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20:Vulnerant omnes,ultima necat.

 あの男が去った後、リフルは別室へと招かれた。そこで用意された服に袖を通すと、監視役に付いていた洛叉が曖昧な微笑を浮かべる。

 着替えるために縄は解かれているし、これから行う暗殺のためとはいえ、武器も奪わないとは見くびられたものだ。


(いや……足下を見られているというのかもな)


 近づいてきた彼に、鏡の前の椅子に腰を下ろすように指示され、言われるがままそれに従う。彼は解かれた白銀の髪に触れ、それを見栄え良く映るように整え始める。

 櫛で髪を解かされながら、考える。ここで彼を殺すことは出来るかも知れない。でもそれに意味はない。彼を殺して逃げ出して、それで仲間全てを助け出せるような力が自分にはない。邪眼を使っても、暴走させてしまったら問題だ。第一ヴァレスタには邪眼が効かない。だから今はじっとしているしかない。例えどんなに歯痒くとも。

 鏡に映る自分の姿は、いつもの黒服でもなく、仕事の際の女装でもない。それなりに高価な男物の服。貴族の家の子供のような恰好だ。どうもこういう恰好をさせられると屋敷にいた頃を思い出して気分が悪い。

 その不機嫌そうな顔を目に留めた洛叉は機嫌を取るためか、機嫌を損ねるためか嬉しくもない世辞を言う。


「よくお似合いですよ、那由多様」

「そう言うのは私などではなく他の者に言ってやれ。心当たりの一つや二つ、あるんじゃないか?」


 褒められたところで全く嬉しくないので、自分なりに釘を刺したが洛叉には全く聞いていないよう。痛くもかゆくもないといった表情で、闇医者はしらばっくれる。


「さぁ。全く心当たりがありませんね」

「大の大人が思う相手の一人もいないとは、逆に不健康だと思うが」

「生憎私は医者ですので。自己管理は得意ですよ」


 含みを持たせた言葉も彼には届かない。この男がしたことで、心を痛めている人間がいるということを知っていながら彼は、それを何と言うことはないという振りをする。

 それでも一つ、気になっていた点があった。それを聞くのは今しかない。

 振り向かず。視線を落とし、鏡越しでも目が合わないように気をつけながら、リフルは口を開いた。


「一つ、聞かせてくれないか?彼は今ここにはいない」

「そうですね、年齢とスリーサイズと恋愛遍歴以外でしたらお断りします」

「そうか。それならそれらは聞けば教えてくれるのか?」

「いえ。勿論言いませんが言ってみただけです」

「それはつまり、何も答える気はないと、そういうことか」

「さすがは那由多様。相変わらず聡明でいらっしゃいますね」

「貴方に褒められても嫌味にしか思えないのだがな……」


 そこで会話は途切れる。何を言っても彼ははぐらかすばかりで引き出せるものはおそらくない。

 以前より狸らしくなっている。人を苛立たせるための話術に磨きが掛かった。


(まぁ……あの男の傍にいればそうもなるか)


 ヴァレスタという男。乱暴な言動。その歪んだ笑み。穏やかなリィナの血縁者だとは思えない。

 どちらも表の人間とは言えない立場ではあるが、その立ち位置は真逆と言っても良い。

 リィナは西の請負組織。西に属する人間は、奴隷貿易を嫌う者の集まりだ。対する彼女の兄ヴァレスタは、商人組合の裏組織の長。


(似てない兄妹か……)


 なんともなしに、自身と異母姉との対比をしてしまう。彼女と自分は目の色も髪の色もおそらく違う。リィナと彼女の兄もそう。

 男の髪は黒。妹であるリィナの髪は金。そうだ。常識的に考えるなら二人が実の兄妹であるはずがない。兄は純血タロック人。妹は純血カーネフェル人。そんなことはあり得ない。


(義兄妹?……いや)


 あの男はまだ若い。それは組織を治める長として、そう考えるのなら充分若いとそう言える。だが、人間としてなら?十代には見えない。かと言ってそうそう年を食っている風でもない。二十代前半?その辺りだろうか。洛叉よりは年下だろう。だからそれ以上と言うことはまずないはず。

 リィナはカーネフェル人。彼女はリフルと同い年だと聞いていたから、おそらく今年で18。混血が生まれてから今年で20年。

 つまり彼女の両親はどちらもカーネフェル人だと言うこと。けれど彼女が兄と呼ぶこの男の外見はタロック人のそれである。もし二人が本当に兄と妹なのだとすれば、この男は少なくとも20よりも前に生まれたのだろう。20年より先に生まれた混血は、遺伝によって外見を継ぐ。カーネフェル人とタロック人とならタロック人の色が優勢となる。

 そう考えるなら、二人が兄妹というのもあり得ない話ではない。片親が違う。そんなことはあるかもしれない。


(リィナ……)


 初めて彼女と出会った頃を思い出す。

 混血の自分にも優しく笑いかけてくれた彼女。同い年だからととても親しくしてくれた。

 彼女と自分は、不思議と共通点が多いように思う。だからだろうか。なんとかしてやりたいとそう思う。


 片親の違いで兄妹があそこまで違うなら、自分と異母姉もやはり相容れない者なのかもしれない。

 トーラの持つ情報では、セネトレアから彼女に求婚しに行って帰ってこなかった男達の数値例を挙げられて、そのあまりの多さに唖然とした。

 全員が召し上げられたわけはない。全員がそもそもタロックに、城までたどり着けたかもわからない。帰らぬ者は何らかの理由で死んだと考えるのが道理だが、トーラも城の中の情報はそんなに持ってはいない。船に乗ったと把握している人間の数がその程度ということで、実際はそれを上回る人間が彼女に会いに出かけたはずだ。

 男とは馬鹿な生き物だ。実際彼女を目で見たわけでもない。絶世の美女という肩書きだけで、実際その保証はない。そんな女のために命の危険を冒しに行くなんて。

 噂とは恐ろしい。邪眼でさえ、目を合わせるというアクションが必要になる。けれど彼女の噂は、彼女を知らない人間さえ魅了する。

 噂という曖昧な情報は、その曖昧さ故トーラは情報とは呼びたがらない。

 トーラは真実と確定された情報と、他者を欺くための手段を情報とを呼ぶ。しかし彼女が情報として売るのは前者のみ。後者は彼女自身の交渉話術として用いる。彼女自身は大きな嘘から挨拶程度の小さな嘘までよく嘘を吐くけれど、情報屋としては真実のみを教える。それが彼女のスタンスだ。

 故に噂程度の信憑性のものを彼女は買いはしても、売りはしない。金のない者には情報量を減らして、それでも嘘ではないものを安い情報として売る。

 噂にも価値をつけ、その情報提供には金を支払う。それはそこから探りを入れるため、真実を手に入れるための足がかりにするため。

 その噂が嘘でも本当でも、現状における人々の認識という情報は得られる。情報操作で人を操るためには、人々の認識を把握しておく必要はある。そのために噂も、役立つものではある。

 その噂によれば、リフルの異母姉である刹那姫は“美女であることはこの上ない程の美女ではあるが、同等以上の悪女である”……という評価が専らだ。

 悪名高い毒の王家の姫ということもあり、悪い噂には尾鰭が付いて、あるのだかないのだかわからないことまで言われているが、真実かどうかはわからない。

 閉鎖的なタロックに関する情報はどうしても少なくなりがち。国境ギリギリまで向かってトーラが数術を用いてキャッチ出来る情報も偏りがある。タロックが唯一続けているのがセネトレアとの貿易。開港港まで赴いて手にすることが出来る情報も旬とは言えない。タロックは無駄に広いその土地のせいで、生きた情報をリアルタイムで手にすることは難しい。


(……彼女を、この目で見極める)


 彼女がどのような人間なのか。それを知らなければ殺せない。

 タロック王家への憎しみだけで、彼女を殺してはならない。それでも彼女は王族だ。仮に彼女がどのような人格の持ち主でも、その立場があってはならないものならば排除しなければならないし、万が一噂通りの人間であったら、心おきなく排除しなければならない。

 そして今、タロックに手を掛けても大丈夫なのか。躊躇うとしたらその点だけ。その辺りの情報を……いや、出来ることならありったけの情報を彼女から引き出しておきたい。


(しかし私はトーラみたいな力はないからな……)


 それ以外の手を考えるしかない。毒であっさり殺してしまわないように、それで情報を引き出すというのは……


(……まぁ、これも賭けだな)


 心許ないが、策は練ってある。今はそれが上手くいくようにと祈るくらいしか……つまりは何も出来ない。口から漏れた溜息のすぐ後、洛叉が髪を結び終える。


(向かう場所はレフトバウアーとか言っていたが……)


 東裏町からレフトバウアーはそんなに離れていない。商人専用の東検問を使えたはずだ。いつ頃出発するのだろうと、洛叉の方を見てみたが、彼はまだ出かけるような素振りを見せない。どこか、ぼーっとしている。何かを思いやるような横顔だ。それを見て、リフルはもう一つ……気まぐれに賭けを起こしてみることを決めた。


「私はこれから独り言をする。これは独り言だからもし耳に入っても気にしないで貰いたい」


 返事はないが、それでも構わない。これはあくまで独り言だ。


「私にはかつて、信頼していた人がいる。理由は簡単だ。彼はとても博識でいつも全てを知っていて、彼だけが……彼が最初に私に私の忘れた本当を教えてくれたからだ」


 自分というものがよくわからない。嫌な記憶だけが残っていて、その先を見つめても自分が誰だったのかはわからない。

 そんな中、彼から告げられた名前は不思議な響きを持っていた。

 何を信じて良いのか解らない状況下で、妙に動じないその男の言葉には強く励まされるものがあった。


「しかしその人は私の情報をよりにもよって奴隷商へと流した。お陰で私は私に親切にしてくれた人々に迷惑を掛けてしまった」

「……お怒りですか?」

「当然だろう?」


 奴隷商に売り渡し、処刑の手引きをする程度なら怒りはしない。自分は人殺しだ。そうなるに然るべき人間だ。

 しかし、そうではない人間を巻き込んだ彼に、怒りのようなものは今も覚える。


「だが、その人は理由もなくそんな様なことをする人だとは思えない。そしておかしな点が一つあった」


 独り言に聞き返してきた洛叉を忘れ、リフルは再び独り言を語り出す。


「その人は私のことをよく知っている。身体構造という面でなら最も深く理解しているだろう。その人から私の情報を受け取った人は、は私の目のことは知ってはいたが、その目を形成する要因についてはよく知らない風だった」


 彼は優秀な医者であり学者だった。信頼の一因もそこにあった。

 彼はこの目や身体の毒について調べてくれた。それにより、それまで適当に使ってきた毒の効果や性能についてを明かされたのだ。

 どうせ殺すためだけの手段。そう思ってきた毒も、死に至るまでの時間差、解毒方法を知ることで、いくらか人の傍へ寄ることへの恐怖も和らいだ。

 暗殺者としての仕事が捗るようになったのも、彼が毒の解析を行ってくれたから。それには深く感謝している。

 つまり、彼は殺人鬼suitの暗殺方法から用いる毒から対処法まで網羅している。にも関わらず、それを主であるらしいヴァレスタには明かしていない。その理由を考え、思い至ったことがある。


「このわざと残されたように感じてならない違和感が、私を悩ませる。私は考えている。その人はその人の主とは違うことを、私にさせたいのではないかと」


 洛叉は、リフルに何かをさせたいのだ。ヴァレスタにそれを明かさないということは、邪眼の効かない彼への対抗策がまだ残っているということで……まだ逆転の隙がある。そうすると……洛叉は、自分の主である彼を、殺させたいのではないかとリフルは思ったのだ。

 そこまで言い切ると、部屋は静まる。先程のように洛叉が言葉を返すこともなく数分が過ぎた。彼は何かを考えるよう、軽く目を伏せていた。

 その考えが終われば、何かを打ち明けてくれるのでは。そんな思いでリフルはそれを待っていた。


「……そろそろ手配した馬車の用意が出来た頃ですね。行きましょうか」


 が、目を開け時計をちらと見て。洛叉はそう告げ、扉へ誘う。すっかり仕事モードに入ってしまった。とりつく島もない。


(私の思い違いか……?)


 そんあ風には見えないし、今まで知らなかったが、意外とこの男は強情だ。先導する男の背を見つめてリフルはため息を吐く。

 乗り込んだ馬車。固く閉められた扉の音が、まるで彼の心のようではないか。まぁ、その内側に彼も乗り込んでいるという妙な状況ではある。

 ガタガタと走り出す馬車の中。無い物ねだりの思いが芽生える。


(どうせなら私の毒か邪眼に自白効果のあるものでもあれば良かったのだが)


 自分が把握している毒の中に、そのような効果があるものはない。元々ないのか、悪用を恐れた洛叉が敢えて語らなかったのか。それとも通常の接触での影響は無いだろうと調べていない毒の中にそういうものが在ったのか。或いはこの身体を切り裂いて、全てを調べたところでそれはないのか。そのどれなのかはわからないが、今はそのような手段をリフルが持っていないことは間違いない。もっとも、多少頭を捻ればそれと似たようなことは出来なくもない。

 死までの時間に余裕のある毒を食らわせ、その解毒を条件に情報開示を迫ること。

 或いは相手を拘束し、そこで邪眼で魅了する。触れたければ全てを洗いざらい話せと問うことも可能。


(問題は……この男が相手だと言うことか)


 トーラにかけてもらっていた邪眼効果増幅のための視覚数術は、解除方法だけトーラに教わっていた。本来数式とは常人には見えないし、数術使いにだって触れることは出来ない空気のようなものだが、それを目に見える本来の数字として記述し、発動条件、解除条件に組み込ませることも可能。

 筆記数術は、書き込む文字に数術の力を宿すことが出来るような高レベルの術師でなければ不可能だ。三流如きが文字を記したところで、それは唯の文字。数術を紡ぐ数式には変わらない。

 数術を使えない者にこういう筆記数術を組み込んだものを与えることで、数術を使わせることが出来る。ちょっとした者なら聖教会で売られているが、融通の利くものを作れるのは自分の知る中ではトーラくらいだ。

 記された数式を一文字でも壊してしまえばそれは崩壊。効果を消せる。

 仲間が来た時点でその効果を解除してしまったし、もう一度それを紡ぐことは自分には出来ない。

 となると邪眼は危険。情報を引き出す前に殺してしまう確率が高い。

 それ以前に、洛叉には邪眼が効きにくい。トーラの数術無き今、邪眼だけで落とすのは困難。本気で色仕掛けで落としにかかるとしても、毒があるから殺さず目的では難しい。

 毒で命を脅迫しても、何というか……この男が命乞いをする様は想像出来ない。彼は自分の命にそこまで執着を持っているようには見えなかった。となると完全にお手上げ。

 しかし……これをどうにか出来なければ、異母姉をどうにかする賭けももっと難しいはずだ。

 異母姉を殺すか殺さないかはさておいて、突破口を見つけなければ。人質達を助けるためには、ヴァレスタの思惑に従っているだけではおそらく駄目だ。その糸口になるのが洛叉なのかもしれないのに、手が何もない。どうしたものだろう。リフルは深くため息を吐く。


(……?)


 視線を感じる。その方向を見れば、闇医者が此方を見ていた。邪眼が怖くは無いのだろうか?……彼は自身に邪眼が効かないのを自覚してるのかもしれない。

 だとしても、彼の意図するところがわからない。疑問の色が浮かんだリフルの顔に、洛叉は無表情の観察眼に、僅かな失望の色を映す。

 そしてそんな目のまま、馬車の音に掻き消されそうな小さな声で、彼は淡々と語り出す。


「……昔、一人の男がいました」


 それは何かを物語るように、客観的に。自分以外の誰かを、それを自分は近くで見ていた。そんな風な重みを持って。


「その男は人として生を受け、それでいて人とは異なる精神を持って生まれたのです。男は感情というものを理解できず、他人という存在を研究対象、実験素材としてしか認識できない人間でした。男のその性質は、彼の父親から引き継がれたものらしく、父親もまた……そんな最低な男でした」


 それでもリフルはそれが洛叉自身の話なのだと気がついた。それは彼の自己分析の結果なのだろう。


「男には年の離れた兄弟がいましたが、父も男もこれを家族と認識することはなく、研究材料として接していました。それもそのはず、それらはそのために父が娶った女に生ませたものだった」


 これまの客観的に、物語るような語り手口調。それがいつしか自身を語るように変わっていく。観察報告には心は入らない。しかし今の言葉には、彼の心が入り込んでいた。

 それはこれまでの、知りたい知りたいという男から、知りたいが知って欲しいに変わってしまったように思えた。


「いや、男自身……父親からすれば似たような者。自分が生涯賭けても解き明かせないだろう謎。その意思を継がせるための分身。それがその男がこの世に生まれた理由」


 愛を知らずに機械的な営みで生まれた人間は、愛という概念を理解することが出来ない。そしてそもそもそんな物には価値が無く、存在すらも怪しい。人とて獣。すべては何らかの動機付けで説明が出来てしまう。つまり人間はそこまで素晴らしい物ではない。

 けれど自分も人間だ。そんなつまらない自分を、素晴らしいものにしたい。だからこそ多くを知りたい。自分をつまらない物だと認めることが出来ない。

 或いは彼にとって、自己などどうでもいいもので、自身を道具と認識しているのかも知れない。知識を得るための道具が自分。

 自身を道具と認識している人間が、他者を道具以上と認識することは出来ないのだと彼はそう告げていた。


「男は唯、自身の知識欲を満たすことに躍起になった。食事や睡眠を削ってでも、この世の全てを知りたくなった。そのために多くを傷付け、多くを捨ててきた」


 彼の欲は、一般的な人間の欲とは異なるものだ。

 食べたいから死にたくないから食べるのではない。その物の味を知るために彼は食す。

 眠たいから疲れているから眠るのではなく、人体を探るために彼は寝る。或いは違う意味の方でもおそらく。

 彼の全ては尋常ならざる知識欲。自身が世界の構造、その何か一つでも知らないことがあるのが許せない。そんな歪な完璧主義者。

 彼も身体は人間である以上、他の欲求も持っているはず。それでもその全てが知識欲へと繋がっている。

 それは一つの狂気だ。彼は生まれながらに狂気の中を生きている。知りたいという心。それには時として法や常識といったものが憚ることがある。


「医術は男にとって人を救うためのものではなく、知的好奇心を満たすための物だった。治療や診察はそれをよく満たしてくれた。そのために男は人を救い、……時には殺した。医者という隠れ蓑。その肩書きがあれば自由に人を切り裂ける。力が足りずに助けることが出来なかった。そんな言葉一言添えれば、人を殺す権利を彼は持っていた」


 闇医者が言う。自分もまた人殺しなのだ。そこには罪悪も善悪もなく、唯々知りたかっただけなのだと。密かに尊敬していた相手の口からそんな言葉を聞くとは思わなかった。それは驚きでもあり、落胆でもあった。

 親身になって、この毒のことを調べてくれたのも、知的好奇心の為せる技。彼は実際、リフルが何者でもよかったに違いない。

 顔見知りが、突然違う人間に取り替えられてしまったようだ。同じ場所に押し込められている、この人は誰だろう。

 先程までは彼から情報を引き出すことを考えていた。それは彼が自分を殺すことはないと安易に考えていたからだ。彼の立場を考えれば、そんなことをしたところで利にはならない。どういう理由でヴァレスタに従っているかは知らないが、彼の命に背く理由もないはずだ。

 しかし、どうだろう?今目の前にいる男は、自分の知る洛叉ではなく、唯の一人の殺人鬼。

 触れれば毒で何とか応戦出来るかも知れないが、頭は彼の方が遙かに上。体格も、力もまるで敵わない。粗方の毒の効果、その場所は知られている。対処法を知られている自分が、彼に勝てるとは思えない。

 つまり、目の前の男が主の命より、自身の知識欲を満たすことを望むなら……どうにかされてしまう可能性は否定できない。

 人は自分の知らない物を恐れはしないと言うが、全く逆だ。知らないからこそ恐ろしい。何を考えているかが読めない。見えない。次の瞬間、どんな行動に出られるかがわからない。

 死にたがっていた自分だ。死ぬことは怖くはない。怖いのだとすれば、その未知だ。わからないことが、恐ろしい。

 そんな思いから身体が震える。それを見て取った男が、ふっと笑った。


(……あ)


 穏やかで、優しくて……それで悲しそうな目をしていた。

 どうしてそんな目で自分を見るのかがわからない。わからないが、彼を恐れたことがとても残酷なことだったのではないか。今更のようにそう思い、彼を見ていられずに目を逸らす。

 今度はどんな顔で自分を見ているのだろう。見る勇気は無かったが、彼の声から話が再開されたことを知る。


「……そんな時、男は一人の子供と出会った。その面倒事を押しつけられた男は子供の相手をするのが時間の無駄だと考えた。けれどその子供は興味深い側面があり、研究対象としてその子供にいつの間にか心酔していた」


(子供か……)


 確かに洛叉は子供が好きだった。若干危ない視線でアルムやエルムを見つめていた。混血が好きだというのは遺伝学における問答無用のイレギュラーとして、彼の知的好奇心を刺激したからなのだろう。

 そう思ったが、視線を感じる。洛叉はまだ、此方を見ている。穴が開くと視線を例える言葉があるが、それに例えるなら、この皮膚はもう貫通して何処が顔か身体かわからないくらいに穴だらけで血塗れになっている。


(何故私を見るのだろう?)


 確かに自分は混血だ。片割れ殺しという珍しい種ではある。成長が止まっているせいでこんな子供のような見てくれではあるが、子供という年齢でもない。

 しかしこの視線はまるで、これはお前のことだとそう示唆しているようだ。


(私と、先生が?……そんなわけないか)


 彼と初めて会ったのは一年半前。面倒事と言うほど自分は彼に絡んだだろうか?

 むしろあの頃は、奴隷として……主だったアスカのことばかり考えていたような気がする。どうすれば彼の役に立てるか。立派な道具になれるか。こんな自分はどうすれば必要として貰えるか。彼に喜んで貰えるか。

 今となってはおかしな思えだ。今の自分は考えるものが多すぎて、誰か一人を重んじることなど出来ない。かと言ってあの頃より自由に物を考えられるようになったかと言えばそうでもない。多くを抱え込んで、命令に従うだけの道具の頃より、多くを思い、多くを悩んでいるばかり。

 従うことは簡単だ。心を捧げればいい。その一人のために生き、尽くすことこそ存在意義で、至上の幸福と頭に叩き込む。

 つまり、考えることを止めること。脳も心も主導権を明け渡すこと。

 だからそこに善悪はない。望みを叶えてそれが喜ばれれば自分も嬉しい。唯、それだけ。

 道具として生きてきた人間が、人として生きることは大変なことだった。

 自分の頭で全てを考えなければならない。その膨大な計算処理に、心がついて行けなくなる。


「その子供は死ぬ定めにあった。それまで誰が死のうと動じなかった男は……初めて他者の死を拒んだ」

「…………え?」


 これは、一年半前の話ではない。もっと昔のことだと彼は言う。ああ、まただ。また考えることが増えていく。


「それが希有な研究材料の損失を嘆いてのことだったのか、それとも人として思い入れを持つに至ったのか。その時の男には判別が付けられなかった。わからない。わからないまま男は手を尽くした。けれど……助けられなかった。その子供は病に冒されていたわけではなかったから」


 人を殺めて来た医者が、初めて心から誰かを救いたいと思った。しかし、医者とは病から患者を救う者。その子供がリフル自身なら、それは成り立たない。自分は、病弱ではあったが病気ではなかった。死は迫っていたが、それはもっと人為的なものだった。


「先…生………」

「男は悔いていた。自暴自棄にもなっていた。けれどその子供を通じて学んだものが、男を変えた。男は人を人として見ることを覚えた。男は人の心を学んだ。男は説明出来ない得体の知れない衝動が世界には存在していることを認めた」


「しかしそれは屈辱でもあった。傲慢な存在に自身が支配されていることを認めることだった。そこに自由意思はなく、絶対的な力の前に屈することを強いられる。当然のようにそう思う。……私はそれが許せない!認めて堪るか!神など目にも見えない存在を!!」

「…………はい?」


 苦しげな表情の洛叉には悪いが、話がまったくわからない。邪眼の話をしているのかと思えば、いつの間にか話題が別方向へ飛んでいる。


「………邪眼のことではない。貴方のことだ」

「……余計意味がわかりません」

「私は貴方を……いや、……君を好ましく思っている」


 洛叉がそこまで言った後、……突然の馬の嘶き。馬車が突然大きく揺れ、停止した。

 その後、咽せて咳き込むような声が聞こえる。御者が外からの砂埃にでもやられたのか。


「……おい、これには大事な荷物が乗っているんだ。慎重に運転しろ」


 洛叉が大きな声でそれを咎める。運転する御者席の方から謝罪の言葉が聞こえ、その後再び馬車がガタガタと走り出す。

 真面目な様子の彼には悪いが、思いきり吹き出しそうになったのは自分も同じだ。思わず口元を押さえていなかったら、唾毒で彼を殺していたかもしれない。

 それがおかしかったとか笑いそうになったとかそういうことではなく、唯純粋に驚いた。


「……え、ええと」


 突然の言葉に、目を合わせられない。今見たら、邪眼がどうなるかわからない。

 まさか彼の口からそんな言葉を聞くとは。彼は邪眼に大分毒されているようだ。彼に邪眼が効かないのは、ディジットのことを密かに思っているからなのだとばかり思っていたから……油断した。

 こんなことを言い出すということは、余程効いている。末期だ。手遅れかもしれない。

 過去の記憶が甦る。アルジーヌも、彼女の両親も。愛を囁く頃にはもう、手遅れなほどに邪眼に魅入られていた。


「だがらこそ、私は償わなければならない」


 しかし彼は、そこに彼自身の意思を感じさせる言葉でもって……それを否定してみせる。


「私は君を好ましく思う。けれど同時に俺は……私は貴方を憎んでいます、那由多様」


 彼が何時までも、古い名前で自分を呼ぶのは……彼がその過去に囚われている証。

 人を殺めたことを彼は咎めない。身分を地に落としたことも嘆かない。それでも彼は嘆いている。

 どうして私を忘れてしまったのだと、黒い瞳が問いかけていた。


「私は忘れられるために、貴方の傍にいたのか?私はそのために君に仕えたのか?そんな無駄なことに、私は私の時を費やしたのか?そんな、無駄なことで…………私は埃沙に……っ!」

「アイ、シャ……?」


 悲痛なその叫びの終わりに、何者かの名が現れる。洛叉はそれには答えず、変わる言葉を繰り出した。


「…………貴方から教えられたことは多い。だがあの馬鹿から教わったことが一つだけ在った」


 あの馬鹿。そんな風に洛叉が吐き捨てる相手は一人しかいない。アスカのことだ。彼はいつもアスカ相手には言葉遣いが雑になる。あそこまで互いに罵り合える関係というのもなかなか無い。言いたいことが言えない仲より余程仲が良いのではないかと思うくらいだ。本人達は絶対に認めたりはしないだろうが。


「邪眼のせいで多少行き過ぎている節はあるが、あの馬鹿は君に弟としての名前を与え、可愛がった。君がいなくなった後も、あの馬鹿はいつも君のことばかりを考えていた。無茶ばかりするところは、本当によく似ている」


 どうしてここで彼を褒めるのかがわからない。前の話と繋がる部分でもあるのだろうか。

 じっと話に耳を澄ませる。それを探るように。

 今は彼を少しでも理解したい。そんな思いが心に芽生えた。


「何かを見ると言うことは、何かが見えなくなることに等しい。私は貴方に目を奪われて、他を省みることなどなかった。私のしたことにより家は潰され弟は死んだ。妹は……私を憎んでいる。両親も処刑されたのだろうな」


 洛叉がしたこと。それはおそらく、自分の……那由多の処刑に関わる何か。

 そしてそれを行った者がいるとするならそれは、タロック王家の者だろう。


「私には思い入れなど皆無だったとはいえ、妹にとってはあんな男でも父親だった。……片割れを失った妹の気持ちなど、私には到底理解できるものではない。彼女が生きていると知った時、……私は私が引き起こした事の大きさを知った。私は妹のために、何をしてきただろう。傷付けることしかしてこなかった。私は人間としても兄としても最低の人間だった」


 懺悔する洛叉の言葉。それを教会の偶像にでもなった気分でリフルは耳を傾けていた。

 洛叉はアスカと自分を対比して、兄とは何かを考えてきたのだろう。アルムとエルムを可愛がっていたのは、失った妹と弟を重ねてのことだったのかもしれない。そんな二人を連れ去ったのは……その妹に関わることだったからではないか?

 そうだ。洛叉は言った。妹は生きている。生きて彼を憎んでいると。


「多くを知って悟ったのは、私も数字の一つでしかないこと。それは全てを知っても変わらない。それでも俺は……神など認めん」


 全てを知ったところで人は人。それ以上になることなど出来ないと彼が言う。


「……私は貴方を美しいと思う。君を好ましいと思う。だが、私はそう思う心を拒む。出来ることなら君を助けたい。力になりたい。だから、絶対に君の力にはならない」


 それがこの世を統べる数字を操る何かに抗う事に繋がる。

 彼には何が見えているのか。数術を扱えない彼は、何も見えてはいないはず。それなのに中途半端に見えるようになったこの自分より、ずっと多くを知っている。

 洛叉以上に多くを知ってるトーラは、神はいると言った。それを神と呼ぶならば、と。洛叉は数術の才能なくして、それに至った。この世が仕組まれ、支配されていることに気がついた。

 だからこそ、自由はないと知っている。そう思う心さえ、仕組まれているのだと彼は言う。


「私はもう、これ以上神に踊らされなどしない。私は見誤らない。私には私の頭がある。それを神になど明け渡してなるものか」


 彼がヴァレスタに従っているのが、妹を人質として押さえられているだけ……ならまだ話は簡単だった。問題は、彼自身の内面だ。

 彼は自分の心に背くことこそ、計算し尽くされた世界に刃向かう方法だと考えている。


「解決の糸口どころか……問題が増えただけだな」


 寝台に横になりながら、目を閉じてみたが、一向に眠れる気がしない。

 王女が着くまで待機するよう、与えられた宿の一室。外から鍵が掛けられてはいるが、室内は比較的自由に動けるようにされている。人質がある限り、逃げることは出来ないと此方のことを読まれているからか。……実際その通りだから何も言えない。


(妹のため……か)


 研究者としての知的好奇心のためでもなく。人としての思い入れのためでもなく。彼は兄としての自分を選んだ。


「でも……」


 そんな風に選ばれるのは、どうなのだろう?

 本当にその子のために選んだのならば、他人である自分が文句を言う筋合いはない。

 しかし、理由が理由だ。それはかえってその子を傷付けてしまうのではないか?

 これまで研究材料としてしか認識していなかった者に、家族として歩み寄ろうという、その姿は彼には前進かもしれない。それでもその動機があまり褒められたものではない。

 本当に彼女を想い、彼女を思うのではなく……


「私が……思い出せないのが、いけないのか?」


 自分が誰なのかは思い出したとはいえ、処刑前の出来事はよく思い出せない。毒を屠った時のこと。痛みという刺激が伴う記憶なら多少は残っているが、それ以外のことはあまりわからない。

 リフルが忘れたことにより、洛叉は心に従うことの無意味さを知った。彼がどれだけ尽くしてくれたかを自分は思い出せない。それは……確かに裏切りだ。

 彼は彼の忌み嫌う神とやらを、一度は受け入れた。その結果、彼は全てを失った。そして彼は、その神への復讐を誓ったのだろう。

 “思うことが、感情そのものが……仕組まれたものなのだとしたらそれでも私達は生きていると言えるのか?”洛叉はそう言いたいのだ。

 もし彼の言っていることが真実ならば、人は皆奴隷だ。金があっても身分があっても。人は思考を操られた人形だ。だとすれば、この世界とは一体何なのか。そもそも人とは何か。

 そこまで奪う、神とは何か。全てを仕組んで操って。その癖、助けるべき人間を助けない。有能なのか無能なのかどうもはっきりしない。いるのか、いないのかそれだってよくわからない。救う、救わないという前に、彼らは此方を試しているように思える。


「半年……」


 以前トーラが口にした、神の行う審判まで残り少ない。彼らが人を試したいのなら、操ることはおそらくしない。分岐路に立たせ、そこから何を選択するかを傍観する。それが彼らなのだとすれば、彼らもまた研究者。洛叉が研究と称し、その対象を観察している。それを更に研究として見ている者がいる。それが神。洛叉は心に背くことを神への反逆だと考えているようだが、それは違うのではないだろうか。

 選択肢、AB。彼はAだと考える。故に彼はBを選ぶ。しかしそのどちらを選んでも、神は観察を続けるだけ。そしてそこから彼が何故Bへと至ったのかを議論する。そんなものなのではないか?

 人とは隔たった認識を持つ者なのだと仮定すれば、たかだかその選択にも考察するだけの意味があるのかも知れない。彼らはそれほど、人間をよく分かっていないのだ。神とはその程度のモノだと仮定して、神は心を支配するほど有能だろうか?心とは、とても複雑なもの。何も感じなくなりたいと願っても、空っぽにすることは出来なくて、思い悩んだり……矛盾した感情を同時に宿したりする数奇な機械。

 仮に出来るとしても、そんな手間暇の掛かりそうなこと、神はわざわざ一人一人にするだろうか?そもそも彼らの目的に、人を操ることが含まれているかが謎だ。彼らの目的が観察なのだとしたら、人の自由意思を奪うことに意味はない。

 この世の万物は数字。その数字を自在に操ることが出来る万能存在。それが神なら、彼らは世界を自在に作り替えることが出来る。

 けれど、その何処が正解で、何処が誤りだったかがわからない。そこを見極めるため、彼らはありとあらゆる実験をしているのではないか?


(……それは確かに、わかるはずがない)


 同じ種族である人間同士、解り合えていないのだ。もっと隔たった神などが、人を理解することが出来るわけがない。


(私は……)



 *



「…………何のつもりですか那由多様?」

「……あ」



 洛叉が食事のために扉を開けると、部屋の主である少年は震える手で頭の上に壺を持ち上げていた。付近には重そうな本も散らばっている。

 脱走のようには見えないが、意味がまるでわからない。


「……気にしないでくれ」

「普通に気になりますが。……貴方に効くとは思いませんが睡眠薬でも必要ですか?」


 もしかしたら眠りたかったのかもしれないと思い、そう口にした。仮にそうだとしても荒っぽい方法だとは思ったが。

 別に隠す必要もないかと思い至ったのか、少年は正解を口にする。


「……思い出すかと思ったんだ」


 俯きがちに小さくそう呟いた後、確かな怒りの灯った紫が此方を睨む。


「どんな理由があろうと、貴方がしたことは貴方がしたことだ。罪のないアルムとエルムを巻き込んだことを私は許さない」


 かと思えば、そんなことはどうでもいいと言う風に、淡々と言葉を紡ぐ。前の発言を忘れたというわけではないだろうが、非常に切り替えが早い。


「だが、それとこれとは話は別だ。貴方の言っていることが本当ならば、私が悪いことをした。それを謝罪するには、私がそれを知る必要がある。覚えのないことを取り合えずと謝ることは良くないことだ。まずはそれを見極める必要がある」


 これだけ聞けば道理に添った理論めいたことを口にしているが、やっていることは原始的だ。取り上げなかったらあの壺を頭をめがけて打ち下ろしていたのだろう。


「これから大事な交渉が控えているんですからお控え下さい」

「そうだな。確かにせっかく用意して貰った服を血で汚すのは良くないな」


 血が出るまで頭を打ち付けるつもりだったのか。何と言うことはない風に穏やかな顔をしていながら、非常に過激な発言だ。


「しかしどんな理由があろうと、私が貴方を傷付けたのならば、私はそれを謝罪しなければならない。だからそれを知ろうとしたまで」


 言っていることは立派だが、たぶん暇だったし他にやることがなかったからとかそんな理由でやってそうな辺りがこの人の怖いところだ。

 切り替えが早いだけでなく、思い付きで行動する辺りが。目を離すと何をやっているかがわからない。昔からそうだ。ちょっと目を離すととんでもないことをしでかすような、そんな子供だった。

 思わず昔を懐かしみ、苦笑してしまったのが負けだ。やられたな、と思う。その隙を見逃さない辺りは強かと褒めるべきだろうか?


「私が私を殴って思い出せないとなると、後はそれを知る者が話してくれる以外には無いな。私が壁に頭を打ち付けたり、窓から飛び降りるショック療法で思い出す可能性もあるにはある。無理にとは言わないが、命の保証はないぞ?……主に私の」


 自分の立場を解った上で、自分を人質扱いし交渉を迫る。

 さっきまで本気で壺でショック療法を実行しようとしていた人間が、さもこれを狙っていましたと言わんばかりに淡々と切り込んでくるから始末に負えない。

 誰に影響されたのかこの一年半で話術力が伸び、変なところばかりあの異父兄にそっくりだ。此方の方がずっと可愛らしく好感が持てるが。

 いや、話術というより、状況判断能力が伸びたのかもしれない。彼は自分の立場をよく理解していた。

 そしてこの子供の恐ろしいところは、言ったことを本気でやりかねない無防備さ。大抵の人間は口だけだ。これの兄もそのクチだ。計算の上で戯れ言を言う。故にその計算を読み切れば負けはしない。

 はったりは無視するのが一番だが、これははったりでない可能性も非常に高い。なぜなら思い付きで行動するからだ。考えているように見せかけて考え無し。考えていないように見えて考えている。その一瞬一瞬が本気だからこそ、得体が知れない。

 全てを理論詰めで考えるような側の洛叉からすれば、未知とは彼の代名詞だった。計算や数字では測れない。多分使っている文字が違う。彼の思考回路は象形文字か古代文字か未来文字か何かだろう。


「……どうでもいいことではないですか?貴方にとっては。貴方はもっと他に考えるべき事があるはずだ」


 無駄だとは思いながら、一応は止めてみる。


「どうでもいいかは私が決める」


 想像通り、一言で蹴られてしまう。

 真っ直ぐな言葉。真っ直ぐな視線。彼の邪眼の一因は、この真っ直ぐさではないかと少々思う。確かに綺麗な色だ。美しい色だ。けれどそれだけではない。

 強い意志を宿したその目、その声、その言葉。その全てが合わさり魅せられる。

 彼はそれに気付いていない。周りが自分の目と混血としての外見が魅了を行うのだと思っている。勿体ないことだ。彼の言葉にはこんなにも力があるというのに。


「私は貴方のことを理解をしたいと思う。そのためには貴方を知る必要がある。私がやろうとしていることも、考えるべき事も……そういうことの積み重ねではないかと思う」


 那由多は洛叉がしたことを、今だって憎んでいるはずだ。先もそう言った。

 心優しい彼は、自分が犠牲になることは厭わない。しかし他が巻き込まれることを大いに嫌う。彼があの場所から去ったのも、それを恐れてのこと。

 自分は彼のそんな思いを知りながら、彼の性格を悟った上であの双子を巻き込んだ。

 そのことを那由多は恨んでいる。それでも彼は、こんなに真っ直ぐ言葉を紡ぐ。

 これが、魅せられずにいられるものか。自分は他に、こんな人間を知らない。


(彼は、王だ……)


 彼が国を欲するなら、喜んでそれに仕えよう。けれど彼はそれを欲しがらない。それもまた彼らしさであり、彼が人間らしくない所でもある。

 人が住むには国が要る。そして国には王が要る。国を思い民を思い、全てを守ろうという心優しき王が要る。

 人を数字と見ることが出来ない。それは才能だ。彼は人を人と見ることが出来る。それは大きな才能だ。目の前の人間に手を差し出せる。それは彼が母から継いだ美徳だろう。

 もっともその美徳のせいで、あの姫はタロックへと嫁ぐことになったのだから、美徳は他人を救っても自分は救わないのかもしれない。手を差しのばされる洛叉自身も、今では彼を救う者ではない。


「貴方を理解できないような私なら、理解することを投げ出すような私なら……きっと何も成し遂げることは出来ない。だから私はここで諦めたくはない」


 自分は王ではない。王の器にない。故に、王の言葉に屈してしまう。

 ヴァレスタの言葉も王の言葉だ。彼の言葉は支配者の言葉。それを理解した者の持てる重みを持った言葉だ。

 那由多の言葉はそれとは違う。それでもこれも王の言葉だ。悔しげに膝を折る、憎々しげに見上げるのではない。彼の言葉は、自ら膝を折りたくなる。


「……………」


 話すだけなら何も変わらない。どうせまだ時間もある。彼も暇を持て余している。安全に残りの時間を過ごさせるには、自分が語りここに繋ぎ止めるのも重要な役割だろう。

 洛叉はそう結論づけて、椅子へと腰掛ける。それに習い、那由多も机の向かいにやって来た。しかし何から話せば良いものか。

 何とも無しに口から出たのは、軽口だった。


「昔の貴方はそれはとても我が儘で……」

「そ、そうだったのか……?」

「家臣である私に友人となれと命令なさったり。外に出てみたいなどとご無理を言われたり……」


 那由多は俯いて気恥ずかしそうに赤くなる。そんなに我が儘でもなかったが忘れられた腹いせだ。多少の誇張表現は致し方あるまい。このまま核心部に触れず延々と羞恥プレイの言葉責めで時間を稼いでもよろしいが、それでは少々可哀想か。

 それにそれはあんな言葉をくれた彼に対する冒涜だろう。一度咳払いをし、話題を変える。


「元々は那由多様の母君の主治医をしていたのが私の師匠で、その手伝いで城を出入りしていた時にマリー様に見つかったのが運の尽きでした」

「母様が?」

「那由多様の覚えている彼女がどのような人かは私にはわかりませんが、時に母のようで……時には娘のような女性でした。彼女については以前お話したかもしれませんね」

「………ああ」


 母として彼を思う気持ちと。娘として彼を認められない気持ちと。毒に冒され精神を病み、その境界と葛藤に悩まされていた彼女だが、平常時は明るく無邪気で突拍子のない暴走娘だった。はっとするくらい美しい女性だったが、やはり思い付きで行動する節があった。言い方を変えるなら、その明るさと暴走気味の性格が彼女の魅力でもあった。お淑やかなのは見かけだけ。診察で部屋へ入ればドレス姿で畳で昼寝とかざらだった。冬場はそれにコタツが加わることもある。ある時は土鍋で紅茶煮てたり、蜜柑を食べてたり、蜜柑も入れて闇鍋をしていたり。

 軟禁生活で暇だったのはわかるが、王女とかお姫様とかいう単語を辞書でもう一度調べ治したくなる衝動に駆られたりもした。

 そのとんでもなさと言えば、あのタロック王ですら彼女の元へ赴けば、部屋から笑い声が聞こえたという逸話まである。


「か、母様……」


 母の話を聞かされた那由多は、先程よりもっと俯いて赤面。見ていて居たたまれないほど恥ずかしそうだ。


「ああ、この下りはお話ししてませんでしたね。すみません」

「い、いや……」

「妾という辛い立場でそれを感じさせないようあれだけ明るく振る舞っていたのです。毒の王家の人々も毒気が抜かれることもあったでしょう。彼女の調子が良いときは、城でも物騒事は控えめになりましたし」

「そう、なのか……」

「はい。そんなマリー様に私が見つかったことがあり……もう、凄かったですね」

「なっ……何の話だ?」

「マリー様は那由多様との面会を限られていたので、子供との接触に飢えていたようです。母は強しと言いますが、女の細腕で十を越えた私を代わりに持ち上げて振り回されたときはどうしようかと」

「か、母様……」

「そこから数日筋肉痛で湿布を処方しましたね……それからは城で出会う度抱き付かれたり髪を撫で回されたり。他には城に出入りしている子供もいませんでしたし、目に留まったのでしょう。そうして数回話した後、マリー様の命令だと話し相手にと引っ張って行かれましたね……あの腐れ騎士に」

「腐れ騎士?」

「アトファス=キャヴァロ。アスカニオスの父親です。昔は貴方も懐いていてよく遊びに来ていました」

「アスカの父さんか……」


 想像しようとしてもうまく想像できないような、出来るような。那由多は赤面から打って変わってそんな空想を楽しむ顔に変化する。


「須臾王は那由多様との接触を控えていましたからね。殺す子供に情が移ってはならないとの判断でしょう」


 王の名を出して、さっと表情が暗くなったのは失言だったが、彼はまだ父親には複雑な気持ちを抱いているようだ。いつかは殺さなければならない相手。それでも思うところもあるのだろう。

 王として自分を処刑したことについては、那由多は許すと決めてそうあろうと復讐心と戦っている。父を討つのは自分のためではなく国のためであり、奴隷貿易を終わらせるためだと彼はそう心に決めている。それを聞いたときは本当に驚かされた。

 今より長い髪。少女と見紛うように頼りない少年が、その内であまりに大きなものと戦っていた。それを誰も肩代わることは出来ない。長い時間を掛けて、それと向きあうことを彼は選び、今もその心と戦っているのだろう。

 少しはその慰めになれば、と彼の知らない彼の思い出を彼へと伝える。


「代わりにアトファスがその役を務めていたのだと私は解釈しています。あれは息子とは違い気の良い男でしたら。マリー様があれに貴方を預けたのも、彼ならば信頼できると思ったからかもしれません」


 もっとも気のいい男というよりは、大分いってしまった馬鹿だ。

 国のために、自分の恋を諦める。自分の恋なんかのために国を犠牲にする愚か者よりは立派な聖人だとは思うが、そのせいであの男も人間味が薄かった。強く優しく見た目もまぁそこそこに。人々が望む、絵に描いたような騎士。それを素で演じているような男だ。

 愛した女と引き離されて、結婚が無かったことにされても、それまで通りと割り切り一定の距離を置いて騎士として仕える。

 あまつさえ、他の男との間の子を本気で可愛がることが出来るとは酔狂な男だと呆れた。愛など所詮その程度のもなんだろうとも思ったが、無理もない。那由多は母親似でもあり、大変愛らしい。懐かれたらそれはまぁ憎からず思うだろう。髪の色も目の色も、父親とは違うのだ。

 この辺りのことはアスカ自身が話していないのなら、ここは自分が話すべきことではない。気にくわないなり仲なりに、タブーはある。洛叉は騎士の話をこの辺りで区切ることを決めた。


(しかしあれは相変わらず気に入らない男だ)


 アスカの名前を出すと、那由多の表情が露骨に変わる。元は彼に仕えていた時期もあってか、那由多は彼に対する思い入れが強い。


(…………鳥みたいな人だな)


 刷り込みというか、最初に会った人間によく懐く癖でもあるのだろうか。昔は自分の周りをうろちょろしていたのがこうも変わってしまうと、何とも言えない気分に陥る。またあの男が気に入らない理由が一つ増えた。

 そんな風に雑談に時間を費やし、それも粗方ネタが尽きた頃。洛叉は核心へと一歩踏み出す。


「…………時計って知ってますか?」

「それはまぁ」


 どうしてここでそんな話題に変わるのか。那由多はわからない風だ。洛叉は言い方を変えることにする。


「それではタロックでどの程度普及しているか。その種類はご存知ですか?」

「…………わからない」

「私も今がどうなっているかは解りません。しかしあの頃はシャトランジアとの交易も在りましたし、多少の技術は流れてきていました。振り子時計くらいはある程度都心の裕福な家には置いてありました。しかしタロックは地震が多い。地震の度に時間がずれる。タロックには不向きな時計でした」


「タロックはその土地柄、時間に縛られない生活を送っているような土地でしたが、他国との交流は時間の概念をあの土地へと持ち込んだ。当然、処刑の日取りがあるように、その時刻も定められる……というわけで私はそれから時計作りに勤しみました。後世に形として残る知の英知の結晶が時計。そんなことを語れば父は気前よく資金も材料も用意してくれましたしね」

「……え?」

「文献を読みあさり資料を取り寄せ、どうにかこうにか機械時計を完成させました」

「本当に何でも出来るんだな……」


 驚き感心、若干の呆れ。那由多がそんな表情で此方を見据える。


「それを見栄えのするような風に仕立て城に献上すれば気に入っては貰えたのか、その時計が国の基準となった。その時計に合わせ、鐘を鳴らし……それに合わせて人々は地震でずれた時計を元に戻す。このような仕組みを作り上げることに成功しました」

「でも何でそんなことを?」

「……那由多様ならもうお気づきかと思いましたが?」


「私が国を追われたのは、殺人罪ではない。私の罪は、時を奪った罪です」

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