1:Faber est suae quisque fortunae.
黒い色。随分前まで嫌いだったその色が、最近では少し気に入っている。
黒い髪と、暗灰色の目。どちらも俺の生まれを表す“黒”。
男に手渡されたその服も黒。その色を身に纏えば、夜の中へと帰れるような気になった。このまま闇へと解けて消えていけるような錯覚。
勿論それは錯覚であり、凍える白銀の大地には毎朝陽が昇る。昼の世界は俺の色を隠してはくれない。鴉の訪れは、死の予言。奴らは啄むためにやってくる。
今日は何人死ぬんだろうと、人間達は怒り……恐れ、泣き叫ぶ。
それでも俺は、黒が好きだ。そう思う。
だってそうだろう?
白のように、赤い色が目立たない。
*
金さえあれば何でも買える。そう言われているセネトレアという国にも、無理なことはやはりある。例えばこの寒さ。いくら黄金を積み立てようと、自然法則を変えることなど誰にも出来ない。少なくとも、普通な人間には。
或いは数術使いと呼ばれる者達なら……と、一瞬彼は考え……すぐにそれを打ち消した。彼には数術の才はない。彼は自身がありふれた人間なのだと理解していた。万物は数値。その数値に働きかける力を持つ彼らでも、ここまで大きな事になると対応の仕様がない。だからこれはそのまま放置されている。彼らの手にも負えないものを、凡人がどうしようというのか。凡人は奇跡なんか起こせない。だからこれも、どうしもようもないことなのだ。
「……にしても、この雪はねぇって」
窓の外の積雪に、ここまでの冬を知らずに育った彼は絶句する。去年の冬よりこの雪は酷いかも知れない。数値異常で、自然数値が狂いだしたとしか考えられない。
街まで馬車が走れるんだろうか。出来たとしても馬も馬車も傷む。
その辺りを何とも思わない辺り、このアルタニア地方も商業国セネトレアの一地域だってことなのかもしれない。少年はそれに納得する。
金さえあれば新しい馬も馬車もすぐに手配できる。仕事は決行されるだろう。
(武器の俺が、文句を言う筋合いの話じゃないし)
言われたままに仕事をこなす。切れ味強度と確実性。それこそが、愛されるべき武器。
支度を調え、扉を開けて下った階段。ホールまで降りると、何処からともなく届く声。
「ニクス、またお前が一番乗りか」
呼ばれた名前に、少年の反応が一瞬遅れる。そうか、それが自分の名前かと脳まで理解が行き届くまでのタイムラグ。寝起きとはいえ、気が抜けている。これではいけないと心中で己を叱咤する。
「…………ニクス、か」
「何だ?今更この俺が付けてやった名前に文句でも?」
少年の呟きに、近づいてきた男がにたりと笑う。男ははじめからホールに居たようなのだが、気配を全く感じなかった。口を開ければ騒がしく、いつも仕事をさぼっては酒ばかり飲んでいる飲んだくれ。その癖、こんな風に気配を殺すのが死ぬほど上手い……変な男だ。
「絶対、適当だろ鴉」
鴉と呼ばれるだけあって、男は全身黒ずくめ。使用人の服も黒だし、彼の髪も瞳も漆黒だ。
その色合いの深さから、男が唯の使用人ではないことは察せられる。おそらく彼は真純血。……そういう奴らは貴族達に多くいる。そんな貴族擬きが使用人なんかを務めているのは謎である。更にはこんな適当な男が使用人がしらとは……主も何を考えているのだろう。少年は二重の意味で肩をすくめた。今更と言えば今更……そんな思いも加わり、やはり三重だったかと独りごちた後、少年は男に疑問を投げかける。
「なぁ……俺をどこからどう見れば、雪なんて名になるんだ?」
少年……ニクスの髪は黒、瞳は暗灰色。一般的なタロック人の持つ黒を生まれ持つ彼は、あまりにありふれた存在だ。
肌だって白と呼べる程ではないし、その名がどこから来たのか甚だ疑問だ。コルニクスが自身の通称であるその名から、適当に2文字削除し与えた名前……そう考えるのが妥当だろう。
「さぁ、何でだろうーなぁ……教えてやらないでもないが」
「断る」
勿体ぶる男に背を向けて、さっさと城の外へと足を向けたニクスの肩に、男の手が伸ばされる。
「おいおい、話聞く前からそりゃねぇだろぅ?俺とお前の仲じゃないか」
「その赤の他人が何か?」
「くぅ……悲しいねぇ、これだからガキはいけねぇ。すぐに親のありがたみってもんを忘れちまう」
「はぁ……?名付け親程度がよく言うな。前の晩の夕飯の残りで朝食作るような適当名前付けやがった癖に」
「ははははははは!」
「少しは否定しろ!大体俺には……」
名前。本当の。それこそ……今更だ。呼ばれなくなった名前。呼んでくれる人が、傍に誰もいない。それに、自分は変わってしまった。
(今更……だ)
溜息ながらに足を進めるニクスの背後についてくるザクザク音。雪を踏みならすその音にもう一度溜息、振り返る。
「何で憑いてくるんだよクソ鴉」
「今回は俺もお前と同じ所に仕事なんだ。そう邪険にすんなって。後学のために覚えておくがいいぞ、中年っていう種族はな硝子のように繊細な心を持っている傷つきやすいナイーブな存在であり……そんでもって、若人どもは俺世代のために慈しみ深い心を持つべきであって」
「……で?その心は?」
「お前最近メイドのエリーちゃんと仲良いだろ、紹介してくれよ」
「別に仲良くなんかないし」
「ああいう子タイプなんだよな、うん。顔は童顔、身体は大人。ロリ顔巨乳はありか無しかで言われたらありだと思うんだ」
「人の話、聞いてた?」
「世の中には貧乳フェチって奴もいるがあれは俺的には解せないねぇ。無乳がお好みなら衆道にでも走ればいいと思わんか?」
「別に人それぞれだろ。俺には関係ない」
「いやいやいやいや関係あるぞ。そうやって物事を広い視野で考えず、自分が良ければ良いみたいな考えでそっちに増える奴がいるからタロックもカーネフェルも人種存亡の危機に陥ってるんだぞ!?……まぁ、女の子同士のうふんあはんな展開は俺も嫌いじゃあないが。しかしだな」
こいつは一体何を言って居るんだろう。完全に下半身に脳みそを乗っ取られた発言に、同じ男でも世界ってものに失望しそうになった。俺はこうなるもんか。そんな得体の知れぬ苛立ちから、携帯している刀をつい抜刀しそうになった。
「まぁ、少子化だし。絶対数の問題だろ。ていうかエロ親父は一遍死んでこい」
というか、抜刀した。
「俺って給料良いし?割と貯め込んでるし?イケてるナイスミドルなのにどうしてか靡かないんだよな」
したのだが、聞こえたのは男の断末魔ではなく減らず口。割と本気で斬りかかったのに空打り。ニクスは忌々しげに舌打ちをすると、この中年男はにやにやと此方を見ている。奴は逃げ足だけはやたらと早い。満足に戦ったところは未だに見たことがない。飄々としているところが、誰かにほんの少しだけ似ている。人をガキガキと馬鹿にするところも似てるかも知れない。
(いや……でもああ見えて飛鳥の奴は割と普通だったよな)
少なくともカーネフェル人だった知り合いは、ここまで露骨な猥談をしていた記憶がない。思い返してみれば、むしろ涼しげな顔の混血の彼の方が問題発言が多かったようにも思う。
1年以上も前のことなのに。そんなに長い間一緒にいたわけでもないのに、未だに忘れられない。声も、顔も、その色も。ちゃんと思い出せる。
幼なじみ達とはぐれて不安だったのは確かだ。殺され掛かったこともある。セネトレアの危険の半端なさに絶句したことも。それでも。あの頃はあの頃で……楽しかったんだと思う。
なるべく思い出さないようにしていた。どうしようもないことだから。それでも記憶って者は厄介な引き出し。鍵を掛けて奥の奥に押し込めていても、ふとした拍子にぼろっと段ごと抜け落ちこちらにやって来るのだ。
今、……飛鳥はどうでもいいや。彼が自分を見たら何と言うだろう。
あの日、海に落ちたまま行方不明。生きているかも分からない。
生きていたとしても……見つかった情報は絶望的だった。あの人は人殺しではあったけど、とても優しい人だった。殺しにはルールを敷いているようにその日の自分には見えたのだ。
その彼が生きていたとして……レフトバウアー港での大量殺戮を行ったのが本当に彼だったなら。あの優しい人にも何かがあったのだろうか。人生を変えてしまうような、……逃れられない何かが。
自分は彼を責められるような人間ではないし、彼もまた……自分を責めることはないだろう。
(それでも……)
もし、彼が今の自分を見たのなら……きっと……とても悲しい目をするだろう。あの日のように、優しく微笑んでくれることも、きっとない。
そう思うと、逃げ出したくて堪らなくなる。手にした刀が、やけに重たい。
それでも。帰る場所も行く宛ても自分にはない。呼ばれること無い名前は、もう捨てたもの。今の自分は人ではない、そう……道具だ。武器は、主のために鋭くあればいい。ずきずきと鈍く痛む己の心に、言葉の力で蓋をする。
黙り込んでいるニクスに、名付け親はおーいと手を振っている。それに気づき、我に返った。その口から転げ落ちるのが皮肉なのは、自分がセネトレアに毒されてしまった何よりの証拠か。
「どの口が。その前に加齢臭どうにかしろよ」
「おいおい、それ以上言ってみろ。精神的苦痛で慰謝料請求でお前の給料引いておくぞ」
「言わなくても減らしてるだろお前。俺の給料酒代まかなってるの知ってるんだからな」
「えー……だってお前金とか要らなそうな顔してるだろ?」
「お前は余生が要らなそうな顔だな。ここで葬ってやろうか?」
もう一度と、手を添えた愛刀。その間合いの外に、名付け親が逃げ出した。これまたもっともらしく正論過ぎる言葉を添えて。
「っと、そろそろ時間だ。走るぞニクス!」
「っ……!」
そうだ。主は掟破りを何より嫌う。そこにどんな理由があろうと、罪は罪。ぞくと肌が震えたのは、何も寒さだけではない。
人を何より支配する、大きな力がひとつある。それは国を動かし、世界を変える……大きな力。
走り出した男の後を追い、全速力でそれを追い抜く。後ろで待てだのなんだの聞こえたような気もするが、完全に無視することに決めた。
出立の準備を整えられた数台の馬車。その中央に一人の男が立っていた。茶色の髪に、赤い瞳のタロック人。その色が幼なじみのそれと似ていてなんだかとても好きだった。怖い人なのだと思っていたが、今では本当は優しい人なのだと知っている。そう思えば懐かしさを感じさせるその色は、何時しか心休まる色へと変わった。
何処にいるのかもわからない。生きて居るんだろうか。それもわからない。守れなかった彼の分、守らなくては。そんな気持ちが働いていたんだろう。
本当は優しい。そう形容した彼は、今だ集まらない使用人達に少々ご立腹のようだった。……とは言ってもそれは仕方のないこと。まだ集合時間には大分ある。1時間……は、切ったが58分くらいの余裕はある。
しかしニクスの主は1時間前行動愛好者であり、1時間前行動至上主義者であらせられる。だからニクスは1時間と五分前行動が日課になっていたのだが……今日のように運悪く中年男に捕まることも、長い人生生きていれば一度や二度はあるだろう。心の中で更に30分前行動をひっそり考える。いや、今はそんなことよりもっと優先すべき事があるだろう。出来るだけ大きな声で、はっきりと。彼を真っ直ぐ見上げて声を出す。
「おはようございます、侯爵様!」
ニクスの声に、男の表情は僅かに緩む。走るのは得意なニクスでも、未だ慣れない豪雪には手間どい何度か転んだ。それを見越してだろうか、男が労るように頭を撫でる。愛犬のようにそれを甘んじていたニクスも、続く言葉に背筋が凍った。
「……ニクスか、お前にしては少々遅かったな」
名を呼ぶ瞬間に感じられる僅かな温もり。それを打ち砕く、疑いの言葉。
迷う必要はない。侯爵……アルタニア辺境伯アーヌルス。彼は嘘を何より嫌う。
「はい、途中で鴉に捕まりました」
そう答えれば、背後の男が小さく「げっ……」と下品な言葉を口にした。中年男がようやく追いつきやって来たらしい。
その声……というか奇声というか鳴き声は侯爵の耳にも届き、その深いな音に彼は眉間にしわを寄せ、小さく溜息。
「またお前かコルニクス……」
「いやいやしかし主様、今日もご機嫌麗しゅう……いやぁ任務日和の良い天候にございます。私めもあまりの寒さにいつもより早く目が覚めてしまいまして。その朝の空気のはつらつさについうっかり!故郷で暮らす愚息の面影をこやつに重ねてしまいまして話し込んだ次第で。年を取るといけませんね、昔ばかり顧みてしまいます」
「下らん。どうせまたお前の減らず口で貴重な時間を消費させただけなのだろう?災難だったなニクス」
「いやぁはっはっはっは、これは手厳しい」
コルニクスはアルタニア公が嫌う人間の代名詞のような人間であるのに、彼は彼を殺さない。それどころか使用人頭に任命している位だからよくわからない。ここに来て1年以上が過ぎても、ニクスは未だにその理由が見えない。
「……侯爵様」
「ニクス……人を敬う心は大事だが、主の命令違反は重罪だとは思わないか?」
「す、すみませんアーヌルス様っ!」
「うむ、それでよい」
満足げに笑う主に、自然と自分の方まで笑みが零れる。この人の武器であることに、自分は紛れもない至福を感じていた。
*
人は生きるために命を屠り、食らう。俺と人の違いは、その対象。
俺が踏み越えた境界。それを禁忌と知りながら、俺はそれを飛び越えた。
その理由は簡単なモノ。
そうしなければ、俺は生きられなかったから。唯、それだけだ。
*
セネトレアは大小数百からなる島国。
その北方に位置するもっとも大きな島アルタニア。アルタニア公こと辺境伯アーヌルスが治める土地。辺境領を守る侯爵の屋敷は海が望める小高い山の上にある。
その山は魔の山だとか、十字架城だとか呼ばれる理由は、城主の手によって至る所にうち捨てられた剣。何百万?本のそれがおどろおどろしい十字架に見えるため。
それが墓に見える理由もわかる。それでも城主は、唯の武器商だ。最初は気に入らない失敗作を捨てていただけ。
それが今では墓標扱い。彼がそれだけの罪を犯したことは、誰も否定はしないけれど彼は元々商人組合にも属さない個人武器商だった。そこから彼は侯爵の地位まで上り詰めたが、金の力でそれを買い取ったのではない。勿論金もあった。ただ、それ以上に認められたのはその武器だ。武器を作るために必要なモノは、腕のいい職人と材料。それだけで十分か?否。セネトレアには多くの職人が居る。それでも彼らとアーヌルスの決定的な違い。それは、努力だろうか。そういう言い方もあるかもしれない。彼は努力を怠らない。商品が最高であるために。
兵士でもない。剣士でもない。戦うことが仕事ではない人間が、最高の商品を作るため、人を殺める。アルタニア産の武器は、値段と素材その下に武器の性能が記される。"この剣は、平均何人。最高何人まで殺せました"と。それこそ、彼の努力の結晶だろうか。
もう一つ語るなら、千差に富んだその商品。世界広しといえど、そのバリエーションに勝てる武器商はいない。世に名を残す拷問狂や殺人鬼の住まいだって、これよりずっとマシだろう。
唯、彼は毒殺だけは邪道だと言っているので毒を仕込める武器だけは作らないし作らない。純粋に武器の性能で嬲り痛めつけて、その死までのカウントを行う。拷問用にわざと性能を落とすものもある。わざと刃先を鋸上にした剣。その溝の大きさ、間隔。それを数ミリ毎で作り上げ、実験を行う。
長く続く分痛みなら、此方の方が苦しい。悲鳴だってこっちの方が凄いから。
天下に名を轟かす名工にして名商アルタニア公アーヌルス。勿論それは後付けの話。
最初からあったのは、潰れかかった武器屋の看板と彼の狂気と残酷本能。それが金と地位を作らせただけ。アルタニア公アーヌルス。彼を恐れ、人々は彼をこう呼ぶ。
"残虐公"
その残虐公こそ、自分……ニクスの主。
「領主様のご命令だ」
冷たくそう言い放てば、足下に縋り付く村人達。ニクスが黒服の中で一番若く、幼いから。
慈悲を請うなら、甘さを残しているのは大人よりもガキだろうって?馬鹿にするのも大概にしろ。
村人がどんなに許しを請おうがニクスには関係ない話。
(俺は大人が嫌いだよ。あんた達みたいな奴らが大嫌いだ。見ていてイライラする)
平和呆け?他人事だと思ってたんだろ?死は、こんなにもお前達の傍らにあるのも知らずに滑稽な。
アルタニアはセネトレアでももっとも治安がしっかりしている。暮らしやすいと言えば暮らしやすい。彼が領主様になってから、異国が攻めて来たことは一度もない。
奴隷身分でない者にとっては楽園だと言ってもいい。アルタニア公アーヌルスはこの島に平和をもたらした。そう言っても嘘にはならない。
「アルタニアの法を犯したのはお前達だろう?それを城へと連行する。当たり前のことだ」
唯欠点を挙げるなら、法律が多すぎることだ。
そしてその罪が重すぎると言うこと。その罪を犯せば、即市民階級から引きずり下ろされる。その罪を暴くのに一役買っているのが聖教会。俺をこんな島に連れてきた奴ら。
そんな奴らと手を組む立場にいることは心底嫌だが、そうしなければ俺は生きられない。プライドを悪魔に売るだけで生きられるんだ。そんなもの、とっくに捨てた。
「初めまして、ですかなニクス様。こちらが今月の犯罪者です」
「ご苦労、神父。これは先月の分のお布施だ。教会のために納めて欲しい。今月の働きはまた来月に」
「楽しみに待っております」
淡々と言葉を紡ぐ俺に、にこやかに微笑む神父。神父が有罪と告げれば、それは有罪。
嘘か本当かわからない。教会がそう言うなら、それは真実。それがアルタニア。冤罪なんて概念はここにはないのだ。
「た、助けてくれ!」
罪人達が泣きわめく。処刑専用使用人であるニクスよりは、聖職者の方が情に厚いと思ったか。そんなはずないのにと、罪を記載したその紙を見てニクスは嘆息。
何人かは自白したにも関わらず、ここにいる。免罪符を買えないから。懺悔に来た人間をそのまま逮捕するなんて、神が見たらなんて言うだろう。
(何も言わないか。俺には何も聞こえない。それとも嘆いて何も言えないか?こんな世界に失望して)
「神はお忙しい。免罪符を買えない貧民など、神はお救いにならないだろうな」
「免罪符なら、前に買った!だからっ…」
「新たな罪に手を出すか。それこそ悪魔の証。一度は救われる機会を得ただろうに、お前は改心を行わなかった!」
「あんな借金!膨れあがるだけじゃないか!働いても働いても払えない!」
高額な借金で免罪符を買い、貧しい日々を送る。アルタニアから逃げ出すか。それともその日を生きるために盗みを働くか。どちらも、アルタニアでは難しい。町中村中聖十字が徘徊。それでもそうしなければ死んでしまうから、罪に手を出す。
流石に哀れだろうか。その哀れみが瞳に宿ったのをすかさず見破ったらしい人間達が俺の方へと押し寄せる。
すかさず剣を抜く。それだけで、それを目にした人々が後ずさる。先ほどまで親しい人間の命を救わんとしていたのに、何という様か。所詮誰だって自分の命が一番大事。ニクスは嘲笑を浮かべ、それを日に当て光らせる。
ニクスが片手で持つは、召使いの外出用の剣。切れ味はアーヌルスのお墨付き。彼が一本一本、召使いの身体に合わせて作り上げた冬椿の紋章の剣。その意味は斬頭剣。
本来両手剣ではあるが、重さはあまり感じないので片手でも扱うことが出来る。風を切るように軽く触れるだけで胴体と切り離すことが出来る。剣を研がなくても、血を啜っても……一晩で三百は斬れたという。
場内の記録に寄ればそれを丁寧に手入れをすれば、使い物にならなくなるまでその数、二万は斬れたとかいう処刑のエキスパート。軍人でもない人間が護身刀に持ち歩くにも過ぎた剣。生きている内にそれだけの人間を斬る機会なんてないだろうから。
ああ、これは片手での記録だ。それを両手で持てば、早さも強さも倍以上。剣の寿命の合計数は変わらないだろうが、一晩に斬れる数は八百を超えたらしい。だからこれはまだ遊びというアピール。本気になればお前らなんてすぐに殺せるというデモンストレーション。
冬椿の光にも恐れず、一人の女がニクスの足から離れない。四十を超えた中年の女。やせこけた頬を涙が伝う。彼女は連行する中の一人のために、そこから離れない。慈悲を願い続けるのは、それが彼女の子供だから。
「この子はまだ子供なんです!善悪の区別も付かない子供なんです!どうかご慈悲を!」
「…………五月蠅い。これ以上たてつくのなら、妨害行為と見なすが」
子供だって?どうみても俺より年上だ。二十は越えているだろう。古ぼけてはいるが、身なりのい服、品のいい顔。没落貴族か。
免罪符を買う金もないなんて、どこまで落ちぶれたんだろう。そのくせ金に困らない生活をしてきた癖を忘れられなくて、これまでの常識で物事を計ってしまう。時代が変われば、権力者が変わればそんなものは通用しなくなるのに。手元の紙を見れば、つけの滞納。これまでは権力でもみ消していた小さなこと。
それさえ、アルタニアでは大罪。免罪符を買えなければ……どうなるか知らないはずもないだろうに。いや、知らないのか世間知らずめ。親に守られている。そうやって大切にされてきたから、世の中の何も知らないんだろう。
「…………そんなに子供が恋しいか?」
「当たり前ですっ!私の大切なっ……」
はらはらと涙を零す女。強い意志を宿した瞳とその泣き顔の美しさに昔は綺麗な人だったんだろうなと思った。
自分の口から舌打ちの音が聞こえる。ああ、苛々する。
一度目を閉じ考え込む振り。さっさと消え失せろ。目を開けて諦めて帰っていたなら見逃してやるから。
大きく息を吸い、俺は諦め目を開ける。女ままだ、そこにいる。それにニクスはため息を吐きながら、一つの提案を口にした。
「ならばお前も共に連れて行ってやろう。領主様に自ら嘆願すればいい」
「え?あ……ありがとうございます!」
それならば自分も連れて行けと罪人の肉親、恋人……中には子供もいた。ああ、今回もまた……教会から何台か多く馬車を借りる羽目になってしまった。なんて素晴らしい家族愛?ああ、そんなもので命なんて繋げないのに。
この同伴者達がこれからどうなり、何を見るかだなんて。何通りも想像しただろう。その結果は領主様の気分次第で変わるが、方向性はきっと正しい。
生きて帰れるはずがないのに。
「……馬鹿な奴」
自分も歪んでしまったものだ。それを愚かと思えばこそ、哀れだとは思わない。泣けないのだここに来てから、名前をもらってから、たったの一度も。
誰かのために泣けた頃を、思い出す。それは弱さだろうか。そう言った奴が居た。それは優しさだと言った人もいた。
それならば今の自分は強くなったのだろうか。その代償に何かを失ったのか。
(構わない……)
それで今日を生きられるのなら。
必要とされるなら。
*
ニクスの帰りを聞いた領主様は大喜びだった。ニクスは領主様の部屋へと呼び出され、その活躍を褒め称えられている。処刑好きの領主様は噂と憶測が飛び、人の生き血を啜ると言う話もあるが、彼が手にしているのは荘園で取れた赤いロゼ。アルタニアの特産品をもう一つ挙げるなら、この葡萄酒かもしれない。血のように赤いそれが、甘く香り、この館の血の臭いを浄化する。数値改良だかの中で生み出された葡萄は降雪の多いこんな場所でも実りを付ける。寒さがもたらす赤き恩恵は、他で採れるそれより遙かに甘い。
ニクスを出迎えたのは、その香りとアーヌルス。彼は自分と同じ黒髪のタロック人……と言っても詳しく言えばそうではない。俺は元は農民という最下層の人間ではあるが純タロック人。彼は生まれも育ちもセネトレアのタロック人。厳密に言えばタロックの血は薄い。友人が一人、同じような茶色の髪を持っていた。それでも彼はもっと深い色合いをしていたように思う。だからその髪は大分薄い茶色に近い。彼と別れたのは一年以上も前だから、詳しくは思い出せない。そんな自分がとても薄情者だと思う。そんな薄情者を、領主は満面の笑みで迎えてくれる。
「ニクス!お前の馬車はいつもながら素晴らしい!」
「光栄です、アーヌルス様」
罪人馬車は、島中に送られる。その度に向かう場所は違う。だから、どこの住民もニクスが子供だと舐めてかかり、慈悲を請う。タロックの女は貴重。普段は隠れている女達だって、愛のために慈悲を請うために、その姿を晒すのだ。
「お前の行く先ではいつも同伴者が付いてくる。他の者も真似を始めたようだが、お前ほどは釣れないようだな。そう畏まるな、頭をあげよ。私はお前を唯の使用人だとは思っていない。我が親友………いや、悪友にして使用人頭のコルニクスの後継にと考えている。つまりはお前は私の友の息子。すなわち、お前も私の友である」
「有り難き幸せです、アーヌルス様」
俺が微笑めば、領主も満足げに唇に笑みを乗せる。
普通の使用人が主を名で呼べば無礼だと処刑されてもおかしくはない。しかし彼は、ニクスともう一人にだけにそれを許している。
「女を斬る悲鳴は耳に心地よい。肉親、恋人……それを目の前で殺すのはなかなか愉しくてな。どちらからどうやって殺すか時折悩んで仕方がない」
領主は髭の生えた顎に手を当て考え込む仕草。そしてちらりとニクスに視線を向けた。
「時にニクス。お前は何かよい考えがあるか?私に知恵を貸してみろ」
「そうですね……私でしたら二人を隣にならんだ防音別室へ連れて行きます。領主様はその両方が見える、あの一方通行壁の内側に」
「ほう、それで?」
葡萄酒を口に含みながら、言葉に耳を貸す彼。
「"これから行う拷問に隣の部屋の罪人より長く耐えられたら罪を許す"と伝えます。その相手が死んだところで拷問は終わり。しかし自分が悲鳴を上げれば、連れも殺すと両方へ伝えて。ああ、光の差さない地下室がいいですね。目の前で愛する相手を殺すのも一興ですが時にはこういうものもいい気分転換になるかと」
悲鳴があったかなかったかが問題なのではない。あってもなくても聞こえはしない防音室。結局二人は殺されるのだ。相方の死……という事実。死に至たるような苦痛の中、人間が一度も悲鳴をあげないなんてことはあり得ない。そういう前提を敷くならば、それが死んでいることは、それが悲鳴を上げたことに等しい。良いように後付けできる理由、それが防音室。
「声を上げても終わり。生き延びても、連帯責任で終わり。そこで隣の部屋の相手を教えるわけか……なるほど、面白い!吹き出しそうになってしまったぞ、く、くくく」
げほげほと咽せながら腹をさする仕草の領主。
「お前もコルニクスもタロック生まれだったな。やはり本国生まれはセネトレアの破落戸達とは話が違う。実に面白い」
狂王のお膝元。そんな場所で生まれ育ったのだ。死に関してならそれなりにいろいろ見せられてきた。こうされたら嫌だなとか、こうした方がもっと残酷だなぁと思うくらいには感受性が強かったから、死の妄想を繰り返した時期もあった。どうせこうなって死ぬんだとか。セネトレアに売られた時なんて、ずっとそればかり考えていた。だからタロック出身の自分は人一倍、死の恐怖にとりつかれている。
死にたくないから殺す。相手も同じだってのわかる。それでも他人だ。食卓の並ぶ食材を可哀想に思っても、食らわなくては死んでしまうから。自分と普通の人間の境界は、その犠牲対象の分の差。
最初はそれだけだった。でも、最近はそれだけではなくなっているような気がする。
「お前のあの死の三角形も面白かった。あれはコルニクスを越えたな。お前の話を聞くと毒も悪くないような気がしてくるから不思議だ。タロック人は毒が好きだというのは本当らしいな?お前とコルニクスからは土産でも食料だけはもらわないことにしよう」
「それは困りました、地方の銘酒をお持ちしたのですが。毒味いたしましょうか?」
「おお、頼む。地酒が飲めなくなるのは私も悲しい」
「……毒はないようです」
「ん?どうした」
「……にがひれす」
「はははっ!その良さがわからんとはまだまだ子供か!口直しだ。これにもグラスを!」
ニクスの情けない言葉に領主は笑う。手を叩き呼び出されたメイドが俺の前の透明な容器に赤いそれを注ぎ込む。
ふわりと香るそれは、どこか懐かしい。故郷の村では葡萄なんて作っていなかったから知るはずのないそれ。それでもそれがなぜか懐かしかった。心安らぐような不思議な温かさを感じる。
お礼の言葉を口にした後、彼の見様見真似で杯を揺らし、傾け口へと含む。慣れないアルコールに頭がくらくらするが、気合いで乗り切る。
まだ視界が揺れるような気がするが、そんなことより咽へと下った液体の余韻の方に気が向かい出す。ほぅと息を吐くとその息から漂う甘さに酔いしれる。
「寝かせた年代物も悪くはないが、新物の香りが私は好きでね。貴族の友人からは邪道と笑われるが、どうか?」
「甘い……いい香りですね」
「おお、こちらは解るか!よし!お前の部屋に分けてやろう。他の使用人達と飲むがいい。最近は冷えるからな。……しかし、そういう顔をしているとお前が子供だと言うことを思い出す」
物珍しそうに杯を見る自分の顔はいささか子供じみて見えたらしい。その言葉に羞恥から顔から火が出るようだ。必死に冷静を繕おうとすると、領主は無理をするなと愉快気に笑む。
「今回は疲れただろう。ご苦労だった。明日はゆっくりと休むがいい。下がれ……」
確かに疲れた。今回の調達は屋敷から離れた場所まで赴いた。往復で三日かかっただろうか。馬車での寝泊まりは結構身体に来る。揺れるし、変に力を入れてしまって筋肉痛になることも屡々。
今だって正直足が笑い出しそう。だが、主にそんな顔をみせるわけにはいかない。それでもお許しが出たのだ。ニクスはそれを受け入れる。素直にそれを実行しようとした時、一瞬彼が何かを言わんと唇を振るわせた。
これまでそういうことはなかったので驚いた。しかし彼はその言葉を飲み込んで、もう一度下がれと口にした。またいつでも呼んでくださいと微笑めば、今度は彼が瞳を瞬かせた。ニクスはなんとなく、彼が言いたいことを理解していた。だからそう言ったのだ。「私は貴方に感謝してるんですから」と。
もう一度一礼し、扉の外へ出る。日が落ちたアルタニアは寒い。今が冬だというから殊更に。
雪を初めて見たのは、何時だったか。ここへ来てからかも知れない。タロックでの記憶は……今となっては曖昧だ。父親は知らない。母親との思い出は……最後の言葉で打ち砕かれ、それまでの優しい記憶の全てを裏切った。深く、この胸の中に刻まれた傷。血を分けた母から自身を否定される言葉ほど、辛いものはない。
誰からも望まれず、どうして自分がここにいるのか。自分がそれを望んだだろうか。存在すること。それは誰を怨めばいいのか。わからない。わからないから……この傷は癒えない。それでも、アルタニアの凍える寒さはその傷の痛みを麻痺させてくれる……さっき口にした葡萄酒のようだ。現実から逃げることなど出来ないけれど、大人が酒に溺れるのは一種の逃避なのかもしれない。
まるで別世界。この白い大地は過去から遠く離れすぎて、現実味がない。夢を見ているような感覚の中を生きている。
勿論頭ではわかっている。例えばこの寒さ。これを感じてこれが夢だなんて誰が言えるだろう?凍死寸前の人間以外で。
雪の降る夜は、降った朝は寒い。窓の隙間から感じる冷気ははっきりいって異常だ。屋敷中をカーテンで閉ざさなければ屋敷の中まで凍ってしまいそう。誰だかメイドが水拭きをしすぎて廊下が凍り、滑るようになったことがあった。立ち入り禁止区域が出来たのは少し笑った。でもそこを通らないと必要な武器を取りに行けないので無視したら、転んだ。尻餅をついて強か打った。あれは痛かった。アルタニアの冬を舐めていた。新入りは必ず一度はそうなると、仲間内から笑われたのは……去年の冬のことだっただろうか。
その時領主様は水拭きをしたメイドを死刑にしようとしたけれど、自分が不注意でしたとなんとか窘めた。
特殊な経緯でここにやってきたニクスはそれまで使用人やメイド達から遠巻きに見られていたが、領主様のお気に入りだと言う噂が広まり、今では一目置かれているらしい。
ニクスが上手く諫めれば、死刑から逃れられる。仲良くしておけば自分が失敗したときも助けてもらえるだろうという魂胆だろう。
それでも職場環境は悪いよりは良い方がいい。適度に仲良くしておこう。大抵酒でも褒美でも何でも分け前を渡しておけば上手くいくのだから。分け前がもらえれば、特別扱いにも文句は言わない。流石セネトレア。人間関係すら金と物で解決してしまう。
まぁ、どうせいつかは裏切られるのだろうから、適度な距離を置いておこうとは思う。情を移したら負けだ。情は人を殺す。他人じゃない。自分を、だ。
あの母親だって、子供を見捨てれば死ぬことなんてないだろうに。足下から聞こえたような誰かの悲鳴に、俺は小さく息を吐く。幻聴だ。なに、よくあることだ。
それとももう?ああ、それもよくあることだ。
(所詮人間なんて……)
ニクスは無学だが、タロック育ちだ。人間の汚い感情に触れながら育った。どういうとき人は人を裏切るか。その心理を知っている。
死の三角形とは……俺がここへ来たときに妄想した死だ。殺しの師匠であるコルニクス、彼がニクスを拾い上げてくれた時、それが正解だろうと尋ねたら、面白いガキだと笑われた。それを彼が領主様に話したことにより、ニクスは領主様にも気に入られたようだった。ここへ来て二年にも満たない新入りである自分のために、背が伸びる度に剣を新調してくるなどとても良くしてくれる。父親の居なかったニクスは、二人が人殺しであっても……自分をそう仕立て上げたとしても、彼らを父のように思っているのかも知れない。
残虐公なんて呼ばれ恐れられても、人間だ。他人と共感できない何かがあり、それ故人ではないと恐れられる。はじめにあったのは狂気などではなかったのだ。いつだか酒に酔った領主が話してくれた昔話。
彼が狂っているのならば、この世には誰も狂ってない人間などいない。他人に理解されない辛さ、痛み。蝕む孤独と迫害。それが人を狂気の淵へと落とすのだ。
彼が最初に殺めた人は、自らの友人だ。共に遊んでいたところ、偶然木から落としてしまったという。しかしそれは周りが決めたこと。彼はその背を押していない。勝手に足を滑らせた。けれども子供であった彼はそれを上手く言い表すことが出来なかった。法の整備されていない場所ではそれは、罪にはならなかった。それでも彼と遊ぶ者はいなくなったし、村からは省かれ村八分。食べるものにも困り、頭を下げて売ってもらえるのは通常より少ない商品と、法外な値段と罵声。店は傾き、両親は自殺。
残された彼は、鉄を打った。泣きながら笑いながら剣を作った。子供一人が村人と全員を殺すことなんて出来ない。それでも、現実逃避をしたかったのだ。強い剣さえあれば力さえあればと。
そしてその技術を買われ、アーヌルスは商人組合へと拾われる。そしてこの島を治めるだけの権力を手に入れた。それから商人組合を抜け、彼らと敵対し、金では買えない物を求めた。
彼は法を整えた。自分を守ってくれるのは法だと考えた。そして自分と同じ人間を作らないために、厳しい法を作った。足を踏み入れてはならない場所。してはいけないこと。彼は安全のために多くを定めた。しかし罪はなくならない。
きっと昔と同じ状況になったのだろう。罪を減らすために法を増やし、罰を重くし……誰かが彼を残虐公と呼ぶ。だからだ。その心ない言葉に彼は、その望みを叶えてやったに過ぎない。お前達が私をこうしたのだ。こうあることを望んだのだと。だから彼は残虐公となった。子供の俺でも容易に想像できるありふれた悲劇だ。
それでも実際その悲劇の主人公になったものにとってはたまったものではない。傍観者は唯、その一喜一憂を嘲笑えばいい、他人事に無責任に泣けばいい。
だって理解できないだろう。所詮は他人なのだから。お前達があの人の何を知っている。たった半年しかここにいない俺でさえ、彼が狂人が仮面であることくらい理解しているのに。何も見えていないんだろうあの愚かな民達は。
ニクスはもう何も思わない。殺すことに躊躇いはない。だってあの人のためだ。それでも、ふとした瞬間に思う。それで彼は本当に救われているのだろうかと。
冤罪が表で裁かれずに終わった時代が、冤罪すら表で裁かれる時代に変わった。彼は気づいているのだろうか。
彼は彼と家族を傷付けた人間を殺したがっているが、彼が殺している大半は彼自身。
それとも……同族嫌悪?自分が嫌いな彼は、自分そっくりの人間が嫌いで、全て消してしまいたがっているのかも知れない。悲しいことに、彼にはそれが出来る力があった。失った人は帰らない。喪失の傷跡は永遠にふさがらない。それが生み出す痛みが憎しを糧に、狂気を孕む。その復讐のために殺す。憎しみの輪だ。
そうだ。彼は、自分を殺してしまいたいのだ。彼らがいずれ自分と同じ者になるとわかっているから。狂気の芽を摘んでいるのだ。いっそのこと周りを殺してしまえばいいのに。そうすれば、罪人を作り上げるシステムは無くなりますよ。彼らが悪いんじゃない。彼らをそんな風にした周りの人々がいけないんです。彼の望む言葉。彼を肯定する言葉。それをそんな風に伝えれば、彼はこの島中の人間を殺して回るだろう。
殺人の禁忌を犯しているとはいえ、自分だって百殺すよりは一を殺す方がマシだ。だから言わない。
彼にとっての処刑。それは生きるために必要なことだ。呼吸をするように自然に。彼はそうしなければ生きていけない。その痛みに耐えられない。
世界という空間に自分を肯定させ存続させ続けるために必要な行為。それが彼にとっての処刑なのだ。虐げられた過去の自分との決別。そういう儀式なのかも知れないとニクスは思った。
彼があんなにも処刑に囚われたのは、自らを肯定するためだ。自分を否定する人間がいた。肯定するためには力が必要だった。それが彼にとっての剣。剣とは力。人を終わらせる死の象徴。絶対的な力。その輝きに魅入られた。人は裏切る。それでも磨き上げた剣は、その力は裏切らない。命令をこなす。
だから本当の意味では、剣ではない俺たち使用人は信用されていないのだ。
もっとあの人に信用してもらうためには、人間らしい心を捨てなければいけない。それでもあの人は、同時に酷く人間らしさに飢えているからそのさじ加減が難しい。人間とはなんと矛盾を抱えた生き物だろう。知らずについつい零れた溜息。それを拾う声があった。
「大活躍だったみたいねー、白鴉のニクスちゃん」
女の声に、呆れか情かよくわからない何かが口から漏れる。階段下の白い柱の陰から聞こえた声には覚えがあった。そこからひょこんと顔を出しているのは、金色の髪のカーネフェル人のメイド、エリザベスだ。彼女こそが廊下水浸し犯もとい……
「俺の何処が白鴉だ水蒔き魔」
「なぁに?またその話?ひどいなー私じゃないって知ってたでしょ?」
正確には容疑者。それは冤罪だ。
彼女は召使いの男達からウケが言い分、メイド仲間からは嫌われている。だから彼女の責任にされたのだ。彼女はニクスよりも後に屋敷にやってきた。新入りだから古参のメイドよりは失敗も多いだろうと、それらしい理由で領主様はメイド達の言い分を信じてしまった。
流石に自分のためとはいえ冤罪で処刑されるのは気が進まない。ニクスが転ばなければ、それがばれなければそういう話にはならなかったのだから。
下手に言えば今度はメイド全員を処刑と言い出しかねなかったので、勿論死ぬつもりはなかったが、「このような不注意をしでかし、領主様にご迷惑をかけるなんて私は生きてはいけません」と冬椿を首へと添えてそう言った。勿論一歩間違えれば死んでいた。手は震えていたし、こういうときに限って涙は出る。演技ではない。自分のためだから泣けたのだ。誰かのためになんか、久しいこと泣いてない。
自分の計算高さに呆れてしまう。彼の心に済む善良さと、俺への情を利用したのだ。顔はまだ子供じみている。泣き顔なんて浮かべれば、余計そう見えただろう。領主様は子供は殺せない。奴隷だって子供は買わない。罪を犯した子供でも、領主様は手を下せない。彼はそれを奴隷商へと流す。その行為は過去の何か機縁しているのだろう。詳しくは知らないが。
それを察した上で、自分は彼に嘆願したのだ。その手があと何年出来るのかは解らないが、自身が思いの外腹黒いという事実は覆せない。死んでしまえばいいのにこんな自分なんか。
兎にも角にも俺の芝居のおかげでそこはお流れになり、ニクスは屋敷の連中と上手く接することが出来るようになった。メイド達もエリザベスに責任転嫁をすることはなくなり、その感謝か何かは知らないが、この女はニクスの前によく姿を現すようになる。
(それにしても……白鴉って何だ?)
大理石の白壁に映る俺は全身黒。白といえば仕事着は中に着込んだシャツだけ。首のところからみえる襟だけ。あとは全部黒みたいなものだ。
髪も瞳もタロックの黒。王族でもない自分は歴代庶民故、血が薄い。正確に言うならば、その黒も暗灰色。ありふれた黒。代わりの利く黒なのだ。タロック人の男とはそう言う物。価値のない物。だから安く売られて奴隷にされた。嫌なことを思いだしたと目を伏せもう一度ため息。目を開ければ自分のそんな表情を頭一つ分下からのぞき込む彼女。
全身黒の俺。対する彼女は全く違う色。柔らかな印象を与えるウェーブのかかった薄い金色は日の光のよう。いつも明るく輝く瞳は夏の日の空のよう。カーネフェルでも南の方で暮らしていた彼女の肌は健康的な小麦色。雪の降る寒さの中には似合わない。夏の日差しの元、向日葵にでも囲まれている方がよほど様になる。
タロック人カーネフェル人はこんなに違う。それなのに、彼女はカーネフェルではありふれた人間で、ありふれた色なのだ。
それを俺は不思議に思う。こんなに綺麗な色なのに、彼女も価値のない人間だと言われていることが。
「さっさと仕事に戻れ、エリザ」
「嫌よ。せっかく帳簿係をキス一つで誤魔化して夜は有給もらったんですもん。有意義に金集めしなきゃ」
ありふれた人間だから。だから彼女は金を集める。それがカーネフェルの女達。付加価値は金で買える。金を手にして身分を買えば、ありふれた人間を止められる。
だからカーネフェルの女達は貴族の妻の座を狙う。愛人でも愛妾でも構わない。一人の人間として価値を認められて生きられるなら。
彼女のこの軽さは、ニクスが生きるために人を殺すのと同じ。わかってはいるが、躊躇いもなくそう言うことを言われると流石に引く。彼女は確か自分より一つ年上。まだ十五の娘だろうに。
エリザベスを見ていると、幼なじみの少女を思い出す。彼女も今年が十五だ。彼女は今、どこでどうしているのだろう。
情報屋から奴隷商に連れられタロックの名家に嫁がせられたと聞いたのが最後。純血の彼女なら、幸せになっただろうか。そうだといい。
目の前の少女のように女中なんかになっていないだろうか。辛い思いをしていないと良い。
でも普通に嫁いだとしても、タロック人の女の身分は低い。子を産むための道具だ。貴族なんてその典型的な考えの人間達だ。
このメイドの話のせいで、そういう方面の考えに行ってしまう。結婚するからにはやっぱりそういうことをするんだろうか。エリザベスのように出ることでてひっこんでるとこひっこんでるようなスタイルのいい奴じゃなかった。いつも生意気に姉ぶっていたが、背だってニクスとそう変わらなかったし、今なら追い抜いた自信もある。その彼女が結婚だなんて。
なんだかそういう行為と彼女が結びつかなくて上手く想像できない。それどころか顔も知らない相手を考えると妙に胃がムカムカする。片手が帯刀していた冬椿に触れそうになるなんて重傷だ。
「なぁんか、疲れてる?」
「馬車旅してきたんだ。疲れないわけない。そんなことより有意義にするんだろ。なら行けよ。俺があんたに払う金はないから」
ひらひらと手を振り退散してくれるように言うが、彼女は距離を余計に詰めてくる。
さっと身を翻し距離を置くが、彼女は不満そうだった。これ以上近づいてくるなら故郷のエセ数術使いがやってた九字でも真似して切ってやる。悪霊も悪女も似たようなものだろう、たぶん。
「えーそんなんじゃ、本当にあんた白雪から白鴉になるまであれよあんた」
「ああ、そう言う意味」
やはり彼女は苦手だ。綺麗な色をしているのに、口から出るのは全然綺麗じゃないことばかり。処刑人仲間のおっさんたちと同等の下品な発現。年齢査証してるんじゃないかと疑いたくなる。
「白髪になるまで一生DTとか何そのステータス。なんか目指してんの処刑……ごほん、使用人が聖人志望?それとも死後妖精として生まれ変わりたいとかぁ?」
「あんたに興味がないだけだ」
「相変わらずつれないったらないわー。あんた絶対金貯め込んでるでしょ。領主様のお気に入りだし、いろいろもらってんでしょー。お姉さんに少しお小遣いくれたっていいじゃない。メイドの給料いくらだと思ってんの?」
この屋敷には、使用人、メイド、奴隷の三種類人間が居る。
メイドは応募面接。使用人はそれに実践も加わる。そして奴隷は購入。
使用人は仕事のハードさ故、給料は高い。メイドもここで見聞きした物全てを口外に出さないという制約のために、そこらのメイドよりはずっと給料は高い。それでも人殺しを行う使用人ほどではない。
道具である奴隷には勿論給料などない。寝床と食が与えられるだけマシ。
今でこそ使用人をやっているが、ニクスは元々は奴隷。あのままだったらこうして今を生きては居ないだろう。
もう一度商人へと返され、他の場所で奴隷として死んでいたか。あいつがいなければ。
名付け親の使用人頭を思い浮かべて、小さく舌打ちした時だった。
「ベス、随分暇みたいじゃあないか。どうだいお嬢さん、こんなガキより渋いナイスミドルが相手っていうのは?」
「げ。……じゃない、きゃぁ使用人頭さん!」
「いけない子だ。私の誘いを断っておいてこんな子供を誘惑するなんて」
「コルニクス……そろそろ見回りじゃ」
こんな奴に命を救われたかと思うとなんだかなぁと思うが、コレが命の恩人である使用人頭。彼もまた全身黒ずくめのタロック人。朝の恨みはまだ根に持っているニクスと違い、コルニクスの方は欠片も覚えてはいないようだ。黒髪の彼はコルニクスっていう鴉の呼び名が似合う男だ。きっちりとした服に身を包んでいるし、公の場では畏まった素振りも出来るが、所詮は見かけ倒しの軽い男。威厳なんかあるものか。
こうやってすぐに地が出る。三十は越えているようだが、まだまだ現役らしく、隙あらばメイドを口説いている軟派野郎のエロ親父だ。
「ちょっと黙ってろ。今俺は忙しいんだ。見て察しろ。俺が今夜悪夢を見るか良い夢見れるかの大事な勝負所なんだ」
「馬鹿師匠、領主様が呼んでたぞ」
「え、お前もあの人も本当空気呼んでくれ。俺は日々職務に忙しいんだぞ?ちょっとくらいブロンド美少女と火遊びしていい目見てもいいじゃないか」
領主様のことを出せば、不満そうにぼやきながらもエリザベスの肩から手を離す。
あながち嘘ではない。領主様は誰かに傍にいて欲しそうだった。口では何だかんだ言ってはいるが、領主はコルニクスを信用している。ニクスより信頼されている人間はどういうわけかこのエロ親父しか居ない。仕方はないが、適任だろう。
コルニクスの姿が消えるとエリザベスはほっと安堵したようだった。その反応がちょっと意外だった。
「あいつもそれなりに金貯め込んでると思うけど」
「だってあの人領主様の腹心中の腹心でしょ?独り身みたいだし下手に手ぇ出して本気になられても困るし。遊び方間違ったら権力に負けて今度こそ処刑されるっての…………それにちょいと悪い噂聞いちゃったし」
「噂?」
「あーそんなことより、時間の無駄だわー!あんた金にならないんじゃ、他の探さなきゃ。夜は長いようで短いんだから」
さっさと背を向けぱたぱたと足を進ませ遠ざかる彼女。そんな彼女の背中を投げやりに見つめながら、元気だなぁとか小さな声でニクスは呟く。なんだか疲れをどっと思い出していた。今日はもう寝てしまおう。幸い今日はいつもの見回りも回ってこなさそうだし、休めとも言われた。領主様はいつものゲームはなさらないだろう。ふぁあとあくびを噛み殺しながら、帰る場所へ足を動かすことにした。