22:Alitur vitium vivitque tegendo.
「……っ、これで……満足!?」
「ああ、いい演技だった」
声が聞こえる。男の声と、女の声だ。
男は淡々と。女は怒りと悲しみを宿した声だ。
「何が不満だ?選択したのはお前だろう」
「うっ……うう、そうよ!私が選んだわ!」
ディジットが泣いている。
自分はそれを止めたくて、何か声を作ろうとするのだけれど、言葉が出ない。
「弟か、妹か……それか思い人か。これから一つを選ぶのならどれにすると私は聞いたのだったな」
何の話だろう?よく分からない。ヴァレスタはそれを思い起こすように一つずつ数え上げた。
「双子の一人を選べば、そのどちらを選んでも見捨てた者を思い出す。だからお前はあの男を選んだ……違うか?」
「お前はよく働いてくれたからな。おまけとはいえ、もう一匹先払いで返してやったんだ。感謝こそされても恨まれる筋合いはない。あれが学者共の実験に使われたのだとしても、それはお前が許容したことだ。笑わせるな、家族と言っておきながらお前はあれらを奴隷として売り渡したに等しい」
「確かに道理だ。人間と奴隷。人間と道具。どちらを選ぶかなどわかりきったことだったな」
泣いている。泣いている。それは彼女なのか僕なのか。わからなくなる。
唯、自分がゴミだと言われる理由が分かった。そんな気がした。だって捨てられて、踏みつけられてそれでもまだそこにある。
悲しくても、辛くても、誰もそんなことを知ろうとはしない。だってそれはゴミだから。打ち棄てられたゴミの気持ちを理解しようなどという酔狂な人間はまずいない。
(こうして捨てるくらいなら……最初から、最初から……)
助けてくれなくて良い。通り過ぎてくれれば良かった。
見つけてくれなくて良い。金目的にでも引き渡せば良かった。
どうせ最後に捨てるなら、どうして拾ったり何かしたんだ。幸せなんか知らずにいれば、こうして突き落とされる痛みを知らずに居られたのに。
両親に売り飛ばされても、何も感じなかった。でも彼女に捨てられたということは、深く心に突き刺さる。
例え彼女が他の男を見ていても、振り向いてくれなくても、弟扱いされていても……報われることがなかったとしても。それでもそれは確かに幸せだったのだ。
今がそんなに苦しいのは、それが確かに自分にとっての幸福だったと照明している。
(さよなら……ディジット)
泣いても何も変わらない。そう思ってきた。
それでも、泣かなかったから……それで何になるというのか。泣かなくとも何も変わらない。無意味な選択肢だ。どちらを選んでも、同じ事が起きる。それに出会し感じる心も同じだろう。
つまり、全ては無意味だ。この世界に、自分というちっぽけな存在の、思いや考え、意思などあってないようなもの。
人は人などではない。人にとっての他人とは、あの男の言うよう、奴隷で道具でそして塵芥。人と人との関係は利用するか、されるかで。支配するか、されるかだ。
搾取する側とされる側。自分はその全てにおける、後者だった。
それを認識できてしまうと、もう泣くか笑うかするしかない。それも終われば、もう何も感じない。何も考えない。こぼれ落ちて、抜け落ちて、やがてそうなる。
(貴女が大好きでした。だけど、僕はもう………何も感じなくなるんだろうな)
もし道ばたですれ違って。そこで彼女が死んでいたとしても、胸を痛めることはなくなるんだろう。
それくらい、彼女を何とも思わなくなる日がいつか来る。すぐに。そこまで来ている。
このまま深く目を閉じれば。何も聞こえなくなるだろう。もう何も聞きたくない。
そうして暗い闇の中、この黒に分解されて、溶けて消えてしまえないだろうか。
そう願えば、次第に音が遠ざかる。クレプシドラが耳を塞いでくれたのだろう。ほら……もう何も聞こえない。
願いを叶えてくれるあの精霊なら、きっとこの心を知っているだろう。
(クレプシドラ……お願いだ。君にしか頼めない)
(どうか……僕を殺してくれ)
咽が渇いて居るんだろう?この身が枯れ果てるまで、この血を啜ってくれないか?
こんなゴミにも価値があるのなら、君の腹を満たせるのなら、それはこのまま生きるより……余程意味のあること。そうだろう?
息を吸う。発動のため、今こそその名を呼ぶために。
*
牢の内外では、長時間にわたる口論が続いていた。
「何を考えて居るんだフォース!あれは混血だぞ!?おまけに殺人鬼だ!あんな奴の傍にいたらお前まで危ない目に遭うよ」
「いくらグライドでも、リフルさんを悪く言うのは許さない!そういうお前こそ!なんで奴隷商なんかの言うこと聞いてるんだよ!?」
「ヴァレスタ様は、いい人だ!僕のことを助けてくれた!それに素晴らしい人だ!お前は彼の商才を知らないからそんなことが言えるんだ!彼の手腕を見たら飽きないに携わる人間なら誰だって魅了されるよ」
「俺は商人じゃないし!!そんな……大体魅了っつったらリフルさんだって凄いんだからな!変装の名人だし!女装とか凄い似合ってて凄いんだ!グライドだって見ただろ?ていうかアルタニアで……」
「ぼ、僕の黒歴史を思い出させるな!!確かに似合ってるが唯それだけじゃないか!ヴァレスタ様だってその気になれば変装くらい余裕だよ!……ってそんなことを言いたいんじゃない!ていうか何でお前はまた逃げ、捕まってるんだ!」
フォースはもう何時間も説得を試み、相手の言葉を否定する。しかしグライドも同じ事をしている。そしてどちらも折れない。
自分より大人びた態度の彼と、こうやって言い争う日が来るとは思わなかった。
グライドはいつも落ち着いていて、言葉を荒げることもなくて、優しくて。
(それが、どうしてこうなった!?)
奴隷商の手下になんかなったりして。自分が奴隷として酷い目にあったことを忘れたのか?
大体リフルのことをよく知らない癖に、よくもそこまで悪く言うことが出来るものだ。以前の彼だったら、知らない人のことを悪く言うのは良くないよとか素で言っていただろうに。
「でもあれはかなりの大サービスだったんだぞ!そうだあの人は人殺しだ。だけど相手は選ぶ。お前が俺の友達だって知って、お前が奴隷商の使いだって知ってて見逃してくれたんだ!リフルさんは優しい人なんだ!」
「それは何かの企みがあってのことに決まってる!僕を籠絡させて、ヴァレスタ様に害を成そうとしたんだろ!?大体あんな……あんな方法使うなんて最低だ!」
「ちゃんと解毒してくれたじゃねぇか!何が不満なんだよ!?普通あんなことされた標的は死ぬんだからな!逆を言えばそれくらい価値があるとも言えるじゃないか!」
「あ、相手が純血の女の子なら満足だけどね!?相手は混血の男だろう!?不満しかないっ!?……思い出すだけで吐き気がする」
「なっ!そこまで言うか!?リフルさんは綺麗だし!確かに野郎かもしれないけど」
「お前……どうしたんだ?おかしいよ」
「お前の方がおかしいって絶対」
大声で言い争うフォースとグライドに、他の牢の住民達が眠たそうに口を挟んだ。
リィナはロイル探しで心身共に疲れていて、ロイルはロイルで見張りから暗殺から頼まれてやはり疲れているようだった。
「結局平行線ですね……ちょっと休憩しませんか?」
「お前らうるせーぞ。俺昼寝してーんだけど。レスタ兄に扱き使われて十時間睡眠取れてねぇんだ。六時間とかあり得ねぇよな」
「ロイル……私がここのところ何時間睡眠だったかそんなに知りたい?」
「わ、悪い……リィナ」
「ロイル……私が怒ってる理由解ってないけどとりあえず今謝ったでしょ?」
「あ、ばれたか」
「ロイルの馬鹿っ!!」
今度言い争うのはロイルとリィナ。その姿に自分達を重ねた。それはグライドも同じようで、溜息を吐いている。
「……これ以上言っても話が進まないな」
「……ああ、それは同意」
鉄格子を挟んで、クールダウンに十秒ほどを取った後。グライドがやや妥協気味に、なるべく穏やかにと考えながら言葉を紡ぐ。
「お前があの人殺しに救われたっていうのは信じても良い。だけどあいつは混血なんだ。混血が、純血を本当に信頼するとは思えない。お前は利用されてるだけなんだ」
その言葉はフォースを心配している。してくれている。以前と変わらない彼の姿に見えた。
だから、フォースもこれまでのように強くは言い返せない。
「……何で、そんな風に思うんだよ?」
「あいつが混血だからに決まってるだろ」
「それじゃ理由にならないだろ」
「それで充分じゃないか」
肝心なところで噛み合わない。歯車が合わさり軋む音がする。
価値観の相違。それが離れていた間に出来てしまった。自分たちを取り巻く状況は変わったが、何かを思う心までは変わっていない。そう思うのに、どうしてこんなに話が合わないのか。
「混血にだって、いい人はいっぱい居る」
「奴隷商だって同じだよ」
商品の認識。その境界が違うだけ。その人格までは侵さない。
グライドは奴隷商寄りの考えから、混血は商品だとしか思えない。けれど自分は、彼らを商品とは思えない。
自分たちの言い争いは、菜食主義者と肉食主義者の論争みたいなものだ。
野菜は生きていないから食べても良いとか。野菜は喋らないだけで生きているとか。
肉は駄目なのにどうして野菜ならいいのかとか。野菜だって生きているって言うのなら野菜も食うなよとか。
それが生きているかいないか。それを殺すことを許せるか許せないか。
アルタニアのように島毎に侯爵が定めた法はある。けれどセネトレアの……王都が存在するこの島における法はない。
聖教会が文句を言ってくることはあるが、基本的に殺人を禁止する法はない。
城と議会……そして商人組合の邪魔をしなければ、それは許されることなのだ。
金で人を購うことが出来るこの国だ。どうして殺してはいけないのかという問いへの答えがここにはない。
ここには殺していい人間と、殺し難い人間と、殺してはならない人間が居る。要はその区別、その境界の認識。
その違いが二人を隔てる最たる者だ。
(確かに……俺は、おかしいのかもしれない)
処刑人として殺してきた。それが許されていた。領主が変わり、その罪を裁かれそうになった。それで今度はグライドの言うよう、商人組合に頭を下げればそれを取り下げて貰えて?自分はのうのうと無罪放免。
それは何か違うと思う。
(俺は、人殺しだ)
恐怖から。忠誠心から。恩義から。そんな理由で人の死を肯定した。
どんな理由だって殺しは殺しだ。仕方のない殺しなどはない。事実として、俺は人を殺している。
(……あの人はそれを受け入れている)
リフルはそうだ。それが偶発的なものであっても、自発的なものであっても。相手がどんなに罪深い人間であっても。それを殺めた自分は人殺しだと言う。
ここはセネトレア。金を積めば、身分を明かせば、有耶無耶に出来るかも知れないそれ。それから逃げずに、背負っている。
頼りない背中だ。力だって自分よりない。毒と邪眼がなければ、本当に……すぐにどうにかされてしまうような非力な人だ。
(俺は……)
自分の罪から逃げないあの人だから、尊敬している。混血だからとか、殺人鬼だから見下げる、軽蔑するなんてことはしない。
この国には罪を逃れた人間が山ほど居る。純血だって罪から逃げてる。そいつらだって人殺しだ。人殺しなのに、別の身分でその名を隠しているだけだ。
「あの人は……言い訳はしないんだ」
隠れ蓑、……探せばあるだろうに。自分は王族だから、何をしても良いと傲慢に振る舞っても良い。でもそれをしない。そして彼は言うのだ。自分は人殺しだと。
「辛くても、それを全部自分で抱える。俺なんかの罪まで被ろうとする。そんな人だから……俺はあの人の力になりたいんだ」
復讐心はまだ消えない。この胸に残っている。刻まれている。
それでもいつか……自分のためではなく、もっと多くの者のためにを考えて。その上で自分に出来ることを考えられる人間になりたい。
どうして力になりたいんだろう。それを考えながら、それを言葉に変えてみる。嘘偽りのない、感じたままの心を伝えれば、グライドの赤い目が僅かにたじろぐ。
その直後……
「う、うわ!何だこれ!?」
突如響いた轟音、そして大きな揺れ。地震だろうか?
咄嗟に飛び退いたが、フォースがそれまで立って居た場所に、大きなヒビが入っている。よくよく見れば、小さな穴も開いている。
「下から……?」
落ちないように、崩さないように慎重に覗き込むと何も見えない。暗くて何も見えないが、空洞のようにも見える。それを見たロイル一人がそれを見、意味深な反応。
「……これは!!」
「ロイル、何かわかるの!?」
「そうだ、ロイルはここに俺達より詳しいだろ?何か心当たりが……?」
「ああ。これは………」
勿体ぶる彼の言葉にフォースは早く言えと心の中で三回くらい繰り返した。心なしかリィナの方もそわそわしている。
「これはバトルの香りがするな」
「馬鹿っ!!どうして貴方はいつもそうなの!!」
訂正。苛々だったかもしれない。リィナは思いきりロイルの頭を引っぱたく。
「あ……ごめんなさい、私……」
そしてすぐに気まずそうな顔で彼へと謝罪。しかしロイルの方はけらけらと笑っている。気にもしていない様子だ。
「これじゃあ……兄さんと同じじゃない」
「気にするなよリィナ。俺は頑丈だし」
「…………もう、馬鹿なんだから」
何か自分が凄い邪魔者のような気がしてきた。よくわからないが、良い雰囲気に見える。見ていてこっちが恥ずかしい。穴があったら入りたい。
グライドもそんな気持ちだろう。同意を求めるように彼の方を向くと、彼は神妙な面持ちで何やら考え込んでいた。
「……何かあったのか?この下は確か」
「昔使ってた水路じゃね?昔逃げ道の一つとしてレスタ兄が教えてくれたような気が。確かどっかから城の方に繋がってるんだよな」
「……ということは、そこに居る可能性が」
グライドの疑問にロイルが答え、それにリィナが示唆すると、グライドは瞬時に顔を真っ青にした。
「ヴァレスタ様っ!!」
グライドはあの赤目のタロック人にとことん心酔しているらしい。彼の身を案じ、その彼から命令されていた見張り番を投げ出し走り出す。
「よし、行ったな」
グライドの背中が見えなくなると、ロイルが立ち上がり、にぃと笑った。
そして適当に床を蹴る。ヒビが割れて、大きな穴が床へと出来る。
そしてあっさり手錠を引きちぎり、フォースとリィナを縛っていた縄を引っ張り切断させた。
「牢破ったら脱走だけど、これなら事故の範疇ね」
「事故なら仕方ねぇな」
二人が共犯者同士の笑みを浮かべる。本当に楽しそうだ。疎外感が半端ない。
「上から逃げるより下の方が楽だし、こっちから行こうぜ」
「え、でもこれって高さも下がどうなってるのかも解らないし」
「この匂いだと、水路の水溜めん所だな。水位は割とある。この位なら死にはしねぇ」
「え、え、……え、でも縄とか使った方が」
どこからツッコミを入れればいいのか。躊躇っている内に話はトントン進んでいく。
「フォース君、ロイルに掴まって!」
「え?」
リィナの声に返事をする前に掴まれた。そしてその後すぐに身体を襲う浮遊感。
「落ちてるっ落ちてるっ!!」
「まぁ、重力在るし。そりゃ落ちるだろ」
浮かぶと思ったのか?そんな口調でロイルに言われる。
常識だ。常識だ。しかしいつもぶっ飛んでいる彼に常識を説かれた思うと複雑な気持ちだった。
確かに、ロイルの行ったことは正しく、ロイルの言葉の終わりで水との接触。
確かに死にはしなかったが、痛くないわけではなかった。
ロイルに連れられ、水から這い上がると水溜めの先に通路があった。ここよりは僅かに明るい。現在地の把握も兼ねて、その光の方向へ向かっていくことになった。
リィナが携帯していた薬品を、彼女の持つ矢に付け付ければ松明代わりにはなった。
ちなみに武器は隣の牢にあったのだが、「これも事故なら仕方ねぇな」とロイルが壁を蹴り破り、装備は全員奪取済みだ。アーヌルスの形見を取り戻すことが出来たしロイルには感謝しているが、それでもあれは流石に事故とは言わないと思った。
「ここ、何処に繋がってるんだろう?」
先導するリィナ、その背中を見失わないようフォースが恐る恐る歩いていると、背後のロイルが答えをくれる。
「一つは城だろ。それから外だろ?後はここの何階とかと何階だかだったか。昔はもっとあったんだろうけど、改築したり、他の土地にいろいろ建ったりで塞いだところも多いんだよな」
薄明かりに見るロイルの顔は意味深でありながら、その声はよく考えて無さそうな響きがあった。それにしても、どうしてここと城が繋がっているのか。フォースが疑問に思うと同時に、リィナの声が辺りに響く。
「ここは城の裏側みたいなものですから。商人組合とセネトレア城は裏と表、切っても切れない関係なんです」
元々セネトレアは商人が建てた国。王は議会から選出される。その議席を占める主要メンバーが商人組合に加盟している。だからそれらを繋ぐ隠し通路はセネトレアにそれなりにあるらしい。
「議会のための王。商人組合のための議会。商人組合のための、裏家業。レスタ兄がやってる請負組織ってのは、商人組合の……布いては国の汚い仕事押しつけられてる機関でもある」
「とは言うものの。議会の意見はよく割れますからそれがセネトレア中枢の総意とは言えません。所詮は烏合の衆。金のために集まってるだけの繋がりです」
「セネトレアというのは、強く脆い国です。敵に回せば厄介ですが、味方に付けても本当の意味では味方になどならない。個人個人が自分の利益のために生きている。だからどうあっても厄介なことには変わりがない。ですからこの国をまとめるのは、とても難しいことで……そして報われないこと」
「私には兄がわからない。どうしてこんな面倒な国の……王になりたいなんて望むのか」
フォースには二人が解らない。どうしてこんなにこの国について詳しいのか。
「………え?」
兄?王?何、誰?どういうこと?
「あ、兄貴」
「……え!?」
それを尋ねる前に、そこにいるぜと言う風なロイルの声。咄嗟に辺りを見回すが、光に照らされた範囲に人の姿はない。
「レスタ兄の匂いがする。この先五百メートルってとこか」
そんなに長い付き合いでもないが、フォースもそれは知っている。ロイルは何かある度に匂いでものを例える。それは雰囲気だったり違和感だったり。
「……っ!!」
「ロイル?」
道ばたで知り合いにあったような浮ついた声から、それが別のものへと変わる。見れば、ロイルの身体が震えていた。
「他にもいるな……こいつは、まさか」
ロイルが恐れるくらいのもの。それは、一体どんな者なのか。進むことが怖くなる。
しかしそんな反応をしたのはフォースだけ。
「ちょっと、ロイル!駄目だからね!駄目だから!!」
リィナは慌てている。小声でも、その慌て様は伝わって来た。
ガチガチと歯を振るわせながら、ロイルは二人を追い抜き走り出す。
「これはバトルの匂いがするぜ!血の匂いだ!!」
「馬鹿っ!待ってっ!」
「む、……武者震い!?」
ロイルがよくわからない。それでもここに置いて行かれたら……行きも帰りも解らず死亡フラグ?
リィナももう駆けだした。灯りと言えば、向かう先の僅かな灯り。
「くそっ……もうどうにでもなれ!!」
わざわざ敵の前に姿を出さなければならないなんて。
しかも近づくにつれ、何かが聞こえてくる。女の悲鳴とそれから何かが崩れる音。金属音。少なくともリィナの兄という人物がただそこで佇んでいるという線は消えた。
ロイルがバトルの匂いとか言っていたが、その通り。彼は今、戦っていた。彼……あの男だ。黒髪赤目のタロック人。リフルをどこかに連れて行ったその人だ。何故こんな所に?リフルは何処に?それより何より、目の前のことが信じられない。
男は避ける。遅れて彼が立っていた場所に穴が開く。無数の穴が開いている。
男が戦っている相手が見えない。けれど彼は何かに向かい剣を振る。そしてまた避ける。その繰り返し。
次第に距離を詰めていくようには見えたが、やはりそこには何も見えない。
あと僅か。間合いを完全なものにしようと、大地を蹴った男に向かい、水が降る。何処から?上から?あんな所にも貯水槽があったのか?
そんなことはわからないが、このまま行けば数秒後、男はその水に押し流され、押しつぶされる。
(そんな!)
そうなったら、リフルの行方がわからない。どうすればいい。
躊躇うフォースのその前をロイルが走っていた。彼はそのまま剣一本を両手で掲げ、勢いよく振り下ろす。その刃が水まで彼まで届かないことは明白。それでも彼はそうやった。
(あ、そうか!!風だ!!)
剣を振り下ろす動作。そこから生まれる風。それが水の軌道を僅かにずらす。
ロイルの行動により、男は水から逃れ、見えない何かから距離を取る。
「……変なところから出てきたな」
「事故だぜレスタ兄。床が抜けた」
ロイルが談笑している。その相手があの黒髪男。その男は助けられたことに礼など言わず、その声には感謝の念もなく、今ここにいることを咎めているような声色だ。
(え……?リィナさんの……お兄さんんん!?)
髪の色も、目の色も違う。雰囲気も違う。兄妹だとは思えない。
ロイルもロイルで兄と呼んでいるし何が何だかさっぱりだ。兄弟なのだとしたら、ロイルの方がまだわかる。二人とも同じタロック人だ。
「……で?なんか面白そうな匂いがしたんだけど。俺がやってもいいか?」
ロイルが右手左手にそれぞれ大振りの剣を構える。
「や、止めてっ!!あの子は……あの子はっ!!」
「……ディジット!?」
物陰から現れ、ロイルの前に立ちふさがる影。驚くロイルが発した言葉。それによく目を凝らしてみると、その言葉通り、金髪のカーネフェル人。西裏町の宿にいるはずの彼女が、何故ここに。
その不自然さから、フォースも剣を構える。トーラの行う視覚に作用する数術と同じものかもしれない。だとすれば、ここに数術使いがいることになる。
数術使いは、混血が恐れられる第一の要因。戦闘能力は天と地の差。距離を離されれば、勝機はない。
(いや……ちょっと待てよ?)
このヴァレスタという男は、自分たちにとっては敵のはずだ。それが見えない敵と戦っているのなら、それは自分たちの味方?
(見えない?数術使い?まさかトーラが?)
彼女は捕らえられていない。自由に行動している。エルムとアルムの救出をリフルから任せられていたはずだ。
それで自分がロイルと会って、思わず声を掛けて……気を失った。
今思えば自分が馬鹿で軽率な行動をした。でもロイルが行方不明だとか双子捜しの依頼をされていたとか、そんな情報しか掴んでいなかった自分からすれば、彼は敵陣に潜伏している仲間だと、そう思っても仕方がない。
目を覚ませば引き摺られていて、入った部屋で、また人質。
トーラは気を失ってから見ていない。姿を隠し、逃げる手助けか双子の救出を優先させたのかわからないが、この場所にいても不思議ではない。
(それじゃあこのディジットは……)
トーラが変装している可能性もある。しかしそれなら戦っているのは誰なんだろう。フォースは軽度の混乱で、動けない。それを見たリィナが強い口調で言い放つ。
「フォースさん、彼女は本物です。言ってませんでしたが、私と彼女はリフルさんと一緒にここへ来たんですよ」
リィナはそう言うも、矢を弓につがえている。その視線はディジット……その後方だ。
倒れている。一人の少年の姿。
「エルム!?」
間違いない。顔見知りの彼だ。ディジットのところでは彼にも世話になった。年も近いし、一緒に遊んだこともある。
「駄目っ!」
そんな彼が倒れている。見れば怪我もしている。思わず駆け寄ろうとして、リィナに止められる。それは自分に言った……?いやそれより先にいるロイルに向かって。
何も見えない。それでも何かを感じる。敵意、視線……?前方から吹く緊迫感。圧力。これ以上進むことをそれは許さないと言っているようだ。
それを前にして。さらにはディジットの制止も意味はなく、ロイルを止めるに至らない。
その背中に向かい、リィナが叫ぶ。
「ロイル、お願い!止めて、逃げて!」
「やってみなきゃわかんねーぜ!」
「無理よ!!彼が数術に目覚めたのなら、普通にやって敵う相手じゃない!」
ロイルが地を蹴る。またどこからともなく水が現れ、彼を狙って飛ばされる。勢いよく飛ばされるその水滴は、過去に見た弾丸のよう。奴隷商が、自分に逆らった奴隷を殺したあの道具。この手で、自分も……人を殺した。一番最初の……記憶の中にあるそれを思わせる絶対的な力。撃ち抜かれたら、お終いだ。
(どうすれば……)
その得体の知れない何かはエルムの傍にいるらしい。しかしその射程距離は長く、迂闊に近寄ることは出来ない。
というか今の状況は何だ?
助けるべきエルムがいて。何か訳の分からないのが襲ってきていて。ロイルは味方なのか敵なのかいまいちはっきりしなくて。
いや、ロイルは一応味方のはずだ。ここから逃げようとしていた。助けるべき双子を盾に取られたからヴァレスタに従っていた。しかし彼の行動は読めない。
戦闘本能とでも言うのだろうか?それが一度表に出てしまったら、他のことを考えられない。今が正にそれだった。
振るう、避ける、弾く、かわす。それが楽しくて仕方がない。そんな表情でロイルが跳ね、駆け、踊る。
しかし、相手は水だ。叩ききってもその飛沫が再び迫り来る。全てを風で返すには、大きな振りがいる。貯めもいる。今はそうする暇がない。ロイルは避けきれず小さな傷を増やしていく。
「兄さんお願いっ!ロイルを殺さないでっ!!」
「俺にとってお前は無価値だ。ロイルももはや用済みだ。助ける義理など俺にない。勝手にこんな所に来たのは誰の方だ?」
ロイル自身を止めることは出来ない。仮に毒矢で止めたところで、今度はあの水から逃げられない。自分の力ではどうすることも出来ないのを知ったリィナが縋ったのは、自分の兄だ。
ヴァレスタはそれまで自分が見えない敵と戦っていたことも忘れた風な、淡泊な表情。自分には関係のないこと。そんな冷たい目で妹を見ている。
「兄さんの……っ、道具になります!犬になります!なんでもします!だから助けてっ!彼を死なせないでっ!!」
「……その言葉、忘れるな。お前も俺の妹ならば、契約は死んでも守れ」
その言葉を待っていたと言わんばかりに、男が嗤う。
ぞっと背筋が震えた。グライドは、こんな奴を慕っているのか?これは、そんなものじゃない。一目で危ないものだと思った。
「ロイル、右だ!」
「おう!」
後方から飛んだ言葉。それを素直に信じたロイルは右へと飛んだ。
「馬鹿が」
ヴァレスタは愉快気にそう笑う。
「え?」
着地したロイルがヴァレスタの方を振り向く。その後頭部に落とされたの岩。
それに思いきり殴打され、力業でロイルが止まる。
不意打ちだ。油断していただけあって、ダメージも大きい。
それを狙って降り注ぐ水。それを何かが弾いた。そこまでを見た。
「……!?」
手を引かれる。景色が動く、遠離る。
「ディジット!?」
「ごめんなさい……っ!でも、貴方は!貴方に何かあったら、私はもう……あの子に顔向けできないっ」
彼女は通路を知っているのか?正しい答えをそのまま辿るよう、彼女は進む。ぐいぐいと手を引っ張られる。
「でもっ!俺だけなんて!!」
リィナもロイルも心配だ。それにあそこには、助けるべきエルムがいた。
誰よりもあの双子を慈しんでいたはずのディジットが、どうして今、自分の腕を引く?相手が違う。ディジットがこうして一緒に逃げるべきは自分ではないはずだ。
「でも、エルムが!!」
「いいの!……いいのよっ!!」
微塵にもいいとは思っていない。涙声のディジットの、言い聞かせるようそう叫ぶ。
「もう……あれは、エルムじゃない」
*
「どういうこと……なんだ?」
ディジットに手を引かれ、走り抜けた先は外だった。
ここへ忍び込んだときはまだ明るかったが、もう日も暮れるという時間。フォースが息を整えている内に、釣瓶落としで日が落ちた。
夜に忍び込まなかったのは、昼間の方が人手が多い。そこに集まる情報量も。相手の油断や隙も多い。そこを逆手に取った。トーラの支援があったからこそ、リフルはそれを決行したのだ。
アルムはトーラが逃がしたと、ディジットから聞かせられたが、向こうに置いてきた人間も多い。この作戦が成功したとも言い難い。
「このまま西に行けば……あとは貴方も知っているでしょ?……貴方は逃げて」
「待てよ!!」
もう一度、自分だけ水路へ戻ろうとするその背中を呼び止める。聞きたいことは、山ほどあった。
「……みんな、騙してたのか!?俺も、リフルさんも!ディジットを信用していた!!リフルさんがあそこに向かったのだって、ディジットのためじゃないか!!」
言葉が荒くなるのは、自分が裏切られたという思いがあるから。信じていたんだ。あんなに温かく笑う彼女が、騙していたなんて。騙されていたなんて。
認めたくない。否定して欲しい。それでも彼女をもう、信じられない。
フォースの揺らぐ視界の中で、ディジットの青は冷たい光をそこに集める。氷のような冷たい視線で、彼女が言葉の剣を突きつける。
「………それなら、貴方なら何を選んだと言うの?」
「え……?」
「エルムとアルムと先生が消えた!その中の一人を選べ!無事に帰ってくるのは一人だけ!そんな手紙を送られた!!先生が二人を誘拐!?そんなのは、そう言えって言われたから言っただけよ!!」
息が荒い。必死に、自分の気持ちを抑えようと……押さえきれずに、悲痛な言葉を紡ぐ。
そんな自分を見限るよう、そっと目を閉じ……また開ける。落ち着きを取り戻したとは言えない。それでもそうあろうと彼女は努める。
「…………リフルが消えて、貴方が亡命して、アスカもいなくなった後。私の店は、これまでにないくらい……とても、静かだった。そんなある日。……確か雨が降ってたわ……店先に倒れている子がいた。青い髪の……可愛い混血の女の子」
ディジットは思い出すのも嫌だと言う風に、空白の時を語る。
「その日はロイル達も仕事に出ていて、雨だから常連もはけていて。なんだか物悲しい気分だった。貴方達がいた頃が……あんまりに、忙しくて騒がしくて……何かが足りない気がしていたの。私がその子を助けたのは……そんな寂しさからかもしれないわ」
「口数は少ないけれど、悪い子じゃないと思った。その子を励ますためにいろいろ頑張った。……だけどその子は笑わなかった。初めてその子が笑ったのは、先生が仕事から帰ってきた時だった。……懐いたんだと思った。だけど、そうじゃなかった」
笑わない少女が笑った。何となく、不気味な印象をそこから受けた。前後の文脈、そして今の現状からして、これがいい話であるとは思えない。
「一応先生に診て貰おうと思って、二人を地下にやり……その次の日に、アルムとエルムが消えていた。先生もどこかへ消えていて、あの子一人だけが、小気味よく笑っていた……私は自分がとんでもないものを拾ってしまったことに気がついた。邪悪な瞳を光らせて、その子は笑っていた……そして私に選択を迫った」
可愛らしい少女。その正体は悪魔の手先。どれを選んでもディジットの心は張り裂ける。たった一人しか救えない。他の二人を見捨てろと……悪魔の選択を迫る。
我が子同然に、妹の様に愛している他人。弟のように想っている他人。想いを寄せている他人。
(俺は……)
もし自分がそんな選択を迫られたら。たった一人を選ぶなんて、恐らく出来ない。誰を選んでも後悔が残る。
ディジットも同じだ。そして彼女は、消去法を選んだ。
「アルムとエルム……どちらかを選べば、私はその片割れの影に一生脅え続ける」
愛していないわけではない。愛しているのだ。それでも、一人を選べば選ばれなかった片割れが、自分は見捨てられたとそう思うだろう。
二人とも、平等に愛しているつもりだった。だから……ディジットは、二人とも平等に……見捨てなければならなかった。
洛叉を選べば、二人への未練は引き摺るが……いつかはそれを忘れられる。想い人も取り戻せる。だからディジットは、それが最善だと考えた。
「私は狡い人間よ。先生が好きになってくれるはず……ないわ。彼が好きで好きでどうしようもなくて、アルム達を見殺しにする。それを真っ先に選べない。そう出来るところまで、私は彼を好きではなかったんだと私は……あの子に言われた。お前は兄さんに相応しくないと笑われた」
一人で守ってきた場所を、青い悪魔に踏み荒らされた。何時誰が帰ってきてもいいようにと、待っていた彼女は……そんなぶしつけな訪問者に大切な者を奪われ、その心まで壊された。
「後は……指示されたように、私はあそこでリフルを待ち続けた。ロイル達にそれを依頼したのは……あの悪魔から一人でも多く取り戻す……その可能性を夢見たんだわ」
そしてリフルが現れた。そこからのことは、フォースも共に見ている。
「私……最低よ。あの子を騙してる。騙しているのに……もし叶うなら、全員助け出して欲しいと思った。あの子はそれを約束してくれた。……私はあの子を裏切った。それでもそんな私を信じてくれている……」
真っ直ぐに信じてくれるから、心が痛む。どうか見破って。助けて欲しい。そう言えたならどんなにいいか。
ディジットはボロボロと涙を流す。気が強く、いつもしっかりしている彼女のそんな姿を想像できただろうか?
今の彼女は、あまりに頼りない。
「無理を言ってトーラ達に頼んで、あそこに乗り込んで…………貴方も人質になったことを私は知った。リフルには……あんな思いはさせたくないと、思ったの……」
どれを選んでも、傷つき悲しむ事しかできないのなら。せめてその選択肢を減らすための行動を。
「だって、あの子……泣くでしょ?貴方に何かあっても……」
ディジットが笑う。無理して笑う。泣きながら。
止めろ。止めてくれよ。
自分はそういうのに弱いんだ。もっと責め立てるはずが、言葉を、声を失ってしまう。
何も言えないフォースの耳に、ディジットの懺悔は続く。
「エルムも、アルムも……傷付けた。私は今更動いても……もう遅かった。出来ることをしようと思ったけど、遅すぎたのよ……。さっき……あの人達が戦ってたの、何か解る?」
見えない何か。得体の知れないもの。
そんな認識のあれについて、ディジットが答えを打ち明ける。
「あれはエルムよ。エルムの意思」
「意思……?」
「思ったことを、叶えてくれる何か。私には数術の才能がないから見えないけれど、数術使いはそれを精霊と呼ぶらしいわ」
聞いても解らない。フォースにも数術の才能はない。願いを叶えてくれる何か?それが引き起こしたのが、あの訳の分からない暴走?
「あの子は願った。それを止めようとした……だけど私の言葉はもう、あの子には届かなかった。当たり前よね……私はあの子を見殺しにしたんだもの……」
自嘲気味なディジットの言葉。俯いたままの彼女が紡ぐ。
エルムが変わってしまった。その意味を彼女が今、言い直す。
「あの子は壊れてしまった。あの子は死のうとしていた。私達は……それの邪魔をしていたの」
*
手足を縛り、床に転がしておいたそれが、目覚めるには暫くの時が必要だった。
精神的に追い詰められていたのだろう。現実から目を背けたいのだろう。
それでも何時までも待ってやってやれる程、ヴァレスタは暇ではない。時は金なりとも言う。時を費やすならば金に結びつくことをすべきだ。
数術使いの数術により、一応は塞がったように見える傷口。しかし完治までは行かなかった。そこまでの時間はなかった。
肩口に柄で強く押せば、びくと身体が跳ね上がる。余程痛かったのだろう。途端に彼は目を覚ます。
目を開けた少年……確かエルムとか言ったか、それがその桜色の双眸が最初に浮かべたのは驚愕の色。
ぱくぱくと口を動かし、呼吸を繰り返し、それでも一言も発することが出来ないことに驚いている。
「……惨めだな」
彼の全ては、その一言で事足りる。彼の現状を言い表す打って付けの言葉だ。まずはそれを自覚させるため、その惨めさを一つ一つ数え上げてやることにした。
「お前は置いて行かれたんだ。あの数術使いはお前の姉だけ連れて逃げ出した」
精霊に憑かれていてどこまで記憶があるか不明だが、何処まで覚えていたとしてもそれは見捨てられたと解釈できる。事実、交渉ではこれを連れ帰ることを向こうは決めていた。しかし置いていくだろう事は予測済み。これを連れ帰られても困ることがあったが、それにはあの数術使いは気付かなかった。
あれがどの程度信頼できるかはわからない。今となってはこれが保険のようなものだ。
「まぁ、当然の結果だ。お前は得体が知れない。危ないものを憑けている。誰だって好きこのんでお前なんかの傍には来たがらないさ」
そこまで言って。それでもヴァレスタはエルムに近づいた。悪い話は近くで聞かせてやった方が耳に届いていいだろう。手間を掛けてくれた礼は念入りにしばければならない。
「お前の音声数術は確かに恐ろしい。だが、一度声を奪えばこんなものだ。数術を使えなければ、お前は唯の子供だ。それを理解したか?」
空になった薬瓶を見せ、一時的に声を奪ったことを教える。こんな家業だ。こんな薬も必要になる。
洛叉は気むずかしい男だが、あらゆる側面への才能だけはある。奴が持てなかった才能は、数術だけだ。こういう便利なものを作らせて、右に出る者はいない。
故に、この少年は積んだ。王手だ。これは音声無しに抗う術を持たない。それが奪われたと言うことを、これはどういう事なのかを理解したようだ。
しかし此方が何を言いたいのか。何のためにまだ自分を生かしているのかがわからない。そんな戸惑いを瞳に浮かべ始める。
それにはまだ答えてやらず、ヴァレスタは更にエルムの傷口を抉ることを考える。
「そう言えば、面白いことを聞いたな。お前はあの女に惚れているのだとか?」
ようやく思い出したか。あの青目のカーネフェル女のこと。
あれは願望でも妄想で幻覚でもなく、実際にあったことだと思い出させる。ここまで驚くと言うことは、精霊が全面に出た時の記憶も持ち合わせているらしい。つまりは彼女がここに残ったことを。
余程あの女が大事らしい。それまで抗うことを忘れていた手足や身体を捻り、それを解こうと暴れ出す。もっとも縛ってあるので芋虫のようにごろごろと転がる程度の動き。
傍目に見ていれば滑稽だったが、本人にしてみれば惨め以外の言葉はない。その目に憎しみの火が灯る。
「どうしたのかと聞きたそうな顔だな。安心しろ。まだ生かしてある。お前の態度次第では開放してやっても良い」
そう告げれば僅かに瞳の鋭さが鈍る。そこにすかさず棘を刺す。
「しかし、お前とお前の姉との間にあったこと。それをあの女が知ったらどう思うだろうな?」
斬り込まれたその言葉に、桜色の瞳は大きく見開く。
例え無事に逃げ出すことが敵っても、二度と元には戻れない。お前の変える場所は滅んだのだと教えてやった。
「軽蔑するだろう。言葉にしなくてもそれは態度に滲み出る。もうお前を弟だなんて思えない。かと言って、お前に振り向くこともない。お前を見下げて、それでも空回る言葉を口にするだろう。それも当然だ。お前は人以下の獣だ。何だ?俺がそうさせたのだと言いたいか?そうだな、それは正論だ。だが、それはお前の頭の足りなさが原因だ。愚かなのはお前の姉だけではない」
お前は愚かだ。愚かな豚だ。そしてここはセネトレア。弱いお前には力も知恵も金もない。だから搾取される。それが当然だと告げてやる。
そしてその弱さは何も身体的な意味ではない。勿論それもあるが、これの場合精神的な問題だ。
「いつかこうなることくらい、予想できていたんじゃないのか?お前は本気で姉を拒むなら、さっさと逃げ出せば良かった。姉の傍から。あの店から。あの女の傍からな。追ってくるだと?馬鹿かお前は。そういう逃げだからお前は逃げられないんだ」
「僅かでも情を持つからこんなことになる。お前はさっさと見捨てるべきだったんだ。見下げるべきだったんだ。お前にはあの女を軽蔑していい権利があった。実の弟に想いを寄せるなど狂気の沙汰だ。何故それを行使しなかった?」
僅かでも思い入れを持つから、こんなことになる。それを優しさなどと宣う頭の弱い人間がいるかもしれないがそれは違う。それは愚かさだ。先のことを見通すことが出来ない愚か者だ。
もし仮に、これが先を見通していたのなら今ここにこれは生きてはいないはず。
「お前はこうなる前に首を吊るなり腹を切るなりしてさっさと自害しておけば良かったんだ。あの女に俺は短剣を渡しただろう?お前はそれを奪えば良かった。力ではお前の方が幾分有利だっただろう?そうだな。それが駄目でも舌を噛むことくらいは出来たはずだ」
チャンスは与えてやっただろうと教えてやった。終わった後にだって自害することは出来たはずだ。何故それが出来なかったのだと突きつければ、瞳の中に困惑の色が混じり始める。
「つまりお前があの女に軽蔑されることを引き起こしてしまったのは、お前自身の責任だ。そして今、この世界にお前の居場所はない。お前はあの女を拒絶出来なかったことでその場所を殺したに等しい」
「……と、普通の人間なら口にするかもしれないな。俺も途中まではそう考えていた」
突然意見を反転させたことで、その目から困惑の色が更に強まる。此方の思うところが解らないらしい。少しだけ和らげてやった口調にも戸惑っているようだった。
「何、考えてみればそれは違う。お前が何故自害が出来ず、憎むべきあの女を守ろうと、この俺に死に物狂いで立ちはだかったか。考えてみろ。どうしてお前はそうしたのか」
「音声数術の恐ろしさは、そこにある」
数術には様々のものがある。発動の条件、作用条件としては通常の数式展開の他に、言語、記述、視覚、触覚、味覚、嗅覚数術が確認されている。
この場合、この双子の用いる数術は言語系からの発展。声自体を変える数術ならば存在するが、発動条件に声が加わるものはない。
故に五感において、唯一人が扱うことが出来ない数術を音声数術と呼ぶ。これの扱う声は超音波ではなく人の耳に聞こえる肉声として発せられるという違いはあるが、人が超音波を発することが出来ないのと同じような意味合いだと考えればいい。
世界には存在するし、理論上有り合えないことではないが、人ではそれを扱えない。これはそんな数術だ。
言語数術ならば、適確な言葉を用いらなければならず、こちらは音声ではなく言葉に重きを置く。これは言葉を紡ぐことで自身の脳と他者の脳にそれを認識させる。場合によっては記述数術、視覚数術にも変わる。もっともこれは言葉が通じない相手には通用しないという問題点がある。他者と自己にその言葉の意味を認識させる。それが言語数術には必要となる。
しかし音声数術はそうではない。
どんなものでも言い。呻きでも悲鳴でも声を発することで数術を成立させる。
もしこれが自身の声以外にも発動条件を確立することが出来るのなら、手に負えなかった。縛っても意味を成さない。身動き一つ。その動作音。そこまで及んでいなかったのがせめてもの救いだ。
(だが、これは使える)
子供の外見。混血の外見。目を引き、そして相手を油断させるには打って付けの逸材。
数術を知る者の常識を覆す、声一つで数術を扱うことが出来るその力。
「……怖くはないか?お前の心はお前の意思を映さない。お前がお前の心と信じたモノは、植え付けられた感情だ。お前は守ろうとして姉を守ったのではない。見捨てられなかったのではない。それを奴が許さなかっただけだ」
弱り切った心に、これまで信じてきたものを否定させる。
憎しみに支配された瞳から、ボロボロと溢れるものがある。
脆いものだ。いたぶっても、脅しても、これが泣くことはなかった。悔しげに此方を睨み付けてくるだけの生意気な瞳が、こうもあっさり崩れ落ちる。
それだけこの少年に及んだ、姉の支配力は強いものだった。それが強制されてのことだったのだと気がつけば、情などすぐに吹き飛ばされる。
憎くて憎くて堪らないはずだ。より強い憎しみに彩られた瞳。泣きながら、それでもその鋭さはこれまでの比ではない。
「悔しいだろう?同じ腹から生まれ、何故こんなに違うのか。憎くて堪らないだろう?どうしてそれが自分であってはならなかったのか」
どうしてこの目を持っているのか。どうしてこの髪を持っているのか。
どうして、自分は自分の望むべき姿で生まれることが出来なかったのか。
「屍のようなお前に、俺が与えてやる」
復讐の機会を。生きる意味を。必要とされるための居場所を。
お前の鏡はあれではない。この俺だろうと、真っ直ぐ瞳を見つめて姿を映す。
此方を見つめるその目に、忌まわしきこの目を。この髪を。さらけ出してやる。
桜の瞳に驚いた様子はない。やはり気付いていたらしい。
王者の瞳に魅入られたか、羨望の色が僅かに灯る。ここまで来れば落とせる。最後の仕上げだ。
「お前は俺の道具だ。道具は考える必要はない。思い悩むこともない。それは俺がやるべきことだ」
精霊に以後背くことが無いように、それを命令させるため、他の薬を飲ませる。これで声はもどるだろう。床に転がる身体を起こさせ、笑みかける。この少年に抗う気力はもう凪いだろうが、一応精霊への警戒はしておくか。
「三流精霊、水は差してくれるな」
「……クレプシドラ、止めてくれ」
少年が力なく首を振る。既に何かやろうとしていたのか。油断のならない精霊だ。
そんな精霊を宿しながら、少年の目は虚ろだ。もう何を信じて良いのか解らない。何も信じたくない。そんなことは面倒臭い。もう何もかもが面倒臭い。消極的な死を肯定する瞳をしていた。
僅か数時間前まで、死に物狂いで足止めを企んでいた頃の面影はない。それまで信じた全てに裏切られたのだ。こんな風にもなるだろう。
虚無に取り憑かれた少年は、僅かに灯った明かりの言葉も信じない。数秒前の自身の思考も感情も、もはや否定の対象だ。
「……どうして俺があんたに力を貸すだなんて思うんだ?……僕はもう、何もしたくない。あんたが俺をゴミだというのがわかったよ」
「……聞いていたか」
「あんたの言葉で思い出した。夢かと思ってたけど……」
あの女がこの少年を見下げることはない。しかし、そうなってしまっても構わないと所有者であったあの女が認めた。それはつまり、これらが奴隷だと認めたに等しい。
こうなった要因の一つが想いを寄せる女だった。少年は、完全に依るべきものを失った。
「捨てるくらいなら、最初から拾わなければ良いんだ。人間は、ゴミに心があるなんて知らない。もう一度捨てられた時、どんな思いになるかも知らない。どうせ切り捨てるのなら、最初から……優しくなんかされない方がずっとマシだ」
「ゴミだって泣くんだ。ゴミだって傷つくんだ……」
「……そうだな」
少年は思い出していた。女の言葉を聞き、自ら死を願った。それを精霊に命令したことを。
「お前は望んでいる。道具としての生を望んでいる。人の振りをすることには疲れただろう?お前は道具だ。塵芥には価値など無いが、道具には価値がある。だが道具には使う者が無くては意味を成さない。捨て置かれれば埃に埋められ朽ち果てる」
傷つき疲れたその胸の隙間に手を伸ばす。後一歩と言うところで、この少年は頷かない。もう何も持ってはいない。空っぽの抜け殻。それなのにまだ落ちない。落とせない。
「この俺が価値なきお前に価値と意味を与えてやると言っている。それの何が不満だ?お前は死にたいと口にしたな。それは俺が今まで言ったことの全てを肯定しているに等しい。お前は死を望んだ。逃げたかったのだ。今から、自分から。それを取り巻く全てから」
「お前は死んだ。あの言葉を口にした時、お前は人としての自分を殺した。それでもお前は生きている。それはお前が道具だからだ。道具には死など無い。使われるか、使われないか。俺はお前を使ってやると言っている。いい加減人の振りをするのは止めろ。認めるんだな、自分が人ではなく道具だということを」
何も考えずに、悩まずに……それでも必要とされる生。
(この俺が使ってやると言っている。必要としてやると言っているというのに、何故こいつは靡かない?)
こんな無気力な抜け殻が、プライドを刺激する。あの姫のように、全てを手にしているわけでもない。踏みつけられて突き落とされて、全てを失った、哀れなゴミが。そんなゴミが、この自分を拒絶する。それはあり得ないことだ。あってはならないことだ。
こんな腑抜けさえ、思い通りに出来ないのか?自分はこの国を統べるべき人間だ。こんなゴミ、こんな子供……これ一つ、思うがままに操ることが出来ないのか?従えることが出来ないのか?
お前は王の器ではない。そう言われた。言われ続けた。
(何故だ……!?)
自分は限りなく多くを持っている。剣も知性も、その気になれば品性も。表と裏の礼儀作法は覚えている。商人としての才能も、金の集め方も、人の操り方も従え方も心得ている。
それなのに、どうして?
あの混血。自分によく似た境遇のあの男。あれは持たざる者だ。地位も名誉もない。自分のように裏の世界とはいえそこで足場を作ることもしなかった。あれは壊すだけだ、作るものではない。
あれは非力だ。力もない。駆け引きの才もない。弱点だらけだ。付けいる隙ばかり。
顔見知り程度のために、危険を冒すなど愚の骨頂。いつ犬死にするかわからない。そんな男に、王の資格はない。王とは統べる者。従える者。命令を下す者。それが何だ?あの男は。
(気に入らない……)
洛叉の目。自分を見るときは、心までは従っていないのが見え見えのその目。渋々従ってますと顔に書いてある、あの目。
それがどうだ?あの男を目にすれば、物欲しそうな顔。命令を待ち望んでいる、犬が腹を見せるような服従の目。自分とあの男の何が違うというのだ。人の上に立つということをまるで理解していないあの人間。あんな殺人鬼に、どうして人が集まる?
「あんたはさ……生きてて、楽しい?」
憎しみに歪む視線を受けながら、少年はそんなことを呟いた。
「俺は楽しくないし、あんたも楽しそうに見えない」
「黙れっ!黙れっ!!誰がっ……誰がっ!!」
(楽しいだと?そんなふざけたことを)
そんな事、思う暇などない。あったら金を作れ、人脈を作れ、弱みを握れ。世界は、他者は、蹴落とすためにある。この俺に踏みつぶされるためにある。
ヴァレスタは、怒りのままにエルムを踏みつける。
思い切り踏みつけてやっても痛がらない。肩を狙った時も、口を引き締め僅かに眉を動かすだけ。このまま殺されても構わない、そんな風に思っているのか?
鋭い目つきになって此方を睨み付けてくるのは少年ではなく、それに憑いている精霊の方。号令さえあればいつでも、と警戒心も顕わに此方を見ている。
「クレプシドラ、……何もするな。俺の願いだ」
「何のつもりだ……?」
しかし少年は、それを止めさせる言葉を作る。
抵抗もしない。悲鳴も上げない。まだ悲鳴でもあげれば、そう……楽しい。愉しめる。しかしこの抜け殻の少年は、愉しませる気すら起こらないらしく、桜色の瞳が全てを見透かすように虚ろに語る。
「……俺はあんたが王だと思う。傲慢で、尊大で、人を何時でも見下すくらいにプライド高くて。人を従える才能がある。振る舞いも完璧だ。だけど……あんたは混血だ」
落とすための共通点。共感を呼び起こすため、忌まわしきこの姿を見せた。その結果少年は認める。この俺を王だと認める。それでもその目は未だに虚ろだ。
「俺はあんたが王だと思う。だけどこの国の、この世界の大部分の人間にとって……あんたはゴミで、人間以下で、愛玩動物、奴隷なんだよ」
言い聞かせるように、諭すように。遙かに幼い少年に、自分は今世界の認識を教えられていた。
周りの目。俺を見る周りの目。
積み上げたものも。足がかりも。一瞬にして崩れ落ちてしまう弱点を自分は生まれ持っている。
守られるべき約束が、果たされなかった約束が、鏡の中に映された。生まれながらにアイデンティティを奪われた存在だ。
(生きていて……、楽しいかだと?)
ゴミはゴミ。生きてはいない。生まれてもいない。だからこそ自分は、生きる。生まれるのだ。
母の腹から生まれる前の記憶を持っているか?いないだろう。存在していない人間が、楽しいと感じることは出来ない。そうだ。死んでいる。この生は死んでいる生。
生きていない生などは、死と同じ。楽しいなどという感情が生まれることはない。生まれるのは尽きない苛立ちと不快感。目に映る全ての景色が忌まわしい。さも平然と、純血として生まれた人間が憎い。誇りもなくゴミ同然の身分に落ちる混血が汚らわしい。混血の癖に認められている奴が疎ましい。
世界に散らばる色。その多様性がこれほど醜い世界を作り上げた。世界はそこまで複雑でなくて良い。必要なのは二色だけ。黒か白か。勝ちか負けだけ。
(そうだ。俺は勝たねばならん)
証明する。自分がここに存在し、生きて認められるまで、足掻くのだ。そのために何を失っても、どれだけ他人を蹴落としても傷付けても構わない。
自分が一体何をした?何もしない内に全てを奪われ捨てられた。そうだ。だから覚えた。奪われる前に奪わなければ。世界は征服者と隷属者で成り立つ。隷属を拒むなら、征服者にならなければ、骨になるまで血肉を食い荒らされる。他者などそこに湧く蛆。
この蛆は、その本能を忘れた蛆だ。それが生きることだと言うことを知らない。だからこんな虚ろな目で此方を見ている。
「夢なんて、見るだけ……馬鹿を見る。痛い目を見る。叶ったところで報われない。あんたはその夢に近づけば近づくほど、一人になっていく。例えそれを手に入れたって、あんたは脅え続ける。そんな箱の中に行って、あんたは本当に楽しい?」
「ならばお前が俺を愉しませろ!」
予想だにしない言葉がこぼれ落ちた。それは少年にとっても同じ。大きく瞳を見開いて……そこに忌まわしいこの姿を映し出す。
「お前は俺を王と呼んだな。ならば俺の命令に従え。俺の身を守れ。俺の秘密を守れ。俺の敵を排除しろ。そしてこの俺を笑わせてみるが良い」
「お前は今、疲れているだけだ。少し休めばまた思い出すだろう。俺がお前に何をしたのか」
そうだ。少し落ち着けば、憎しみの対象を考える。それが向くのは此方だろう。またあの……憎悪に滾る瞳で此方を見るが良い。獣のような目だ。食い殺さんと瞳と牙を光らせる貪欲な目だ。
欲しがるものが金ではない。それではこれは人ではない。獣だ。野犬だ。飼われることを待ち望んでいる、一匹の獣だ。
「お前には俺を詰る権利がある。復讐する権利。殺す権利もな。……俺はお前を従える。ここはセネトレア、そして俺は王だ。これはセネトレア王の命令だ。お前は従う義務がある。それが嫌なら、この俺を殺せ。その時を今か今かと待ち続けろ」
王は王らしく、傲慢に誇り高く命令を下すものだ。だから言ってやった。今お前が何を考え何を思っていようとこれはもう決まったことだと。
この程度。子供一匹魅了することが出来ずに、どうして国を統べることができようか。従える。何もかも。純血も、混血も。タロックもカーネフェルも、お高くとまったシャトランジアも。いずれ全てを手に入れる。手始めに、セネトレア。
自分が手にするはずだったこの国を、あの姫なんぞに渡して堪るか。
「何時かお前が俺を打ち負かすまで、俺はお前を従える。お前がどう思おうが関係ない。お前は俺の道具だ。道具の言う言葉など俺は耳をかさん。悔しければ人間になれ。この俺を征服してみせろ」