2:Horas non numero nisi serenas.
俺の母である人は言った。ごめんねと。でも仕方がないのとも。
仕方がない。生きるため。そのために彼女は俺を捨てた。
タロック人は女が貴重。それは出生率が低くなったから。俺たちが生まれた頃の割合は、男が9で女が1。
王様は狂王と呼ばれ、男子虐殺令なんてものを発案。跡継ぎ以外の第二子からの男はすべて処刑。それから逃れるためには役人への賄賂が必要で。金のない家は女の格好をさせてごまかして。そのどちらも無理になったら奴隷商人に売り飛ばされる。端金で。俺もいくらで売り飛ばされたんだったっけ。たぶん10万にも満たなかったと思う。酷い話だ。
最後に彼女はなんて言ったか。泣きわめく俺に、これまで育ててあげたんだから感謝の一つでも言いなさいよ。そう怒鳴りつけたんだったか。
こんな子、もっと早く売り飛ばせばよかった。どうせ金にならない。今までの食費が無駄だった。そんなことも言ってたか。
そんな俺を慰めてくれたのは、幼なじみ…友人たちの存在だった。一緒に村から売り飛ばされた奴ら。あいつらがいなかったら、俺もとっくに狂っていた。一人じゃなかったから耐えられた。そんなあいつらともセネトレアでバラバラになって。そんな地獄のような国で出会った人たち。
商人たちは請負組織は裏町の人間だから、全員犯罪者みたいなことを言っていた。ああ、そうかもしれない。俺を殺そうと追いかけてきた奴隷商から俺を救ってくれた人は、殺人鬼だったんだ。おかしな話だ。俺を殺そうとした人間が身分ある表の人間だと言うだけでそれはそう呼ばれなくて。あの人は裏町の人間で混血だからって殺人鬼。この世の中は本当に狂っている。そんなおかしな街で出会ったいろんな人に助けられて、唯一見つけ出せた弟分。それもどこかへ見失って。奴隷身分から解放されて。平和と平等を説くシャトランジアに移民として亡命して……今度こそ普通に生きられるはずだったのに。
目の前には立派な屋敷。うん。今日からここが住まいになるのは、吃驚したけど悪くはない気分だった。それでも、俺はそこに養子に入るんじゃないのだ。これはどういうことだろう。
俺はどこでどう道を誤ったのか。世の中もう何も信じられないと、俺は十二にしてそれを悟る。目の前に広がるのは、死の仮装行列。死神の鎌は、次の得物を狙い続ける。それが明日か明後日かはわからないけれど。
*
ロセッタやグライド。残りの幼なじみの行方は知れないまま、移民船の出航の日は来た。このままセネトレアに残りたい気持ちもあった。恩人の生死も不明。後ろ髪を引かれる思いも確かにある。しかし幼い弟分を見知らぬ土地に一人だけ向かわせるなんて自分には出来ないし……これ以上他の恩人達に迷惑をかけるのも忍びない。
このままここにいたいといえば親切なディジット達はそれを受け入れてくれるだろう。アスカもあの人のことで手一杯とはいえ、文句は言わない。それでもそれはきっと迷惑なことで、それなのに誰もそう言ってくれないから。それがわかるから、なおさらここにはいれない。もしかしたら、あの人も同じ気持ちなのかも知れない。
いきなり死んだなんて言われても、俺はその現場を見ていないから上手くイメージできない。だから、彼はこの心地よい場所にいるのが嫌になったんだと思った。俺もそうだ。人間、我が儘だと思う。優しくして欲しいのに、実際それが手にはいるとそれに気後れしてしまう。誰かのため…迷惑をかけたくない。そんな建前で自分のためにそこから逃げる。そしてそれがなくなると、それが懐かしくて堪らない。
船に揺られて降り立った場所。無学な俺は二国間の距離なんか知るわけなくて、意外と近いんだななんて馬鹿なことを思ったものだ。
俺はそこを中立国シャトランジアだと信じて疑わなかった。人種性別年齢ごとに分けられたのはおかしいなとは思ったけれど。不安そうなパームにまた後で会えるって、なんて大嘘をぶっこいてしまった。嘘なんか吐くつもりはなかった。でもそれが叶えられない以上、俺はとんでもない大嘘つきだ。
船から降ろされた中に、俺の弟分は見あたらなくてそこで俺はちょっとだけ、おかしいなと思った。近くにいるのは俺より年上。十代後半?辺りの子供とそれより上の大人達。年上からから馬車に乗せるのだろうか。年配者への労り?そのわりには扱いが手酷いような。さっさと乗れと、ぎゅうぎゅう詰めの馬車に蹴りこまれる人もいた。蹴られたくなかった俺はさっさと素直に乗り込んだ。たぶん空きスペースが勿体ないから俺が詰め込まれたんだろう。運べるものは一気に運んだ方が楽だもんな。
これから教会に運ばれて、そこでシャトランジア国民として登録されるのだろう。そこでパームと合流して……慣れない異国での生活にあいつはへこたれるかもしれないから、俺が兄貴分としてしっかり励ましてあげなくてはと、自分を奮い立たせていたのに。俺の決意はばっきり折れてしまった。
がたがたと揺れる山道を進み、たどり着いた山の上にあったのは、教会などではない。
「お前達は今日からこの屋敷の奴隷だ!長生きしたくば、せいぜい頑張って領主様のために働くんだな」
黒い服に身を包んだ使用人頭が運ばれてきた俺たちに向かってそう言った。夢でも見ているんだろうか、悪い意味で。頬を抓ってみた。痛い。どうやらこれは、マジらしい。
彼は俺たちと同じ黒髪黒目のタロック人。年は三十を過ぎた頃だろうか。白い襟とシワ一つないその服が清潔さを感じさせる。
その格好のおかしな所と言えば、その長い袖だ。服自体はカーネフェル風の洋服なのに、腕はタロックの着物……までとは言わないが袖に向かって広がっている。セネトレアの商人達が着ている民族衣装がこんな袖をしていたかも知れないが、それをカーネフェルのそれを組み合わせて作ったようなおかしな服。それでもそれが似合って見えているのが逆におかしい。それはまるで鳥の翼のようだと思った。黒い鳥……そうだ烏。
そんな場違いな事ばかり考えている俺は、おそらく混乱していたのだろう。
領主様?奴隷?何の話だ?騒ぎ出す運ばれた人々。混乱を終えた俺も彼らの声で、やっとその疑問に至った。
「何言ってんだ?お、俺たちはシャトランジア王国に亡命したんだ!移民にそんな扱いをしてみろ!聖十字法に罰せられるのはお前らだろう!?」
その言葉に使用人頭は、発現した男の方へまっすぐに片腕を伸ばす。遠くてよく見えないが、手には何かを装着している。カチッという軽く石を打つような音の後、男は後ろの倒れ込む。
直後、男の周りから人が引く。何が起きたのだろう。俺は彼に近寄り、ぎょっとする。
彼の服を染める色は、赤。彼のを射抜いたのは鈍く光る鉄の槍?いや……これは矢だ。鉄なんて重いものがどうやってこんなに飛ぶのかわからない。男と使用人頭の距離は、そんなに開けていなかったとはいえ……避けようと思えば避けられるはず。それは甘い考え。鉄を目にもとまらぬ早さでこの男は放ったのだ。それがどういう仕組みかは解らないが、俺たちに恐怖を植え付けるには十分すぎて、俺もそこから後ずさる。
俺は数歩そうしたところで本能的に立ち止まる。風が吹いたのだ。その匂いは、年がら年中処刑祭りのタロック育ちの俺にとって、勝手知ったるモノだけどすっかり忘れていた。それはセネトレアでも何度か嗅いだモノだけど、そこにはあの人がいた。あの人のそれは確かにそれのはずなのに、こんな嫌な感じはしなかった。甘くて意識がぼんやりするほど心地よい香り。でも、コレは……口の中に汚い手を突っ込まれ胃の中のモノを無理矢理引きずり出されるような。胃ごと鷲掴みにされてきりきり搾り取られているような。
不満だった。船の中で今日も昨日も何も与えられなかった。それは今になって知る、不運の中の幸運だった。
俺の口からはだらしなく胃液か唾液か知らぬモノが口元を伝っただけ。ああでも、だからなのか?この不快感をはき出せない。胸の中に居座り続ける。泣きたくなる。ああ、もう泣いているのか俺は。
誰かの悲鳴。それに弾かれたよう逃げ出す人々。ああ、馬鹿な人たち。他人事のように俺はそれを見つめていた。何も見えていないのか。可哀想に。
走って走って、流石に鉄矢の射程距離から離れたと安堵して。やがて彼らは足下の違和感に、この匂いの元にようやく気づく。そして感触に靴裏を見る。あるいはそれに気づかず躓いて。そして知る。逃げたモノの末路。
右から左。俺の前方で鳴る絶叫。彼らは尻餅をつき、そこからもう動けない。上でも下でも、眼にはいるのは地獄絵図。
臆病な俺はとっくの昔にそれに気づいて、それにすっかり参ってしまって。哀れな男の傍から十メートル程背後の所から、震えて一歩も動けなくなっていた。丁度いい位置に来てしまった。上も下もよく見せる。悲しいかな。逃げ出したいのに、俺の足は凍っているのだ。心まで凍ってしまったのだろうか。その恐ろしさは俺の体を凍らせたが、俺の思考は凍らせてくれなかった。急激に温度の下がった俺の脳みそは、それを絵画を分析するように……それを見つめている。
下に転がるは、烏たちに屍肉を漁られた骸。
唯矢に射られただけのはまだいい方だ。色とりどりの刺繍をする人だって、こんなにも針の山を築かないだろう。刺さっている鉄の数を数えるだけで虚しい骸。
中でも残酷なのは、あの三つの死体だろうか。彼らの足にはつながれた鎖。その片足は別の人間と繋がっている。彼らを解放する鍵なんてない。しっかり溶接されたそれ。鎖は太い木の幹に縛られていて。
彼らの歪な三角形。その中央には立派な一本の剣。
彼らの間にある幹に開いた穴。そこにも剣があったのだろう。でもその三本の剣は酷く錆びていて、刃もボロボロ。鎖を斬ろうとしたら、きっと負けてしまう。
切れるとしたら、せいぜい……足の方。自分の足を切って自由になる?そんなことは誰もしないだろう。二人の足を切って自由になることを望むだろう。
そしてそれは一人を切断しなければ届かない残酷な距離。
彼らの両手はすべて手錠が。しかしそれは不平等。一人は両手を背中に回されて。一人は肘まで体ごと縛られて、そこから先しか動かせない。残る一人は右と左を繋がれただけ。大きく広げることは出来なくとも一番剣を扱いやすいのはその人だろう。体ごと腕を振り上げれば、……殺傷能力は一番だ。肘の人はどうだろう。ギコギコと足を切断するにはいいかもしれない。
三とは残酷な数。戦いの数だという聞いたこともある。
二人が手を組めば、上手く一人は殺せるだろうか。殺し合わせることが出来るだろうか。そうなれば、一は確実に負ける。鎖を緩めて近づくための距離を作るには、一人では無理なのだから。しかし、二になった二人は考える。一人を殺した人間が、二人目をためらう理由などどこにもない。それでも一を殺して先にあの新しい剣を奪わなくては逃げられない。
彼らを啄んだ鳥たちの死骸が語るように、彼らの体内には毒が回っていたのだろう。時間切れ。誰も逃げ出せないまま全員死亡。
それは彼らの知ることだったか知らないことだったかはわからない。でも教えるのだとしたら……一番可哀想な後ろ手の人だろう。彼だけはそれを知っていたんじゃないだろうか。彼の骸だけ、笑っているように見えたから。ああ、それなら……平等かも知れない。
剣を持った一人が殺して。それでも足を切る役は彼に近づく。それは中央から目を離すこと。それはとても危険な行為。後ろから狙われる可能性もある。
二人は一人を殺したモノの、その役をどうするか譲り合って押しつけあって……そして死んだのだろう。
これは何という毒なのだろう。恨みが生み出す屍毒だろうか。
人を食らった鳥が死に、鳥を食らった獣が死んで……辺りには食物連鎖の死の行列が続いていく。
毒の名は解らない。それでもこんな事をさせる……俺の主となる奴は、最低最悪の変態野郎だということは悲しいことに理解した。
「それは見せしめだ。領主様は領主様は、元は武器商であらせてね……下賤からは理解できないようだがあの方の崇高なご趣味は武器収集と拷問、処刑。このようなモノを私たちにも与えてくださるのだ。口には呉々も気を使え」
気味の悪い笑みを浮かべながら、使用人頭が生き残りにそれを伝える。
数が減っているのは、矢に刺さった死体が増えているから。それは先に進んだモノ達の方から数えた方が早い。
森の中に同じ武器を持った奴らがいたのだろう。
バルコニーに上。俺たちを見せ物のように見物している男がいた。身なりのいい……一目でわかるような高級素材ばかりをふんだんに鏤めた悪趣味な服。
男の髪はタロックの黒。それでも、それは高貴な黒ではない。もっと薄い色だ。暗灰色の俺のそれよりももっと薄い色。金色にもなれない土屑色の茶。グライドだって黒より茶髪に近かったけれど、こんな荒んだ色はしていなかった。もっと綺麗な色だった。どこか気品を感じさせるその色を羨んだこともある。
なんだ。純血だなんて偉ぶってても俺たち農民よりタロックの血が薄いのに?何様のつもりなんだろう。金さえあれば何でもしていいと本気で思っているのだろうか。
(……ああ、そうか。ここはまだ……セネトレアなんだ)
そりゃそうだ。海を渡ったからって他の国に来たとは言えない。正確な数は知らないが、セネトレアは大小様々な島から成る島国。
俺はその一つに降ろされたというだけだ。
だからここには法がない。あったとしても成金貴族達が自分達のために作った法律だ。俺たちを守ってなどくれない。
深い絶望の中吐いたため息に宿る僅かな安堵。一つだけ喜ばしいことは……ここにパームが運ばれてこなかったことだ。あいつが向かう先は、どんな場所であってもここよりは遙かにマシだろう。そう思った。だって……ここはこの世の地獄だろう?タロック生まれの俺が言うんだ。絶対そうだ。狂王だって、こんな殺し方はしない。斬首か火刑がいいところ。一族心中させるのは違う意味では酷い話だが、ここまで人の心を弄ばない。貴族なんてクソ食らえ。死んでしまえばいい。お願いだ。今すぐ、死んでくれよ。頼むから。
この世に神がいるならお願いだ。天罰でも何でも……ここに降らせて。俺が目を閉じるから……開けたときには俺たちを救い出していて。
願う俺の眼を開けさせたのは、頭を撫でる冷たい革の感触。そんな風に俺の頭を撫でてくれたのは……商人から俺を助けてくれたのはあの人。
祈るように視線を開けた先、飛び込む色は黒。あの人はそんな服は着なかった。闇医者の洛叉に贈られた白い服だとか赤い華やかなドレスだとか。アスカに着せられていた男物の服だってこんな色をしていなかった。
にたにたと笑む様は、あの人とは似てもにつかない愉快気な使用人頭の顔。貴族の好みそうな絹ではなく、革を用いていることからわかる。これは使用人頭ではない。主に殺されない使用人。俺たちは殺される。だから使用人ではなく奴隷。それならこの男は、処刑人頭。
「お前が一番逃げなかったな。見かけによらず頭が働くのか、それとも唯の腑抜けの腰抜けか。まぁいい、腰抜け程忠誠心を植え付けるのは容易だ。お前はみっちり鍛えてやろう」
「え…?」
「お前は奴隷ではない。使用人の仲間に入れてやろう、幸運だったな少年」
処刑人頭が俺に微笑む。俺と同じ灰暗色の黒の髪と瞳を持つその人は、俺を歓迎するように両手を広げる。
俺は奴隷として酷使されるのではなく……使用人として彼らを見張り、殺めることを仕事なのだとそう言われている。
「そ、そんなこと……」
「出来ないか。それならお前もあれが明日の我が身と脅えて生きるか?」
眼前に突きつけられた矢。間近で見るそれは手の甲の上に仕掛けと共に括り付けられた。彼の中指に付けられた指輪。それを引くだけでその音が鳴る。その矢は俺の目の前の死体に突き刺さる。その時上がった声に、俺はそれがまだ死体ではなかったこと、たった今それが本当に死体になったことを知る。どろりと新たに流れ出す赤い色に、俺は恐怖を思い出す。
これは他人事ではなく、男の言うように明日の我が身。今、自分に起きていることなのだ。
人の命を食らってでも生き延びたいだろうと男は嗤う。悲しいことに、俺はそれを否定できない。目の前の死体も、周りで絶望色に染まった瞳の人々も……所詮は他人なのだと俺の背を押す悪魔がいて、俺の唇は「死にたくない」と言葉を紡ぐ。
男はそんな俺を見て、もう一度俺の頭を撫でて嗤うのだった。
*
「…………………」
目覚めが悪いのは、人を殺した日だったからか。見たのは悪夢。一年と数ヶ月前の記憶だ。それが間接的な殺しであっても、自分はその度思い出す。この屋敷に来た日のことを。
あれから時間が流れて、ニクスが領主とあの男への印象は大きく変わった。成金貴族への先入観や憎しみ。そういったものは和らいだ。
幼なじみたちを、優しい人たちを失った自分。その自分が生きていくためには何かが必要だった。彼らはその意味を与えてくれた。だから領主を守る。その望みを叶える。唯それだけのことじゃないか。布団の中で俺は朝一番のため息を吐いた。その息が白いなんて。今朝はとても冷え込んでいる。
ホールの先をまっすぐ進んだ先に飾られたこの屋敷に飾られた世界共通の地図。タロックでロセッタから見せられたことのあるそれとは何やら様子が違っていた。
東に描かれているのはタロックではない大きな大陸。これがカーネフェル。言われて見ればその形が獅子に見えないこともない。西側に描かれているのがタロック。これはわかる。西と東が入れ替わってはいるが、剣の形をしたこの土地は俺の生まれた場所だ。その隣…海を渡った先に浮かぶ大きな四つの島は全て菱形。その中央に浮かぶ小さな島がセネトレアの都、ベストバウアーのある第一島ゴールダーケン。その東西南北にある四つの島にはそれぞれ名前があるらしいが、一度言われたくらいでは覚えられなかった。文字の読めない俺は今だってそれはわからない。
唯一覚えたのはこの屋敷のある島の名前か。この場所は北に位置する島アルタニア。土地の四割以上が雪に包まれ、一年の半分が冬とされているタロック程ではないとはいえ、寒い。無茶苦茶寒い。ニクスはタロックでも南の方で暮らしていたから、実際雪を見たことは記憶の限りではおそらく、ない。セネトレアは雪が降るとは聞いていたけれど、ここまで辛いモノだとは思わなかった。
使用人の仕事は、領主のために働くこと。
その仕事内容は、大きく分けで二つ。一つめは住民の元に赴き、二種類の人間を権力の下で正当に攫う事。もう一つの仕事は脱走者、その他反抗的な者の処刑。
フォースという名前を呼ばれることはまずない。なくなった。だから時々忘れてしまいそうになる。今朝は窓の外には雪が降っている。積もっている。これは大分消費したかもしれない。セネトレア……その中でも北部に位置するこのアルタニア島では雪が降る。もう十二月も大分過ぎた。
奴隷達の部屋は寒い。だからよく冬場は死人が出る。
領主はそんな奴隷部屋の一つに剣を与える。その時々によってそれは剣ではないこともある。領主は武器の性能を試すのが好きなのだ。有能に残酷を作り上げる武器ほど愛おしいのだといつだか聞いたことがある。
領主は言う。その部屋の一人を犠牲に一番残酷な死体を作り上げた部屋に葡萄酒を振る舞うと。酒は体が温まるし栄養価も高い。たった一を間引くだけで、今日という日を生き延びられるのだ。部屋には二、三十ほどの人がいる。たった一人がその多数決に勝てるわけなどなく、毎晩部屋の数と同じだけ以上の死体が上がる。
彼は武器の性能を試したいのだ。一しか切れぬ剣よりは、沢山切れる剣の方がより有能で残酷だ。無学な自分でも解る、簡単な足し算。それでも殺しすぎたら問題だ。出る杭は打たれる。今日は生き延びても、明日は生き残れない。奴隷達は基本的に人権のない農奴。農園での働きの他に仕事といえば、死ぬことだろうか。奴隷達の命は安い。笑えるほど価値がないのだ。
だからよく屋敷には馬車が届く。これまでに四、五回は見た。つまりは一月ペースだろうか。
見上げる天井は白い。窓の外の雪みたいな色。見ているだけで寒気がする。このまま寝台の中で眠っていたいけれど、自分は使用人。使用人の朝は夜が明ける前から始まる。生きるためには起きなければ。
冷水に手で触れて……そこでようやく今日は休日だったということに気がついた。いつもの習慣というものは怖い。
「でも……ここで寝たら」
明日起きられる自信がない。溜息の後、冷たい水で顔を洗って顔を上げる。髪も瞳も服も黒。自分の中にあったその違和感さえとうに消えた。それでも、毎朝、この時だけは鏡に映る自分の姿がとても汚いモノのように見えて泣きたくなる。
この一年で俺の背はずいぶん伸びた。手も足も長くなったような気がする。最初はぶかぶかだったカーネフェル式の洋服に着せられている感もなくなった。でもこの黒い服が肌に馴染めば馴染むだけ、自分は黒に染められていくようで。このままいつか完全に黒へと融けて消えてしまうような気がした。悲しむこともなくなって、自分もいつか嗤うのだ。
殺人鬼か。あの人はそう呼ばれていたけど、今の自分もそう変わらない。それでも根本的に違うことが一つある。
義のない殺しを行うニクスを、あの人はどう思うだろう。あの人は俺を助けるために人を殺した。でも、ニクスは自分のために人を殺している。誰かのためと言うなら領主のため。でもそれは結局自分のためなのだということを痛いほど知っている。
自分では、彼にはなれない。助けてくれた人……思い出補正が掛かってるとは思う。それでも死にそうだった時、助けてくれたあの人は……あの奇跡のような色は今でも覚えている。綺麗なあんな色に生まれていたら……母親は自分を奴隷商に売ったりしなかっただろうか?
(いや……よそう)
もっと高値で売られていた。それだけの結果だと、目に見えている。
(リフルさん……)
彼も自分も殺人鬼。人としては外道の部類。しかしやってることは同じでも、ニクスの現実は理想からは程遠い。
「……はぁ」
なんだか酷く憂鬱だ。せっかくもらった休日もこの分では二度寝で終わってしまいそう。すべてを寒さのせいにして二度寝をすることに…………なんて出来るか。
領主はああ言ってくれたが、一日休めば感覚をとり戻るのに三日。剣の素振りでもして……それから。
それから数時間後。日が高く昇った頃、屋敷に訪問者があった。それは不定期だから今日だとは領主も知らなかったのだろう。領主のためだ。ニクスも使用人としてそのゲームに参加することにした。
だって、自分が出ないと彼はつまらないだろうから。
*
慣れとは怖い。自分の中で殺人は、既に禁忌ではなくなってしまっている。生きるために何かを食べ、空気を吸うのと同じ事。そうしなければ俺は生きられない。その開き直りが罪悪感に勝った時、心が崩れ落ちた。逃げる背中達を見つめ、数を数える。風の流れを読んで、中指を引く。手袋の下の仕掛けを弾く。そうすればもう、動かない。
この黒い服は肩から下が大きく広がっている。その袖の下には人殺しの道具が仕掛けられているのだ。矢が放たれれば肩から新しい矢降りていき、勝手にそこに装着される。
そしてもう一度指を引く。それの繰り返し。その数を使用人仲間と競ったり、いかに残酷に仕留めるか。その点数によって領主から褒美をもらえたり。ニクスはまだここでは新入りだから早撃ちは仲間には負ける。
それでも結果として俺はよく勝つ。そんなつもりはない。殺すのは嫌だ。だから、早くこの苦痛から逃れたい。早く終わらせてしまいたい。
だから風を読む。狙うなら背中ではない、上空を狙う。なるべく先を逃げる者を狙うのだ。どこから射られたのか解らない生き残り達はそれに足を止める。止まらなくてもそれに躓く。今度はその背中を。それはとても合理的。一発一発は遅くても命中率は高いのだ。
今日も新しい馬車が来た。森の中に身を潜めた使用人と。コルニクスの傍に控えた使用人たちと。ゲームが始まる。
後から知ったことだけど、逃げ切れることなどないのだ。森の中にはぐるりと屋敷を一周囲んだ落とし穴がいくつもある。
無事に行き来が出来るのは馬車の来た曲がりくねった山道からだけ。領主様の悪趣味で道は何本にも分かれていて、無事に山を下りられる人間はそうそういない。新入りの御者が帰り道に迷い帰らぬ人になったというのもよくある話。
ニクスは目をつぶりながら片手を挙げる。視覚を閉ざすことで風の音に集中できる。中指を引けば、ほら……向こうで悲鳴が上がる。
思えば自分の命を救ったのはこの鼻の良さ。風の匂いを読んだから立ち止まり、拾われた。コルニクスはめんどくさそうな声を上げつつ、多くの事を教えてくれた。
セネトレアは大きな島が四つ。小さな島が……いくらあるかなんかは知らない。それでも五つの島くらいは覚えておけと処刑人頭である彼に言われた。コルニクス。烏って意味らしいその呼び名。らしい名前だなと思った。彼は好んで黒い服ばかり身につけていたから。その理由を尋ねたら、「赤が目立たないだろう」と意味深なにやけ顔。その理由がわかるようになった自分がここにいる。
最後の方の獲物は近づいて撃つから。運悪く急所を外れた誰かの獲物。使えない奴は、要らない。壊れたのも、領主は要らない。だから動けない奴は殺してあげなくてはいけない。どうせ使えない奴は殺される。その時間が長引くだけ苦しい。それならせめて苦しまないように一発で心臓を。それがせめてもの優しさだろう。しかしそれは他の奴らにはそう見えないようだ。
真面目だと領主様が笑い、どうせ死ぬのにそこまでしてわざわざ殺すなんてと使用人達は物好きな奴だと笑った。どちらも好意的な意味で。
自分の他にそうする奴は一人だけいる。コルニクスだ。
「腕を上げたな」
「……別に」
コルニクスに褒められても、平坦な声で答える。別に嬉しくない……わけでもないが、殺しの技術を褒められて、素直に誇れるような神経はない。ついでにこいつに褒められても、素直に認められる気がしない。
そんな微妙な反応に、この中年男は満足そうに笑い、撫でにくくなっただろう俺の頭に手を置いた。
「流石ニクス!相変わらず容赦ねぇな!」
「よぅ二代目!またお前の一人勝ち?独り占めなんか考えてねぇよな?な?」
ああ、中にはコルニクスの一部っぽいニクスの名前から二代目なんて呼ぶ奴もいる。こうやって話すだけならみんな気のいい奴らだ。普通の人間だ。唯、殺人というタブーを忘れてしまっただけで。
いや、境界線の変化か。いくら処刑をしていても仲間内を殺す奴はいない。ここからここまでは殺していい人間。ここから先は駄目な奴。そういう境界が頭の中に敷かれているのだ。普通の人間は、その境界が零の領域にある。俺たちみたいな使用人はその境界がそこから離れてしまった。唯、それだけなのだ。
だから奴らは普通に笑うし、普通に泣く。酒なんか飲ませればそういう反応だって当たり前に出す。自分という人間は確かにそのまま存在していて、唯常識が変わっただけ。善も悪もない。それが常識という概念。
その当たり前を当たり前のように甘受するために必要なことは、思いこみ。いかに奴隷を卑下し、見下し罵るか。最初は抵抗があっても口から出任せを言っている内に耳が麻痺して、脳がそれを受け入れる。
心がそれを認められなくても頭を洗脳するのだ。だから彼らは暴言を吐く。それを正当化するために。ニクスも暴言を吐く。彼らに融け込むために。
それでも元奴隷の脳はそれを受け入れられない。言葉は諸刃の剣となって自分自身にも突き刺さるから。
だから俺は……、俺であることを忘れなければならない。俺は少しずつ心を殺し、俺を殺していく。
何食わぬ顔をしてかつての俺らしさを装って笑いながら。ああおかしいな。これは何という道化だろう。滑稽だ。それが滑稽だとわかるのが俺しかいないのが、とても滑稽で少し悲しい。
「領主様のご厚意は有り難いけど、俺酒飲めないからなぁ。手伝ってくれるよな?」
自分が笑えば奴らも笑う。待ってましたと言わんばかりに。
今日の褒美は農園で取れた麦酒。俺はそこまで酒は強くないから仲間に配るとそれは大いに喜ばれた。コルニクスも珍しく今日はあまり酒は飲まない。お祭り騒ぎのような使用人達の食堂。酔いの回った人々を壁際で眺める俺と彼。
「飲まないの?」
「俺が飲んだら示しが付かないだろう?酔ってこの屋敷で全裸にでもなってみやがれ。領主様に殺される」
「まさか。領主様はあんたがお気に入りだろ。そんなことくらいで幻滅なんかしないよ。精々使用人とメイド達から陰口を言われるだけだ。"使用人頭様ったら下の方の凶器は意外とたいしたことないらしいわよ"って」
自分も酔っているのかも知れない。酔いどれ達の猥談が右から左から聞こえているんだ。感化もされると責任転嫁。
「は、舐めるなよひよっこ。小僧のお前と違って俺は下の槍でも女を殺せる」
「流石は使用人頭様。そんなところまで毒を仕込んでいるんだ怖い怖い」
使用人達は例外なく口が悪い。領主達の前では一応はきちんとした振る舞いや敬語を使うが、一皮むければ唯のごろつきだ。その頭であるコルニクスだって本質は変わらない。きっちりとした服を着込んでいるとはいえ、唯の飲んだくれの親父だ。普段から嫌らしくへらへら笑うし酔っているようなものだ。日常会話に下ネタや猥談挟むし。そういうのに疎かった田舎者の俺も余計な雑学をいろいろ教えられたものだ。おかげですっかり俺も染まってしまった。これだけは恨んでやる。
なんでこんなのに使用人を束ねさえているのか何回か考えたことがある。その結論として至ったのがコレだ。
領主様も元は商人上がり。貴族趣味を好んでいても元は庶民。こういう気安い男達の方が心が許せるのかも知れない。
奴隷を、自分と同じタロック人の男ばかり殺すのは……コンプレックス。彼はそうすることで自分の過去をそうやって殺しているのだ。それでも殺せないから、いくらでも殺す。人殺しの心を理解できる程度には、俺も人殺しになってしまったのか。ため息混じりにニクスは一口酒を呷った。不味い。渋い顔を浮かべる自分を見て、隣の男が吹き出した。不満を言おうにもいい言葉が見あたらなかったニクスは、話題を変えることにする。
「……今日の奴隷には仕えそうな奴、いた?」
「ああ、一人」
微苦笑を浮かべたまま、コルニクスが口を開いた。珍しい。いつもならハズレだと一言返されるだけなのだが。その答えにちょっと興味を持ったニクスはその先を促す。
後にも先にも彼が拾ったのは自分だけだ。どこがどう気に入られたのかは知らないが、前例がなかったことらしく、通された部屋で使用人仲間からは大層驚かれたことを思い出す。
「拾わなかったの?」
「その方が面白そうだったからな。それに今は半人前の教育が忙しい。それどころじゃないんだよ」
面白い、の意味はわからなかったが後半はわかる。不満を言う丁度いい機会だとそこへつけ込む。
「腕が上がったって言わなかった?」
「お前はマナーもなにもなっちゃいない。処刑人としては優秀でも使用人としては駄目駄目だ。お前のタロック訛りを直さんと領主様の前に出すのも恥ずかしい」
「うっせ、ばーか。ぐずだれが!」
「ここぞとばかりに訛りを出すな。残念だが標準語マスターの俺にはわからない単語ばかりだ。何々?"かっこいい!尊敬してます愛してる"?」
「……"地獄へ堕ちろ"」
「どうしてこういうときばかりちゃんとした発音になるんだ。お前はやれば出来るんだ、普段からその勢いで行け。ああ、間違ってもその言葉を領主様に言うなよ。落ちるのはお前の首の方だからな坊や」
「ああ、そんなことより。そいつが気になるんなら今日の当番は八号室にしてやる。あいつはそこへ割り当てられたからな。本当は俺もどうなるかみたかったんだが……不肖の弟子に譲ってやろう。その間俺はフリーってことでメイドのとベティ辺りと遊ぶとするか。」
「エロ親父……メイド孕ませでもしたらどうするんだ?メイドは領主様の物だろ?」
「そんなん決まってる。領主様は使えない道具は要らないんだ。知らなかったか?」
「……まさか」
時折見慣れたメイドが消えることがある。行方不明と言うことになっていたけれど。メイド達が首をかしげるその度に、使用人達はにやにやと意味ありげに笑っていた。
「小僧にはまだ早かったか?」
メイドはカーネフェル人の女。農園の仕事には向かないが、いくらでも代わりが利く。立場は違えど、所詮は奴隷。
奴隷を殺すことを何とも思わなくなっていた自分も、その話には流石に血の気が引いた。言葉を失ったニクスの肩に手を置いて、その耳元でコルニクスが囁いた。
「それに混血は、高く売れるだろう?」
ぞくっと肌に走った確かな震え。それは恐怖だろうか?……違う、嫌悪だ。思わずあの日のように、彼から後ずさり、足下の真っ赤な絨毯を見つめる。そうしているのにも耐えられなくて、ニクスは小さく口を開いた。
「眠気覚ましに顔でも洗ってくる」
「見回りまでには戻って来い」
壁から離れた俺に、ひらひらと手を振るコルニクス。
それまで普通の人間達だと思っていたのに、この食堂にいる奴ら全てが何か別の生き物のように見えて、ここにいたくなかった。
そりゃここはセネトレアだ。そういう風なのだってよくある話なんだ。それでも……なんて吐き気がするほど効率的なシステムだ。
使用人達の男にとって、ここは天国だろう。衣食住を保証され、人殺しだって赦される。禁忌などない。メイドに手を出して孕ませたとしても、こっちはタロック人。向こうはカーネフェル人。生まれるのは混血だ。ある程度財を築いた男はそのシステムを用いて、効率的な金儲けを始めたのだ。湯水のように金、金金!
そうして生まれた子供は奴隷商に売り、私腹を肥やす。出産を終えたメイドはおそらく殺されるのだろう。だって、数が足りない。
身ごもったことを知った女はその相手にそれを告げるだろう。それを聞いた男は領主へそれを伝える。そして女はどこかへ消える。だって彼は屋敷内でそういうことを、禁止しているのだ。
あの残虐公のことだ。どこかへ閉じこめ、いたぶりながら殺すのだろう。でも生まれる商品は大事だから、それまでは大切に大切にするのかもしれない。混血一人いれば武器の素材がいくらでも、奴隷の代えも幾らでも買える。そこまで金に五月蠅くない彼も……その程度はセネトレア思考に毒されているんだ。
君がそうなったのは部下の不始末。それは私の責任だ。子が生まれたら君を私の妻にしよう。君が侯爵夫人だと唆す。
物語のような玉の輿だ。彼女は驚喜したはず。希望を与えて、最後にそれを一気に叩き落とす。彼女は何もわからないまま、許しを請うだろう。その悲鳴に領主様は満面の笑みを浮かべるのだ。見てもいないイメージがありありと想像できる。
領主への感謝の念は変わらない。それでも……少しだけ、ショックだった。エリザベスの言っていた噂とは、このことだったのか。
人殺しの俺が嫌悪する権利はない。それでも。俺には混血の知り合いが……恩人がいるから。その始まりには吐き気がした。あの人は貴族を、商人を恨んでいた。その理由は何故?確か一度だけ話してくれた。あの人は触れるだけで人を殺せる毒を持っていて。その毒は過去に実の親に毒殺されかけたからで。そこから奴隷になって。あの人は淡々と取るに足らないように言っていたけれど。あの人はどうして殺されそうになったのだろう。どうして、どうして?混血だから?
殺されるか売り飛ばされるか。ああ、どちらにも愛がない。愛されていないのだ。望まれずに生まれてしまった子供なんだ。それを作り出しているのがこの屋敷だって言うのか?ああ、俺は、俺は……恩人のために恩人を傷つけるシステムに荷担している。俺はどうすればいい、どうすればいい。わからない。だって、あの人はもう俺の側にはいないじゃないか。何も言ってくれない。消去法だ。だから俺は、領主様のためにあるべきだ。そうだ、それでいい。一刻も早く顔を洗って風に当たってさっぱりしたい。この気持ち悪さを消してしまえ。
白壁の廊下と赤絨毯の道を早足で進むニクスは、前をよく見ていなかった。
「痛っ……」
「……ごめん」
「ん?ニクスじゃない。どったの?いつもにまして辛気くさい顔してさー」
床に尻餅をついているのはエリザベス。俺より一歳年上……本当かどうかは解らないが本人曰く永遠の十五歳のエリザベス。年の割にはあちらこちら凄いことになっているが。自分の幼なじみは全然あれで、思いっきり貧相だったのに。俺を見上げる水色に近い瞳。それは何時だってキラキラと輝いていて、灰を映したニクスの瞳とは全然違う。とりあえず彼女へ利き手と逆の手を差し出して、起き上がらせる手伝いをする。
「……怪我とか、ない?」
「平気平気ー……うをっいたたたたたたこれマジやばいわ骨折れたわ」
「!?」
思わず手を離しると、けたけたエリザは笑う。
正直自分は彼女が苦手だ。彼女は相手によって態度を変える。清楚で品のある女の子を演じたり、男達でさえ口にするのを憚るような言葉を口にし下品に笑ったり。
どちらが素なのか解らないが、ほとんどの相手の前では前者、ニクスの前では主に後者だ。暇つぶしにからかわれているのだろうとは察しが付く。
「じょーだんじょーだん。真に受けるなっての。ああでもそう言ったら慰謝料くれる?それなら前言撤回するよ?あんたら給料結構いいんでしょ?」
「…………はぁ」
これ以上会話を続ければ頭痛が増す。俺は懐から財布を取り出しそのまま逆さに振ってやる。だから退いてくれ。俺は早く顔を洗いに行きたいんだ。
これはやるから二度と関わらないでくれと言う意味を、彼女は察してくれなかったよう。空気読め。
「うを!こんなにくれるわけ?やりぃ!あんたいい金ヅルだわー」
ニクスの気持ちを知らないエリザはがしっと俺の首筋に抱きついた。ふわりと甘い香水の香りが鼻へと薫る。何の花かは解らない。きっと、タロックには咲かない花だろう。
カーネフェルの感情表現はまだ慣れない。挨拶でもこうやって抱きついたり、するんだと知ったときは吃驚してしばらく開いた口が閉じなくなった。
タロックではそんなことはなかったし、この距離に慣れない。村で唯一の女の子だったロセッタはいつも家の中から出られなかったし。会話なんて窓越しだった。
照れではない。恥ずかしさだ。
ニクスは金を犠牲に彼女から距離を置く。物凄い素早さで散らばった金をかき集める彼女の様は、まさしく金の亡者。
「そういやあんた、もう見回り?げ、やばー」
「いや、まだ。ちょっと顔を洗いに……エリザは?」
「ん?これから使用人のジョンのところに遊びに行くの。あいつもなかなか貯め込んでると見たわ、二重の意味で。お姉さんのテクがあれば一発で落とせると思うのよ!くひひひひ、そうなりゃこっちのもんよ!私なしじゃ生きていけないような体にして!根刮ぎ金を奪ってやるわ!」
しばらくの相手は蓄えが尽きたのだろう。金の切れ目が縁の切れ目。それを彼女はまさに体現している。
熱く自身の脚本を語っていた彼女だが、不意に思い出したようにこちらを振り向く。何事かと思いきや……実にくだらないことだった。
「あ!その言い方止めなさいよーリジーかベスだって言ってるじゃない」
「カーネフェルの略称っておかしい。上から呼んだ方がそれっぽいと思う。ベスはわかるけどどこをどうやったらリジーになるの?」
「愛称だってのー……それにしてもあんた、少しは身だしなみに気を使ったら?」
この突然変わる話題について行けない。マシンガントークとか言うんだったか。
「血の匂い、取れてないわよ?血の匂いで興奮するって悪趣味な奴もいるけどーそういうのって私的にはドン引きっていうか。ほんとあいつらの加齢臭どうにかならないもんかな。ああ、そんなんはどうでもいーわ」
ゴソゴソとポケットを漁る彼女。その後にはいと差し出される小さな小瓶。香水だろう。そこから薫る匂いは彼女のそれとよく似ている。
「これ、飽きたからあげるわ」
「要らないよそんなの」
「何よ人の好意は受け取りなさいよ。別に女物ってわけでもないし。けっこう高い奴貢がせたのにー」
「高いなら自分で使いなって。俺は要らない」
てか早く顔洗わせに行かせてくれ。
そそくさと彼女の脇を通って立ち去ろうとしたが彼女がそれ許すはずもなく、ぐいと後ろから手が引かれる。振り払ってもいいのだが、彼女は後が怖そう。機嫌損ねると他の使用人にあることないことホラを吹く。俺なんか陰でなんて言われているのか。別にどうでもいいけど……と思っても心は屈してしまうわけで。
「ああ、なぁに?私と同じ匂いになるのが嫌なの?そうよねぇ穴兄弟だと思われるかもしれないものねぇ。可哀想にねぇ全然誤解なのに。それとも誤解じゃなくしちゃう?実際そうなっちゃえば誤解でも何でもなくなるけど?これだけ掴ませてくれたんだもの、一晩くらいいい夢みせてあげてもいいわよ?お姉さんが筆下ろし手伝ったげる?」
「遠慮する」
「なぁに?そんなつれないこと言ってると噂流すわよー?使用人頭は二代目と出来ているって。使用人頭が女癖悪いのはーそれを隠すためのカモフラ的なー二代目は永遠のDTだけどSJじゃないんだぜ的な」
「はぁ!?何馬鹿なこと言ってんだ!」
あまりのことに声が裏返る。
「おお。この反応は黒か。それとも領主様とあれだとか?領主様に奥方様がいないのがちょっと気になってるのよねぇ私」
「んなわけあってたまるか!いい加減にしてくれっ!だいたい領主様は亡くなられた奥様を想っていらっしゃるから再婚をしないんだ!」
「ムキになればなるほど怪しいなぁ…」
「……殺せ。いっそ、ひと思いに殺してくれ」
なんかもう酷い屈辱で涙目になりかける。それに、腹を抱えて爆笑するエリザ。
「あははおかしー。ちゃんとそういう子供みたいな顔も出来るんじゃない。いつもの仏頂面とか胡散臭い笑顔より、今の顔の方が数倍そそるわよ?」
「……何で知ってるんだ」
自分はは頑張って演じてきたはずだ。それなのに、この軽い女はそれを容易く見破った。何者だろう。ニクスの疑問に彼女はにたにたと意地の悪い顔で微笑んだ。そしてからかう悪戯を口にする。
「見てるから。いつも、あんたを……っていったらどうする?」
下らない当てずっぽうだったのかと安堵と後悔で肩を落とすニクスに、彼女は正解を口にする。
「お姉さんはぁ、このセネトレアを生き抜いてきたからー人の演技とか見抜くの大の得意なの。人間観察が趣味っていうかそんな感じ。ここっていい年した奴ばっかでしょ?若くても二十代前半、最悪四、五十みたいな。で、あんた若いから目立つのよ。気をつけなさいよー古参のメイド長年代のおばはんにも年下趣味とかがいてー、"十代いいわハァハァ"とか言ってたし。それなりに変態さんとかいるからさー。筆下ろしの前にバックヴァージン奪われたりなんかしたら笑えるから。三十越えた女は怖いよーマジで」
付け加えられた余計な彼女の情報に、ひくっと頬が引きつるのを感じた。顔の筋肉が痙攣している。なんでだろう。命の危険とはまた別の意味で動けない。
「あははー、子供は子供らしくさっさと寝ることね。徹夜で自慰なんかしてたら不眠症か心不全で死ぬわよー」
「なっ……誰がそんな馬鹿なことやるか!……お前こそ」
「ん?どかした?」
「……遊びすぎて、死んだりすると笑えないから、その……気をつけてな。病気とか、怖いって聞くし」
彼女は軽い。金さえ握らせれば誰とでも寝るだろう。それでもその目は濁りない。どん欲な瞳は、いつだって情熱を忘れない。生きる希望に満ちた、綺麗な瞳だ。
金さえ在れば、何でも出来ると信じているのだ。馬鹿な女。金でだって、命のストックは買えないのに。
その綺麗な瞳が目の前にある。あるってものじゃない。近すぎる。その意志の強い瞳に耐えられなくて首を振って眼を背けようとした時。ふわりと甘い匂いが薫る。
「……っ!?」
キスされた。されている。顔の筋肉がまた痙攣している。何か言おうとして開けた口に入り込んでくるのは、知らない感触だ。
ぽかんとしている俺はよくわからないまま、なすがまま、解放を待った。ようやく離れた濡れた唇。
「あは。奪っちゃった」
俺の口から零れる唾液を細くて白い指先で彼女は拭って、それを自らの口へと含み、ちゅっとわざとらしく音を立てて上目遣いに此方を見る。
「ファーストがこれはDT坊やにはあれだったかしら?」
遅れて羞恥心というものがわき上がってきて、引きつった顔のまま叫んでいた。
「い、慰謝料請求してやるっ!か、返せ!」
「返してあげたんじゃない、体で。足りないって?」
「い、いいいいいいい要らない!近寄るなっ!」
「あはははは!私が病気持ちだったら今ので感染したかもね。旅は道連れってね。その時は地獄までお供してくれるでしょ?」
けたけたと下品に笑いながら彼女は背中を向けて歩き出す。
忠告したつもりだったのに。彼女はどこまでわかっているんだろうか。まぁ、あれだけ口の達者な彼女なら、そうそう失敗なんてしないだろうな。
とりあえず顔を洗って、うがいをしたい。こんな情けない理由で病死とかごめんだ。
そして何よりこの感触を、早く忘れてしまいたい。
「……野良犬に噛まれたようなもんだよな、うん。絶対そうだよ。そうに決まってる」
そう自分に言い聞かせて足を急がせる。でないと何だか情けなくて泣いてしまいそうだった。
*
顔を洗ったときに付着した前髪から滴る水。それが頬へと触れて冷たい。このまま廊下を歩いていたら前髪が凍りそうだ。
長い廊下を抜け、食堂へ戻ったとき、そこは先ほどと打って変わって物静か。他の奴らはもう担当の部屋へ見回りに向かったのだろう。残っていたのは黒服一人だけ。
「遅かったな」
「蛇口が凍ってたんだ」
そう言えばそれ以上ニクスもコルニクスも互いに何も言わなかった。
不意に風を切る音。反射的に手を自身を庇うように手が動く。カシャン。手の中に滑り込む冷たさと僅かな重みと痛み。目を向ければ鈍い鼠色の鍵の束。
「八号室の鍵。それから今日の得物は部屋の前に置いてある」
さっきまでエリザのペースに振り回されて忘れていた妙な気まずさを思い出していたニクスは、見回りという格好の餌をもらって再び彼から逃げるように背中を向けた。勿論そう思わせないように……その足取りは急がせなかったけれど。
そうだ。急ぐ必要もない。俺は今日賭には参加していない。どうでもいいさ。誰が勝っても負けても俺には関係ない。
食堂から離れ、階段を下って一階に着いた頃にはこのままゆっくりすればいいのか急げばいいのかわからなくなっていた。ゆっくりでいいか、どうせ八号室が勝つなんて誰も思っていないのだから。
領主様の部屋は三階。ここには彼の私室以外に、古今東西の武器とそれに関する書物を集めた部屋や彼専用の工房などがある。その全てに共通して言えることは彼のための空間だと言うこと。
使用人達の部屋は二階。武器庫や使用人専用の食堂、寝室。大抵相部屋だが、今の使用人は奇数。ニクスは一人部屋を使っていた。この辺りの幸運がお気に入りとか言われる所以だったりするんだろう。
屋敷の一階はメイド達。大体は二階と変わらないが、彼女たちの部屋は狭い。外からの客を通すの応接室は一階。食堂も二階にある物より大きく、厨房も広く設備は整っている。それが理由の一つ。
もう一つは中庭を挟んだ西の対は空室が並んでいるから。そこは一から十までの札が下げられた部屋。
一見扉の外から見る分には変わらないように見えるそれ。ニクスはその一室へ足を運んでいた。扉に下げられた数は八。今日の見回り部屋だ。
コルニクスから手渡された鍵束。鍵は全部で十。どれも同じように見えるそれを何本か確かめたあと、ガチャと鍵の回る音がする。扉を引くと、中には何もない。物がないのだ。
閑散としたその空間にあるのは地下へと続く階段。他の九室も、これと変わらないものが続いている。
その階段を下るのも簡単な話ではない。階段をふさぐ鉄格子。それを開けて、その階段を下る。階段は螺旋状。その所々に鉄格子。それが何度も続く。その先にあるのが一つの地下室。
そこに居るのは三十人ほどの奴隷。例の酒と食料のためのゲーム。
奴隷は道具だ。使い捨ての道具だ。衣食住を与えるよりも、使い潰して新しい物に買い換える方が遙かに安い。だから彼らには基本的には何も与えられない。それが常識。
溢れた奴隷と言ったら市場には何年着ているのかわからない古びたボロ布のような服を着ている物がほとんどだ。
それでも領主は優しい方だ。水は与えてくださるし、食堂の余り物や食料庫で腐りかけた物や、消費期限が切れたような物は彼らに与える。
残飯処理機か何かだと思っているのかも知れないけれど。服だって、一年に一度は新しい物を与えてくれる。問題は、そんなに長く生き延びられる奴が何人も居ないと言うことだけれど。こればっかりは運かも知れない。
まぁ、そんな食料で足りるはずもない。寒さや飢えを凌ぐには、ゲームに勝ちたい。それはどの部屋の住人も思っていることだ。だって、領主の与える褒美の方が美味しいから。
ゲームで負けた部屋も、まぁ……生き延びられる。ある程度気が狂ったなら。葡萄酒というには嫌な匂いのする深紅。それでもないよりはマシ。
奴隷部屋は人生の縮図だ。人は誰かの犠牲無しには生きられない。それを分かり易い図として見せられている。そんな気がする。
部屋は大抵同じ馬車仲間。同じ日にここへやって来た奴ら。ある程度減ると、十番目の生き残り部屋に移される。だからここは人数が他の部屋より少なかったりすることが多い。領主は大抵この部屋の観察を好まれる。彼らは長く生き抜いてきた猛者。その裏切り合いは、無学な奴隷とは思えないほど、知略を巡らせた駆け引きになるというのだ。
十番室の担当を終えた後、誰もが言う。俺は使用人で良かったぜ。ニクスもそれは同意した、心の底から。
しかし、今日俺の足を運んだのは、今日来たばかりの新入りの部屋。そうだそのはず。この間この部屋は空になったばかりなんだから。
勝つためのルール。それを知らなくとも、死なないための方法はある。新入り達はそれに気付かない。気付いても見ないふりをする。だから勝てない。それが負けていく様。その負けが何夜か続いた後、彼らは禁忌に目覚める。それが何番目かという賭けもなかなか好評。
今日は出遅れた。賭けと言えばこっちが本番。いつも使用人達はこの見回りを賭け事にしている。たぶん、今日はもう無理だな。
(初日のこの部屋に置いてそれはまずあり得ない話だが)奴隷達がいかに早く終わらせようと、ニクスがロスした分の時間は戻らない。
鍵を開ける早さ。これは偏に運だ。自分が鍵の当番になったときに、その全てに傷をつけて印にしようとしても、同じようなことを考えた人間によって傷が増やされ、次その部屋の担当になれたとしても区別が付かずに泣き寝入り。基本的に見回り当番はローテーション。十室十回回ったら、あとはしばらく回ってこない。
コルニクスは仕切る側だから当番には基本的にはならない。突然都合が付かなくなったとか急病とか、そういう誰かの代理でしか……つまり今日の自分は代理の代理。
この仕事は人としての禁忌に触れている。普段はそれをどうとも思わなくても……それでも使用人だって人間だ。感情の揺らぎはある。だから昼間の仕事……それを終えた後、時々我に返る人間がいる。そういう時、当番が来ると吐いたり…それ以来復帰できなくなる奴もいる。だからそう言うときは無理にさせない方が良いのだ。
五本目あたりでようやく地下の扉が開いた。瞬間、むわっと溢れる密閉された場所の空気。いつもにまして、酷い。ちょっと待て。
「いつもより……?」
自分は何を言っているんだ?今日はまだ、この部屋は始まっていない。得物は俺が持っている。与えていない。
自分はもう一年以上もここにいる。血の臭いに鼻が麻痺してるのは認める。自分がそれをどのくらい纏っているかなんてわからない。それでも、だ。空気中のその臭いの濃度なら解る。ああ、これはどの辺りから出た血だとか。これは、何人分くらいの血だとか。これはまだ新しいとか、古いとか。
その感覚が、扉を持ち上げた瞬間、身体走る。
この量じゃ……きっと誰も生き残っては居ない。犯人は少ない。二十人以上の人間をそんな少数で?どうやって?そんな奴に俺は勝てるのか?
武器なんて持ち込ませない。屋敷に入る前に全員検査を受けているはず。それならどうやって?どうやって、こんなに多くの血を流させた?
臭いに遅れて聞こえる微かな声。それは悲鳴だ。防音されているからコレを開けるまで気づけなかった。されていなくても気づけなかったかも知れない。それくらい、声はもう小さい。息も絶え絶え。
何があった!?何かとんでもないことが起きている。行かなくては……行かなくては。
そう思うのに、行きたくない。身体が震える。その震えた自分に教えるのは、死にたくないという感情だ。
化け物。化け物だ。人間が持ってる爪や牙で、これだけの人を殺せるか?殺せても、こんなに、血をどうやって?
見える。見える。死んでいる死んでいる。肉塊の赤い海。生きているのは、きっと一人だ。ニクスはそう確信する。
本能的に、それを開けてはいけないと気付いた。箱の中にあるのは、希望ではない。絶望だ!箱の中に猫の死骸があるかって?猫の死骸しかここにはないさ!そう確信しているのに、どうして箱を開けなければならないんだ?
脅えた心がそう訴える。けれど武器として、使用人としての仮面がその訴えを拒否。命令は絶対だ。領主を裏切ることは出来ない。
そうだ。だから何が起こったのか見届けなければ、報告のしようがない。震える手を叱り飛ばしながら、ニクスは鍵を開けていく。
近づく。近づいている。臭いが強い。もう、何も聞こえない。
冷たい床に尻餅をつく。ガシャンと音を立てるのは腰へ下げた冬椿。俺の力。あの方が、俺のためだけに作ってくれた大切な。
「……アーヌルス、様」
自分は…領主様に気に入ってもらっている。だから失望されたときのその失墜は大きい。
それは裏切りだ。あの方を傷付ける。俺は死ぬ。俺は殺される。惨い方法で。それは俺がかつて話した中のどれかかもしれない。
でもそれは彼が悪いんじゃない。彼の期待を裏切るようなことをする俺が悪いのだ。
俺は疲れているんだ。それで正常に物事を考えられない。感覚が狂っているだけ。そう言い聞かせ、俺は立ち上がり螺旋階段を下る。足音を、息を殺し……一歩一歩確実に。
行っても死。行かなくても死。それならわけのわからない奴のために死ぬよりは、まだわけのわかる人のために、力になりたい。あの方は、本当は優しい方だ。唯……人を信じられない。人に絶望しているだけだ。だから人を殺す。
あの人は人を信じたいんだ。信じたがっている。裏切るわけにはいかない。あの人がそう望んでいる。
それを叶えられない使用人なんて、使用人と言えるか?言えない。
俺は雪だ。氷のように心を、感情を凍らせろ。下る度に強くなる冷気。それが俺に味方して、俺に冷静を取り戻させて行く。
それでも闘争意欲だけは無くさないよう、目を瞑り、一度深く息を吸ってみた。冷気と錆びた血の臭い。そうだ、何を恐れる。俺は何時だってここにいたじゃないか。
俺は何か?俺は人間か?
違う。俺は人殺しだ。人間なんて立派なモノじゃない。
俺は人間じゃない。道具に下るところを救われた、道具。俺は武器だ。あの方の武器だ。俺は使用人、処刑人だ。
俺の役目は何か?人間じゃない俺をあの方は信じてくださっている。俺が武器だから。
武器とは何か。目の前の敵を斬ることだ。斬れない武器は、必要ない。折られるだけだ。
俺は武器だ。相手がどんな化け物だって、俺は斬る。あの方の信頼に応えるために、その切れ味を守り続けなければ。
何度もそう自分に言い聞かせる。震えはもう無い。扉はもう目の前。覚悟は決めた。ニクスが選んだ鍵。こういうときに限って一度で開くのが人生。いいさ。来いよ。
俺の覚悟に従い、重い音を放ち扉は開かれる。
これはパンドラの箱だったのかも知れない。開けてはならない禁忌の箱。
俺はそこで、俺にとっての絶望……一人の悪魔と出会った。
それは……長い長い、金色の髪の……目のない悪魔。
足下の死体達の誰もに、瞳は無くて……赤と黒の二色の瞳達。それがじっと床から此方をを見つめていた。