19:Semper idem.
赤髪の混血は、動かない。壁に縫いつけられたままピクリとも。桜色の双眸は現から意識が乖離したような空の色。生意気な口を聞くことも忘れたようにぼんやりと何処かを見つめている。
「…………もう、声も嗄れたか」
この地下にこんなものがあったとは思わなかったが、ここは水路。声が反響しやすい造りになっている。あれだけの大声を出したのなら、あの姉の方にも聞こえているはず。剣に力を込めても、悲鳴もなければ瞬きさえない。
(いや……もう、死んでいるのか?)
急所は外すようにはしていたが、人間は脆い生き物だ。子供なんてその最たる者だ。
罪悪感など皆無。ここはセネトレアだ。死んでしまうような、弱い者がいけない。
(ゴミにしては、よくやったと言うべきか)
子供にしては耐えた方だ。おそらくあれを言わなければ、死ぬまで悲鳴をあげなかっただろう。一年以上もよく……あのクソ生意気な目を続けられたものだ。しかしその目も今はあの敵意の光を失っている。
「この眼球が一番値段がつきそうだ……」
夜目にも慣れてきた。暗いはずのこの場所も、日の下のようにはっきりと捉えられる。
少年の目は、そんなに珍しい色ではない。しかし、価値はある。間近で見なければわからないが、唯の桜色ではない。これの姉である少女の方が分かり易いが、その片割れもまた星持ちだ。スタールビーほどの美しさは無いが、そこそこ高値で売れるだろう。
「……っ!?」
少年の、星を宿した瞳が光る。そんな馬鹿な。そんな気がしただけかも知れない。しかしそれは一瞬、ヴァレスタの目を眩ませる。
だが、それも一瞬。その間に、ヴァレスタは反射的に壁へ突き刺していた剣へと手を伸ばす。目が開くと同時にそれを抜き払う……はずだった。
腕が掴まれている。震えるその手の持ち主は、再びその目に光を宿していた。
少年が、……犬と嘲笑った相手が吠える。
「……クレプシドラっ!」
暗闇を切り裂くようなその声が、水路に響く。その声に弾かれるよう、背後からあがる水音。いや、それは水音などと呼べる可愛らしいレベルではない。もっと巨大な何かを招くような轟音だった。
(腐っても双子!っ…こいつの発動条件も同じという訳か)
厄介だ。非常に危険だ。即刻処分しなければ。
此方があれを殺すまで、剣を引き抜きもう一度振り下ろす動作が必要。今突き刺さってる剣を首まで届かせるには力を加えなければならない。壁に突き刺さった剣で、岩ごと切り裂くだけの力を加えるなどという芸当は、自分には出来ない。そういうのは筋肉馬鹿のあの男が担当だ。
どうする?今更何をやってもおそらく遅い。間に合わない。この場を立ち去るも、迫り来る物を確かめるため振り向くのも。それなら、やれることは一つしかない。
*
暗い、暗い闇の中。何も見えないその中にある唯一のもの。それは音。流れる水音。それは歌のように耳へと運ばれる。
エルムがそれを歌だと認識すると、暗い世界に光が灯る。それは光が灯ったと言うより、それまで濁り真っ黒だった水が透き通り輝き始めたと言った方が正しいのかもしれない。
エルムは水の中にいた。だが、それが苦しくはない。目を開けていることも、息をすることも苦ではなく……適度な浮遊感を感じながら、それでもそこには上も下もないのではないかと言うくらい広かったから、自分が浮かんでいくのか沈んでいくのか判別できない。
底なしの沼などと言った例えはあるが、ここはそれでありかつ水面の無い沼。
始まらずに終わらない。停滞というある種の永遠をそこに見た。
死とはそういうものなのだろうか。エルムがそんな風にぼんやり考えると、傍から何者かが笑う気配。
振り向くと、そこには何かがいる。透き通っている。周りの水より僅かに暗い……そこには誰もいないけれど、何かが見える。
それは人に似た姿をしているけれど、おそらくそれは人ではない。透明な髪、透き通った無色の肌。彼とも彼女とも言えない、中性的な美貌。
(精霊か。初めて見たな……)
この世界の万物は数字。その数字を見知る才が、数術使いの才能の一つ。術を生み出し展開し、それを成功させるだけが数術使いではない。見えない人間は数術使いとしての才能はゼロ。見えない凡人が数術を行うことは難しいし、リスクも大きい。そんな話を聞いたことがある。
数術を扱えるようになったのだから、見えるようになっていてもおかしくはないか。エルムは一応は納得する。
周りに漂う元素の数字が見えなくとも、精霊ならば目にすることが出来る人間もいる。それは精霊という存在が、自然界の元素の結晶みたいなものだから、沢山の数が集まっていた方が目に止まりやすいと言うことなのかもしれない。
《或いは、波長が合った》
そういう事で見えることもあるのだと精霊は言う。
水の中だから上手く喋れない。それでも相手の言葉ははっきりと聞こえるし、エルムが言ったつもりの言葉もしっかり伝わっているようだ。突っ込み所が多すぎて、その程度を聞く気にもならなかったが、相手はにこりと微笑んでエルムに告げる。
《お前は水の人間だ》
(そりゃあ、人間の身体には水分があるからそうだろうね)
《そういう意味じゃない》
エルムの言葉を否定する精霊だったが、それはきわめて友好的な態度だった。
それでも何となく、嫌な感じがするのはその目のせいだろう。
他は全て透明色なのに、その目だけははっきりとした色が付いている。顔の真ん中当たり。それが右と左に一つずつ。その両の目は、血の如き深き紅。その目の色に、何かを思い出しそうになる。
エルムの気持ちを察したのか、精霊がすっと目を細める。
《深く、深い……終わり無き悲しみ》
(かな、しみ……?)
《ここはお前の記憶。お前の心。これはお前の悲しみだ》
この始まりも終わりも見えない底なしの水溜まり。それがエルムの悲しみなのだと精霊は言う。
言葉自体はエルムを哀れむように優しげだったが、それでも生き生きしているように見えるのは、この精霊が水の精霊だからだろうか?声は嗄れたようなものではなく、旋律のように透き通るその声はまだ若い。
(水の精霊っていうことは………君はウンディーネ?)
《違う。私は、赤の水時計》
(何、それ?)
耳慣れない言葉を聞き返すと、精霊……クレプシドラは誇らしげに胸を張る。
《私の名前だ》
(それじゃあ種族はやっぱりウンディーネなんじゃないか)
《違う。ウンディーネは水。求めるは杯。私は違う。私は赤のクレプシドラ。私は赤。求めるは血と戦い》
(意外と物騒なんだ)
エルムの言葉に、精霊は愉快そうにひひひと笑う。
《お前の血は美味かった。渇きが癒えた。感謝する》
(ああ、そう言えばそんなこと言ったっけ)
ぼんやりと思い出す。どこかでそんなことを言ったかもしれないと。
(で、わざわざお礼を言うために僕の前に?わざわざなんか悪いような……)
《お前の赤が気に入った》
(はい?)
手をこちらに伸ばす精霊。それにより水が押し寄せ僅かに後ろへ押されるが、そこには床も壁も何もないので、少し身体がぐらついただけ。
エルムが体勢を立て直す……というか元の適当に浮いてる状態に戻ろうとする前に、がしと両手を掴まれる。目前には笑う精霊。
《喜べ人間。契約じゃない。私はお前を祝福してやる》
(祝……福?)
《血の贄の礼に、力を欲するのならば手を貸してやろうと思った。だが、私はお前を気に入った。だからそれ以上をお前にやる》
《だから我が名を呼ぶが言い》
精霊はそう言うと静かに目を閉じる。掴まれた両手が痛い。掴まれたその場所から電流が流れ込んでくるようだ。
目を閉じていたのは自分もだった。両手の無事を確認する前に、瞼を開けるという動作が一度必要となったから。
(……え?)
両手を見ようとする。手がない。片手は動く。もう片方は……無理に動かそうとし、痛みと共に思い出す。
目の前のには赤い瞳の男。いや、違う。男の目は……暗闇に輝いていた。それは赤ではなく、まったく別の色。
その得体が知れないものを見て、エルムは反射的に叫んでいた。そのギラギラと光る邪悪な目の恐怖に負けて。呼べと言われたその名前を。
「……クレプシドラっ!」
名前を呼べと言われた。
力が欲しいのなら。助けが必要なら。心のままに。叫ぶがいい。
誇りを捨てろ。赤子のように駄々を捏ねろ。あるがまま、私を求めよ。
痛いのなら。苦しいのなら。逃げ出したいのなら。投げ捨ててしまいたいのなら。
声が言う。私を呼べと。
「はぁっ……はっ……」
その名を呼んだ瞬間、視界と世界が甦る。目には驚愕の表情のヴァレスタ。耳には、迫り来る轟音。
殆ど水がなかったはずの水路から、通路を埋め尽くさんという程の暗い水が流れ込む。
エルムの身体は今だ壁に縫われたままで身動きが取れず、その水を頭から浴びる。
押しつぶされる。そう思ったとき、その重圧は緩和した。
(クレプシドラの奴……僕まで殺す気か)
心の中で悪態を吐くと、すぐ傍で声が言う。けらけらと悪びれなく笑う。しばらく現役から離れてたんだからまぁ許せとそいつは笑う。心を完全に読まれている。これが代償みたいなものか。他者に心を曝かれるのは喜ばし事ではないけれど、相手は人間ではない。腹をくくるしかないだろう。
水を浴びた肩から染みる痛み。怪我を治せるものなら治したいが、たった今頭から被った水が清潔だったかがわからない。そのまま傷口を塞いだら、それはそれで問題だ。
「……しぶとい奴だ。今際の際で、契約したか」
同じく頭から水を食らったヴァレスタはその重圧に膝を突いていたが、声と共に立ち上がる。
その言葉は半分正解で半分間違い。
この水路には元素の塊……精霊がいた。流れたエルムの血を食らって良いかとそれは尋ねた。エルムはそれを認めた。これは契約にはならず、ただ捕食されるだけのはずだった。
エルムの傍に佇むのは少女とも少年とも言えない中性的な人の形を真似た者。身体が全体的に透き通り、水を彷彿させるよう、それは属性でなら水に分類される精霊だ。
それは、赤のクレプシドラと名乗った。その名の通り、精霊の目は血のように赤い色をしている。
《契約ではない。私はこれを祝福したのだ》
クレプシドラがくすくす笑う。笑い方を統一して欲しいとエルムは思った。
《これは血の匂いがする。私の好む、死の匂い》
これは悪しき精霊だ。水は水でも求める物は血水。その精霊本人が言うには、本来自分から力を借りるためには供物を捧げる必要があるらしいが、気に入られたらしいエルムはそれを支払う必要が無く、その加護を得られる。数術の仕組みを未だよく理解していないエルムがそれを扱うことが出来たのも、この精霊の力添えによるものだ。
エルムの数術展開の方法は、通常の数術使いとは異なるのだとこの精霊は言う。姉と同じく、それは音声数術。展開のスイッチは声。武器を持たずとも、声帯を潰されるまで瞬間的に術を紡げる。数術使いが苦手とする接近戦にも対応できる特殊な数術。
数術を発動させるまでにはタイムラグがある。
紙に文字を記して計算するのと同じ。発動につなげるまでにはその正しい計算も必要だが、勿論紙に文字を記す作業も必要となる。
エルムの音声数術はその文字を記す手間を判を押すだけの手間に短縮させ、クレプシドラの補助は、その計算全てを一瞬にして解いてくれるようなもの。故に身動き一つ取れずとも撃退することは可能。
いくら相手が強くても、相手は唯の人間だ。数術を扱えないという点で述べるのなら、この男は凡人だ。
どうして戦っているのか。そんなことはわからない。もう、姉を……アルムを守るための戦いではなくなっている。理由を失った。真実なんてわからない。それでも自分は戦っている。戦うことを前提に次の手を考えている。
「祝福……!?代理数術、だと!?まさか、こんなガキが!?
会話が成立していることにエルムは疑問を覚える。どうやらヴァレスタにはクレプシドラが見えているようだ。それは本来波長が合っているエルムか、或いは数値を見るための数視能力……つまりは数術使いの力でもなければ精霊をみることは出来ない。
(見えているのか……!?)
数術使いだと?純血なのに?いや……稀ではあるがそんな人間はいる。それでもわからないことは他にもある。
エルムには見えた。男の目の色が、赤色ではなく緑に光っていることを。
(こいつ……一体、何なんだ!?)
エルムの恐怖心を読み取ったクレプシドラがそれを排除すべく、ヴァレスタへ向けて水を飛来させる。
彼はそれをどうにかして、防いだようだったが、多少の水は浴びていた。良く見れば、視界が暗さに慣れてきたのか……さっきより男の髪の色が明るく見える。
(……この男は、タロック人じゃない?)
思い当たった結論に、エルムは恐怖を思い出す。もしそれが真実ならば、自分はこの男には勝てない。
そんなこと、知っていたはずだ。クレプシドラに出会わなければ、既に自分は殺されていた。
守るべき者がなくなった今となっては、引きつけようという気持ちすら起こらない。絶対的な力。死を目前に叩き付けられ、反射的に本能的にエルムは思う。
そして精霊の名を叫んでいた。死にたくないという思いから。それに対し、精霊はわかったと小さく口にした。
*
声が聞こえた。
言われるがまま、左に進み……走って……転んで……また起き上がって、走って走って。明るい光。眩しいその場所へ向かって階段を駆け上った頃だ。
「エルムちゃん……っ!」
その声はとても辛そうで、痛そうで……悲しそうで。こうして走ってきた事がとんでもない過ちだったのではないかと思ってしまう。
(エルムちゃん……)
こっちへ来たら嫌いになると言われた。それを思いだし、一瞬だけ躊躇したがアルムは元来た道へと引き返す。
嫌われてもいい。それでもいい。違う道へ行くことで、追っ手を引きつけられるなら。それでエルムを守れるならばと進んできた。でもそれが間違いだった。
向かう振りをして、息を潜めてちょっと先で待っていて。エルムが右の道へ進んだ後に、一人で進んできた道を逆走するくらい、どうして思いつかなかったのか。そうすれば、エルムはあんな悲鳴を上げることはなかったのに。
急げば急ぐほど、足がもつれる。それでもアルムは引き返す。
「エルムちゃん……!?」
エルムは傷だらけだ。だらりと垂れた腕。その肩には大きな傷口。アルムの声に反応し、一度だけアルムへ視線をやって、そしてすぐに力を失い倒れ込む。エルムが地面に突っ伏す前に、彼を抱き留める影がある。闇に溶ける黒い影。それに抱えられ、エルムの身体が宙へ浮く。
それに向かって剣を構えているヴァレスタ。水路にでも落ちたのだろうか。二人とも頭から水を被ったように服も紙も濡れている。そう思った時だ。
「下がって、アルムちゃん!」
「え?」
突然腕を引かれ、抱き寄せられた。その眼前に輝く数字の群れ。その群れが、襲い来る水しぶきを防ぐように弾き返していく。それが数術と呼ばれるものなんだと、アルムはなんとなく理解した。
恐る恐る顔を上げれば、自分の腕を引いた人がすぐ傍に。そう何度も会ったわけではないがインパクトの強い人だったから覚えている。ディジットの店に一時はよく来ていた。
金色の髪と金色の瞳。虎目石の瞳を持った混血の少女。
「………トーラ!!」
懐かしい人に出会ったことでアルムの口が彼女を呼んだ。それにトーラは「げ」とか「しまった」みたいな顔を浮かべる。
「なるほど………“トーラ”か」
その名を聞いたヴァレスタが小さく笑う。
「しかし良いのか?俺ではなく新手を狙う余裕があるとは思えんが」
その言葉は此方に向けられている風ではない。だとすれば誰に?アルムはエルムへ視線を向けて絶句する。
「エルム……ちゃん?」
エルムは宙には浮かんでいない。影もどこかへ消えていて、今はちゃんと二本の足で立っている。肩からは血がダラダラと流れている。それなのに彼は、見たこともないような笑い方でけらけらと笑っていた。それを見たトーラが険しい顔になる。
「契約数術……?いや……違う。まさか、精霊憑き!?でなければこんなに短期間でこんな芸当できっこない」
最強と自負する数術使いの彼女が防御壁を解けずにいる。防戦一方。攻撃に転じることが出来ない。それくらい目の前の相手が得体が知れず、危険なのだと物語っているようだ。
しかし、それがどんなに違和感を醸し出していてもアルムにとっては大切なエルムであることには変わりない。それが危険物扱いされて黙ってなどいられなかった。
「え、エルムは!エルムちゃんが、一体何を!?」
「アルムちゃん、落ち着いて。……でも今の彼は正気じゃない。精神負荷で数術に目覚めたばかりの混血が一番危ない時期だっていうのに……よりにもよって厄介なのに」
トーラは小さく舌打ちした後、なるべく声を穏やかにエルムへと問いかける。
「そこの精霊さん、僕の話を聞いてくれないかな?その子は子供だ。怪我もしている。そんな身体で無理させたら彼は死んでしまう。君としてもそれは本意ではないはずだと僕は思う。君は彼から代償を得るためにそこにいるわけではないんだろう?」
「…………」
トーラの問いかけに、エルムは応じない。
「……クレプシドラ」
エルムが小声で呟いたのは、不思議な言葉の羅列。アルムにはそう聞こえたが、それが何を意味する言葉かはわからなかった。
その言葉を聞いた直後に、ドンという衝撃音。それは何度か繰り返される。トーラの作った壁のようなものに、矢のように打ち出される水が何度もぶつかって来ていた。
「………くそ、やっぱ駄目か」
悔しそうに歯噛みするトーラに問いかける声。それはアルムのものではなく……第三者がこの壁の内側にいることを明かす声だった。
「トーラ、あれは説得して何とかなるものなの?」
「理論上はね。同調が解ければ連れ帰れるんだけど、あのままじゃ僕は連れて行けない。防御壁の中に招いて、計算途中の時に攻撃されたら僕でもやばい」
(この声……)
アルムには、トーラ以上にその声に懐かしさを抱いた。その声を聞いただけで、涙腺が緩んできそうになる……
「それなら私がやるわ。私だけここから出せる?」
「……危ないよ?」
「言ったでしょ。私は待ってるだけは性に合わないの」
トーラと話し込むその人の姿は見えない。だけど声のする辺りにアルムは近づき抱き付いた。
「ディジット!!」
見上げれば、そこには金色の髪に青い瞳のカーネフェル人。アルムが姉とも母とも慕う女性がそこにいる。
「アルム、何情けない顔をして」
変わらない。いや、変わらないなんてことはない。前より少し窶れた。だけど前より少し大人びた顔立ちに見える。それでも変わらず優しい笑みで此方を見てくれる。優しい声で、名前を呼んでくれる。
「ディジットさん。今ので僕が貴女にかけた強力な不可視数術は解けた。勿論ここにいる全ての存在に貴女は視覚出来る。そのままエルム君の前に出るのは危険なことだ。それは重々承知だね?」
「ええ。解ってるわ。でも行かないわけにはいかないわ。解るでしょう?……アルム、また後でね」
「ディジット……」
「ほんっとあんた達がいなくなってから大変だったのよ。お説教は後にして、みんなで帰って今日は豪勢にパーティよ。さっさと帰って夕飯の手伝いしてもらわないと困るわ」
「……よくわからないけどさ、時々君たち純血は強いよね。普通に戦えば僕らの足下にも及ばないのに」
「トーラ、そういうのは得手不得手って言うのよ。やる時はやらなきゃ。それだけよ」
そう言い残し、ディジットは壁をすり抜ける。アルムが思わず後を追うが、壁に阻まれ進めない。
「ディジット……」
「…………」
ディジットを見送るトーラは大丈夫とも大丈夫じゃないとも言わなかった。それがアルムの中で不安の種を膨らませていく。
ヴァレスタは事の成り行きを傍観する側に下ったらしく、自分の横を通り過ぎるディジットには一瞥くれただけ。自分に再びエルムの攻撃が向いたときのために剣を構えたままではあるが。
「エルム……」
ディジットは一歩一歩、確実に……エルムとの距離を詰めていく。警戒させないように、それでも脅えて彼を傷付けないように……得体の知れない彼に、優しく語りかけながら。
「エルムなんでしょ?」
「……!?」
エルムは警戒を解いてはいないが、ディジットに危害を加えることはなく、ディジットはエルムのすぐ傍まで到達する。
「こんなに怪我して……よく頑張ったわね。痛かったでしょう?」
「……………っ、……………」
その怪我を責めるように叱りながら。それでも褒めるように誇らしく。まだまだ小柄な身体を抱きしめる。怪我に触れないように、壊れ物を触るように……けれどちゃんとその目には彼が大切なんだと伝えるように愛しさを滲ませて。
「ディジット……っ、ディジット……」
その名を呼んだエルムは、邪悪に笑う彼ではなく、いつもの彼に戻ったようで。
(……違う)
アルムは思い出す。エルムが泣いたところを、アルムはそう何度も見たことはない。
それでも彼は今、泣いている。それは変わったというより……今の彼が本当の素の姿であるようにアルムには見えた。
泣き出したエルムを抱き留めて、優しくその髪を梳き、背を撫でる。
エルムが泣かないのは、自分が傍にいたからだと漠然と感じた。いつも自分が泣いてばかりで、彼はそういう役回りになれなかったのだ。
今更ながら、彼が自分を呼ぶ「姉さん」という言葉が、アルムの上にずしりと重くのし掛かる。
自分は姉だ。自分が姉だ。それなのに、同い年の弟は……いつも大人びて見えて、しっかりしていて…………頼りになって。自分はそれにもたれ掛かってばかりの、姉。姉なのに……自分が何時何処で、彼に姉らしいことをしてやれた?
(ない……一つも、ない)
血の繋がりなんか無い、赤の他人のディジットの方が……余程しっかりした姉だった。それはアルムにとってもエルムにとっても。
(私は……私はっ!)
彼を好きだと言いながら、彼を見ていなかった。本当の彼を殺させるようなことをしていた自分が、どうして彼を愛しているなど言えたのだろう?そんな、恥知らずな言葉を……。
嫉妬と羨望と自己嫌悪と……そんな感情が心に抱えながら、アルムは二人を凝視していた。
「大きくなったわね。背も伸びた。髪も伸びてる。…………不思議ね。貴方が傍にいた頃は、貴方の成長を数字でしか見ることが出来なかったのに」
その成長を傍で見守りたかったと思う。それでも毎日会っていたらその成長に気付かずに過ごしていた。たぶん、今までがそうだったように。ディジットはそんな想いを込めて、エルムに語りかける。
そんなディジットの優しさに、エルムは……とても悲しそうに笑みかける。
自分とは似てない彼。だからその笑みははっとする程綺麗に見えた。だけどそれは、今にも壊れそう。地へ打ち付けられ、砕け散る寸前、一瞬光る水晶の輝きのそれ。
「ディジット………僕は、僕は……。僕は、まだ……貴女の弟ですか?」
「エルム……?」
質問の主旨が解らない風なディジットに、エルムは自らを失笑するよう口元を歪ませる。
(…………あ)
その言葉をアルムは知った。ずっと彼を傍で見ていた。だから気付いた。
アルムは他に知らない。エルムがあんなに優しい目で、見つめる相手を……彼女の他に、自分は知らない。それは、そういうことだったのだ。
(エルムちゃん……)
「ディジット!駄目っ!」
「アルム……?」
放っておけば、ディジットは答えるだろう。
離れていても、自分が変わっても、それでも自分は貴女にとって家族だろうか?そう聞かれたのだと勘違いして。
だから何も言うなとアルムはそれを制止する。それは言ってはならない。その言葉は何よりエルムを傷付ける。
それでも……主旨が解らないこと自体、それはもうエルムを傷付けていた。そしてアルムの放った制止の言葉がそれを肯定してしまってもいた。
「僕はずっと……貴女に言いたい言葉があった。だけど……もう、言えません。言っちゃ、いけないんです」
そう告げて、エルムはディジットの腕から逃れる。
自分自信を汚らわしい者のように扱いながら、エルムは大切な彼女から距離を置く。
「エルム。貴方が何を言いたいのかわからないけど……私はちゃんと言ってもらわないとわからないわ」
「言ったってわかんないよ!!」
「エルム……?」
「嫌だ、嫌だ……もう嫌だ!どうして、どうして僕はっ……僕はっ」
後ずさるエルム。それを追うべく立ち上がったディジットに、トーラが撤退を指示。
「まずいっ!戻ってディジットさんっ!!」
「え……?」
「エルム君も音声数術使いなんだ!!早く逃げてっ!!」
後方のトーラから前方のエルムに視線を戻したディジット。彼女が見たのは、迫り来る闇。
水路の暗さをそのまま映した水の色。
「……死にたいっ」
エルムのマイナスの呟き。それは水路に反響し、誰の耳にもおそらく届いた。
そしてその言葉に反応し、水は鋭さを得、上空へと浮かぶ。そして降り注ぐ雫全てが黒針となり落下する。それは誰を狙うでもなく、無差別に。言葉を変えれば誰が死んでも構わない。そんな無情な針と化す。
トーラの防御壁が輝きを増す。さっきのままでは貫かれると、強化したのだ。
(それじゃあ……)
生身の人間があれを受けたらどうなる?防御壁から離れたディジットは?
「ディジットっ!!」
無差別というのは、敵も味方もお構いなしということ。それはとても危ないこと。
降り注ぐ水針を直視出来ず、アルムは反射的に目を瞑ってしまう。
耳から聞こえたのは……水が人の皮膚を突き破る音にしては、……もっと大きく、もっと粗雑な音に聞こえた。
「…………三流精霊が」
「え……」
聞こえたのは男の声。剣を携えていたヴァレスタ。彼が何かをしたのだろうか?
彼の前方にはどこからやって来たのはわからない落石。視線を上げれば天井がない。上の壁を崩して水針を粉砕したらしい。
「そうか。水と土は相性が良い。あれは相性の良さが裏目に出たんだ」
「えっと……?」
「お花に水をあげるでしょ?それと同じ。土は水を吸う。ここは地下だからもちろん土の元素も豊富。水路に活用されていたから水の元素も多いけど。おまけにここは長い間放置されていた。そこで大暴れ何かしたら何か起こっても不思議じゃない。彼はその何かのための衝撃を……スイッチを与えたんだ」
その結果が落石による相殺だとトーラは言う。
その説明にへぇと感心しながら聞いていたアルムは、もう一度崩れた岩を見て……そんな場合ではなかったことにようやく気付く。
「で、でもディジットは……!!あ!!」
見ればディジットも無事だ。岩の影から金髪が覗いている。尻餅をついてはいたが、落石からは無事に逃れられたよう。
彼がディジットを助ける理由など無いのに。それを不思議に思ったが、何と言うことはない。
「……割と近くにいたのが良かったのかな」
トーラの呟いた言葉にアルムは納得する。無差別だったのはヴァレスタも同じだった。それは自分の身を守るために、付近にいた人間も意に反して守ってしまうことに繋がる。
(そうだ!エルムちゃんは……?まさか……あの、下に!?)
辺りを見回すアルムだが、エルムの姿は見つけられない。
防御壁を取り払うよう頼むため、視線を向けた先でトーラは今度だけは自信ありげに頷いた。
「いや、大丈夫。土の強度は水により弱体化する。だからこそあの落石を作ることが出来た。そして彼は水の精霊に憑かれてる。水には土は……全く効かない。君と彼はシャトランジアの生まれだろう?あそこには水の人間が多い」
岩が元々柔らかな粘土か何かだったかのように砕け……その中央からエルムが半身を起こす。目は虚ろで、奇妙な笑いをしたときの彼と雰囲気がよく似ている。
「精霊さん、そろそろその身体を休めさせてあげたらどうかな?これ以上暴れたら本当に彼の身体の方が持たない」
「それに君は水の精霊だ。僕は……そしてそこにいる格好いいお兄さんも土属性の人間だ。僕らの相性じゃ、互いに致命傷を与えるのは難しい。そう思わない?それに長引いて不利になるのは君だ。ここは水の元素も多いけど、土の元素はもっともっと多いと思うよ?ここは地下だから」
今は防戦一方とはいえ先に力尽きるのはお前だとトーラが告げる。相手が倒れればその隙に攻撃に転じ止めを刺すことができるのだと。
「…………」
トーラの言葉にエルムは考え込むようじっとトーラを見据えていたが、言葉が届いたのか今度こそふらりと倒れ込む。
「エルムちゃん!!」
すぐさま駆け寄ろうとしたアルムだが、トーラに手を掴まれていて引き戻されてしまう。その理由はすぐにわかった。ヴァレスタの剣は今度は此方に向いていたからだ。
「よくはわからんが、これを始末してくれたことには礼を言おう。お初お目に掛かる。西町の長がこんな所に何のご用で?」
「どうも初めまして。ちょっとした仕事でね。貴方と取引したいんだよヴァレスタさん?」
互いに牽制し合うように微笑を浮かべる。そのどちらも営業用の貼り付けた笑みだ。それでも二人の演技はとても上手いので、アルムは二人が談笑していると勘違いした。
しかし一定の距離を保っていることと、その場の緊張感からそうではないのだとアルムは肌で知る。トーラは数術で盾を紡いだまま、ヴァレスタは赤く染まった剣を此方に向けたままだった。
一触即発。そんな空気の中、乾いた音が辺りに響く。
トーラと会話をしていたヴァレスタは、エルムとディジットに背中を向けていた。精霊憑きのエルムは倒れ、ディジットは取るに足らない相手だとそう考えていたのだろうが、それは誤りだった。ディジットはすまし面で会話をしている男の背後に忍び寄り後ろからその頬を思いきり引っぱたいた。これには彼も驚いたらしく、数秒絶句。
「か、……カーネフェル女の分際で!値段も付かない女が俺に手を挙げるだと!!」
「そんなことはどうでもいいわ。いろいろと見てとりあえずあんたが諸悪の根源っぽいのは解ったわ。うちの子誘拐して怪我負わせるなんて良い度胸じゃない。」
「貴様……この俺が誰だと思って」
「そんなこと知らないし、どうでも良いって私は言った!あんたが何処の誰だって関係ない。保護者にやり返される覚悟も無しに、うちの子ボコったなんて言わせないわよ」
「ディジットさん、気持ちは解るけど落ち着いて。今はエルム君の回復の方が優先だ」
トーラがそう諫めると、ディジットは悔しげに男を睨み付けた後、アルムを抱える。
ディジットがヴァレスタに背を向けると同時に、トーラが口を開く。
「…………すまないねお兄さん。だけどここは僕の顔を立てて退いて貰えるかい?ここまでしといて一発殴られる程度なら安いモノだと思うよ。西側のルールなら」
いつの間にか輝く光の防御壁も消えている。代わりにいくつかの数値の群れがトーラを取り囲んでいた。それはエルムを治療するためのものと、他にも複数。
トーラの言葉は牽制だ。背を向けた瞬間に、叩かれた仕返しをするのではと思ったのだろう。しかしヴァレスタはそれを失笑ながらに否定した。
「……私もそこまで愚かではない」
「ああ、流石土属性。現金で話が早くて助かるよ。それじゃあ話を変えようか?」
「僕は知っての通り情報屋。僕は情報屋ついでに混血保護も行ってることはたぶん知られてると思うけど、どうだろう?」
「ああ、聞いている」
「本当に話が早くて助かるよ。僕はその仕事でこの子達の捜索をしていたんだ。不法侵入は謝るけどね、僕のテリトリーから混血誘拐したって言うんだ。お互い様だよね」
「そうだな。それで取引とは?」
「……先に述べた通り僕は情報屋だ。ここまで言えばわかるんじゃない?」
淡々と進む二人の話。大人の商談と駆け引きにアルムはついて行けない感があった。
話ながら数術を操り、エルムの傷を治療していくトーラはすごい集中力を持っている。もしも自分だったら同時に二つのことなど出来ないだろう。アルムはそれに驚く方に夢中になった。
「その子達を僕へ返して貰いたい。でなければ……僕は貴方にとって不利益な情報操作を行おう。僕はそこそこ王宮事情には詳しいよ?」
「……………………」
脅しを含んだトーラの言葉に、ヴァレスタの顔から微笑が消える。
「よかろう。此奴らは返してやる。しかし一つ聞いてもよろしいか?」
「年齢とスリーサイズと恋愛遍歴以外ならどうぞ」
「この場所に先程多くの鼠がかかってな。その親玉にはかなり強力な数術使いの助っ人がいるらしい。心当たりはないか?」
「さぁ、何のことだろう?」
トーラは可愛らしく首を傾げるが、そのとぼけている仕草は彼女に限って言えば信憑性が薄く感じる。事情を知らないアルムでも、何か胡散臭いと感じたほどだ。
「そうだな、心当たりと言えば。僕は僕が動きやすいように情報を流して、陽動させようとは思ったけどね。その餌にどんな奴が引っかかったかは、まだ僕の情報にはないな。第一そんな馬鹿共に構ってる暇はないよ」
「なるほど。計算と?」
「僕は情報屋だよ?金銭の譲渡をおこなう組織である以上、お金にならない仕事はしないし危ない橋はあんまり渡りたくはない。それに僕も身内贔屓だからね。僕の可愛い部下が死ぬよりどっかの馬鹿が騙されて死んでくれた方が楽ってものだよ」
「ほう……」
協力というのなら向こうが勝手にそう勘違いしているかもしれない。それでもそれはあくまで此方が利用してやっているに過ぎないと、トーラは冷たく吐き捨てる。
「それで?取引の方は?」
「……受けよう。ただし……」
「……ただし?」
「その条件だとそちら側ばかりが有利で取引として成立していない。俺がこの二人を解放した所でそちらが約束を守るという保証はないからな」
ヴァレスタの言い分はもっともだ。しかし続く言葉はアルムにとっては絶望だった。
「まずは一匹返してやる。そちらの誠意を確認し、信頼出来ると納得できた時……残り一匹を返してやろう。逆に私が手元の一匹を殺したのなら、その時は私の情報は好きにするといい。これでようやく取引らしくなったと思わないか?」
「………そうだね」
「それではこの赤毛の方を預かろう」
「わ、私が残る!」
「黙れ。貴様には興味が失せた。泣きわめくだけのガキなど願い下げだ」
「……それじゃあ僕はアルムちゃんを連れて行く。これでいいね?」
「ああ」
淡々と二人の会話は進行していく。それは取引の名の通り、その上でアルムとエルムは商品のように扱われている。そこにアルムの意思が介することはない。
「ちょっと待ちなさいよトーラ」
だが、それを黙って聞いていることが出来ない人間が、アルムの他に一人いた。
「それならその人質は私がなるわ。そっちのお兄さんも私にはいろいろ言いたいことあるでしょうし、私もまだまだ言い足りないもの」
「ディジットさん、それはちょっと……」
「貴女がどんなネタ握ってるか知らないけれど、この性格悪そうな男が飲むって言うんだからそれなりのネタなんでしょ?それなら私は殺されないし、殺されたらそれはそれでこの人にとっては不利なことになる。私にとっては美味しいわ、この子達が危ない目に合うよりは余程」
「…………いいだろう。交渉成立だ。その女を置いていけ」
ディジットの言葉を、ヴァレスタは受け入れた。何かを企んでいるようにしか思えない。不安だ。
アルムがディジットを見上げると、ふわりと髪を撫でられた。
「ディジット……」
「大丈夫よ、アルム。良い子でお留守番してて」
ディジットは心配無用と微笑んだ。背を押すような力強さがそこにはあった。
そう言われたら、何を言えばいいのか。何を言っても彼女を引き留めることは出来ないような気がした。
トーラの周りにあった光の集まりの一つが強さを増して、それに呼応するよう一斉に辺りの数字が光り出す。
そこまで声は聞こえた。後は光り出した数字達のまぶしさに目を瞑り……開けば全く違う場所。地下水路からどこかの建物の一室場面が一瞬で切り替わる。トーラの数術で、あの場から脱出したのだ。
部屋の中に、ヴァレスタはいない。ディジットもいない。アルムとトーラだけ。……エルムもいない。
「トーラ!エルムちゃんは!?」
「ごめんねアルムちゃん……だけど、今はこうするしかない。応急処置はして来たけど……今連れてきてたら、死んでいた」
騒ぐアルムを諭すよう、押し殺した声でトーラは語る。
「死んでた……?」
「……君がだよ」
「え……?」
「まだ彼には精霊が憑いている。根本的な解決にはならなかったんだ」
思いも寄らぬ言葉にアルムは目を瞬かせる。
それを見たトーラは、別の情報をアルムにもたらす。悪い情報だけではなく良い情報も与えることで、アルムの不安を緩和させる試みらしい。
「逆に置いてきたことで、ディジットさんの身の安全は増した。彼女単体なら彼の精神を脅かす原因にはならないはずだから、彼女に危害を加えるようなら彼の力はその相手に向かって機能する。それにもう一つ、駒を置いてきたから彼女の方は問題ないよ」
「でも……エルムちゃんに、まだ……憑いてるって」
「……精霊は気に入った相手の願いの手助けをする。あの精霊が危ないのは、それがどんな願いでも叶えようとするくらい、彼に心酔してるってこと」
普通なら、好きな相手に生きていて欲しいと思うもの。だから精霊は気に入った相手の幸せを願いその手助けをする。だけど行き過ぎた者は、その相手が死にたいと思ったら殺してしまう。そのくらい願いに率直なのだとトーラが言った。
「あの説得は効いてなかったんだ。直前にエルム君は死にたいと言ったから。あの無差別攻撃は、彼自身もその対象になっていた。何もかもが嫌になってしまった彼を、そうしてしまったものごと消してしまおう。それが彼の望み。そう解釈したんだ」
諦めた振りをし、じっと様子を窺っていた。エルムが消し去りたいと思っている現実。その原因を取り除くべく。
それに気付いたら、また暴れ出す。だからトーラはあくまで気付かないふりで一刻も早くアルムを避難させることを選んだ。
「彼があの精霊と同調したきっかけは、君にある。こんなことを言うのは心苦しいんだけど……アルムちゃん、彼は君を憎んでいるよ」
投げ出したい現実。彼に死さえ望ませる原因。
彼は、そこまで自分を嫌っていたのだ。
*
足が付かないように何度か転移を繰り返し、アルムはトーラ達の本拠地、迷い鳥の一室まで辿り着く。
何度も変わる景色に目眩がし、アルムは倒れ込む。それを支えたトーラが小さく呟いた。
「ごめんね、アルムちゃん……、今のエルム君と一緒に君を連れ出すのは危険だった。でも必ず連れ戻すよ」
アルムの肩を抱きながら、トーラがそう言ってくれた。それでもアルムはエルムが心配で堪らない。倒れる前に見た彼の姿は、本当に……いつもの彼からかけ離れていた。それでも彼が自分を憎んでいることには変わりがない。心配で堪らないのは、もしかしたらそれを認めることなのかもしれない。
「精霊憑きって……何?」
「聖教会の言葉で言うなら悪魔憑き。彼は悪魔に魅入られたんだ」
「悪……魔?」
アルムは絵本の中に出てくる悪魔の姿を思い浮かべる。角があって、翼があって。人に悪を教える存在だ。
アルムの考えを読んだトーラは苦笑しながらそれを否定する。
「もっともそんなものは名前だけ。実際にこの世界に本の中に出てくるような悪魔はいないんだ。あれは元素の塊に過ぎない。数術にとって必要な元素。それが集まった塊。集まることでそこに意思が芽生えたもの。それを数術学では精霊と呼んでいる」
「だからあれも元素の塊。分類するなら精霊の一種。精霊って言うのは、契約で数術使いに力を貸してくれる存在だ。代わりに数術代償を支払ってくれたり、術の展開を手伝ってくれたり……アスカ君にも憑いてたけど、あれはいい精霊だったからああいう風にはなってない」
「エルムちゃんには、悪いのが憑いたの……?」
アルムの言葉をはぐらかすよう、トーラは精霊についての説明へと話題を変える。或いは順を追って説明するつもりなのかもしれない。
「精霊っていうのは本来人に好意を持つことはない。全く別の生き物だからね。だから契約による代償……つまりは給料を払わないと仕事をしてくれないお手伝いさん。だけど稀に精霊に好かれる人間がいる。そういう人間は、契約をせずに……一方的に精霊の加護を得ることが出来る。アスカ君の場合、彼のお父さんやお母さんが精霊に気に入られてたみたいでね。そのお零れで彼もお情けかけて見守って貰ってるみたいな感じ。本当は彼、凡人だから数術なんか使えるはずないんだけどちょっとは扱えてるのはそんな理由」
「彼らは思いを読み取りそれを叶える。例えばこの怪我が治ればいいのにとか思った。それを治す力はない。だけどそれを知った精霊が回復数術をかけてくれる。すると治る。この絡繰りを知ってる人はいいんだけど、たまにそれが自分の力だと勘違いして来る奴がいて本当に困るね。……まぁ、精霊に好かれるっていうのも天性の才能みたいなものだから、ある意味では自分の力なのかもしれないけど」
「思いを……読み取る……」
トーラも誤魔化しきれないと踏んだのか、溜息の後にそれについてを教えてくれた。
「………うん……まぁ、そのつまり精霊の加護っていうのは精霊側の好意なんだ。気に入られたら本人が望まなくても彼らは協力してくれるようになる。数術に目覚めたばかりのエルム君が数術を使いこなせるようになったのも、複雑な式を扱えるのもその精霊の支援があってのことだと思う」
「…………あれは、エルムちゃんの数術だったの?」
「うん。何があったかは聞かないけど、エルム君はアルムちゃんに怒っているみたいだった。その気持ちを読み取った精霊が暴走して君を排除しようとしていたんだ」
トーラが紡いでいた数術のいくつか。それはエルムの治療と空間転移だけではなく……幾重に張り巡らされた防御壁だったのだ。彼女はその外側からエルムの治療を行っていたらしい。
防御壁の内側に彼を招いていたら、アルムは殺されていたのだとトーラが告げている。
「エルム君自身の気持ちを解決させないと、あれを引きはがすのは難しい。……使い方次第では役にも立つんだけど、感受性の強いあの年頃の子に精霊は諸刃の剣だ。あの精霊との同調を解かない限り、アルムちゃんの傍に来るとまた暴走する」
だから説得にはつれていけない。足手まといだと言われている。
「……エルム君を気に入った精霊は、あんまり良い精霊じゃない。性質も物騒だし、相手を気に入りすぎて、目的のために手段を選ばない……」
そこまで言ってトーラは部屋の扉へ向かい、声を上げた。
「鶸ちゃん!こっちの首尾は!?」
「……申し訳ありません姫様。那由多様の連れの少年と、それから混血が一人行方知れずに」
扉の向こうから女の声がする。僅かに遅れて扉が開いて、緑の髪の少女が現れた。
「……誰?」
「ウィルです。そして……この件と関連性は不明ですが、空間転移の跡がありました。状況から見て何者かが二人を連れ去ったのではないかと」
「その件なら解ってる。フォース君がウィルに連れて行かれたんだ。あーもう何処から説明すればいいのかな」
トーラとその部下の会話に割り込むよう、現れた者がいる。扉から駆け込んできた少年の髪は、少女のそれより深い緑。彼は酷く焦った様子だった。
「鶸!大変だ!!……あ、マスター!!お帰りなさい」
「蒼ちゃん、何かあったの?」
「は、はい!これを見てください」
彼はその手に持っていた紙の束をトーラへ差し出す。それを見たトーラの顔がさっと青ざめる。
「“器形成のための混血交配実験”?“純血への混血器官移植実験”?何これ気持ち悪い………。……この気持ちが悪い文章の言い回しとクソ食らえな数式は!!……あのいかれ博士のレポートじゃないか!!どこで見つけたの!?」
論文のタイトルからして怖気を走らせるようなものばかり。難しい言葉を使われているが、アルムも薄気味悪さは肌で感じた。
「行方知れずになった、混血の少年の部屋です」
「“数式による新体実験”か………リィナさんの言ってたこと、少し解った気がする。その少年の捜索はもう止めてしまって構わない。彼はもう死んでいる、研究材料として使われたんだ。連れ去ったのはその少年……いや、彼の身体を奪ったグリーク博士と見て間違いない。リーちゃんの弱点として、フォース君を連れて行ったんだ。前に燃やした書類の中には我流の空間転移論法も記されていたから、混血の身体を得たのなら彼も扱えているはずだ」
万物は数字であり、人体も精神も数字ならば、数術には理論上不可能はない。これが数術学の大前提。存在も行動も感情もすべてが数値で言い表され世界に反映され、様々な事象が式により成り立つならば……そうトーラが呟いた。
「脳を人体移植ですげ替える。これは理論上は可能でも、脳自体の寿命があるからあまり意味はない。第一それを成功させるだけの回復術を扱える数術使いはまずいない。人間の脳が持つ情報……その全ての数を失わずに移植することは困難だ。それを行う数術使いも、やられた人間も脳がやられて死んでしまったっていう例が随分前にであったな。彼もそれは知っていたんだろう。だから違う方法を考えた」
「脳は情報集約器官、そこを一度白紙にして……他の情報で上書きする。その膨大な計算式を作り出し、他の混血にそれを計算させる。顔も身体も年齢も違う分身を作り出す。計算式を書き終えるのに何十年掛かったかわからないけど……彼が生きている内に混血が誕生してしまったのが問題だった。混血なら、その程度の式……解けてしまう。そんないかれた式を思いつくことはまずないだろうけど……おそらく彼が混血の身体を得たことで、計算式を簡略化することに成功したんだろう。……この式は見つけ次第葬らないと。こんなの表に出たら大変な情報だ」
嫌々と言った表情で書類に一通り目を通した後、トーラはそれを火にくべ焼き払う。
「まったく……この国だからこそ、の狂気の研究だよ。確かに金さえあれば人体実験も許される。あのいかれ学者は数術学と聖教学における禁忌に触れようとしたんだ。数字も見えない凡人が、思い上がって神にでもなろうと夢見たんだろう、反吐が出る。犠牲になった子供達を生き返らせることは出来ないのに、妄執に取り憑かれた老いぼれを延命させる方法だけが成立してしまうなんて……」
トーラは憎しみの対象をはっきりと思い描くように、その言葉をひねり出す。
「ここの情報が外に漏らされていないか確認する意味でも僕はもう一度あそこへ戻る。まだ間に合うのなら博士を始末し口封じを図る」
「マスター、それなら僕も!」
「蒼ちゃん、君はここの守りをお願い。それに結構術連発してるから一人で飛ぶ方が負担が少ない。わかるよね?」
「……はい」
「鶸ちゃん、君はこの子の調査をお願い。例の件でこの子も何かされているかもしれない」
「畏まりました」
二人の部下に役割を告げた後、トーラは再び術を紡いでいなくなる。
こうして自分が安全な場所に来たことを、アルムはまだ信じられない。これは夢ではないだろうか?
目を閉じて、そして開けば消えてしまう夢。ここにはアルムもディジットもいない。夢が覚めれば……またあの場所に戻ってしまうのかもしれない。
夢から覚めたいのか、夢を見ていたいのか。
綴じてしまった瞳を開けるのに、とても躊躇した。それを開けても何も変わらない。これが現実なのだと教えられて。
それにほっとする心が僅かでも芽生えたことに、後ろめたさが増大された。
数術の力なんて手に入れても、上手く使いこなせないし、何が出来るのかもよくわからない。
(足手まといじゃなくて、迷惑を掛けてばかりじゃなくて……)
大切な人を傷付けるばかりの自分はもう嫌だ。大嫌いな自分が、また嫌いになった。