじっと虚空を見つめて何やらブツブツ呟くと、牢の鍵がいとも容易く開いてしまう。数術使いは、本当にでたらめだ。なんだかわけがわからない。それ以外に、何が言えるだろう?
「とりあえず視覚数術で処刑日まで残像残しとくね」
スタスタと内側に入り込み、ガリガリと牢内の石版に文字を刻む彼女。そんな彼女に声を掛けるリフル。
「空間転移、大丈夫か?」
「おっけー。一回行ったところなら僕なら余裕。王都までは流石に代償大きすぎて今日は無理だから……いったん宿まで。明日そこから飛ぶ感じでいいかな?」
「ああ、頼む」
話についていけないまま、とりあえず忘れてなるものかと二分化された片側の冬椿を拾いに行った俺が二人の傍へと戻れば、足下から色が透けていくのが見えた。それと同時に背後で勝手に施錠の掛かる音を聞く。
数術使いの彼女が現れた途端、何でもありの別世界。今まで自分が生きてきた世界は一体何だったというのか。気にしたら負けだ。たぶん。
狼狽えるニクスにトーラが小声で囁いた。
「フォース君は初めてだよね?慣れないと危ないから、とりあえず目瞑ってて」
なんかやばそうだ。本能的に察知して、思い切り目を瞑る。混乱して変な声でも上げてしまったら異変が起きましたと敵に伝えるようなもの。今は訳が分からないが、ひたすら目を閉じて……
「安心しろ。トーラは世界最高の数術使いだ。信じてくれていい」
「そうそう。この僕が失敗することなんか絶対にあり得ないから」
自信に溢れた二人の声。何処からそんな自信が湧いてくるのか、臆病者の自分には理解できなかった。それでも……肩の荷が少しだけ軽くなったよう。自然と笑みが浮かんで来て……「はい」とニクスは頷いていた。
*
彼と彼女に、目を開けるようそう言われ……開けばそこは見慣れない部屋の中。別に一般的な宿の普通の部屋だ。それでも死ぬまであの地下牢に置かれているものだと思っていたから、そんな部屋でも感動のようなものが込み上げる。
そんな気のゆるみを引き起こす要因のひとつである暖炉の温かさに、忘れていた体中の怪我も痛み出す。
(そうだ……)
昨日?いや一昨日?時計なんかない場所に閉じこめられていたんだ。夜か昼かくらいはわかっても、気絶していた時間もあるし時間感覚が鈍っている。
「しかし、驚いた。お前はシャトランジアに行ったものなのだとばかり……私は」
独り言のように小さな声で、呟く彼は……声も顔も昔のまま。懐かしさから彼を見ていた自分の目が、記憶の中との間違い探しを始め出す。
違うのは髪型と……それから服装。
ほっそりとした指を隠す革の手袋。上から下まで黒を基調とした衣類。その中に着ているシャツだけが白。
以前はセネトレア風の服を着ていた彼だが、今のはシャトランジア系の服のように見える。格式張った服というか、男物でもなんでもかんでもフリルとかリボンとかつけたがるというか。それが似合ってる辺り、凄いと思う。でも彼がそういうのを買ってる姿が想像できない。
興味なさ気に「別に私は動きやすければジャージでも構わないのだが」みたいな顔をしているリフルのことだ。おそらく隣にいるトーラの趣味だろう。彼女も女の子だしリボンとかフリルが好きなようで、なるほど……二人並べば素材の良すぎる混血同士、服の調和もあってよく似合っている。
そんな下らないことを考えている内に、彼は上着を脱いで、暖炉から離れた場所に座る。それでも彼の防御は固い。上から下まで長袖で、室内でも手袋は外さない。
これでもかと言うくらい、きっちり着込んでいる。露出しているのは肌は顔くらい。首さえ見えない。寒さからの完全装備なのかと思ったが……そうではないことをニクスは思い出す。第一暖炉から離れる意味がない。
殺人鬼Suit。その噂話くらいはこのアルタニアにまで届いている。貴族や商人ばかりを狙う混血の殺人鬼。Suitは変装の名人でその正体を知る者は殆どいないとか。
彼が最初に大暴れをしたのは王都近くの港町レフトバウアー。商人達の本拠地での大量殺戮……それには城も見て見ぬふりを出来ず、指名手配を行った。偽善者の聖十字も同じく。
Suitの正体が目の前の彼ならば、なるほど噂も本当だろう。情報屋で数術使いのトーラが後ろ盾に付いていれば、完全犯罪も無理ではない。
それにこの人は、元々こっちがびっくりするくらい目が覚めるような綺麗な人だ。小柄だし女物の服を着れば普通に女に見える。出会った頃はよくそんな格好をしていたし、髪も長かったから結構騙されてた奴らも多かった。状況に応じて目の色、髪の色を変えるだけで……貴族の家に潜り込むことは簡単だろう。
「……フォース」
飛ばされたきり、黙り込んでいた自分に、彼が視線を向ける。聞きたいことがあるんだろう。
さっきトーラが説明していたが、ここは数術で防音結界やら不可視数術やらをかけられたスペシャルルーム。一般人は気にせず部屋の前を通り過ぎるし、数術使いも盗み聞きを出来ないような数式を展開させている。
ここでならどんな話をしても安全なのだと彼女は言った。本当に何でもありだな数術使い。
あまりのぶっ飛んだ話に、今度もまた夢だろうか。死に脅えた心が見せる、都合の良い夢。
さっきまであった怪我も、トーラの数術で表面上は塞がった。
そんな夢みたいな……夢の中だとしても、それは紛れもない恐怖。
自分のことを話すのは恐怖だった。彼に幻滅されるんじゃないか。そんな不安から、先に話を切り出したのは……自分。
「でも……どうしてリフルさん達が、アルタニアに?」
「……ごめんね、フォース君。僕は1年半前にリーちゃんを見つけてたんだ」
質問はその場しのぎの言葉ではあったが、気になっていたのは本当だ。それに答えるトーラの謝罪の言葉。その裏切りに、ニクスの瞳が見開いた。
「そ、それなら!どうして!?俺もアスカもっ……すげー……心配……して」
リフルが消えてからの彼は、見ていられなかった。二人の関係はいろいろ訳ありみたいで幼い俺はいまいち把握しきれていなかったけれど、彼はいつだってリフルの心配をしていた。凄い、大事なんだなとは子供心にも理解していた。
大切な人を守りきれなかったという後悔。あの日彼が味わった絶望は、今ニクスが感じているそれと同じ。こんな辛い思いを、アスカはあの日から一年以上も背負っているっていうのか?目の前の二人の様子だと……彼にはまだ無事を教えていないよう。
それって、酷いんじゃないか?どんなに心を捧げても、報われないのは裏切りだ。そう、憤る心。思わず恩人である彼を睨み付ける……そして後悔。悲しそうに微笑む様は……誰かにとても、よく似ていて。ニクスは言葉を失った。
声も、顔も、名前も……全然違う。
捨てたはずの思い出を振り切るよう、頭を振ってそれを彼方へ追い去って。じっと目の前の人を見る。そうだ。全然違う。この人は。
自分が憧れた人は……理由もなく姿をくらます人でない。何か訳があったんだろう。
「すまない……………………だが」
ニクスの視線にリフルは小さく詫びたと、……紫色の瞳を瞬かせる。何が、だがなんだろう。ニクスもそれを鸚鵡返し。
「フォース、お前はまだ何ともないのか?」
「え?」
質問の意味が分からず戸惑うと、トーラが推測を口にする。
「視覚数術効いてるのかも?」
「普通に、リフルさんに見える」
「本当に、何ともないのか?」
近づいてきた彼に、不意に鼻先1、2㎝の辺りからじっと瞳を覗かれる。
瞬間、どくんと心臓が鳴る音。それを契機にそれはずっとなり出したまま。目を逸らせないまま、瞳の端で自分の腕が彼の方へと持ち上げられるのが見えていた。
瞬間、甦ったのは数日前の記憶。金髪の彼女。
その面影が脳裏に甦る。込み上げるのは羞恥かそれと似た、よくわからないもの。顔が熱い。心臓が五月蠅い。何も考えられなくなる。
香るはずのない香水。まだ覚えている。数日前の、記憶の一つ。目に映る景色は全然違うのに、脳は記憶のままにそれをなぞらせようと主張する。それに異論を覚えることもなく、操られるように……勝手に伸ばされた腕が、目の前の人に触れたがっている。引き寄せて。それから?
現実へと引き戻したのは、音。腕が掴まれたその音に、ようやく瞳を逸らすことが叶う。
それを手袋ごしに受け止めた彼が、悲しそうに小さく笑う。
「……微弱だが、効いているようだな」
「時の流れは残酷だねぇ……そっかーやっぱり君も男の子だったんだねぇ。まぁリーちゃんの邪眼は男女構わず効くけどさ」
「…………一年、半か」
溜息ながらに別離の時間を呟くと、彼は背を向け距離を開いた。そんな彼を追い。トーラは僕がいるじゃないと慰めていた。意味が分からない。
同室にいるというのに壁際まで離れられると、露骨に避けられている感がする。邪眼というモノが危険なモノなのだと彼らは言っているようだったが、いまいちピンと来ていない。
「十代半ばもアウトかぁ。もうあれだよねリーちゃん。赤専にでもならないと駄目?みたいな?」
「これ以上業を深くさせてどうするつもりだ、お前は」
「そうだよねぇ。ちっちゃい子って毒への抗体ないから解毒間に合うかも危ないしね」
慰めの言葉にしては皮肉じみているトーラの言葉。それでも彼は自虐ネタが好みようで、その軽口に少々気が紛れたよう。リフルの苦笑は先程よりは穏やかだ。
それを確認し、トーラが此方を向いて話を続ける。
「っと、まぁこんな感じで。邪眼の効果は解って貰えた?」
「……いまいち」
「そうだねぇ……君は程度が低いから、その程度で済むけど。邪な大人達にはもっと危ない思考誘っちゃう、危ない力なわけ」
「危ない?」
「健全な青少年は知らなくて良いようなことだよ、うん。これ以上お姉さんに言わせるのはセクハラだと思います。だよねリーちゃん?」
話題を振られたリフルは視線を合わさぬよう明後日の方向を見やりながら、過去の事象を口にする。
「…………。前に一度、見ただろう?」
「前……?」
「程度がどうこういうのが問題ではなく、魅了されれば結果は変わらない。私の毒に触れ死ぬ。それだけだ」
言われてようやく思い出す。点としては覚えていた、鮮明に。けれどそれがようやく線になり、理解に届く。
彼と初めて会った日だ。自分を助けた彼は、人を殺した。自身の毒に触れさせて。
苦しませるための毒。彼は、自分には優しかったけれど……奴隷商人にそれを向けることはなく、絶対に助からない死を贈った。
その呻き声に、苦痛に耐えきれず……引き金を引いたのは、この……自分の手。
「相手方が一人なら、まぁ話は楽なんだけど」
此方の手の震えに気付かない振りで、トーラは話を継続させていた。
「同時に邪眼に掛かった人間がいたとしたら、どうなると思う?」
目を合わせれば、触れてしまいたくなる問答無用のその引力。誰もが同時に手を伸ばす?そう尋ねれば、彼女は静かに首を振る。無言の彼もそれに同意しているようだった。
「リーちゃんの……殺人鬼Suitの邪眼はね、他者を殺し合わせて自分を守る力。彼の色を珍しいとか、綺麗だとか。そう思う気持ちに欲が滲めば彼らは絶対逃げられない。欲しくて欲しくて堪らなくなる。自分だけのモノにしてしまいたくなる。そういう風に仕組んだ力」
品物が一つ。それなら所有者も一人だけ。それ以外は全てが敵。そういう短絡的な思考に人を突き落とす、悪しき力。もしも彼一人が敵陣に乗り込めば、それだけで彼らは内側から崩壊するだろう。凄い力だ。それに無力な自分が感嘆する気持ち……そして臆病な自分が恐れる気持ちが湧き上がる。今この瞬間、自分は彼への恐怖によって支配されていたのかもしれない。
二つの矛盾した感情で見つめる先の彼は……決して目を合わせてくれないが、それがとても寂しそうに見えた。
レフトバウアーの大量殺戮。それが意味するところを、彼女は暗に語っている。
邪眼の暴走。不本意な殺戮、汚名。それでも、その罪は逃れようがない事実。
目を逸らしたまま此方を見てくれない彼。彼がどうしてここへと来たのか。なんとなく……察してしまった。
「魅了した相手は、リーちゃん欲しさにお互い殺し合うわけ。魅了できる相手が全員死んでもいい敵なら問題ないんだけど…………リーちゃんの目は暴走している。目を合わせなくても間合いに入れば効いちゃうんだ、欲塗れの人間にはね」
震えが引かないニクスを余所に、トーラは説明を続けている。
「リーちゃんの邪眼は暴走している。邪眼の間合いに入った虜を殺し合わせる力。リーちゃんはあの人達を殺したくなかったんだよ。君なら帰れる?」
大切だからこそ、帰ることは許されない。
大切な人たちを、殺し合わせること。望まないまま、力の暴走。
「で、でも……」
せめて一言くらい、生きていると教えてくれても。それが出来ないのなら、死んだのだと優しい嘘を創っても。
そう言い返そうと思った。でも、出来なかった。
絶対の情報屋が生きていると言い切ったなら、あいつはどんな手を使ってでも探し出そうとするだろう。それだけの気合いがあれば、きっと見つかってしまう。リフルが会いたくないと願っていても。
逆にその情報屋がきっぱり彼の死を口にしたなら、あいつは絶望するだろう。何をするか、解らない。とりあえず、良いことにならなそうなのはよくわかる。
その辺りをぼやかして少しずつ彼らとの関係をフェードアウトさせる。それが彼女に出来る最善だったのだ。
いたたまれずに視線を彼女から外し、向けた先……その視線が合うことはない。
あの日目にした事。毒に冒された奴隷商。引いた引き金。……初めて、人を殺した日のこと。
目を合わせただけ。それだけでリフルは毒である自身に触れさせた。
目を合わせただけ。何も変わらない過去の自分に、彼はとても喜んだ。
それが今は。彼の方を見ても、もう目を合わせてくれない。壁に背を付けるようもたれ掛かって射る彼に、邪眼が効かないよう距離を取られているようで、それが自分はとても辛く感じる。
妙な気まずさを感じ取ったトーラが二人を交互に見ながら苦笑。
「こればっかりは仕方のないことでね。人間年来の一定ラインを越すと表に出すか出さないかは別として、心の中にはどうしてもそういう感情が生まれてしまうものなのさ。あの日彼が帰れば、君と……あの双子以外は全員死んでいたんだよ。彼は彼なりに……彼らを守りたかったのさ。察してあげて」
彼女の言葉は、彼にも帰る場所がないのだと暗に告げていた。
大切な人との別離は辛い。それでも、それは……彼も同じだ。帰る場所がない辛さは、身に染みている。ニクスには彼を責めることは出来ない。
それなら慰めの言葉を口に出来るか?いや、出来ない。たかだか数メートル。この距離を詰めることさえ難しい。自分は今、彼に拒絶されている。
あの日彼が自分にくれた優しさ、甘さは子供扱い。当時の自分はそれを歯痒く感じたけれど、今となっては懐かしい。
自分の感情は、甘えなのだと思う。彼が優しくしてくれた、条件反射だ。そんな資格がないことくらいわかっているのに。
邪眼の下りが引き起こした、気まずい空気を察したトーラがその場を流し……結局その日、相手のことを聞くだけ聞いて……自分のことは何も話さないまま身体を休めることになる。